電子書籍「文学コラム・いいたま」を公開しました
ジェイムズ・ヤッフェが、EQMM(エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン)に短編「不可能犯罪課」を投稿し、採用されたのは1943年の7月号だった。ヤッフェは1927年生まれだから、弱冠15歳のときである。編集長のフレデリック・ダネイ(すなわちエラリイ・クイーン)は驚き、少年に続編を書くように勧めた。かくしてヤッフェが15歳から18歳までの間に書いた全6編の「不可能犯罪課」シリーズが、EQMMに順次、掲載されていくことになる。早熟の天才作家が誕生した瞬間だった。
しかしながら、ヤッフェの知名度が格段に上がったのは、いうまでもなく1952年に連作「ブロンクスのママ」シリーズをスタートさせてからである。「ママは何でも知っている」に始まる短編8作が1968年まで書き継がれ、ミステリファンの間で好評を博す。ところが彼は、そこでシリーズを中断してしまう。20年の沈黙を経た1988年に執筆を再開。ママと息子は今度はブロンクスからロッキー山脈の麓にある架空の都市メサグランデに居を移し、「メサグランデのママ」シリーズとして長編4作が発表された。その後、2002年には短編「ママは蠟燭を灯す」が書かれているから、執筆期間は50年にわたる。息の長いシリーズなのである。
「ブロンクスのママ」シリーズは、いわゆるアームチェア・ディテクティブ(安楽椅子探偵)ものである。犯罪の現場には出かけず、事件の関係者と接触することもなく、捜査情報を人伝てに聞くだけで事件の謎を解く。M・P・シールの書いたプリンス・ザレスキー、バロネス・オルツィの書いた「隅の老人」、ハリイ・ケメルマンの書いたニッキイ・ウェルト教授、アイザック・アシモフの書いた給仕ヘンリー、都筑道夫の書いた「退職刑事」など多くの名探偵がいるが、最高峰とされているのがヤッフェの書いた「ママ」であろう。
日本で独自に編纂された8編の連作短編集「ママは何でも知っている」がハヤカワ・ポケット・ミステリの1冊として出たのが1977年7月。それから38年後の2015年6月、同書がハヤカワ・ミステリ文庫に収録されたのをきっかけに、再読してみた。ニューヨーク市警殺人課刑事のデイビッドが、妻のシャーリイとともに毎週金曜日にママの家を訪れ、ディナーを共にする。そのとき抱えている難事件について息子と嫁と母親が会話をしていくうちに、母親が見事に事件の真相を解明してしまう。そんなワンパターンの展開ではあるが、これがめっぽう面白い本格ミステリになっている。特に今回、気づいたのは、ブロンクスという土地柄とユダヤという人種、そしてユダヤ教の戒律がずいぶん作品に影を落としているという点だった。
ニューヨーク州ニューヨーク市ブロンクス区は、第1次世界大戦後に急速に開発が進んだ地区として知られる。ニューヨークの地下鉄が延伸したことで、多くの移民が移住してきた。移民はアイルランド人やイタリア人はもちろんだが、とりわけユダヤ人が多かったという。禁酒法時代には、もぐり酒場を中心にアイルランド人やイタリア人による酒の密売が横行し、ギャングたちが闊歩した。やがて白人層が区外に流出。第2次世界大戦後には、仕事を求めて集まってきたヒスパニック系や黒人が中心の街となった。犯罪率も高く、治安の悪さでずっと有名な街だったのである。
そんな当たり前のように犯罪が多発する街に、殺人課の刑事として勤務する息子デイビッドと、夫に先立たれたママが住んでいる。彼らはユダヤ系アメリカ人の家族である。「本国(米国)の読者には、ブロンクスという地名とママが口にするイディッシュ語で、ユダヤ系アメリカ人の家族であることがわかる仕掛けになっている」と、同文庫の解説で作家の法月綸太郎も指摘している通り、ストーリーの鍵となる部分にユダヤ系アメリカ人であるがゆえのプロットが巧みに織り交ぜられている(以下、未読の方はご注意を)。
例えば巻末の「ママは憶えている」。ブロンクス時代のママ・シリーズの最終話に当たるが、これはママが若い娘だったときの45年前の回想と、現在の事件が並行して進む。回想のほうは、殺人の嫌疑をかけられたママの婚約者の青年の窮地を、ママの母親が救う話である。婚約者の青年は、犯行時間にどこにいたのか、警察に話そうとしない。実は彼は帽子をかぶっていると周囲に笑われる場所にいたのだ(ユダヤ人なら屋内で帽子をかぶっていても当然なのに)。そしてポケットにたくさんあったハッカあめをすべて舐めてしまっていた。この2つの事実から、ママの母親はこう推理する。青年がそのときいたのはユダヤ人が住まない場所にあるレストランで、食べたものは豚肉である――と。
「豚肉かハムかベイコンか――ユダヤ教で禁じられた食物よ。(中略)まともなユダヤ人の子が食べたら、神様からほっぺたをぴしゃりとやられるしろものよ」「そこでレストランを飛びだして、豚肉のにおいを消すために、ハッカを口いっぱいほおばったのよ」「犯行時刻に、なにをしていたか申し立てれば容疑は晴れるが――これだけはだれにもいえない。不浄(トレフ)な食べものを食べたことをパパに知られるより、殺人犯人だと思われているほうがよっぽどましだった」(小尾芙佐訳)。厳格な父親に反発してはみたものの、戒律を破ったことに怯え、父親に恥をかかせないためには死んでもいいと思ったユダヤ人青年の姿がここにある。
他ならぬ作者ジェイムズ・ヤッフェが、シカゴ生まれのユダヤ系アメリカ人であった。「アメリカのユダヤ人」(1968年)というノンフィクションも書いている。そこにはユダヤ教の戒律について「すべての権威は神に由来し、誰もそれを奪うことができない」と記されているという。(こや)
海外文学作品についてのコラム「たまたま本の話」を掲載しています。
「たまたま本の話」は「miniたま」に毎号掲載しているコラムです。
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ジェイムズ・ヤッフェが、EQMM(エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン)に短編「不可能犯罪課」を投稿し、採用されたのは1943年の7月号だった。ヤッフェは1927年生まれだから、弱冠15歳のときである。編集長のフレデリック・ダネイ(すなわちエラリイ・クイーン)は驚き、少年に続編を書くように勧めた。かくしてヤッフェが15歳から18歳までの間に書いた全6編の「不可能犯罪課」シリーズが、EQMMに順次、掲載されていくことになる。早熟の天才作家が誕生した瞬間だった。
しかしながら、ヤッフェの知名度が格段に上がったのは、いうまでもなく1952年に連作「ブロンクスのママ」シリーズをスタートさせてからである。「ママは何でも知っている」に始まる短編8作が1968年まで書き継がれ、ミステリファンの間で好評を博す。ところが彼は、そこでシリーズを中断してしまう。20年の沈黙を経た1988年に執筆を再開。ママと息子は今度はブロンクスからロッキー山脈の麓にある架空の都市メサグランデに居を移し、「メサグランデのママ」シリーズとして長編4作が発表された。その後、2002年には短編「ママは蠟燭を灯す」が書かれているから、執筆期間は50年にわたる。息の長いシリーズなのである。
「ブロンクスのママ」シリーズは、いわゆるアームチェア・ディテクティブ(安楽椅子探偵)ものである。犯罪の現場には出かけず、事件の関係者と接触することもなく、捜査情報を人伝てに聞くだけで事件の謎を解く。M・P・シールの書いたプリンス・ザレスキー、バロネス・オルツィの書いた「隅の老人」、ハリイ・ケメルマンの書いたニッキイ・ウェルト教授、アイザック・アシモフの書いた給仕ヘンリー、都筑道夫の書いた「退職刑事」など多くの名探偵がいるが、最高峰とされているのがヤッフェの書いた「ママ」であろう。
日本で独自に編纂された8編の連作短編集「ママは何でも知っている」がハヤカワ・ポケット・ミステリの1冊として出たのが1977年7月。それから38年後の2015年6月、同書がハヤカワ・ミステリ文庫に収録されたのをきっかけに、再読してみた。ニューヨーク市警殺人課刑事のデイビッドが、妻のシャーリイとともに毎週金曜日にママの家を訪れ、ディナーを共にする。そのとき抱えている難事件について息子と嫁と母親が会話をしていくうちに、母親が見事に事件の真相を解明してしまう。そんなワンパターンの展開ではあるが、これがめっぽう面白い本格ミステリになっている。特に今回、気づいたのは、ブロンクスという土地柄とユダヤという人種、そしてユダヤ教の戒律がずいぶん作品に影を落としているという点だった。
ニューヨーク州ニューヨーク市ブロンクス区は、第1次世界大戦後に急速に開発が進んだ地区として知られる。ニューヨークの地下鉄が延伸したことで、多くの移民が移住してきた。移民はアイルランド人やイタリア人はもちろんだが、とりわけユダヤ人が多かったという。禁酒法時代には、もぐり酒場を中心にアイルランド人やイタリア人による酒の密売が横行し、ギャングたちが闊歩した。やがて白人層が区外に流出。第2次世界大戦後には、仕事を求めて集まってきたヒスパニック系や黒人が中心の街となった。犯罪率も高く、治安の悪さでずっと有名な街だったのである。
そんな当たり前のように犯罪が多発する街に、殺人課の刑事として勤務する息子デイビッドと、夫に先立たれたママが住んでいる。彼らはユダヤ系アメリカ人の家族である。「本国(米国)の読者には、ブロンクスという地名とママが口にするイディッシュ語で、ユダヤ系アメリカ人の家族であることがわかる仕掛けになっている」と、同文庫の解説で作家の法月綸太郎も指摘している通り、ストーリーの鍵となる部分にユダヤ系アメリカ人であるがゆえのプロットが巧みに織り交ぜられている(以下、未読の方はご注意を)。
例えば巻末の「ママは憶えている」。ブロンクス時代のママ・シリーズの最終話に当たるが、これはママが若い娘だったときの45年前の回想と、現在の事件が並行して進む。回想のほうは、殺人の嫌疑をかけられたママの婚約者の青年の窮地を、ママの母親が救う話である。婚約者の青年は、犯行時間にどこにいたのか、警察に話そうとしない。実は彼は帽子をかぶっていると周囲に笑われる場所にいたのだ(ユダヤ人なら屋内で帽子をかぶっていても当然なのに)。そしてポケットにたくさんあったハッカあめをすべて舐めてしまっていた。この2つの事実から、ママの母親はこう推理する。青年がそのときいたのはユダヤ人が住まない場所にあるレストランで、食べたものは豚肉である――と。
「豚肉かハムかベイコンか――ユダヤ教で禁じられた食物よ。(中略)まともなユダヤ人の子が食べたら、神様からほっぺたをぴしゃりとやられるしろものよ」「そこでレストランを飛びだして、豚肉のにおいを消すために、ハッカを口いっぱいほおばったのよ」「犯行時刻に、なにをしていたか申し立てれば容疑は晴れるが――これだけはだれにもいえない。不浄(トレフ)な食べものを食べたことをパパに知られるより、殺人犯人だと思われているほうがよっぽどましだった」(小尾芙佐訳)。厳格な父親に反発してはみたものの、戒律を破ったことに怯え、父親に恥をかかせないためには死んでもいいと思ったユダヤ人青年の姿がここにある。
他ならぬ作者ジェイムズ・ヤッフェが、シカゴ生まれのユダヤ系アメリカ人であった。「アメリカのユダヤ人」(1968年)というノンフィクションも書いている。そこにはユダヤ教の戒律について「すべての権威は神に由来し、誰もそれを奪うことができない」と記されているという。(こや)
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海外文学の古典的名作が、ここのところ新訳版で出版各社から復刊されている。翻訳というのは、どんなに名訳でも30年も経てば古くなって、一種の新陳代謝が必要になる。あまりにも有名だが、現在は品切れや絶版で読めなくなっている作品が次々と新訳で刊行され、若い読者が気軽に手に取れるようになるのは素晴らしいことである。
ハヤカワ・ミステリ文庫(早川書房)では、2015年8月にエラリイ・クイーンの「九尾の猫〔新訳版〕」(原著1949年刊、越前敏弥訳)が出た。ニューヨーク全市を震撼させている連続絞殺魔「猫」に名探偵エラリイが挑む、クイーン中期の代表作である。同時にオールタイムベスト級の古典的名作でもあるが、現代風にこなれた新訳版で改めて読み返すと、興味深いことが見えてくる。作中にこんな一節があるのだ。事件の関係者にエラリイが「複数殺人のABC理論」を説くくだりである。以下、「九尾の猫」など諸作品の内容に触れるので、未読の方はご注意を。
「XはDを殺したい。その動機は明らかではないが、もしふつうの方法でDを殺せば、警察の捜査が進むうちに、動機を持つ唯一の人間、あるいはもっとも疑わしい人間がXだとわかってしまう。Xの問題は、どのようにDを殺せばその動機を目立たせずにすむかということだ。そこでXは、Dの殺人をほかの複数の殺人で覆い隠すという方法を思いつき、因果関係のある連続殺人に見せるためにXはあえて同じ手口を使いつづける。はじめにAを殺し、そしてB、つぎにC……。そのあとでDを殺す。こうすれば、D殺しを、鎖のようにつながった一連の事件のひとつの環に見せることができる。警察はD殺しの動機を持つ人間を探さず、AとBとCとDのすべてを殺す動機を持つ人間を探す。しかし、XにはAとBとCを殺す動機などなかったんだから、XのD殺しの動機は見過ごされるか無視される」
これは、かのアガサ・クリスティーの名作中の名作「ABC殺人事件」のあまりにも有名なトリックのことである。1936年にイギリスで発表されたこの作品は、「そして誰もいなくなった」や「アクロイド殺し」と並ぶ、クリスティーの代表作とされている。その名作を、クイーンは13年後の1949年に書いた自作の中で、「複数殺人理論」の例として引用したのだ。「お手軽な探偵養成講座ですね」と事件の関係者に揶揄されると、「Xはそんなにばかじゃない」と、エラリイはさらに続ける。「自分に疑いがかかる殺人でやめてしまったら、連続殺人にまぎれこませた殺しがかえって目立ってしまう。だからXはD殺しのあともE、F、Gと関係のない人たちを殺していく――必要ならH、I、Jも。自分の動機がうまくかすんだと感じるまで、Xは関係のない人間を殺し続ける」。
この部分が、おそらくクリスティー批判になっているのだろう。1936年の「ABC」の犯人は、Cの殺人という本義を達した後、Dを殺すと予告しながらも、投げやりになって人違い殺人を犯してしまうことで、名探偵エルキュール・ポワロに事件の真相を見抜かれる。1949年の連続絞殺魔「猫」は、その轍を決して踏むものか。アメリカ本格派を代表するクイーンのプライドとともに、イギリスの大御所クリスティーへの強烈なライバル心をここからは感じる。連続殺人を描かせたら俺の右に出る者はない、本格派の第一人者は俺だ――とクイーンは言いたかったのだろうか。
ところが、どうやら別の事情もあるようなのだ。本格ミステリそのものが、第2次世界大戦の前と後で変質を起こして来たという指摘である。インターネットで検索した「世界ミステリ史概説 5.第2次世界大戦と戦後(1940-1949)」には、こんなことが書かれている。
「戦争前と違って、名探偵が古い屋敷で連続殺人の謎を優雅に解くような作品は見られなくなっていく。2つの大戦の間に、すでに社会情勢は変わっていたのだが、多くの探偵小説はそれから眼をそらし、古き良き時代が未だに続いているかのような、一種の現実逃避ともいえる桃源郷に遊んでいた。だが平和は破られ、名探偵たちも現実と向き合わざるを得なくなった」「黄金時代をリードしていたバークリーやセイヤーズは、1940年代になると作品を発表しなくなり、クリスティーは時代に合わせて作風を変化させていく。その流れはアメリカでも起こった。ヴァン・ダインは死去し、C・デイリー・キングは沈黙する。探偵エラリイ・クイーンは『災厄の町』(1942)で住み慣れたニューヨークを離れ、長い模索の旅に出た。アメリカ型のパズル性重視の作風は、急激に姿を消した」
アガサ・クリスティーが「ABC殺人事件」を書いた1936年は、まだ本格ミステリが栄華をきわめていた時代である。1940年代になって、本格ミステリはもはや時代遅れだという批判が巻き起こったとき、多くの本格派作家たちは動揺し、作風の転換を図った。中でも一番動揺したのはエラリイ・クイーンだった――そんなことを評論家の瀬戸川猛資がどこかで書いていたように記憶する。
「ローマ帽子の謎」に始まる国名シリーズで「読者への挑戦状」を叩きつけ、バーナビー・ロス名義で傑作「Yの悲劇」などを残した本格派中の本格派、クイーンの作風も、「災厄の町」から大きく変わる。それから7年後に書かれたのが「九尾の猫」である。クリスティーの「ABC殺人事件」の時代と違って、1940年代アメリカを吹き荒れた精神分析ブームやマスヒステリー、ジャーナリズム報道の要素も「九尾の猫」にはたっぷり盛り込まれている。変わらざるを得なかったのだろう。それでも本格ミステリとしてのレベルを堅持している点は、さすがにクイーンなのだが。(こや)
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ミステリとSF出版の老舗、創元推理文庫の近年の好企画といえば、「18の奇妙な物語 街角の書店」であろうか。2015年5月に刊行されたばかりの短編アンソロジーで、編者は英米文学翻訳家の中村融。どんな内容の短編集かは、扉に書かれた次の惹句が教えてくれる――「江戸川乱歩の造語である<奇妙な味>とは、SFにもミステリにも分類不能な、異様な読後感を残す短篇を指す。本書には、ひねりの利いたアイデアストーリーから一風変わった幻想譚まで、多彩な味わいの18篇を収めた」。つまりこれは、「奇妙な味」の逸品ばかりを集めた傑作集なのである。
中村は、編者あとがきで偏愛する3編の小説を復活させたかったからこの短編集を編んだのだ、と書いている。その3編とは「肥満翼賛クラブ」「お告げ」「街角の書店」。いずれもかつて雑誌に訳載されたきり、書籍未収録だった作品である。
「肥満……」の作者はジョン・アンソニー・ウェスト。全く無名の作家で、中村が調べた限りでは、1961年から1980年にかけて本編を含めて6つの短編を発表したのみだという。「街角……」の作者はネルスン・ボンド。こちらも邦訳単行本が2冊あるが、いずれも児童書として出版されたものであり、著名な作家とは言いがたい。その点、「お告げ」を書いたのは、かのシャーリイ・ジャクスン(1916―1965)である。映画化もされた長編恐怖小説「山荘綺談」(「たたり」「丘の屋敷」の訳題もあり)などの作品で日本でも知名度は高いが、その割に邦訳本は少ない。「お告げ」も「奇想天外」誌の1974年1月号に訳載されたきり忘れ去られていた。以下、ストーリーに触れるので未読の方はご注意を。
1人のおばあちゃんが、思わぬ収入が入ったため、自分へのご褒美のほかに家族や孫に欲しいものをプレゼントしようとバスで買い物に出る。忘れるといけないので「カーネーション、ザ・サイン、青い猫、電話、指輪」と全員のプレゼントを書きつけたメモを持参する。しかしバスの中にこのメモを落としてしまう。それを偶然拾ったのが、おばあちゃんとは全く面識のない娘。娘には婚約者がいるが、母親に結婚を反対されていて、3年間も待ち続けた末、思いつめて家を飛び出してきたのだった。「カーネーション……」と書かれた見知らぬメモを見て最初はちんぷんかんぷんだったが、その言葉を何らかのお告げと考えて街を歩いていく。カーネーションを胸に差した男に声をかけられ、食料品店の看板(サイン)によって人違いに巻き込まれ、青い猫の軽食堂で食事をしているうちに、やがて決心がつき、婚約者に電話してプロポーズを受け入れる。婚約者が用意していた指輪を持参して娘の元に駆けつける途中、おばあちゃんと偶然すれ違うという落ちがつく。
ハートウオーミングな短編だが、忘れてはならないシーンがある。娘がたまたま赤い帽子をかぶっていたために、尋ね人に間違えられるくだりだ。高級食品店「マレーン兄弟商会」が、開店大売り出しPRで「本日この界隈を歩いている赤い帽子をかぶったミス・マレーンを探し出してきた方に100ドル相当の商品をプレゼントする」という企画を打つ。そのため娘はあちこちで「あなたはミス・マレーンですね?」と声をかけられ、取り囲まれ、腕をつかまれ、食品店に引きずっていかれるのである。そして別人だと分かったとたん、悔しさのあまり目の色が変わった集団に身の危険を感じて、娘はあわててその場から逃げ出すことになる。
この娘をめぐる描写から何かを連想しないだろうか。集団に襲われる若い女といえば――そう、ジャクスンの代表作とされる短編「くじ」の犠牲者の娘、テシー・ハッチンスンである。年1度の村の風習の日に当たりくじを引いたため、村人たちに囲まれて石を投げつけられるところで終わる衝撃的な名作「くじ」は、1948年6月発売の「ニューヨーカー」誌に掲載された。それから10年後。1958年3月号の「ファンタシー&サイエンス・フィクション」に発表された「お告げ」でも同様に、ジャクスンは集団に理由もなく襲われる恐怖を作品に忍び込ませているのである。
突飛な連想かもしれないが、これは1940年代後半から1950年代のアメリカに吹き荒れた赤狩りへの恐怖と無関係ではないように思われる。「くじ」が書かれる前年の1947年は、ハリウッドで米共産党活動についての調査が始まった年だった。チャーリー・チャップリンやジョン・ヒューストンらも対象となった。非米活動委員会に召喚された映画人たちが議会侮辱罪で有罪判決を受け、業界から追放された有名な「ハリウッド・テン」事件もこの年に端を発している。
ウィスコンシン州選出の上院議員、ジョセフ・レイモンド・マッカーシーが1950年2月9日に共和党女性クラブで行った講演で「私は国務省にいる共産主義者のリストを持っている」と述べてから、赤狩りは「マッカーシズム」の異名を持つこととなった。まさにこの時代のアメリカは熱に浮かされていたのだ。国家という赤狩り集団によって疑いをかけられ、四方八方を取り囲まれ、追放された共産主義者たちは、さながら当たりくじを引いてしまって石を投げつけられる村の娘のようなものだ。あるいは赤い(!)帽子をかぶっていたために人違いで襲われてしまう街の娘か。
シャーリイ・ジャクスンは文芸評論家の夫と結婚してヴァーモント州の田園地帯に居を構え、2男2女に囲まれながら小説を書いて暮らしたという。短くも幸せな49年の生涯だったろうが、のどかな田舎町にも赤狩りの空気が立ち込めていたとすれば、それが作風に影を落としたとしても無理はない。(こや)
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アルフレッド・エドガー・コッパード――通称A・E・コッパードは1878年、イギリスのケント州生まれ。9歳で父親を亡くし、小学校教育もまともに受けることなく職を転々とするなど苦労した。30歳近くになって文学と出会い、詩や短編小説の執筆を始める。第1短編集「Adam & Eve & Pinch Me」(1921年)が出たのは43歳のとき。1957年、79歳で没したが、きわめて遅咲きの作家であった。
このコッパードの名前が、日本の文学好きに知られたのは、今は無きサンリオSF文庫の巻末に載っていた「以下続刊」リストによってだろうか。
「エーイ・コパード『郵便局の蛇』荒俣宏訳」とあるのが笑わせる。京都大学文学研究家教授の若島正は、これを荒俣とサンリオSF文庫編集者とのやりとりが生んだミスだとしている。
打ち合わせのとき「A・E・コッパードを訳したい。仮題は『郵便局と蛇』です」と電話口で言った荒俣に対して、編集者が「エーイ・コパードの『郵便局の蛇』ですね。では近刊広告に出しておきます」という具合ではなかったか――若島はそう推測している(「サンリオSF文庫総解説」牧眞司、大森望編、2014年9月、本の雑誌社刊に所収の「以下続刊ベスト10冊」より)。
短編集「郵便局と蛇」は結局、サンリオSF文庫では刊行されず、1996年7月になって国書刊行会から「魔法の本棚」シリーズの1巻としてようやく出た(西崎憲編訳)。それが同題のちくま文庫に収められたのが2014年9月(短編1編を追加)。少し前の2009年12月には、コッパードの短編を集めた別の選集「天来の美酒/消えちゃった」が光文社古典新訳文庫で出ている(南條竹則編訳)。日本でのコッパード紹介が進んだのは、したがってわずかここ20年といったところだろう。
しかし、コッパードの短編のいくつかは、昔から数々の雑誌やアンソロジーに掲載されていた。特に有名なのは、「郵便局と蛇」でも冒頭に置かれた「銀色のサーカス」だろうか。原作「Silver Circus」が英誌に発表されたのは1927年。早くも1928年に鈴木謙一郎が、1929年に平井呈一が訳出している。以下、2014年のちくま文庫版から「銀色のサーカス」のストーリーを要約する。未読の方はご注意を。
荷物運搬人のハンスは、若妻のミッチに1年前、逃げられたばかり。ミッチは若い男ユリウスと駆け落ちしたのだ。ある日ハンスはサーカスの団長から仕事を頼まれる。死んでしまったサーカスの虎の代わりに、虎の皮を被り、虎の真似をして、1回だけ公演に出てほしい。謝礼は200シリング出す――と。しかしおいしい話には裏があった。虎がライオンと戦う公演だというのである。ライオンはもう相手を噛むことのできない老いぼれだという説得と、350シリングに吊り上がった報酬に引かれ、ハンスは虎になってライオンと戦うことを引き受ける。
公演当日、見物人の中に逃げた若妻のミッチを見つけて驚く虎のハンス。もっと驚いたのは相手のライオンも人間の言葉をしゃべったことだ。ライオンの皮を被っていた相手は、何と妻を奪ったユリウス本人だった。力自慢のハンスはユリウスに襲いかかり、首を絞めて殺してしまう。見物人は、ピクリとも動かないライオンを背に、虎が苦しげな嗚咽をもらすのを聞いた――。
滑稽さの中にもやり切れない切なさを感じさせる短編である。どこかで聞いた話だな、と思われた方は根っからの落語ファンであろう。「動物園」とか「ライオン」といった題目で演じられる落語が、この話とそっくりなのである。
口下手な男が、動物園で死んだ虎の皮を被って虎を演じる仕事を引き受ける。報酬は1日1万円。空腹のあまり、見物人の子供に思わず「パンをくれ」と呟いてしまうなど、ヘマもするが、順調に虎の役をこなしていた。そこに突然「虎とライオンの猛獣ショー」のアナウンス。うなり声を上げて近づいてくるライオンに「聞いてないよ」と、ビビる虎男。近づいてきたライオンは、しかし虎男の耳元でささやく――「心配するな、わしも1万円で雇われたんや」。
どうもこの落語は、上方の2代目桂文之助が明治時代末に自作自演したものらしい。
ちくま文庫版「郵便局と蛇」の訳者・西崎の解説には、さらに宇野浩二にもそっくりな話の短編小説(「化物」)がある、と書かれていた。ただし宇野の短編が雑誌に発表されたのは1920年、つまりコッパードの1927年よりもずいぶん早い。時間的に言えば、落語「動物園またはライオン」、宇野「化物」、コッパード「銀色のサーカス」の順である。が、これは誰が誰を真似した、という問題ではないと思う。西崎の解説にも「『ライオン』よりも演じられることの多い『死神』のように、祖型らしきものが世界中に散らばって存在する話なのだろうか?」という問いかけがある。たぶんそうなのだろう。
コッパード自身は「銀色のサーカス」について、「1926年にウィーンに滞在した時にドクトル・ヴィルヘルム・シュテケルなる人物から聞いた話がもとになっている。その話はワルシャワにいる時、彼が聞いたもので、あるサーカス団とふたりのユダヤ人が登場する」と、メモに書きつけているという。それをもって西崎は「やはりコッパードの話にも典拠があった」と指摘している。
しかし――ここで大胆な仮説を1つ。ウィキペディアのコッパードの項には、「日本へも大正の末ごろ、東洋旅行の途次、立ち寄ったことがある」と書かれていた。それが本当だとすれば、コッパードは大正時代末(つまり1920年代前半)の日本で「銀色のサーカス」執筆のヒントを得た、ということはないだろうか? つまり当時、寄席で盛んに演じられていた落語の「動物園」を聞いたことによって。(こや)
アルフレッド・エドガー・コッパードをWIKI PEDEIAで調べる
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2013年に惜しまれつつ亡くなった小説家、エッセイスト、編集者の常盤新平は、数々の翻訳でも名を残した。ホレス・マッコイ「彼らは廃馬を撃つ」(原題THEY SHOOT HORSES,DON‘T THEY、1935年刊)の訳出もその一つ。翻訳は1970年に角川文庫から初版、1988年に王国社から改訂版が出ている。長らく絶版になっていたこの中編小説が、白水社「海外小説 永遠の本棚」シリーズの1冊としてこのたび復刊された(2015年5月刊)。
舞台は1935年、大不況のさなかのアメリカ。夢を抱いてハリウッドにやってきたが、エキストラの仕事にもあぶれてしまった若い男女が、1000ドルの賞金と、プロデューサーや監督など名士の目に留まるというかすかな希望に賭けて、マラソン・ダンスに参加する話である。男ロバート・サイヴァーテン(私)と、女グロリア・ビーティは、過酷なマラソン・ダンスをコンビで勝ち抜いていくが、最後、ロバートは自殺願望のあるグロリアをピストルで撃ち殺すという終幕を迎える。「なぜ女を殺したのだ?」と警官に聞かれた「私」は、「女に頼まれたからですよ」と答える。そして「廃馬は撃つもんじゃないんですか?」と付け加える。
マラソン・ダンスとは何か? 常盤新平は訳者あとがきでこう書いている。「マラソン・ダンスはダンス・マラソンともいう。この奇妙なコンテストは、どのカップルが一番長く踊りつづけるというより、一番長く生き残れるかを争うものだった。アメリカ全土の男女が蓄音機や3流4流の小さなバンドが演奏するフォックス・トロットのリズムに乗って、ふらふらになりながら踊ったのである」「これは、ジャズ・エイジと呼ばれ、狂爛の20年代と呼ばれる1920年代のアメリカの産物だった。麻雀とクロスワード・パズルとマラソン・ダンス、この3つは1920年代のアメリカを特徴づける娯楽である。(中略)マラソン・ダンスは1930年代にはいって、不況とからみあいながら、『彼らは廃馬を撃つ』の世界のようにグロテスクな様相を呈するにいたった」。
この小説は、1935年にクロスワード・パズルで当てたサイモン&シュスター社から出版された。当時は全く話題にならなかったが、第二次世界大戦後の1946年、急にブームに火がついた。母国アメリカではなく、フランスで評判が高まったというのである。さほど良い出来とも思えない無名のアメリカ人作家の処女作のどこが、文学好きのフランス人に評価されたのか? ホレス・マッコイは1948年のインタビューでこう語っている。「彼ら(フランス人)は私を実存主義の元祖と見ている。(中略)そして、私はそのことを証明する手紙をサルトルやほかの人たちからもらっている」。
人間描写や動機付けが見られないこの小説を、本人自らノーベル賞作家アルベール・カミュの「異邦人」のアメリカ版に見立てたということだろうか。まさに語るも語ったりという感じだが、ある一時期、「彼らは廃馬を撃つ」がジョン・スタインベックやアーネスト・ヘミングウェー作品並みの知名度をフランスで誇っていたことは紛れもない事実である。
ところで、今回書いておきたいことは別にある。作者のホレス・マッコイは、あの「ハットフィールド家とマッコイ家の争い」で有名なマッコイ家と関係があるのだろうか、という点である。ハットフィールド家とマッコイ家は、それぞれ1878年から1891年まで、アメリカ合衆国のウェストバージニア州とケンタッキー州にタグ・フォーク川を隔てて住んでいた。どちらもタグ渓谷に最初に定住した先駆者一家で、製造業と密造酒の販売に携わっており、南北戦争では南部連邦支持のゲリラ活動に従事していた。つまり双方ともにきわめて気性が激しい家系だったのである。
1878年、1匹の豚の所有権をめぐる論争が起こった。フロイド・ハットフィールドが豚を所持していたのだが、ランドルフ・マッコイはその豚が自分のものだと異議を唱えた。つまりは、土地または財産の境界線や所有権をめぐる論争であったわけである。この事件は裁判沙汰にまで発展し、両家の親族にあたるビル・ステイトンの証言でマッコイ家が敗訴した。1880年6月、証言台に立ったステイトンはサム・マッコイとパリス・マッコイ兄弟によって殺害されてしまうが、マッコイ家の兄弟は後に正当防衛を理由に釈放された。
ロザンナ・マッコイがジョンシー・ハットフィールドと恋に落ち、ウェストバージニア州側にある対立するハットフィールド家で共に暮らすために家出したことから、さらに争いはエスカレートした。1880年から1891年の間、両家による殺し合いは延々と続き、事件はアメリカ合衆国最高裁判所までも巻き込んだ。最終的に首謀者たちがケンタッキー州で裁判にかけられ、全員有罪の判決が下された。1人が公開絞首刑に処され、かくして両家の争いには終止符が打たれた。アメリカ史上に残るこの抗争は、転じて対立する相手との激しい争いを表す隠喩表現にもなっている。その後の文学や映画にも多くの影響を与えた。
「彼らは廃馬を撃つ」のホレス・マッコイは1897年、テネシー州ペグラムに生まれている。1891年にハットフィールドとマッコイ両家の抗争が収束してわずか6年後だ。しかもテネシー州はマッコイ家の住んでいたケンタッキー州と隣接する下側の州である。「彼らは廃馬を撃つ」を書く前の1920年代、マッコイはパルプ雑誌に安手のミステリー小説を書きまくっていたことが知られているが、出自はほとんど明らかにされていない。根拠のない憶測に過ぎないが、もしもホレスがあのマッコイ家の流れを組むとすれば、廃馬も撃ったかもしれないけれども、豚の所有権をめぐって隣人たちも撃った一族の子孫ということになる。(こや)
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ホレス・マッコイをWIKI PEDEIAで調べる
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