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2025/02/01 21:41 |
2016.10.05 電子書籍「文学コラム・いいたま」を公開しました
インターネット古書店・ほんのたまごで2010年9月から毎月発行しているミニコミ紙・miniたま(みにたま)に掲載している文学に関するコラム・たまたま本の話を一冊にまとめ、電子書籍として無料で公開しました。以下のリンクよりお読みいただけます。

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2016/10/05 14:39 |
コラム「たまたま本の話」
第73回 カストリ酒と母の日と(上林暁)

1999年9月に刊行されて長らく品切れだった「禁酒宣言」が2015年9月、「ちくま文庫30周年記念 復刊フェア2015」で蘇った。私小説作家・上林暁の書いた、酒場が登場する短編小説13編を収めている(坪内祐三編)。戦後すぐの上林文学といえば、いわゆる病妻ものの作品で有名だが、文芸評論家の保昌正夫によると、1946年(昭和21年)に妻を亡くしてからはすっかり飲酒にふける生活に陥ったらしい。酒にまつわる小説がそのころから増えていく。坪内が引用している部分(講談社文芸文庫「白い屋形船/ブロンズの首」巻末の保昌正夫「作家案内」)の孫引きになって恐縮だが、こんな具合である。
「自筆年譜の昭和22年に『この年初頭より酒を過ごしはじむ』とあるのには、『嬬恋い』の情もからんでいるだろうか。『過ごしはじむ』は、ただ『やり始めた』にとどまらず、文字どおり『過ごす』ことになっていったようだ。作品にも『禁酒宣言』(昭24)、『酔態三昧』(昭和25)などがあらわれる。高血圧となり、節酒を心がけたが、昭和27年正月、軽い脳溢血となり、絶対安静4週間。以後3年、禁酒した」
まさに命がけの作家人生であろう。私小説といえば身辺雑記を綴るものという認識はここでは通用しない。この時期は、上林が私小説作家から無頼派作家へと変貌を遂げつつあった文学的な成熟期に当たるのではないか――そんな気もする。傑作ぞろいの「禁酒宣言」の中でも屈指の名作である表題作を、ここで見てみよう。作品の内容に触れるので未読の方はご注意を。
主人公の「武智」(つまり上林)は妻を亡くしてから酒に溺れ、翌日は必ず二日酔いに襲われる生活を送っている。1年にどのくらい飲むかと言えば、昨年(昭和23年)閏年366日のうち一滴も飲まなかった日は98日。あとの268日(上林は258日と書いているが、計算違いか)は多かれ少なかれ酒を飲んでいた。週に2日弱は休肝日を取っているわけだから、特に多いというほどではないかもしれない。上林の場合、問題は家の外で長時間にわたって大量に飲むことだ。しかも今年(昭和24年)になると酒を飲む回数も飛躍的に増えている。「5月が早や終ろうというのに、酒を飲まぬ日と言っては、たった4日しかないのです。(中略)この勢いで行ったなら、果てはどういうことになるのでしょう。恐しいほどです。それも、晩酌に1杯という程度なら、毎晩でもいいのでしょうが、深酒、梯子酒、酔いつぶれ、どうして家に帰ったかも覚えないのが、毎日のことなのです」。
今の上質な酒ではない。飲むのはいわゆるカストリ酒であろう。第2次世界大戦後の酒不足の世相の中で、昭和21年ごろから粗悪な密造焼酎が出回ったことがある。原料や出所が全く不明、極端な例では、人体に有害で失明や中毒死の危険もあるメチルアルコール(燃料、工業用の素材)を水で薄めたものまで売られる始末。これらの代物が俗に「カストリ」と総称されたため、一般にもカストリ=粗悪な蒸留酒というイメージが定着した。3号(合)でつぶれる「カストリ雑誌」の俗称はここから来ている。ちなみに本来の「粕取り焼酎」は決して粗悪な代物ではないという。
その直後の昭和22年、政府によって敷かれるのが「飲食営業緊急設置令」である。米や麦など主要食糧の配給および消費を規制する「主食配給制」は昭和15年に始まり、戦争中と敗戦後に強化された。主食の遅配が進んだために、政府はさらに「飲食営業緊急設置令」を発して、販売できる飲食店を外食券食堂だけに制限した。しかし裏では隠れてのヤミ酒やヤミ米の販売が横行していたことはご存じの通り。そのあたりの世相についても、「禁酒宣言」で次のように押さえられているのが注目される。
「料理飲食店禁止の政令が出て間もなくの頃でした。小生は仕事場通いの行きずりに、ふと或る喫茶店に寄ったのです。店の主は年配のマダムでした(中略)。その時、紅茶茶碗でウィスキイを飲んでるところへ、警官に踏み込まれ、小生もマダムも共々、交番へ引っ立てられて行ったのです」。結局、さんざん油を絞られた末、2人とも釈放になるのだが、外食券食堂でない喫茶店でヤミ酒を飲んでいたわけだから、これは事情聴取されても当然であろう。なお、この「飲食営業緊急措置令」は昭和24年には解かれ、料理飲食店の営業が再開された。喫茶店もバーも焼き鳥屋も営業規制がなくなって、自由販売できるようになったわけである。昭和24年ごろから上林の酒を飲む頻度が飛躍的に高まったのも、そのことが影響しているかもしれない。
上林自身は身辺雑記を書き綴っているつもりでも、この「禁酒宣言」という小説は実に奥が深い。主人公・武智の振る舞いや思いが、そのまま戦後文化史につながっているのだ。母の日に触れたこんな一節もある――「5月8日だったかに『母の日』なる催しがありました。外国から流行して来た催しだと聞きました。母ある者は赤い薔薇を胸につけて、母の愛を讃え、母なき者は、胸に白い薔薇をつけて、亡き母の慈しみを偲ぶ趣旨だったようにおぼえています」。
調べてみると、日本では大正2年に青山学院で女性宣教師たちによる母の日の礼拝が行われた。その後、昭和6年に結成された大日本連合婦人会が皇后(香淳皇后)の誕生日である3月6日(地久節)を「母の日」とし、昭和12年には森永が第1回「森永母の日大会」を豊島園で開催したが、なかなか普及しなかったという。アメリカの風習にならって、日本でも5月第2日曜日に母親にカーネーションを贈る習慣が始まったのが、まさしくこの年――昭和24年だったのである。(こや)



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2016/09/10 13:43 |
コラム「たまたま本の話」
第72回・通路は相手の方から掘る(安部公房・安部ねり)

長年、のどに刺さった小骨のように気にかかっていたエッセーがある。安部公房著「笑う月」(1975年11月、新潮社刊。その後1984年7月、新潮文庫)に収められた「藤野君のこと」である。「笑う月」は「夢のスナップショット」と称され、創作とエッセーの間を漂いながら書かれたような17編を集めた不思議な著作。「藤野君のこと」はその中でも白眉の1編とされている。安部公房が書いた戯曲「ウエー(新どれい狩り)」に出てくる、人間そっくりのどれい「ウエー」の飼育係・藤野君に実在のモデルがあったことをつづったエッセーで、こんな話である。未読の方はご注意を。
安部公房は終戦の翌年、満州からの最後の引揚船の中で藤野君という人物と知り合う。船は大きかったが、何しろ引揚者の人数が多いから、船内はすし詰めどころかイワシの缶詰なみの混雑ぶりを呈していた。居場所を確保するためには、常に体を横たえて突っ張らせていなければならない。そこで空間の争奪戦が起こるのだが、藤野君という人物だけは悠々と自分のスペースを確保している。昼はあぐらをかき、夜は大の字になって寝る。秘密は周囲の人間との取引にあった。藤野君はサッカリンと引き換えに、3人の人間から場所を買い取っていたのである。
物資のない時代、甘味料のサッカリンは貴重品どころか、最も確実で安定した通貨だった。目先のきく連中は財産をサッカリンに換えていたから、他にも当然、サッカリンを船内に持ち込んでいた人間はいた。領分をそれで売買しようとした者が藤野君以外にいなかったのである。双方の合意に基づく商行為であり、これだけでも藤野君の取引力は卓越していた。「事実、藤野君には、悪びれたところなど少しも見られなかった」と安部公房は書く――「中央付近、それも手摺際のいちばん見晴らしのきく位置に、広々と陣取って、悠然とあたりを見まわし、自由な姿勢を満喫していたものだ。見晴らしのきく場所は、同時に見られやすい場所でもある。見られやすい場所で、人目をひく行為をしているのだから、いやでも注目をあびざるを得ない」。
普通ならば嫉妬や敵意の対象となるはずだが、藤野君はそうではなかった。しかも粗末な食事の後で、何とチョコレートキャンディーを荷物から取り出してきてうまそうに舐め始めるのである。これは嫉妬や敵意をさらに強めさせる挑発的行為と取られかねないが、藤野君に対して暴行や略奪を試みたものはいなかった。安部公房はこう分析する。
「考えてみれば、塩水にちょっぴり海草を浮かせた汁いっぱいに、やせた繊維だらけの小指ほどの芋数本という、ぎりぎり限界線上の食事の後のことである。チョコレートキャンディーを妬むなど、思い上がりもいいとこだ。そんな大それた気持ちになんか、なれるわけがない。遠すぎる理想。目にしながらも信じられない、幻影のようなものだ」「彼はなかなかの戦術家でもあった。勝ち目がない、とあきらめたとたん、敵意があっさり羨望に変わってしまう、あの弱者の心理をよくつかんでいた」
本当にそんな心理になるものだろうか。大岡昇平や野間宏を持ち出すまでもなく、戦後派文学の主要テーマは「飢餓と犯罪」である。この状況下では当然「キャンデーを寄こせ」と暴動が起きて、藤野君は周囲の人間からリンチされてしまうはずではないのか。のどに刺さった小骨のように長年、気にかかっていたのはその点である。どうやら安部公房には、安部公房独自の論理があるようなのだ。
長年の疑問を解くヒントになったのは、他でもない。安部公房の一人娘にして医師の安部ねりが、2011年3月に父の思い出を「安部公房伝」に書いている(新潮社刊)。さすがに医師らしく、父親の文学について冷静に分析、記述している。その中にこんな一節があったのである。
「文学を他者との通路と考えていた公房はのちに、『通路の掘り進め方にはコツがある。自分の方から掘ってもだめなんだ。相手の方から掘り進めないと』と言っていたが、それは若い頃身につけた商売のコツでもあったろうし、思ったようには売れなかった『無名詩集』を売り歩きながら身にしみたことでもあったのだろう」。これは、安部公房の処女作とされる私家版の「無名詩集」が、親戚や知り合いを回ってもさっぱり売れなかったことを取り上げて語ったものだ。「『無名詩集』が売れなかったことは、自己の内心を吐露する詩という表現手段を選択したことに対する自己嫌悪のようなものをもたらしたのではないか」と、安部ねりは書く。
見事な指摘なので虚を突かれた。これを藤野君のケースに当てはめれば、その巧みな取引や弱者の心理のつかみ方は、要するに他者との通路を相手の方から掘り進める術に長けていたということになる。通路の手段はサッカリンやチョコレートキャンディーだが、それらを自分が所持しているという優越感によってこちらから掘り進むのではなく、それらを持っている自分を相手がどう見ているか、という劣等感を利用して向こうから掘り進んでいるのが、藤野君なのだ。だから暴動も起きない。
安部公房はこうまとめている――「そして、心ゆくまでチョコレートの香りを吸い込んだ一同は、しばしばぼくもその中の一人だったが、いま自分がこうして生きのびていられるのも、ひとえに藤野君のおかげだという満ち足りた気分にさせられて、それぞれ自分の輪郭よりも狭い領分へと、おのれを埋め込むために引き返して行ったものである」。藤野君は本当に実在の人物なのだろうか。通路を相手の方から掘り進めるという安部公房理論を証明するための創作なのではないか。そうも思えてくる。(こや)


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2016/08/10 12:46 |
コラム「たまたま本の話」
第71回 「お守り」はダイナマイト(山川方夫)

山川方夫と書いて「やまかわ・まさお」と読む。周知の事実であろうが、実はこの作家の本名は山川嘉巳という。20歳のとき、方夫のペンネームを初めて使った。その由来は、鏑木清方の「方」と梅田晴夫の「夫」から来ている。なぜかといえば、方夫の父は山川秀峰(本名・嘉雄)といって、鏑木清方や池上秀畝を師とする日本画家だった。また梅田晴夫は、方夫自身が慶應義塾予科英文科1年のときの担任で、その後も薫陶を受けた恩師だった。
芥川賞候補に4回、直木賞候補に1回上がったが、受賞はかなわず、将来を嘱望されたまま、わずか34歳で事故死してしまった山川には、純文学作家以外にも様々な顔があった。三田文学の編集者としての顔、放送台本作家としての顔、映画評論家としての顔。中でもショートショート作家としては、むしろこちらが本職ではないかと思うほどの傑作を残している。
今回はショートショートの代表作「お守り」を取り上げる。以下、作品の内容に触れるので未読の方はご注意を。なお、引用は「親しい友人たち 山川方夫ミステリ傑作選」(高崎俊夫編、2015年9月、創元推理文庫)によった。語り手の「僕」は、友人の関口二郎から「君、ダイナマイトは要らないかね」と持ちかけられる。なぜそんな物騒なものを関口が持っているかといえば、こんな事情による――ある日関口は、宴席の帰りに自分とそっくりな男を見かける。その男は、団地の階段を上ってE-305号室に帰っていく。そのE-305号室はまぎれもなく関口の部屋なのだが、入っていった別の男を、妻は全く不審に思わない様子だ。
黒瀬次郎という、関口とそっくりなその男は、同じ団地のD-305号室に住んでいた。今晩、棟を1つ間違えて、関口の部屋に帰宅してしまったのだ。なぜ関口の妻が気づかなかったかといえば、帰宅するやいなや黒瀬は、いつも関口がやっているように自分の部屋に引っ込んでしまったからである。関口と黒瀬が同じ「ジロウ」という名前であったことや、団地の部屋の作りが各室とも全く同じことも、疑念を抱かせなかった理由である。
ここから関口は考える――「黒瀬という男は、つまりぼくにとって、団地の無数の夫たち、玩具の兵隊たち、ぼくに似た同じようなサラリーマンの代表者みたいなものだったんだな。無数のもう一人の『ぼく』、その代表のようなものだった」と。団地の規格だけではない。「結局、ぼくらはそれが自分だけのものと信じながら、じつは一人一人、規格品の人間として、規格品の日常に、規格品の反応を示しているだけのことではないのか?」。そう考えた関口は、自分と他者を区別する「お守り」を手に入れる。それが鞄の中に忍ばせたダイナマイトだったのである。
しかし関口は、そのダイナマイトがもはや不要になったから譲ろうか、と語る。なぜなら「ぼくの独自性とは言えなくなってしまった」のだと。つい先ほど、バスの中でダイナマイトが爆発して乗客3人が即死したニュースが伝えられた。そのダイナマイトは死んだ乗客の1人――黒瀬次郎という男の鞄に入れられていたものだった。
以上が「お守り」のストーリーである。書かれたのは1960年4月で、三社連合という北海道新聞日曜版に掲載された。やがてこの作品は海外でも高く評価されるようになり、アメリカの国民雑誌「ライフ」1964年9月11日号の日本特集ほか、イタリアやソ連でも翻訳掲載されるようになる。
重要な点は、関口も黒瀬も決してエキセントリックな人間ではなく、どちらもお互いの存在を意識する前は常人であったことである。ともに規格品の1人に過ぎない。その規格品から抜け出ようとして関口はダイナマイトを心の拠りどころにする。それが自分の独自性だと思っていたら、何のことはない、黒瀬もダイナマイトを自分の独自性として鞄に忍ばせていた。つまり団地の全住人どころか、日本中、世界中のすべての人間が、規格品からの脱却のためにダイナマイトを身に着けているのだと言っているわけで、それはゾッとするほど不気味なシチュエーションである。
さらに不気味なのは、それがもはや独自性にならないことに関口が気づいてしまった点であろう。関口が気づいたことだから、世界中のすべての人間もやがて気づくだろう。ダイナマイトが原爆に変わっても、水爆に変わっても、それらはすぐに独自性を失ってありきたりの規格品と化すに違いない。「お守り」が書かれたのは、米ソによる東西冷戦の真っただ中という時代だから、山川にそうした政治的寓意の意識が全くなかったとはいえない。しかし、根底には20世紀のある偉大な哲学者の提唱する思想が流れているようにも思うのだ。いうまでもなく当時、世界中を席巻していたジャン=ポール・サルトルの実存主義である。
実存主義――存在は本質に先行するという思想はたいへん難しい。食べ物をすくうためのものという目的(本質)のあるスプーンのような存在を「即自存在」と呼び、それに対して人間は実存が先にあり、本質は自ら選び取っていかねばならない「対自存在」である、と実存主義は主張する。そのスプーンを山川はここでダイナマイトに置き換えたのではないか。爆発するという目的のある即自存在=ダイナマイトと、規格品としての実存から脱却して本質に迫ろうとする対自存在=人間との関係に思い至ったとき、「お守り」という作品の成功は約束されたも同然ではなかったか。そういえば、山川方夫の慶應義塾大学仏文科の卒業論文は「ジャン・ポオル・サルトルの演劇について」であった。そんなことも、いま思い出した。(こや)



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2016/07/08 14:10 |
コラム「たまたま本の話」
第70回 わが文学はチョウチンアンコウ(梅崎春生)

梅崎春生(1915~1965)といえば、「桜島」「日の果て」「幻化」などを書いた、第一次戦後派を代表する小説家だが、同時に随筆の名手でもあった。昨年刊行された「悪酒の時代/猫のことなど」(2015年11月、講談社文芸文庫)は、梅崎が戦後に書いた随筆を集めた傑作集。その中に「チョウチンアンコウについて」という1編がある。執筆は昭和24年10月。文庫本にしてわずか3ページに満たない小品である。
梅崎は、チョウチンアンコウという深海魚の「雄と雌との関係について、寺尾新博士が書いた文章をよみ、私は大層面白かった」という。要旨は次の通り。頭の先から長い鞭のようなものが生えていて、光を放つのは、チョウチンアンコウの雌のほうである。雄はどうかというと、チョウチンを持たず、大きさも雌の10分の1に過ぎない。ではこの平凡な雄がどうやって立派な雌の亭主となるか。梅崎はこう書いている――「彼はただじっとその機会を待っているだけなのである。そして偶然に雌が自分に近づいてくると、彼は雌の背中であろうが、頭であろうが、ところかまわずにいきなり唇で吸いつくのである。吸い着いたら、それきりである。どんなことがあっても離れない。雌が泳ぐままに、ぶら下って動く。そしてここに変ったことがおこる」
変わったこととは、雌の体の皮が延びて、彼の唇とつながってしまう。つまり雄は独立した魚ではなくなって、雌の体の一部になってしまうのである。唇をふさがれて食物をとるすべを失い、役に立たなくなった消化器官がまず消える。続いて諸器官が、眼が、脳が姿を消していく。すっかり雌の体の一部と化した雄は、血管も雌とつながり、それを通じて全部を雌から養われるようになる。やがて彼は、雌の体に不規則に突起したイボのような形にまで成り果てる。しかし――と梅崎は続けるのである。
「イボにまで成り下っては、彼は自身の存在の意義を失ったようにも見えるが、ただひとつだけ器官を体の中に残しているのである。それは精巣である。精子をつくるために残留しているのだ。雌がその卵を海中に産み放すとき、ほとんど精巣だけとなった彼は、全機能を発揮して、二階から目薬をさすように、その精子を海中に放出する。深海であるから、流れの動きがほとんどないので、その精子は洗い流されることもなく、雌の卵にうまくくっつくのである」
梅崎は「この瞬間のことを考えると、私はなにか感動を禁じ得ない。どういう感動かということは、うまく言えないけれども」と締めているが、感動を禁じ得ないのはこの随筆を読む者も同じだろう。寺尾新(てらお・あらた)は大正、昭和期の高名な動物学者で、水産動物の増殖と加工などの研究で知られる。「優生学と生物測定学」「動物はささやく」など動物学を分かりやすく説いた多くの著作があり、「東京物語」などで知られる女優の東山千栄子とは縁戚関係にある。その寺尾博士の研究を梅崎はなぞっているのだが、なぜそれが「大層面白かった」のだろう。つまりチョウチンアンコウのエピソードは、取りも直さず梅崎文学の本質にかかわるテーマなのではないか。
梅崎春生の小説にはよく「分身的存在」が登場する。それは多くの評者が指摘するところで、「悪酒の時代/猫のことなど」でも解説の外岡秀俊がこう書いている。「彼の作品に共通しているのは、主人公や『私』が、第三者に対して不意に嫌悪感や忌まわしさを覚え、怒りや憎しみに駆り立てられるという構図だ。そして、そうした獰猛な感情に囚われるのは決まって、主人公がその第三者に、自らの『分身』を見出したときなのである」。「桜島」の暴力を振るう吉良兵曹長と私の関係しかり、「日の果て」の逃亡する花田中尉と追う宇治中尉の関係しかり。ユーモア小説の系列にもその傾向は見られ、直木賞受賞作「ボロ家の春秋」の性格から境遇まですべて正反対の同居人・野呂旅人も、僕と合わせ鏡のような分身関係にある――と外岡は指摘する。
しかしいちばん忘れてはならない分身関係は、遺作「幻化」の五郎と丹尾であろう。東京の精神病院から抜け出し、鹿児島、枕崎を経て自分の生まれ故郷・坊津に向かうのが五郎。その過去への旅の途中で出会うのが映画のセールスマン・丹尾。2人はその後、別行動を取るが、やがて阿蘇山の麓で再会する。丹尾は妙なことを言い出す。自分はこれから火口を一周するが、その途中で火口に飛びこむかどうかを2人で賭けようというのである。丹尾は火口に向かって歩き出す。望遠鏡をのぞく五郎。丹尾は火口の淵で止まる。それを見ているうちに、五郎は丹尾を見ているのか、自分を見ているのか分からなくなってくる――。
梅崎が「幻化」を書いたのは戦後20年目に当たる昭和40年。戦争の記憶も風化してきた時代であった。五郎は精神病院から脱走して自分の過去をたどる旅に出るが、戦時の記憶は故郷からもすっかり消え失せている。ということは「桜島」「日の果て」で描かれたような、軍隊における暴力的な分身関係もようやく払拭できたはずではないか。そんな小説にも、なぜか丹尾という分身が登場する。
つまりはチョウチンアンコウなのではないか。戦争が終わり、時代が変貌していく中で、自分を殺してひっそりと身を潜めていたはずの雄は決して死んでいない。生殖というただ1つの役割を果たすことによって存在意義を持つ。そこにおいて雌と雄はもはや本体と付属物ではなく、それぞれが有機的にかかわり合う分身関係となる。戦後という時代をしっかりと生き始めた梅崎は、自分の文学の本質をチョウチンアンコウに見たのだと思う。(こや)


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2016/06/02 13:15 |
コラム「たまたま本の話」

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