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2024/04/19 03:14 |
第102回 「処女の泉」とガマガエル 文学に関するコラム・たまたま本の話

第102回 「処女の泉」とガマガエル

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昨年2018年はイングマール・ベルイマン監督の生誕100年に当たっていた。ベルイマンといえばスウェーデン映画界の巨匠。残念ながら2007年に89歳で死去したが、生涯に約50本の監督作品を残している。生誕100年を機に、日本でも代表作の数本がデジタル・リマスター版で再上映された。今回はその中の1本、「処女の泉」(1960年)について考えてみたい。以下、ストーリーに触れるので映画を未見の方はご注意を。
舞台は土着信仰とキリスト教が混在する中世のスウェーデン。裕福な地主テーレとその妻メレータ、彼らの一人娘であるカリンの一家は敬虔なキリスト教徒である。しかし一家の養女であるインゲリは秘かに異教の神オーディンを信奉し、苦労を知らずに育ったカリンを呪詛している。ある日、教会への務めを両親に命じられたカリンとインゲリ。インゲリはちょっとした悪戯で、持っていくパンの間にガマガエルを仕込む。
途中でインゲリと言い争いをしたカリンは、彼女と別れて一人教会に向かう。道中カリンは貧しげな3人の羊飼いの兄弟に遭遇する。彼らに同情して食糧を分け与えるカリンだが、清純なカリンに魅了された長男と次男はカリンを強姦し(その直前にパンからガマガエルが飛び出してくる)、さらに勢い余って彼女を殺害してしまう。その様子を物陰から目撃していたインゲリはカリンを助けようとするが、結局、何も出来ない。
カリンを殺害した夜に羊飼いの兄弟が宿を乞うたのは、偶然にも彼女の両親が経営する農場だった。そうとは知らず、羊飼いの兄弟は母親のメレータにカリンから剥ぎ取った衣服を売りつけようとする。事情を察したメレータは、夫のテーレに彼らが娘を殺したに違いないことを告げる。妻にカリンの衣服を見せられ、さらに人目を忍んで帰宅したインゲリから娘の死の様子を聞き出したテーレは、羊飼いの兄弟への復讐を誓う。早朝、復讐のために体を清めたテーレは羊飼いの兄弟が眠る母屋に赴く。娘に乱暴した長男と次男を殺した後、テーレは激情に任せて罪の無い末っ子の少年の命まで奪ってしまう。冷静になったテーレは自らの犯した罪の大きさに慄然とする。
テーレは、インゲリによって森に放置されたカリンの亡骸まで案内される。変わり果てた娘の姿にショックを隠しきれないメレータ、そしてテーレは娘の死と彼自身の冷酷な復讐を看過した神を糾弾する。神の無慈悲に絶望しながらも、それでもなお神の救済を求めるテーレは、娘の遺体のある場所に罪滅ぼしのために教会を建設することを約束する。テーレとメレータが娘の亡骸を抱きかかえたその時、彼女が横たわっていた場所から泉が湧き出してくる。神の恩寵を目の当たりにした一行は、跪いて神に祈りを捧げる。インゲリは、泉から湧き出た水を、手で掬って自分の顔に注ぎかけた。
――と、要約すれば明らかなように、この映画の軸となっているのは、異教とキリスト教との間の緊張関係である。ベルイマン自身は「自作を語る」(「世界の映画作家9 イングマール・ベルイマン」、1971年3月、キネマ旬報社刊より)の中で、こう語っている。「スウェーデンでは、もう何世紀も前から表向きにはキリスト教に改宗しているが、その間にも古い神々は秘かに崇めつづけられていたので、家の中では古い神々に供物が捧げられていた。だから、ひねくれた捨て子の娘インゲリが、自分より恵まれているカリンに憎しみを抱き、古い神オーディンに訴えるのも、ごく自然なことなのだ」。
オーディンとは、北欧神話の戦争と死の神で、「災いを引き起こす者」の異名もある。養女のインゲリがこの異教の神を信奉しているということは、キリスト教を信奉するテーレ一家とは相容れないことになる。そこでポイントとなるのはインゲリがパンに仕込んだガマガエルである。これは何を意味するか。最後の晩餐の日、キリストは弟子たちにこう言った――「このパンを私の肉だと思って食べよ」と。キリストの肉であるパンの中に、オーディンの信徒がガマガエルを入れるというのは、すなわちキリスト教の中に異教が忍び込むことを意味している。カリンが強姦される直前、異教の神オーディンに操られたかのように、パンからガマガエルが飛び出してくるのはきわめて象徴的である。
父親テーレの度を越したような復讐劇も、キリスト教徒らしからぬ暴力衝動に追い立てられている。マタイによる福音書は「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬も向けなさい」と、キリストの教えを伝えている。それがどうだろう。父親は娘に直接、手をかけた羊飼いの長男と次男を殺しただけでなく、罪のない末っ子の命まで奪ってしまうのだ。キリスト教徒の父親も、魔に魅入られたようにオーディンに操られたとは言えないだろうか。
罪を犯した父親は神(キリスト)に救済を求め、娘の亡骸のあった場所に「教会を建てる」と誓う。そこに神は現れる。異教神を信奉するインゲリと、オーディンに操られたテーレを救済するべく、聖なる泉が湧き出る。つまり「処女の泉」は贖罪の物語である。ベルイマンに詳しい映画史家、小松弘が著書の中でその点を鋭く指摘しているので、以下に引用して本稿のまとめとしたい。
「異教の時代にあった生け贄とか犠牲に対応しているのが、処女を暴行して死に至らしめることと生命を与えてくれる泉の出現である。また処女と水は豊穣の儀式にも結びつく。テーレという名前は雷神トールに対応し、この北欧神話の神は、戦争と農業を司っている。テーレの妻メレータはマリアであり、要するにここに異教とキリスト教という2つの信仰の衝突が示され、処女が殺された同じ場所に父が教会を建てると誓うことで、キリスト教の勝利に終わっている」(「人と思想166 ベルイマン」、2000年11月、清水書院刊より)。(こや)



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2019/05/29 13:12 |
コラム「たまたま本の話」

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