忍者ブログ
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


2025/02/01 15:51 |
第82回 アルコール先生 没後40年の巻(チャールズ・チャップリン)文学に関するコラム・たまたま本の話

喜劇王チャールズ・チャップリンがこの世を去ったのは1977年。没後40年の節目に当たる今年、チャップリン関連本が日本でも続々と出版されている。新潮社は自社のロングセラー「チャップリン自伝」(原著1964年刊)の新訳を企画。チャップリンが自らの前半生を振り返る「若き日々」(2分冊の前編)が新潮文庫で刊行された(2017年4月)。中野好夫の定評ある名訳を引き継いだのは1955年生まれの翻訳家、中里京子。こんな一節がある。
「セネットはわたしを脇(わき)に呼んで、映画の制作手法を説明した。『シナリオなんてものはない――アイデアがひらめいたら、自然な出来事の流れに従うだけさ。追っかけが始まるまでね。それが我々のコメディーの本質なんだ』」
セネットとは映画監督でプロデューサーのマック・セネットのこと。キーストン映画社を率いて一躍、アメリカ映画界の寵児となった。間抜けな警官が登場し、右に左に追いかけっこをするサイレント喜劇「キーストン・コップス」シリーズを矢継ぎ早に制作した。イギリスのカーノー劇団の一員としてミュージックホールの舞台に出ていた演劇人チャップリンを見出したのは、このセネットである。1913年、契約を取り交わしてアメリカに渡ったチャップリンは、翌1914年にキーストンから映画俳優としてデビューする。記念すべき第1作は、ドタバタ喜劇「成功争い」であった。
チャップリンはセネットの手法を認めながらも、全て信頼していたわけではなかった。キーストン喜劇の「手法は目新しかったが、個人的に言って、追っかけは嫌いだった。それは俳優の個性を消し去ってしまう。映画についてはほとんど知らなかったものの、個性に勝るものがないことだけはわかっていた」「粗野なドタバタ喜劇のごちゃまぜにすぎないと感じた」と自伝で書いている。自分はイギリスの舞台で鍛えた演劇人で、キーストン流の十把一絡げの喜劇俳優とは違う――という矜持があったのだろう。
その矜持が実を結ぶ機会は、意外に早くやってきた。キーストン2作目(公開順は3作目)の「メイベルのおかしな災難」を撮影していたときのこと。日本チャップリン協会会長・大野裕之が、新著「チャップリン 作品とその生涯」(2017年4月、中公文庫刊)で書いている。「その歴史的な瞬間とは、1914年1月6日――雨の日の午後のことだった。チャップリンは、ホテルのロビーのセットの前にいた。セネットは葉巻をくわえたまま、『なんかここでギャグの欲しいところだな』と言って、チャップリンの方を振り向いて、『おい、なんでもいいから、なにか喜劇の扮装をしてこい』と言った。『とっさにそんな扮装など思いつくわけもなかった』が、『衣裳部屋に行く途中、わたしはふとだぶだぶのズボン、大きなドタ靴、それにステッキと山高帽という組み合わせを思いついた。だぶだぶのズボンにきつすぎるほどの上着、小さな帽子に大きすぎる靴という、とにかくすべてにチグハグな対照というのが狙いだった』。そして、セネットに若いと言われたことを思い出し、小さな口髭をつけた」
「放浪紳士チャーリー」が誕生した瞬間だった。従来のキーストン喜劇とは異なるこのキャラクターは、それゆえに現場の監督たちとしばしば衝突したが、ニューヨーク本社からの1通の電報で状況は一変した。電報には「チャップリン映画が大当たりしているから、至急もっと彼の作品をよこせ」とあった。「大衆は、それまで見たことのなかったチャーリーの個性に魅了され、彼は瞬く(またた)間にスター・コメディアンとなったのだ」と大野は書いている。
以来、半世紀以上にわたって、チャップリン喜劇は世界中を席巻する。その様子は、多くの研究書に詳しく書かれているから割愛する。今回、チャップリン没後40年に改めて思うことは、日本および日本人はごく初期のころから喜劇王チャップリンの最大の理解者だった――という事実である。大野の前掲書がそのことを教えてくれる。
「1914年2月2日に映画デビューを果たしたチャップリンは、早くもその5か月後には、日本で初めて雑誌に登場した。日本初の映画評論雑誌『キネマ・レコード』の、1914年7月号に、変(へん)凹(ぺこ)君(くん)と名付けられ」紹介されたという。このときはまだ新人だから、記事にチャップリンの名前はない。「だが、特異な扮装と滑稽な歩き方から『変凹君』と名付けられたことをみても、日本でもまずその個性的な演技が注目されたことが分かる」
さらに「デビュー2年目の1915年になると、ますます他のコメディアンとは違うチャップリンのユニークさが意識され始めた。大勢が入り乱れて追いかけっこをする従来のドタバタ喜劇に対して、チャップリンは個性をじっくり見せる特異な喜劇役者であることに観客は気づいたのだ。このあたりから日本でもチャップリン人気はうなぎ上りとなっていき、酔っぱらい演技の巧みさと独特の歩き方から『アルコール先生』というあだ名が定着した」。日本公開タイトルも「チャップリンの拳闘」「アルコール先生公園の巻」という調子になっていく。映画のチラシでは、チャップリン映画を「グニャグニャ喜劇」と呼ぶケースもあった。一度見たら忘れられない、よほど強烈な個性だったのだろう。
共通するのは「変凹君」も「アルコール先生」も「グニャグニャ」も、チャップリンの容貌や演技の独自性に対して与えられた呼称だということだ。つまり彼は、はなから追っかけ喜劇の一登場人物ではなかったのである。アルコール先生は、その個性を貫いたまま、「黄金狂時代」「サーカス」「街の灯」「モダン・タイムス」などの傑作を世に問い、世界の喜劇王として88年の生涯を閉じた。(こや)

チャールズ・チャップリンをWIKI PEDEIAで調べる

電子書籍「文学コラム・いいたま」を公開しました

海外文学作品についてのコラム「たまたま本の話」を掲載しています。
「たまたま本の話」はミニコミ紙「miniたま」に毎号掲載しているコラムです。
「miniたま」はインターネット古書店「ほんのたまご」とお客様を結ぶ架け橋として、
ご注文書籍とともにお送りしております。

にほんブログ村 本ブログ 海外文学へにほんブログ村  人気ブログランキングへ
ブログランキングに参加しています。
クリックしてご協力いただければ幸いです。
PR

2017/06/11 14:30 |
コラム「たまたま本の話」
第81回 「オリエント急行殺人事件」を新訳で(アガサ・クリスティー)文学に関するコラム・たまたま本の話

アガサ・クリスティーの代表作「オリエント急行殺人事件(原著1934年刊)」がこのたび新訳で出た(安原和見訳、2017年4月、光文社古典新訳文庫刊)。再読して、面白いことに気づいた。作品の内容に触れるので、ご注意を。
オリエント急行の車内で金持ちの老人ラチェットが殺される。ラチェットは偽名で、実は逃亡中の極悪非道の犯罪者であった。彼がアメリカのアームストロング大佐一家の愛児を誘拐し、殺害した事件は世間を震撼させた。ラチェットを殺したのは誰か?「オリエント急行殺人事件」は、列車に乗り合わせた乗客全員が犯人という奇抜なトリックで知られるが、名探偵エルキュール・ポアロが乗客たちを評する場面が終盤にある。
「ここに集まった人たちは興味深い、なぜなら多種多様だから――このように階級も国籍もさまざまだと、そういう趣旨の(知人)の言葉でした。わたしもそのとおりだと思いましたが、あとでこのときのことを思い出して、こんなに多種多様な人々が一堂に会する状況が、ほかにあるだろうかと想像してみたのです。それで得た答えはこうです――アメリカ以外にはない。アメリカなら、さまざまな国籍の人間がひとつ屋根の下に暮らすこともありえます。イタリア人の運転手、英国人の家庭教師、スウェーデン人の乳母、フランス人の子守などなど。(中略)つまり、アームストロング家という舞台で、だれにどの役を与えればいいか考えていったわけです。劇の演出家がやるように」(安原訳)
たとえ国籍や身分がバラバラでも、そうした人々が一堂に会することができるのがアメリカという国の特徴なのだ――とポアロは主張している。ボアロの主張はすなわちクリスティーの主張でもあろう。クリスティーはアメリカという国をどう思っていたのだろうか。
19世紀後半から20世紀前半にかけて、ヨーロッパからアメリカ大陸に移住する者の数は急速に進んだ。1870年代から第1次世界大戦までの約40年間で、ヨーロッパからの移民は約3000万人(うち2000万人がアメリカ合衆国。残りはカナダ、アルゼンチン、ブラジル、オセアニア)に達し、ピークを迎えた。アメリカ合衆国の帝国主義期を支えたのも、これらの移民であった。19世紀の移民はアイルランドや北欧が多かったが、20世紀に入ると南欧、東欧からの流れに重心が移った。それ以前の西欧、北欧系の移民を「旧移民」というのに対して、この南欧、東欧系移民は「新移民」といわれた。新移民はイタリア人などの南欧系、ポーランド人、ロシア人などの東欧系の人々、それにユダヤ人が多かった。まさに「オリエント急行殺人事件」的な状況が、アメリカという一国に到来していたのだ。
クリスティーが生きたのは19世紀末(1890年)から20世紀後半(1976年)のイギリスである。旧移民から新移民に主流が移る時期のアメリカには縁が薄いように思われるが、周知のようにクリスティーの父親はアメリカ人の実業家であった。行く道が開かれれば来る道も開かれる。ヨーロッパからアメリカに移住するのとは逆に、クリスティーの父親のような――成功したアメリカ人がヨーロッパに移住するというケースも、この時期どうやら多かったようなのである。
立教大学の磯崎京子は、論文「アガサ・クリスティーの見たアメリカ――伝記から探るアメリカ観の変容――」(2005年、立教大学「異文化コミュニケーション論集」vol.3所収)の中で興味深い指摘をしている。「19世紀末から20世紀初頭にかけては、成功したアメリカ人が憧れのヨーロッパに来ることが流行しており、一般のヨーロッパ人にとっては、ヨーロッパにいるアメリカ人というとすべてお金持ちという単純な図式、しかも好意的な図式が出来上がっていたのであろう。新興国アメリカからやって来る成功したアメリカ人を、自分達の弟分として寛容に受け入れるという、精神的なゆとりと自信が当時のヨーロッパ人にはあったのではなかろうか」
1931年、クリスティーはオリエント急行で中東への旅に出た。そのときに遭遇したエピソードが面白い。磯崎はクリスティーの伝記本から引用しているが、孫引きしておく。イスタンブール出発後、洪水で立ち往生したオリエント急行の車内には、各国の乗客が乗り合わせていたが、アメリカ人のミセスの言動が一番、印象に残ったという。「いかにもあの国の人らしく」とクリスティーは彼女のことを書いている。ミセスは「アメリカならすぐに対策を講じるのに、ここではどうして何も手を打たないのか」と言い、新しい列車がやってきて乗り移ったものの、食物や暖房がないのを知るや、泣き出してしまった。磯崎はこの部分から「1930年代のアメリカ上流婦人のもつ、アメリカの近代設備・機能性・機動力への信奉への揶揄」を読み取っている。
アメリカは第一次世界大戦に勝ったことで、覇権主義的な勢力を伸ばし始めた。「オリエント急行殺人事件」は、ちょうどそういう時代に書かれている。クリスティーが実際に遭遇したアメリカの上流婦人は「オリエント急行殺人事件」のおしゃべりなアメリカ婦人、ミセス・ハバードのモデルになったと推察される。作中のアームストロング愛児誘拐殺人事件は、明らかに1932年に起きたリンドバーグ愛児誘拐殺人事件を意識していよう。
アメリカはいつ何が起きてもおかしくない物騒な国になってしまった。かつてアメリカに抱いていたクリスティーの好意が、苛立ちに変わってきたのがこの時期なのではないか。ヨーロッパから見たアメリカ批判――それが「オリエント急行殺人事件」という小説に結実したと思われる。(こや)



オリエント急行をWIKI PEDEIAで調べる

にほんブログ村 本ブログ 海外文学へにほんブログ村  人気ブログランキングへ
ブログランキングに参加しています。
クリックしてご協力いただければ幸いです。

電子書籍「文学コラム・いいたま」を公開しました

海外文学作品についてのコラム「たまたま本の話」を掲載しています。
「たまたま本の話」はミニコミ紙「miniたま」に毎号掲載しているコラムです。
「miniたま」はインターネット古書店「ほんのたまご」とお客様を結ぶ架け橋として、
ご注文書籍とともにお送りしております。

2017/05/09 14:20 |
コラム「たまたま本の話」
第80回21世紀の私小説(岡田睦)文学に関するコラム・たまたま本の話

岡田睦(ぼく)という作家について、まずはプロフィールを紹介する。2017年3月に出た岡田の著作「明日なき身」(講談社文芸文庫刊)から引く。「岡田睦(1932・1・18~ )小説家。東京生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒。同人誌『作品・批評』の創刊に慶應の友人たちと携わる。1960年『夏休みの配当』で芥川賞候補。3度目の妻と離婚後、生活に困窮し生活保護を受けながら居所を転々とし、『群像』2010年3月号に『灯』を発表後、消息不明」。
消息不明――つまり今回の著作刊行に関しては、講談社側が著者本人と連絡を取ることができなかったことが理解できる。消息不明の作家の本を出すには、どういった手続きが必要か。著作権法第67条に「著作権者不明等の場合における著作物の利用」の項目がある。「公表された著作物又は相当期間にわたり公衆に提供され、若しくは提示されている事実が明らかである著作物は、著作権者の不明その他の理由により相当な努力を払つてもその著作権者と連絡することができない場合として政令で定める場合は、文化庁長官の裁定を受け、かつ、通常の使用料の額に相当するものとして文化庁長官が定める額の補償金を著作権者のために供託して、その裁定に係る利用方法により利用することができる」というものである。
「明日なき身」の親本――つまり単行本は2006年12月に講談社から出ている。当時、講談社はもちろん岡田と連絡が取れていた。2010年には短編の「灯」を自社の雑誌「群像」に掲載しているわけだから、当然その段階でも連絡は取れていただろう。その後、連絡が取れなくなった。2006年の単行本は「相当期間にわたり公衆に提供され、若しくは提示されている事実が明らかである著作物」に当たるだろうし、2010年の短編は「公表された著作物」に当たるだろう。これらをまとめて文芸文庫で出版したいと思った講談社が文化庁長官に裁定を諮り、岡田のための補償金を供託するという条件で、出版という「その裁定に係る利用方法」を申請した。そういう流れであったと推察される。
講談社は2017年2月1日に、著作権法第67条の2「裁定申請中の著作物の利用」第1項の規定に基づく申請を行い、同項の適用を受けて今回の刊行に踏み切ったという。それは、「前条(注・第67条)第一項の裁定(以下この条において単に「裁定」という。)の申請をした者は、当該申請に係る著作物の利用方法を勘案して文化庁長官が定める額の担保金を供託した場合には、裁定又は裁定をしない処分を受けるまでの間(裁定又は裁定をしない処分を受けるまでの間に著作権者と連絡をすることができるに至つたときは、当該連絡をすることができるに至つた時までの間)、当該申請に係る利用方法と同一の方法により、当該申請に係る著作物を利用することができる。ただし、当該著作物の著作者が当該著作物の出版その他の利用を廃絶しようとしていることが明らかであるときは、この限りでない」。
奔放に生きている私小説作家の著作が、奔放さから一番遠くにあるかのような著作権法に左右されるというのも皮肉な話だが、要するに次のようなことだと思う。作者・岡田と何らかの連絡が取れるか、出版停止の裁定が出るまで、講談社は自社の文芸文庫版においてのみ「明日なき身」の刊行を許される。岡田と連絡が取れたときは、本人が嫌だと言えば別だが、承諾が得られればそのまま出版を続けられる。書店で見かけるか、文庫化の話を伝え聞いた岡田本人からぜひ連絡をしてきてほしい――講談社の担当編集者のそんな思惑も込められていようか。
以上のような経緯で刊行に至った同書には、前述の2006年12月に講談社から出た「明日なき身」所収の4編(「ムスカリ」「ぼくの日常」「明日なき身」「火」)と、2010年3月に雑誌発表された現状の最新作「灯」が収められている。「ムスカリ」の主人公はセイホ――生活保護を受けている。「毎月、5日が“セイホ”の支給日。2、3日前になると、きまって金がなくなる。コインだけになり、セブン-イレブンのむすび、最低1個100円のを、1日ひとつ喰うことになる。それも買えなくなって、何も喰わずひたすら5日を待つときもある。原稿は遅々として捗るが、その間原稿料がはいるわけではない」と、生活の窮状が綴られている。5編すべてが。
さすがに大正や昭和の時代に書かれた、借金取りに追われて夜逃げをする私小説とは違うが、おむすび1つ買えなくなる平成の私小説も、悲惨さでは負けていない。あるいは岡田ほど極端でなくとも、本が売れない、生活が窮状に陥っているという作家は増えてきているのではないか。
しかし小説から目を上げて考えてみると、同じような話を別の本で読んだことを思い出した。「お金がなくて、病院に行くことをガマンしている」「年金暮らしなので、食事は1日1回。1食100円で切り詰めている」。テレビのドキュメンタリー番組「NHKスペシャル」取材班がまとめた「老後破産 長寿という悪夢」(2015年7月、新潮社刊)にそうある。
この本に登場する高齢者たちは、決して自由奔放に生きてきた私小説作家ではない。定年までサラリーマンとして仕事をしてきた人もいれば、職人や商店経営者として人生を送ってきた人もいる。正直に誠実に生きてきた普通の市民が、いま老後破産に陥っている。年金や生活保護を受給していても生活破綻が避けられない。それが21世紀の日本社会の現実なのである。
社会の私小説化と呼ぶべきか、私小説の社会化と呼ぶべきか。気がつけば、まさしく岡田文学の世界が身の回りに満ち満ちている。そんな時代になってしまった。(こや)

岡田睦をWIKI PEDEIAで調べる

にほんブログ村 本ブログ 海外文学へにほんブログ村  人気ブログランキングへ
ブログランキングに参加しています。
クリックしてご協力いただければ幸いです。

電子書籍「文学コラム・いいたま」を公開しました

海外文学作品についてのコラム「たまたま本の話」を掲載しています。
「たまたま本の話」はミニコミ紙「miniたま」に毎号掲載しているコラムです。
「miniたま」はインターネット古書店「ほんのたまご」とお客様を結ぶ架け橋として、
ご注文書籍とともにお送りしております。

2017/04/06 15:11 |
コラム「たまたま本の話」
第79回闇の奥に見えるもの(ジョゼフ・コンラッド)文学に関するコラム・たまたま本の話

作品が雑誌に発表された1899年は、まだ19世紀だった。いつの頃からか「20世紀最大の問題作」と呼ばれるようになった。ジョゼフ・コンラッド(1857~1924)の代表作「闇の奥」(原題:HEART OF DARKNESS)である。それを含む短編集「青春、その他2編の物語」がまとめられたのは1902年。すでに20世紀に入っていた。
日本では4つの翻訳が出ている。中野好夫訳(岩波文庫刊、1958年)、岩清水由美子訳(近代文藝社刊、2001年)、藤永茂訳(三交社刊、2006年)、そして最新版が黒原敏行訳(光文社古典新訳文庫刊、2009年9月)。「闇の奥」といえば長らく中野訳だけだった。21世紀に入ってから立て続けに新訳が刊行されるようになった。著作権が失効したからかもしれないが、発表後1世紀が経過して、ようやく「闇の奥」の本格的な研究が進んできた感がある。それだけ難物だったのである。以下、作品の内容に触れるので未読の方はご注意を。引用は最新の黒原訳による。
ある日の夕暮れ、船乗りのマーロウが、船上で仲間たちに自分の体験を語り始める。若きマーロウは各国を回った後、フランスの貿易会社に入社し、アフリカの出張所に着任した。そこでは、黒人が象牙を持ち込んで来ると、木綿屑やガラス玉などと交換していた。ここで奥地にいるクルツ(Kurtz、英語読みではカーツ)という代理人の噂を耳にする。クルツは、奥地から大量の象牙を送ってくる優秀な人物だった。マーロウは、到着した隊商とともに中央出張所まで行くが、そこの支配人から、上流にいるクルツが病気らしいと聞く。クルツは、象牙を乗せて奥地から中央出張所へ向かって来たが、荷物を助手に任せ、途中から1人だけ船で奥地に戻ってしまったという。マーロウは、本部の指示に背いて1人で奥地へ向かう孤独な白人の姿が目に浮かび、興味を抱いた。
マーロウは支配人、使用人4人、現地の船員とともにコンゴ川を遡行していった。クルツの居場所に近づいたとき、突然、矢が雨のように降り注いできた。銃で応戦していた舵手に向かって長い槍が飛んできて、腹を刺された舵手は死んだ。奥地の出張所に着くと、クルツの崇拝者である青年がいた。青年から、クルツが現地人から神のように慕われていたこと、手下を引き連れて象牙を略奪していたことなどを聞き出した。一行は、病気のクルツを担架で運び出し、船に乗せた。やがてクルツは、“The horror! The horror!”という言葉を残して息絶えた。この最期の言葉を、かつて中野は「地獄だ! 地獄だ!」と訳した。黒川訳では「怖ろしい! 怖ろしい!」とより直接的になっている。この言葉が「闇の奥」の核心であろう。物語は、クルツの婚約者にマーロウが遺品を届けに行くところで終わる。
さて――「闇の奥」を語るとなれば、どうしても映画「地獄の黙示録」について触れないわけにはいかない。監督のフランシス・コッポラが映画を作るに当たって、下敷きにしたのがコンラッドの「闇の奥」だということはよく知られている。コッポラは19世紀のコンゴの物語を、20世紀のベトナム戦争の世界に換骨奪胎した。立花隆が書いた名著「解読『地獄の黙示録』」(2002年3月、文藝春秋刊)を参考に、映画と小説とを比較してみよう。
コンラッドが小説で描いた槍で刺し殺される舵手や、クルツの崇拝者である青年といった存在は、コッポラの映画にも同じように登場する。立花が字幕スーパーの和訳にこだわる“unsound”という言葉があるが、これも出てくる。映画ではカーツ大佐殺害をウィラード大尉に命じた将校が「カーツは方法が不健全(unsound)だ」と語る。小説では支配人がマーロウにこう語る――「状況は危ういようだ――なぜこんなことになったかわかるかね。(クルツの)方法が不健全(unsound)だからだ」。そして“The horror! The horror!”は、映画でも小説でもカーツとクルツの最期の言葉として出てくる。
今回「闇の奥」を読み返してみて、むしろ「地獄の黙示録」との違いのほうが目についた。映画ではカーツを倒したウィラードはそのまま去っていくが、小説ではマーロウがクルツの婚約者に遺品を届けに行く。そのときマーロウは、彼女に向かってこんなことを言うのだ。「彼が最期に口にした言葉は――あなたのお名前でした」。
これは明らかに嘘である。クルツは「怖ろしい! 怖ろしい!」と口にして息を引き取ったのだから。しかし、それを聞いた彼女の反応のほうがはるかに異様で「怖ろしい」。マーロウはこう描写している――「小さな溜息が聴こえたと思うと、怖ろしいような響きの歓喜の声が、想像もできない勝利感と言いようのない苦悩の交じった声がほとばしって、俺(マーロウ)の心臓は止まりそうになった。『私にはわかっていました――きっとそうだと思っていました』」。
「闇の奥」のタイトルはアフリカ奥地の闇から来ている。文明と隔絶された未開の世界の怖ろしさを示しているが、真に怖ろしいのは西欧文明の闇ではないか。小説が発表された1999年当時、コンゴ川一帯はベルギー国王レオポルド2世の「私有地」だったという。コンゴ自由国と呼ばれ、1885年から1908年まで支配が続いた。現地民は象牙やゴムの採集を強制され、規定の量に到達できないと手足を切断する――などの刑罰が情け容赦なく科された。
西欧人クルツが現地民に対して行った残虐行為が、現実のものとしてそこにあったのである。そのクルツが最期に自分の名前を口にしたと喜ぶ婚約者も西欧文明の闇を抱えている――コンラッドはそう訴えている。(こや)



ジョゼフ・コンラッドをWIKI PEDEIAで調べる

にほんブログ村 本ブログ 海外文学へにほんブログ村  人気ブログランキングへ
ブログランキングに参加しています。
クリックしてご協力いただければ幸いです。

電子書籍「文学コラム・いいたま」を公開しました

海外文学作品についてのコラム「たまたま本の話」を掲載しています。
「たまたま本の話」はミニコミ紙「miniたま」に毎号掲載しているコラムです。
「miniたま」はインターネット古書店「ほんのたまご」とお客様を結ぶ架け橋として、
ご注文書籍とともにお送りしております。

2017/03/04 14:11 |
コラム「たまたま本の話」
第78回サラリーマン作家ここにあり(フランツ・カフカ)文学に関するコラム・たまたま本の話
唐突だがクイズを1つ。次の論文の筆者は誰か?
「建築業界及び建築関連事業における社会保険の状況」(1909年)
「自動車個人所有者における保険の現況」(1910年)
「製材用電動鉋の傷害防止策」(1910年)
ちょっとお堅いタイトルが並んでいる。これらはいずれも「ボヘミア王国労働者傷害保険協会プラハ局」の年報に掲載されたもの。同局のとある職員(第2書記官)が書いた。最初の2編は無署名、最後の1編には署名がある。誰か分からない? では次の作品の筆者は?――「判決」「変身」「審判」「城」「アメリカ」。いうまでもなくフランツ・カフカ(1883~1924年)である。
実は先の3つの論文の執筆者もカフカ。第2書記官としての仕事の一端だった。保険協会の職員カフカはとても有能だったのである。ドイツ文学者の池内紀は、カフカについてこんなことを書いている――「就職したときは『書記見習い』の肩書だった。すぐに正式の書記官になった。5年目で、わが国でいう係長になり、12年目に課長、14年目に部長に昇進。そんな経歴からもわかるとおり、有能な職員だった」「1919年にハプスブルク体制が崩壊してチェコ共和国が誕生したとき、オーストリア人幹部はいっせいに追い出されたが、カフカ課長は職にとどまった。欠くべからざる人だったからだろう。さらに部長に昇進する。能力とともに人柄を愛されていた」(引用はともに「となりのカフカ」池内紀著、2004年8月、光文社新書刊より)。
サラリーマンとしてのカフカについて、池内の著作を参考に少しおさらいしておく。彼の保険協会での勤務時間は、8時から14時までだった。これは当時のオーストリア帝国の官僚制がとっていた勤務システムで、シフトは早番と遅番に分かれていた。カフカは早番を希望した。朝が早く、昼休みはない。ぶっ続けに勤務するが、そのかわり午後早く終わるので、もう1つ仕事を兼業できる。
だから当時の役人たちは、ほかに内職や時間給の仕事を持っていたという。カフカの上司や同僚にも、ドクターの肩書を持つ者や、アマチュア歌人もいれば蝶の収集家もいた。「安い俸給の代償に考え出された制度だろう」と池内は結んでいる。公務員の兼業にうるさい現在の日本では、想像もつかない制度である。カフカの場合、勤め始めてしばらくは、仕事が引けてから父親の経営する「ヘルマン・カフカ商会」を手伝っていた。その手伝いを終えてから、夜中に小説やエッセイを書いていたのである。
カフカはこの保険協会に1908年から1922年まで勤めた。出世してからも、ずっと早番を通したという。創作の執筆の時間を確保するためであった。体調を崩さなければ、まだまだ勤めていたことだろう。1917年に吐血してからは療養生活を繰り返すことになり、しばらく休んでは職場に復帰し、仕事と執筆を並行するという日々が退職するまで続いた。
1916年、ずっと付き合っていた恋人のフェリーツェ・バウアーに、自作の短編が掲載された雑誌を送っている。同時に、自分が仕事でまとめた論文「1914年度保険支給業務報告」や「砕石機械における傷害防止策」が載っている保険協会の年報も送ったという。池内も指摘していたことだが、これはとても興味深い。文学者カフカは生涯、保険協会のサラリーマンとしての自分にも誇りを持ち続けた。だからカフカを論じる場合、文学者としての側面だけとらえていては本質を見誤ることになる。
代表作「変身」の冒頭を思い出してほしい。池内による新訳(2006年3月、白水uブックス刊)によれば――「ある朝、グレーゴル・ザムザが不安な夢から目を覚ましたところ、ベッドのなかで、自分が途方もない虫に変わっているのに気がついた」。衝撃的な出だしだが、読者ほど主人公は驚かない。自分の変身よりも、むしろ4時に鳴るはずの目覚まし時計が鳴らずに6時半になっていたことに驚き、セールスマンとしての出張の大変さについて嘆いたりする。そのことを池内は「となりのカフカ」の中でこう解説する――「ショッキングな出だしのせいで、カフカの『変身』は虫になった男の物語と思われがちだが、その変身自体は最初の1行で終わっている。むしろ主人公が日常からズレ落ちたとたんにはじまる、べつの変身が問題だ。時間の変身、家族の変身、親子や血のつながりの変身。すべてがみるまに変わっていく」。まさに慧眼であろう。
言うなれば「変身」という小説は、主人公だけでなく周囲が変身する物語なのではないか。カフカは19世紀末の1883年にチェコのプラハで生まれている。世紀が切り替わる激変期に少年時代を過ごし、20世紀になってからはサラリーマン兼業作家として生きた。毎日を保険協会の仕事に明け暮れ、交友関係も書類を扱う役人や工場経営者や経理係が多かったはずだ。その生活がいかにこれまでの作家とかけ離れていたかは、19世紀の文豪たちの名前をここで出さずとも明らかだろう。
つまりカフカは作家であると同時に、20世紀になって誕生した産業社会によって管理されているサラリーマンでもあったということである。サラリーマンのザムザは目覚まし時計が鳴れば起きられたが、作家の(つまり虫に変身した)彼は起きられない。一家を支えるサラリーマンには優しかった家族も、作家には攻撃的になる。ザムザの変身を通じて、20世紀になって新しくなった社会と作家の引き裂かれた関係が露呈する。「変身」はまぎれもなく20世紀の小説なのである。(こや)

池内紀をWIKI PEDEIAで調べる

にほんブログ村 本ブログ 海外文学へにほんブログ村  人気ブログランキングへ
ブログランキングに参加しています。
クリックしてご協力いただければ幸いです。

電子書籍「文学コラム・いいたま」を公開しました

海外文学作品についてのコラム「たまたま本の話」を掲載しています。
「たまたま本の話」はミニコミ紙「miniたま」に毎号掲載しているコラムです。
「miniたま」はインターネット古書店「ほんのたまご」とお客様を結ぶ架け橋として、
ご注文書籍とともにお送りしております。

2017/02/06 15:29 |
コラム「たまたま本の話」

<<前のページ | HOME | 次のページ>>
忍者ブログ[PR]