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2024/04/20 07:34 |
第100回 黒澤明はてんかんだったのか? 文学に関するコラム・たまたま本の話
第100回 黒澤明はてんかんだったのか? 文学に関するコラム・たまたま本の話

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日本が誇る世界的巨匠・黒澤明(1910-1998)は、戦中のデビュー作「姿三四郎」から数えて生涯にちょうど30作品を監督している。時系列でいうと「赤ひげ」までの23作と「どですかでん」以降の7作とでは作風が大きく異なっている。「姿三四郎」(1943年)から「赤ひげ」(1965年)までの23作は、ダイナミックかつスピード感にあふれる動的な作風で、22年かかっている。そして「どですかでん」(1970年)から遺作となった「まあだだよ」(1993年)までの7作は、逆にゆったりとした静的な作風で、23年かかっている。つまり監督人生の年月をほぼ2分して、前半と後半とで全く別人のような映画を作ったのが黒澤だったと言えるのである。
その点については今までも多くの識者が指摘していたことだが、今回それは何故かを改めて考えることになった。柏瀬宏隆と加藤信の共著「黒澤明の精神病理」(2002年4月、星和書店刊。2010年10月に増補版)という興味深い本を読んだからである。著者の2人、柏瀬宏隆は日本精神神経学会評議員などを歴任した医学博士、加藤信は日本アルコール・薬物医学会評議員などを歴任した同じく医学博士(ともに2002年現在)。この精神科医2人が書いた本書は、学術誌に掲載された論文8編で構成されている。
筆者たちの主張は、まずこのように始まる。黒澤の作風の変化のきっかけは1971年、61歳の時に起こした自殺未遂事件にあるのではないか――という指摘だ。「『どですかでん』の頃より、黒澤映画およびその作品づくりは次のような明らかな変貌を遂げている」と書いて、その根拠を掲げる。重要なポイントなので引用する。
1. それまで1年にほぼ1作品ずつ製作されていたのが、自殺企図後からはしばらくの間5年ごと1作品にペースがダウンしていること
2. それまで白黒映画であった作品がすべてカラー作品となっていること
3. 56歳の時、黒澤プロが映画会社・東宝から完全に独立したこと
4. 作風は面白いストーリー性、娯楽性、躍動性、スリルとサスペンス性が影を潜め、いわば動的世界から静的世界へと変容してきていること。すなわち、自殺企図前の作品には、「酔いどれ天使」「羅生門」「七人の侍」「用心棒」のように動的で、雄々しく、激しく、ドラマチックな内容の作品が多いのに対して、自殺企図後の作品には、特に最後の3作品「夢」「八月の狂詩曲(ラプソディー)」「まあだだよ」に見られるように逆に静的で絵画的で、穏やかさ、優しさが伺えるようになること
いずれも納得できる指摘であろう。こうした点を取り上げて、「どですかでん」以降の作風の変化を、年齢からくる創作エネルギーの減退や、三船敏郎という俳優の不在という言葉でくくってしまう批評が、これまでにも多く見られた。しかし筆者たちが違うのは、ここからである。作風の変化の背景に、黒澤のある精神病理があったとする説を展開するのだ。その病理とは「てんかん」であったというから驚く。他ならぬ黒澤自身が1978年、68歳の時に書いた自伝「蝦蟇の油――自伝のようなもの」の中で、自分がてんかん持ちであることを告白している。
「私(黒澤)の脳の大動脈は、脳血管のレントゲン写真を撮って解ったのだが、異常に屈折している。通常は真直ぐなのだそうで、この異常は先天的なもので、真性てんかん症だと診断された。そういえば、子供の時は、よくひきつけを起こした」
この記述から筆者たちは、黒澤を側頭葉てんかん、とくにゲシュヴィント症候群と推測する。黒澤の性格や作風が、まさにゲシュヴィント症候群の特徴的症状に酷似しているというのだ。少年時代から見られる負けん気の強さや強情さは、同症候群の特徴的症状である「情動の過大」に該当し、仕事の完全主義ぶりや粘着性は「変形過少」、黒澤映画が性を取り上げない点は「性的活動の低下」、緊張感あふれる画面は「認知の強化」、強烈なヒューマニズムは「哲学的関心・道徳主義」、ほぼすべての作品の脚本づくりに参加したり、絵コンテを描いたりする点は「過剰書字」に該当するという。まさに精神科医らしい実証的考察がなされている。
ただし、これ以降は推測の世界に入っていく。自殺未遂事件以降の作風の変化について、筆者たちはこう書いている。
「これは、筆者のまったくの憶測であり推測の域を出ないのであるが、自殺企図後に初めててんかんであることが判明し、黒澤監督はてんかんの治療を受けることになったのではないであろうか。(すると、61歳までは、てんかんをまったく無治療で過ごしてきたことになる?!)そして、てんかん者としての治療を受けることによって、以後の作品が穏やかになり、対立と葛藤の強烈なダイナミズムが失われてしまったのではないであろうか。治療を受けることによって、普通人としての平穏な生活は送れるであろうが、創造性の持つ激しさ、鋭さ、迫力は削ぎとられてしまったと考えられるのである」
以上はあくまで筆者たちの推測ではあるが、それなりの説得力があるように思う。作風の変化を、単に年齢から来るエネルギーの減退とするよりも、訴えかけてくるものは強い。著者の1人、柏瀬は1995年から確信を持って「黒澤監督・てんかん説」を日本病跡学会で発表し続けていた。その当時、黒澤はまだ存命中だったが、柏瀬自身が主治医でないこと、黒澤自身が公表したものに基づいて考察していること、クローズドの学会および学会誌でしか発表していないこと、などから医師の守秘義務違反という倫理的批判も受けることはなかったという。(こや)



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2019/04/04 13:15 |
コラム「たまたま本の話」

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