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2024/04/25 13:55 |
第10回 ポーの2匹目の黒猫(エドガー・アラン・ポー)

第10回 ポーの2匹目の黒猫

(エドガー・アラン・ポー)

ずっと前に読んだ小説について、ストーリーの細部を間違って覚えていたことに気づき、ハッとするケースがある。エドガー・アラン・ポーの名作短編「黒猫」を先日、光文社古典新訳文庫版(「黒猫/モルグ街の殺人」2006年10月刊、小川高義訳)で読み直してみた。

あまりに有名な話なので、ストーリーに触れておく。未読の方はご注意を。
可愛がっていた黒猫の片目をえぐり、首に縄をかけて吊り下げて殺した酒乱の男が、それとそっくりな(同じような片目の)黒猫を拾ってくる。しかしその猫に対して男はやがて憎悪の炎を燃やすようになる。彼はふとしたきっかけで妻を衝動的に殺してしまい、一計を案じて死体を直立にして地下室の壁の中に塗り込めて隠す。警察が家宅捜索に来たが、何も見つからない。
完全犯罪が成功しそうになった刹那、壁の中から何とも言えぬすすり泣きのような声が聞こえてきた。警察が壁を掘り返すと、腐乱した妻の死体と、その頭上にいた黒猫が発見された。男は猫を生きたまま壁に塗り込めていたのだ!

こうしてあらすじを書き記しているだけでも恐ろしく、しかもよくできている話だが、うかつにも筆者は、主人公を裁くことになった黒猫が2匹目だったことをすっかり失念していた。
猫は最初から最後まで1匹だと思い込んでいた。ところが男を裁いたのは2匹目の猫だった。1匹目のプルートーは、最初は主人公になついていたが、やがて酒におぼれた彼によって片目をえぐられ、そしてついには首に縄をかけられて殺される。前述の小川訳ではこう書かれている。

「ある朝、まったく故意に、猫の首に縄をかけて木の枝に吊した。私は頬に涙を流し、つくづく非道だと思いながら猫を吊した。私になついていた猫だから、私に悪さをしなかった猫だから、これで私が罪を犯すことになるから、私は猫を吊した。とんでもない罪だ。もう私ごときの魂は、慈しみ深くも恐ろしき神の、その無限の慈しみさえも届かないところに――というようなことがあるのなら――追い出されそうになっていた」

この小川訳は読めば読むほど素晴らしい文章である。ポー翻訳の先達たちの美文調の訳文にありがちな難解さや不明瞭さがない。この小川訳で読むと、無垢や良心の象徴が黒猫であるということがよく分かる。黒猫といえば、通常は不吉さや魔物といったイメージだろうが、それはむしろ日本的な固定観念に過ぎなかったのではないか。今回の小川訳では、それを改めて感じさせられる。

とすると、この「黒猫」の話はどう読めばいいのだろう。黒猫が無垢な良心であるならば、それを吊るして殺したということは、取りも直さず主人公が自分で自分の良心を殺したことを意味する。2匹目の猫は、良心を無くした彼を裁くためにやってきた使者だと考えられる。1匹目のプルートーそっくりだが、たったひとつ違っていたのは、2匹目には白い毛がまざっていたこと。
そしてその毛の模様が絞首台の形をしていたことである。つまり2匹目の猫は主人公を絞首台に連れにやってきた、主人公の第2の良心なのだ。
妻を殺した後で、彼は自分でも気づかぬうちに猫を妻の死体と一緒に壁に塗り込めてしまう。そして家宅捜査にやってきた警官たちの前で、何かに憑かれたかのような熱弁を振るう。調子に乗って壁を杖で叩いた瞬間、壁の中で猫が鳴く。
つまり彼はここですっかり殺したと思っていたはずの自分の良心に裁かれ、絞首台に送られることになったのではあるまいか。訳者の小川はそのあたりのストーリー展開を、同書の解説でこう読み解いている。

「もはや1匹の猫というだけではない。『私』が嫌えば嫌うほどに、猫は足元にからみつき、膝に飛び乗り、爪を立てて『私』の胸に迫る。そう、猫は『私』の良心の権化なのだ。『私』が冷徹に悪事を遂行する際に、猫を見失っているのは当然だろう。妻の死体を壁に塗り込めて隠すのは、良心までも埋めてしまうことだった。そんなことが可能なのかどうか、最後は見てのとおりである」

ポーには「ウィリアム・ウィルソン」という分身をテーマにした代表作がある。自分に酔って熱弁を振るうことで馬脚を現し完全犯罪がフイになる「告げ口心臓」などの傑作もある。自分が自分を裁くというテーマが、ポー文学の核心の一つであることには疑う余地がない。

「黒猫」がもしも猫が1匹だけ登場する作品だとしたら、ここまでの傑作になり得ていたかどうか。妻が可愛がっていたペットに妻を殺した男が裁かれるだけの話ならば、それは当然の報いに過ぎない。一種の仇討ちものにとどまることになる。
重要なのは2匹目の猫だ。主人公を裁く(つまり自らの良心が自らを裁く)2匹目が登場したから、この作品はポーの分身テーマの作品の中でもひときわ完成度の高いものとなった。

ポーは自らも飲酒癖が治らず、晩年は生活が破綻していたという。亡くなったのはわずか40歳のときだった。「黒猫」の主人公も飲酒によって性格破綻者になってしまった男だ。言うなれば酒がもたらす「悪心」と猫に代表される「良心」のせめぎ合いが、この作品を根底で支えている。おっと、今回は「黒猫」という類い稀なる傑作に対して、ちょっと理屈をこねすぎたかもしれない。酒を飲むと理屈っぽくなっていけない。(こや)


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2011/06/10 13:19 |
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