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2025/02/01 19:03 |
第77回 「女か虎か」VS「女と虎と」(フランク・リチャード・ストックトン、ジャック・モフィット)文学に関するコラム・たまたま本の話
リドル・ストーリーというジャンルがある。直訳すると「謎物語」。物語の結末が作者によって明示されず、読者の想像に任せられる小説である。代表作とされるのは「女か虎か」(The Lady,or the Tiger?)であろう。作者のフランク・リチャード・ストックトンは、1834年にペンシルバニア州フィラデルフィアに生まれ、1902年に没した19世紀アメリカの作家。1880~90年代に活躍した(一時、彫刻技師でもあったらしい)。ユーモア小説を書き、怪奇小説も書き、冒険小説も書いたが、児童文学の著作が多い。
「女か虎か」は1882年に書かれている。もともとこの作品は「王の闘技場」(In the King's Arena)という題で、文学者のパーティ-における余興用の題材としてストックトンが用意したものだった。それがたいそう好評だったために、雑誌用(掲載誌は大衆向け雑誌「Century」)に書き直され、編集者によってタイトルが現在のものに付け替えられた。あまりにも有名な話だが、ウィキペディアを参考にしてストーリーを要約しておく。以下、未読の方はご注意を。
遠い昔のある国の話。身分の低い若者が王女と恋をした。それを怒った国王は、その国独自の処刑方法で若者を罰することにした。その方法とは公開闘技場に若者を連れ出し、2つの扉の1つを選ばせることである。1つの扉の向こうには餓えた虎がおり、彼が扉を開けばたちまちのうちに虎にむさぼり食われてしまう。もう1つの扉の向こうには美女がおり、そちらの扉を開けば罪は許されて彼女と結婚することが出来る。国王の考えを知った王女は、死に物狂いで2つの扉のどちらが女でどちらが虎かを探り出した。
しかし王女はそこで悩むことになった。恋人が虎に食われてしまうことには耐えられない。さりとて自分よりも美しくたおやかな女性が彼の元に寄り添うのもまた耐えられない。父に似た、誇り高く激しい感情の持ち主の王女は悩んだ末、若者に右の扉を指差して教える。若者は王女が示した扉を開く。中から出てきたのは、果たして――女か虎か?
ここで物語は終わる。王女がどちらを選んだのかは書かれていない。この小説は読者の好奇心を大いに刺激した。ストックトンは「正解」を求める人々に悩まされることになった。そこで彼は続編として「三日月刀の督励官」を書いた。が、後日談として書かれたこちらの話も、最後は「別の国の王子が選んだのは微笑んだ女か、それともしかめ面をした女か」で終わる人を食ったリドル・ストーリーになっている。ストックトンは生涯、扉から出てきたのが女だったか虎だったかの真相を明かさなかったという。
結局、明快な解答は存在していない。そのため後年の作家たちによって様々な説が唱えられたが、中でもジャック・モフィットの書いた小説「女と虎と」(1948年、The Lady and the Tiger?)は、もっともスマートな解答であるとされる。取り上げてみたい(引用は紀田順一郎編「謎の物語」2012年2月、ちくま文庫刊より。仁賀克雄訳)。
モフィットによれば、ストックトンの物語の王とはヘロデ・アンティパスだという。「ローマ総督ポンティウス・ピラトの監督下でユダヤを支配していた彼は、父親が作ったローマの闘技場に似た闘技場を持つ、唯一の東方君主であり、彼もまた娘――正確にいえば継娘――を持ち、彼女に常識を超えた過度の愛情を抱いていた」。そしてこの娘が王女サロメだったというのである。
その前提でモフィットは「女か虎か」の結末をこう読む。若者が明けた扉には虎が入っていた。虎を見るやいなや若者は退き、電光石火のごとくもう一方の扉も開けてしまう。そして自分は2つの扉の間の閉じられた楔形の小空間に入り込み、両腕で大きな樫扉を盾にして身を守った。闘技場には扉から出てきた虎と女が残された。そのあとどうなったかは、いうまでもない――と。
ストックトンの「女か虎か」の問いかけが、結局のところ女心による決断がどちらだったかの問題だとすれば、モフィットの見解は王女そのものにエキセントリックな一面があったのだという話になる。聖書によれば、サロメはヘロデ・アンティパスに、祝宴での舞踏の褒美として「好きなものを求めよ」と言われ、「洗礼者ヨハネの斬首」を求めたほど気性の荒い女である。実は若者をめぐって王女サロメと犠牲になった女は三角関係の間柄にあった。処刑の日の前日、サロメは女には「虎でなくお前を選ばせる」と伝えたが、実際には虎を選ばせたのである。虎を選ばせたから、女を選ばせる選択肢が消えたかといえば、そうではない。若者は結果的に「女と虎と」両方を選ばされたことになる。
さらに問題は、とっさの機転で命拾いした若者である。ストックトンの作品では若者の人物像がほとんど描き込まれていなかった。モフィットはこの若者に、王女サロメと若い女の間を渡り歩きながら権謀術数を張り巡らせ、サロメと結婚して国家を手中に収めようとする野心家の役割を与えている。結局、虎からは逃れられた彼だが、危険人物と見なされて死刑に処されてしまう。それにしても、シンプルな寓話である「女か虎か」の問題提起をここまでふくらませた作者モフィットの力量は大したものである。
ジャック・モフィット(1901~69年)の本業は、前述の「謎の物語」の改題によれば、ハリウッドの脚本家。ケーリー・グラント主演の「夜も昼も」などで知られているが、とくにミステリー映画と関係が深いというわけでもないらしい。名作の続編を考えるのが得意だったようで、ほかにアンリ・ルネ・アルベール・ギ・ド・モーパッサンの「首飾り」の続編なども手掛けているという。(こや)

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2017/01/01 13:14 |
コラム「たまたま本の話」
第76回「尊い神聖な血」の物語(モーリツ・ジグモンド)文学に関するコラム・たまたま本の話
モーリツ・ジグモンドと聞いて思い当たる読者は、相当なヨーロッパ文学通であろう。インターネットで引くと、おおむねこう紹介されている。
「1879-1942、ハンガリーの作家。神学や法学を学び、新聞記者となるが、父の仕事の失敗で窮乏生活を送った体験をつづった短編『七クロイツァー』(1908年)で一躍文壇に認められ、作家生活に入る。その後『泥金』(1910年)や『神の背後で』(1911年)などで、自然主義からリアリズム作家に脱皮する。各地を取材し、農村や地方町の支配層の退廃した生活、貧しい農民の姿をリアルに描き、社会派の作家として人気を博す。ハンガリー近代散文学の祖で、ハンガリー・リアリズムの創始者である。他の作品に『ウリ・ムリ』(1928年)、『幸せな人』(1935年)など」
そのモーリツの出世作「七クロイツァー」は、ずいぶん以前から邦訳されていて、最近では傑作短編アンソロジー「青ひげ公の城―ハンガリー短編集―」(バラージュ・ベーラ他、徳永康元編訳、1998年、恒文社刊)に収録されている。短い作品だが、一読して余韻を残す。内容に触れるので未読の方はご注意を。
タイトルにあるクロイツァー(Kreuzer)は、オーストリア、ドイツ、チェコ、ポーランド、ハンガリー、ルーマニア、スイスなどで19世紀後半まで使用された通貨の単位である。一般に額面の低い単位なので、コインは銅貨または低品位の銀貨で製造された。
母親と子供の頃の私が、午後の洗濯に使う洗剤を買うために、7枚のクロイツァー銅貨を探し回ることになる。3枚はミシンの引き出し、1枚は戸棚の中で見つかった。残る3枚がなかなか見つからない。かくれんぼの子供を捜すようなユーモラスな描写で銅貨探しの物語は進み、5枚目が掛けてある父の服のポケットから見つかり、6枚目が母自身の着ている服のポケットから見つかった。
残るは1枚、しかし辺りが暗くなってもこれが見つからない。そこに乞食が物乞いに来る。洗剤を買うにも1クロイツァー足りない貧乏暮らしで、恵んでやれないと母が言うと、何と乞食が1枚のクロイツァーを逆に施して去っていく。ついに7クロイツァーそろった。洗剤は買えるが、しかしすでに夜になっていて、洗濯をするために家を照らすランプの油が買えないのだった。切ない話だが、さらに切ないのは結末で、ことの次第に大笑いしていた母が急に咳き込み、吐血する。その「尊い神聖な血」を見ながら、私は他の貧しい誰にもまして、心から笑うことのできた母を誇りに思う――。
リアリズムというよりも、宗教観に満ちあふれた傑作であろう。乞食がくれた1枚の銅貨は実はキリストからの贈り物であり、母が吐いた血は磔刑に処されたキリストが流した聖なる血にも匹敵するのではないか。そんなことを思わせる物語になっている。
そこで思い出すのは、作者のモーリツ・ジグモンドが、晩年の1940年に「みなし子」という中編小説を書いていることだ。後期の代表作とされ、36年後の1976年にハンガリーで映画化されている。ラースロー・ラノーディ監督の傑作「だれのものでもないチェレ」である。VHSが長いこと廃盤になっていて、2015年10月にようやくDVD化された。ちなみに日本での劇場初公開は1979年3月、東京・神保町の岩波ホールであった。
さっそくDVDで何10年かぶりに見直してみたが、やはり素晴らしい映画だと感心した。それとともに、主人公のみなし子、チェレが劇中で歌うこんな歌が妙に気になった。
「星の露を運ぶ黒い凧/僕の恋する黒い瞳の少女/リピチョンベ ラパチョンバ/今日は荷車に乗っておいで/リピチョンベ ラパチョンバ/今日は荷車に乗っておいで」
――おおむねこんな歌詞で、まだ見ぬ母に森で教わったという。チェレは優しくしてくれたおじいさんの前で快活に歌って踊る。調べてみたが歌詞の意味は分からない。しかしチェレの歌い方とは裏腹に、決して明るい歌ではないだろうと感じられる。
ずっと後だが、チェレが家を追い出されて並木道を歩いていると、行き倒れなのか自殺なのか、女性の死体を憲兵が片付けているところに出くわすシーンがあるからである。憲兵はチェレに「あっちへ行け」と言い、枯れたトウモロコシの木を山のように積み上げた馬車に、女の死体を乗せて運んでいく。つまり歌詞にある「今日は荷車に乗って」やって来るのは、まぎれもなく「死」なのである。
映画には、磔刑に処されたキリストを抱くマリア像も出てくる。おじいさんとチェレが教会に礼拝に行くシーンだ。キリストは「尊い神聖な血」を流している。そしてラスト近くのクリスマスの日。豚が喉をかき切られ、殺された後で血を抜かれ(またしても「尊い神聖な血」が流される)丸焼きにされて、食卓に供される。村人たちが集まって晩餐となるが、チェレは何も食べることを許されない。結局、みなし子チェレは引き取られたどこの家でも幸せがつかめずに、クリスマスの夜に一人、牛小屋で炎に巻かれて死んでいく。どこかにいるはずの母に「キリストに私へのプレゼントをくれるように伝えて」と祈りながら。
この映画を見ていると、まだ見ぬ母とチェレの運命が、「七クロイツァー」の私と母の運命にオーバーラップする。両作で母と子の立場は入れ替わっているが、その下敷きにあるのは聖母マリアとキリストの姿なのだろう。過酷な運命をたどるチェレや吐血する母の姿はとても悲惨だ。しかしキリストは死してのち復活する。われわれはそこに救いを求めたいと思う。(こや)


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2016/12/10 15:05 |
コラム「たまたま本の話」
第75回 再びノーベルの風に吹かれて(ボブ・ディラン)文学に関するコラム・たまたま本の話

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10月28日、米国の歌手ボブ・ディランが本年度のノーベル文学賞を受けることを表明した。同13日の受賞決定後、ずっと沈黙を守り続けてきたが、ようやく本人が受諾の意向を明らかにした。10月20日までの経緯は「たまたま本の話」特別編で書いたので、今回はその補遺と、続報を。
まずは補遺から。特別編で「ディランの文学賞と平和賞のダブル受賞」の可能性について言及した。ディランのこれまでの音楽活動は、むしろ平和賞こそふさわしい。しかし1回、取るのだって難しいノーベル賞の複数受賞――そんなことが果たしてあり得るのか。その点の補足をしたい。
実はこれまでに6例あるのである。最多は3回。赤十字国際委員会(スイス)が1917年、1944年、1963年に平和賞を受賞している。理由は「平和と人道支援活動への取り組み」。平和賞だけは団体の受賞が許されていて、優れた活動であれば、多国籍団体であろうが賞を受けられる。そのことを象徴するように、一国に属さない国連難民高等弁務官事務所が平和賞を2回、受賞している。1954年と1981年、理由は「難民の保護と支援の取り組み」である。
しかし興味深いのは、個人で2回受賞した例であろう。4人いる。マリ・キュリー(フランス)が1903年に「放射能の研究」で物理学賞を、1911年に「ラジウムおよびポロニウムの発見」で化学賞を受賞している。ライナス・カール・ポーリング(アメリカ)は1954年に「化学結合の本性ならびに複雑な分子の構造研究」で化学賞を、1962年に「核兵器に対する反対運動」で平和賞を受けている。ジョン・バーディーン(アメリカ)は1956年に「半導体の研究およびトランジスタ効果の発見」、1972年に「超伝導現象の理論的解明」で共に物理学賞を受賞。フレデリック・サンガー(イギリス)は1958年に「インスリンの構造研究」、1980年に「核酸の塩基配列の解明」で共に化学賞を受けている。
ノーベル賞創設初期に特有の例かと思ったら、1970~80年代にも複数受賞が見られるのだ。物理学賞や化学賞を2回というのは、前回以上に優れた業績を上げれば当然であろう。キュリーの物理学賞と化学賞も、自然科学3賞の範疇に入るから納得できる。特筆すべきは、ポーリングのように本来は量子化学者、生化学者でありながら、後年の反核運動が認められて平和賞を授与された例である。日本でも、「死線を越えて」などの文学作品を書いたキリスト教思想家で社会運動家の賀川豊彦が、共に受賞は逸したが1947~48年に文学賞の、1954~56年の3年連続で平和賞の候補に挙げられていたことがある。今年のダブル受賞はなかったが、ディランが今後、平和賞を授与されて何か不都合があるだろうか。しかしスウェーデンやノルウェーの思惑と、ディランのそれとはまた別である。
ここからは文学賞受賞の続報になるが、ディランには、あるいは受賞辞退かという見方も出ていた。何しろ17日にはディランの公式ウェブサイトから「ノーベル文学賞受賞」の表記がなぜか削除されたし、スウェーデン・アカデミーも本人への直接連絡を断念した。沈黙を続けるディランに対して、「選考委員の一人であるアカデミーのペール・ウェストベリ氏は21日、地元公共テレビで『無礼で傲慢だ。こんなことは前例がない』と不快感を示した」(読売新聞10月23日付首都圏版朝刊より)という。
このウェストベリは選考委員の中でも重鎮的存在で、2012年3月には「安部公房は1993年に急死しなければ文学賞を受賞していたでしょう。非常に、非常に近かった」と、読売新聞のインタビューでペロッとしゃべってしまった人物である(候補者については50年間、秘匿されるのが原則)。重鎮がここまではっきり「傲慢だ」と言い切るのだから、それがアカデミーの総意を代弁していることは間違いない。選考委員たちのほとんどは、ディランから「受諾」か「辞退」か、いずれの連絡もないことに苛立っていたのである。
それから数日後の28日、ディランはアカデミーに自ら電話を入れた。その様子は各メディアで伝えられた通り、それまでの沈黙が嘘のような受賞歓迎の言葉であったという。読売新聞30日付首都圏版朝刊によれば、こんな具合だ。長いが引用する。
「発表によると、ディランさんはこの週、文学賞を選考したスウェーデン・アカデミーに電話し、『賞を受け入れるかって? もちろん。大変光栄だ』と答え、『受賞のニュースで言葉を失ってしまった』と説明した。アカデミーは、ディランさんが授賞式に出席するかどうかについては『まだ決まっていない』としている。ただ、ディランさんは英紙デイリー・テレグラフ(電子版)に対するインタビューで『もちろん。可能なら』と出席の意向を示唆した」
音楽と言葉で仕事をしているシンガーソングライターが「言葉を失ってしまった」とは驚くが、さらに驚くのは記事のそれに続く部分である――「アカデミーは今月13日に今年の文学賞を発表したが、ディランさんは約2週間にわたって沈黙を続け、直接の連絡をとることもできなかった。ディランさんは同紙が理由を尋ねたところ『私はここにいるよ』とだけ語ったという」。
「私はここにいるよ」は質問の回答になっていない。彼は2週間の間、コンサート会場にもいたし自宅にもいただろう。どうするのか、アカデミーに連絡を取れなかったはずはない。おそらくディランは辞退するつもりだった。周囲の説得もあり、受諾することになったのだと思う。ここには2週間にわたる「文学者ならではの葛藤」が読み取れるのではないか。(こや)


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2016/11/06 16:01 |
コラム「たまたま本の話」
特別編・ノーベルの風に吹かれて――ボブ・ディランの文学賞受賞に思うこと(ボブ・ディラン)文学に関するコラム・たまたま本の話
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2016年のノーベル文学賞が10月13日、ボブ・ディランに与えられた。音楽家の受賞は初めてで、この受賞をめぐって世界中で驚きの声が噴出しているという。フランスのAFP通信(時事通信特約)は「文壇には『衝撃が走った』と言っても、まだ控えめな表現になるだろう」と、次のように報じた。
「ディラン氏の受賞は、戦慄(せんりつ)や当惑、歓喜といったさまざまな反応で迎えられた」「フランスの小説家、ピエール・アスリーヌ氏はAFPに対し、『ディラン氏の名はここ数年頻繁に取り沙汰されてはいたが、私たちは冗談だと思っていた』と語り、選考委員会に対する憤りをあらわにした。『今回の決定は、作家を侮辱するようなものだ。私もディランは好きだ。だが(文学)作品はどこにある? スウェーデン・アカデミーは自分たちに恥をかかせたと思う』」。このほか、スコットランドの小説家、アービン・ウェルシュも厳しい批判も寄せている――と記事は書いている。

●常に賛否両論が巻き起こる賞

ノーベル賞、とくに自然科学3賞を除く文学賞、平和賞、そして1968年に創設された経済学賞(正式にはアルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞)の受賞者については、常に賛否両論が巻き起こる。今回もシリアの詩人アドニス、ケニアの小説家・批評家のグギ・ワ・ジオンゴ、ディランと同じアメリカの文豪3人――フィリップ・ロス、ジョイス・キャロル・オーツ、ドン・デリーロ、そして日本の村上春樹らが文学賞候補に上がっていたとされている。彼らをさて置いて音楽家にノーベル賞が行くのは納得できない、否定派の主張はそういったものだ。
実は、非文学者のノーベル文学賞受賞は過去にも何例かある。1902年のテオドール・モムゼンは「ローマ史」を書いたドイツの歴史家。1908年のルドルフ・クリストフ・オイケンはドイツの哲学者。1927年のアンリ・ベルクソンは名著「笑い」を著したフランスの哲学者。1950年のバートランド・ラッセルは「教育論」などで知られるイギリスの哲学者である。1953年にイギリス首相のウィンストン・チャーチル(「第二次世界大戦回顧録」を書き、その文才を評価された)にノーベル文学賞が授与されるに及んで、さすがに物議を醸すことになり、それ以降は小説家、詩人、劇作家に対象を限定しようということになった。
ちなみに1964年のジャン・ポール・サルトル(受賞辞退)も「存在と無」などの著作も多い哲学者だが、同時に「嘔吐」を始め20世紀文学の傑作を物している。記憶に新しい昨2015年の受賞者は「チェルノブイリの祈り」などで知られる、ベラルーシの作家でありジャーナリストでもあるスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチだった。そして今年がシンガーソングライターである。とすれば、ノーベル文学賞の対象が「純粋な文芸作品に限る」という概念から変質して来ているのではないか。
そんなことを毎日新聞10月14日付首都圏版朝刊は書いていたし、前述のAFP通信の記事でも、インド生まれの英国人作家、サルマン・ラシュディが「素晴らしい選択」と評し、「ディラン氏は吟遊詩人の伝統の優れた伝承者だ」とたたえたと伝えられている。「心に残る彼の音楽と歌詞は常に、最も深い意味で『文学的』に感じられた」とツイートしたのは、自らもノーベル文学賞候補の有力な一人、ジョイス・キャロル・オーツ。「思い出してほしい、ボブ・ディランという名は、受賞に値した20世紀の偉大な詩人、ディラン・トマスにちなんでいることを」と談話を締めている。今回の決定を「英断だ」と称讃する声も多いのだ。

●「とにかく時代は変わりつつある」

さて――ここからは筆者の憶測ということになる。ボブ・ディランは、ひょっとするとノーベル平和賞候補にも上がっていたのではないか。デビューした1962年はまさにキューバ危機や公民権運動の時代。「風に吹かれて」(63年)で「いくつの耳があれば民衆の叫びが聞こえるのか」と歌い、「時代は変る」(64年)で「とにかく時代は変わりつつある」と訴えた。アメリカがベトナム北爆を開始した68年には「ライク・ア・ローリング・ストーン」と叫び、ウォーターゲート事件に揺れた74年には「時には大統領だって裸で立ち尽くさねばならない」(「イッツ・オールライト・マ」)と語りかけた。この長年にわたる表現活動に対して与えられる賞として、ノーベル平和賞以上にふさわしいものはあるだろうか。
前例もある。1986年には、ホロコーストに関する大統領委員会の議長としてユダヤ系アメリカ人作家のエリ・ヴィーゼルに平和賞が与えられているし、2010年の同賞は、詩集などの著作も多い中国の人権活動家・劉曉波に贈られた。作家や詩人がすでに受賞している平和賞を、同じ表現者である音楽家が受賞してはならないという法はない。
ちなみに選考を管轄する団体は分かれていて、物理学賞、化学賞、経済学賞の3部門についてはスウェーデン王立科学アカデミーが、生理学・医学賞はカロリンスカ研究所(スウェーデン)が、平和賞はノルウェー・ノーベル委員会が、文学賞はスウェーデン・アカデミーがそれぞれ行う。要するに平和賞以外の5賞はいずれもスウェーデンが選出する。平和賞だけはノルウェーが選ぶ。第1回ノーベル賞が発表された1901年当時、スウェーデンとノルウェーは同じ君主を仰ぐ連合国だった。ノルウェーが1905年に独立をしてからも、平和賞はノルウェーに委ねられている。中国の獄中にいる劉曉波の受賞の際は、本人不在のままオスロで授賞式が行われたのは記憶に新しい。
2016年は10月3日に生理学・医学賞、4日に物理学賞、5日に化学賞、7日に平和賞、10日に経済学賞が発表された。文学賞はスウェーデン・アカデミーが原則、木曜日に発表することになっていて、今年は13日。本来なら他の賞と同じ週のはずで、6日の木曜日こそふさわしかった。選考の都合で1週間、先送りすると直前になって発表されたのである。ここに「ノルウェーが選ぶ平和賞の結果を待ってから」というスウェーデン・アカデミーの思惑はなかったか、と思うのだ。
スウェーデンとノルウェーの間に「うちはAさんで行こうと思っているが、そちらはどうしますか。Aさん以外の人で行ってもらえませんか」という事前の話し合いや根回しがあったとは到底思えないから、同一人物を選ぶ場合も大いに考えられる。仮に6日の文学賞にボブ・ディランが選ばれ、翌日の平和賞もディランのダブル受賞となったら、世界は大変な騒ぎになるだろう。7日の平和賞にディランが選ばれたとしたら、文学賞は別の受賞者に授与することにしたい。13日の発表ならば時間的余裕があるので選考が練り直せる。スウェーデン・アカデミーがそう考えたとしてもおかしくない。平和賞は周知の通り、コロンビアのフアン・マヌエル・サントス大統領に授与された。これでディランの今年のダブル受賞の可能性はなくなった。われわれとしては心おきなくディランに文学賞を与えられる――。
以上はもちろん筆者の憶測に過ぎない。絵空事かもしれない。はっきりいえることは、これが文学賞でなく平和賞になろうが、ダブル受賞しようが、どちらの受賞も逃そうが、ボブ・ディランの音楽の真価は全く揺るがないという事実である。

●依然、沈黙を貫くディラン本人

さて、肝心の問題――。ディランは今回の受賞を受けるのかどうか。発表後、彼はコンサート会場でも今回の受賞について沈黙を貫いている。スウェーデン・アカデミーも17日に、ディランへの直接の授賞連絡を断念したことを発表した。代理人やツアーマネジャーとは連絡がついたが、本人が捕まらないのだという。受賞辞退の可能性も考えられ、12月10日、ストックホルムの授賞式の場に彼が立っているかどうか、今のところは分からない。
受賞辞退となれば、文学賞では史上3人目となる。1人目はソ連のボリス・パステルナーク(1958年)、2人目は前述のサルトルである。パステルナークの場合は「ソ連当局によって辞退させられた」のが実情だったから、正確にはサルトルに次ぐ2例目となる。サルトルは辞退の意思をスウェーデン・アカデミーに伝えてきたが、ディランは「辞退」という声明すら出していないから、このままいけば受賞「無視」という1例目になるかもしれない。
10月16日付の電子記事「日刊SPA!」に面白い見解が載っていたので、紹介したい。ディランの沈黙についてこう書いているのだ。「こうした状況をある程度予想していたのが英紙ガーディアンだった。10月13日に配信された記事で、イギリスの小説家、ウィル・セルフの見解を紹介している。セルフによれば、ディランはサルトルにならって受賞を辞退するだろうというのだ。爆弾や武器によって築いた財産から生まれた勲章を手にすることは、かえってディランの価値を貶める。それが彼の理屈だ」
しかしディランは、賞という賞を一切受けないという人物ではない。実際、2008年には「卓越した詩の力による作詞がポピュラー・ミュージックとアメリカ文化に大きな影響を与えた」としてピューリッツァー賞特別賞に選ばれた。レコードデビュー50周年を迎えた2012年には、アメリカ大統領のバラク・オバマより大統領自由勲章(文民に贈られる最高位の勲章)が授与された。この2つは受けている。ではなぜ今回、彼は頑なに沈黙を貫いているのか。
「日刊SPA!」は「ディランはノーベル賞にシラけている」と、その理由を指摘する。「そのひとつに、ディランがある時期からCDに歌詞カードを付けなくなったことが挙げられる。日本語盤ライナーには詞の対訳のみ掲載されているが、原盤には歌詞に関する情報が全く存在しない。もちろん公式サイトで全て確認できるから必要ないのもあるだろうが、最大の理由は、音楽よりも詞ばかりが深読みされる事態にディランが辟易している点だろう。彼の神格化に貢献した“Dylanologists”(ディラン学者)の存在こそが、ミュージシャンとしてのディランを悩ませている皮肉」。ユニークな見解であろう。
そういえばスウェーデン・アカデミーのサラ・ダウニス事務局長も、授賞理由に「偉大なる米国の歌謡の伝統の上に立って、新しい詩的な表現を創造してきた」ことを挙げていた。詩が強調された授賞に、音楽家ディランは複雑な思いを抱いたのかもしれない。そのダウニス事務局長は17日、スウェーデンのラジオ番組で、ディランが12月10日に「来るか来ないかにかかわらず、彼の受賞を祝う。私は出席してくれると思う」と述べ、出席しない場合は「別の何らかの方法で賞を授与する」考えを示した――と共同通信は伝えている。
ノーベル賞という世界の大きな「風に吹かれて」、思うままをつづってみた。ご一読を心より感謝します。
(2016年10月20日、こや)

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2016/10/21 17:55 |
コラム「たまたま本の話」
第74回 砂漠のリアリズムを求めて(安部公房)文学に関するコラム・たまたま本の話

電子書籍「文学コラム・いいたま」を公開しました
最初にちょっと面白いデータをお目にかける。安部公房が1958(昭和33)年に「キネマ旬報」誌で選んだ、その年公開の外国映画ベストテンである。
1958年といえば、日本の映画館の観客動員数が11億2700万人と戦後最高を記録した年だ。そんな映画産業の絶頂期に、安部の選んだ外国映画10本は次の通り。1)眼には眼を2)サレムの魔女3)地下水道4)手錠のまゝの脱獄5)黒い罠6)スパイ7)白夜8)くたばれ!ヤンキース9)私に殺された男10)先生のお気に入り。ちなみに各選者の票を集計して発表された、この年のキネマ旬報外国映画ベストテンは1)大いなる西部2)ぼくの伯父さん3)老人と海4)眼には眼を5)鉄道員6)死刑台のエレベーター7)崖8)鍵9)サレムの魔女10)女優志願――だった。
安部の選出と重なっているのは2本のみ。選評で安部はこう書く。「7位以後は、選ぶものがなくなって、本来なら何も書かないままにしておくべきだけれども、いずれ選ばれるようなことはあるまいと思ったから、少少、無責任な選択をしたが、7位以下どころか、上位に選んだ2作以外はぜんぜん選考からもれて、私の批評眼はまだ曇らされず、平均化されてもいないことがわかり、たいへんうれしかった」。
この頃は各人が選評を書く前に、全体の集計による選考結果がすでに知らされていたのであろう。いささか挑発的な書き方になっているのは他でもない。安部は当時「群像」誌上で映画時評を連載していた。やがて「裁かれる記録」として1冊にまとまるものだが、さすがに新興芸術運動や前衛文学のトップランナーらしく、専門の映画評論家とはまた違った角度からユニークな映画論を展開していた。その彼が日本の映画批評の権威であるキネマ旬報に呼ばれ、実際にベストテン選出に携わってみて、彼我の評価のあまりの違いに戸惑ったのだろう。安部が同誌でベストテン選出に携わったのは、後にも先にもこれ1回きりであった。
ところで安部が1位に挙げている「眼には眼を」は、言うまでもなくアンドレ・カイヤット監督の名作である。1950年代のシリア。現地の男が病気の妻を病院に運んだが、時間外だったので医師は診療を拒否する。代わりに同じ病院の若い医師の診療を受けたが、妻は亡くなってしまう。診療拒否した医師と、妻を亡くした男。その2人が灼熱のシリア砂漠で繰り広げる、何とも陰鬱な心理劇である。どちらも砂漠からついに脱出できないことが暗示されている。
素晴らしい映画であることは間違いないが、なぜ安部はそこまで「眼には眼を」に肩入れするのか。その理由を考えていたら、初期中編「壁――第一部 S・カルマ氏の犯罪」に行き着いた。重要な鍵として砂漠が登場するのである。以下、作品の内容に触れるので未読の方はご注意を。引用は安部公房「壁」(1988年12月改版、新潮文庫刊)より。
ある朝突然、名前を無くしてしまった「ぼく」は病院に駆け込むが、待合室でふと眺めたスペイン雑誌の1ページに引きつけられる。そこにはこんな風景があった。「砂丘の間をぼうぼうと地平線までつづく曠野の風景が頁いっぱいにひろがっていたのです。砂丘にはひょろひょろした灌木、空には部厚い雲が箱のように積み重なっていました。人影はありません。家畜はおろか、カラスの影さえ見えません。曠野を一面に覆う草は針金のようにやせて短くまばらで地面がすけて見えるほどです。草の根もとには砂がさらさらと風に流れてひだをこしらえています」。「ぼく」はこの風景を自分の内部に吸収してしまい、ラストでは無限の曠野の中で静かに成長する壁と化す。
「S・カルマ氏の犯罪」が発表されたのは「近代文学」1951年2月号。カイヤットの映画が公開されるよりも7年早い。その後、芥川賞を受賞したことで同作は文学史に名を残すことになるが、本質的には日本の主流であるリアリズム文学ではなく、寓意に満ちた前衛小説である。かたや「眼には眼を」には動物の死骸を漁るカラスも登場するし、医師と男の砂漠の道行きにはリアリズム描写に不可欠な渇きや飢え、灼熱の気候といった切実な問題もつきまとう。つまり「S・カルマ氏の犯罪」との相違点のほうが際立つのだ。
しかしそうであっても、安部公房はこの映画に衝撃を受けたのではないか。かつて自分が非リアリズム文学の設定として導入した砂漠でさえ、リアリズム映画の舞台として成立する、シリアの砂漠の環境を眼前に突きつけられたことに対して。ここには観念を超える過酷な現実がある。砂漠を描くのだったら、やはり細部のリアリズムを克明に描写していくことは避けられないのではないか。
「眼には眼を」を見てから4年後の1962年6月、安部は自らの代表作となる書き下ろし長編「砂の女」を発表する。海辺の砂丘に昆虫採集にやって来た男が、女が一人住む砂穴の家に閉じ込められ、様々な手段で脱出を試みる物語である。逃亡と失敗を繰り返していた主人公は、最後に砂の力学を応用した「溜水装置」を考案する。砂の穴の中にいながら、水がいつでも手に入るようになったのだ。渇きが解消された彼は、脱出の機会が訪れてもついに逃げ出さず、やがて7年が経ち、失踪人宣告を受ける。
寓意に満ちた小説でありながら、その描写は科学的であり写実的である。安部は執筆に当たって、山形県酒田市の砂丘の村落に実際に取材に行き、砂の特質や部落の生活について綿密な調査を行ったという。「S・カルマ氏の犯罪」ではとらえられなかった砂漠のリアリズムをついにつかんだのだ。傑作「砂の女」を生んだ最大の要因は、あるいは映画「眼には眼を」との出会いだったかもしれない。(こや)



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2016/10/07 11:54 |
コラム「たまたま本の話」

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