2013年に惜しまれつつ亡くなった小説家、エッセイスト、編集者の常盤新平は、数々の翻訳でも名を残した。ホレス・マッコイ「彼らは廃馬を撃つ」(原題THEY SHOOT HORSES,DON‘T THEY、1935年刊)の訳出もその一つ。翻訳は1970年に角川文庫から初版、1988年に王国社から改訂版が出ている。長らく絶版になっていたこの中編小説が、白水社「海外小説 永遠の本棚」シリーズの1冊としてこのたび復刊された(2015年5月刊)。
舞台は1935年、大不況のさなかのアメリカ。夢を抱いてハリウッドにやってきたが、エキストラの仕事にもあぶれてしまった若い男女が、1000ドルの賞金と、プロデューサーや監督など名士の目に留まるというかすかな希望に賭けて、マラソン・ダンスに参加する話である。男ロバート・サイヴァーテン(私)と、女グロリア・ビーティは、過酷なマラソン・ダンスをコンビで勝ち抜いていくが、最後、ロバートは自殺願望のあるグロリアをピストルで撃ち殺すという終幕を迎える。「なぜ女を殺したのだ?」と警官に聞かれた「私」は、「女に頼まれたからですよ」と答える。そして「廃馬は撃つもんじゃないんですか?」と付け加える。
マラソン・ダンスとは何か? 常盤新平は訳者あとがきでこう書いている。「マラソン・ダンスはダンス・マラソンともいう。この奇妙なコンテストは、どのカップルが一番長く踊りつづけるというより、一番長く生き残れるかを争うものだった。アメリカ全土の男女が蓄音機や3流4流の小さなバンドが演奏するフォックス・トロットのリズムに乗って、ふらふらになりながら踊ったのである」「これは、ジャズ・エイジと呼ばれ、狂爛の20年代と呼ばれる1920年代のアメリカの産物だった。麻雀とクロスワード・パズルとマラソン・ダンス、この3つは1920年代のアメリカを特徴づける娯楽である。(中略)マラソン・ダンスは1930年代にはいって、不況とからみあいながら、『彼らは廃馬を撃つ』の世界のようにグロテスクな様相を呈するにいたった」。
この小説は、1935年にクロスワード・パズルで当てたサイモン&シュスター社から出版された。当時は全く話題にならなかったが、第二次世界大戦後の1946年、急にブームに火がついた。母国アメリカではなく、フランスで評判が高まったというのである。さほど良い出来とも思えない無名のアメリカ人作家の処女作のどこが、文学好きのフランス人に評価されたのか? ホレス・マッコイは1948年のインタビューでこう語っている。「彼ら(フランス人)は私を実存主義の元祖と見ている。(中略)そして、私はそのことを証明する手紙をサルトルやほかの人たちからもらっている」。
人間描写や動機付けが見られないこの小説を、本人自らノーベル賞作家アルベール・カミュの「異邦人」のアメリカ版に見立てたということだろうか。まさに語るも語ったりという感じだが、ある一時期、「彼らは廃馬を撃つ」がジョン・スタインベックやアーネスト・ヘミングウェー作品並みの知名度をフランスで誇っていたことは紛れもない事実である。
ところで、今回書いておきたいことは別にある。作者のホレス・マッコイは、あの「ハットフィールド家とマッコイ家の争い」で有名なマッコイ家と関係があるのだろうか、という点である。ハットフィールド家とマッコイ家は、それぞれ1878年から1891年まで、アメリカ合衆国のウェストバージニア州とケンタッキー州にタグ・フォーク川を隔てて住んでいた。どちらもタグ渓谷に最初に定住した先駆者一家で、製造業と密造酒の販売に携わっており、南北戦争では南部連邦支持のゲリラ活動に従事していた。つまり双方ともにきわめて気性が激しい家系だったのである。
1878年、1匹の豚の所有権をめぐる論争が起こった。フロイド・ハットフィールドが豚を所持していたのだが、ランドルフ・マッコイはその豚が自分のものだと異議を唱えた。つまりは、土地または財産の境界線や所有権をめぐる論争であったわけである。この事件は裁判沙汰にまで発展し、両家の親族にあたるビル・ステイトンの証言でマッコイ家が敗訴した。1880年6月、証言台に立ったステイトンはサム・マッコイとパリス・マッコイ兄弟によって殺害されてしまうが、マッコイ家の兄弟は後に正当防衛を理由に釈放された。
ロザンナ・マッコイがジョンシー・ハットフィールドと恋に落ち、ウェストバージニア州側にある対立するハットフィールド家で共に暮らすために家出したことから、さらに争いはエスカレートした。1880年から1891年の間、両家による殺し合いは延々と続き、事件はアメリカ合衆国最高裁判所までも巻き込んだ。最終的に首謀者たちがケンタッキー州で裁判にかけられ、全員有罪の判決が下された。1人が公開絞首刑に処され、かくして両家の争いには終止符が打たれた。アメリカ史上に残るこの抗争は、転じて対立する相手との激しい争いを表す隠喩表現にもなっている。その後の文学や映画にも多くの影響を与えた。
「彼らは廃馬を撃つ」のホレス・マッコイは1897年、テネシー州ペグラムに生まれている。1891年にハットフィールドとマッコイ両家の抗争が収束してわずか6年後だ。しかもテネシー州はマッコイ家の住んでいたケンタッキー州と隣接する下側の州である。「彼らは廃馬を撃つ」を書く前の1920年代、マッコイはパルプ雑誌に安手のミステリー小説を書きまくっていたことが知られているが、出自はほとんど明らかにされていない。根拠のない憶測に過ぎないが、もしもホレスがあのマッコイ家の流れを組むとすれば、廃馬も撃ったかもしれないけれども、豚の所有権をめぐって隣人たちも撃った一族の子孫ということになる。(こや)
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「ウィリアムとメアリー(William and Mary)」といえば――とインターネット辞典ウィキペディアは書き出している。「英語でいう場合、特定の個人のことでなければ通常、ウィリアム3世と妻のメアリー2世によるイングランド・スコットランド・アイルランドの3王国の共同統治を指す」と。つまり単に太郎と花子というだけでなく、それなりの象徴的な意味が付きまとっているらしい。
オランダのウィリアム3世とイングランドのメアリー2世は1677年に結婚している。従兄妹どうしの結婚であり、いわばオランダとイングランド両国による政略結婚であった。夫妻による共同統治は、メアリー2世の父に当たるイングランド王ジェームズ2世が、「名誉革命」と呼ばれるクーデターで追放された1689年2月に始まり、1694年12月のメアリー2世の死去まで5年以上も続いた。イギリスの長い歴史上、平等の権力を持つ君主同士の共同統治が認められた例はほかにないという。通常、君主の配偶者に君主権はなく、単なる配偶者でしかない。
名誉革命は、クーデターなのに「無血革命」「偉大なる革命」と呼ばれ、今もその功績がたたえられる。この革命によりイギリスのカトリックの再確立の可能性が完全に潰され、イングランド国教会の国教化が確定しただけでなく、権利の章典の発布により国王の権利が制限された。イギリスにおいて議会政治の基礎が築かれる契機になったとされる。今から思えば、この17世紀末はイギリス史のターニングポイントになった時代だといえるだろう。
冒頭からイギリス史をたどってきたのは、他でもない。20世紀イギリスの偉大な作家・ロアルド・ダール(1916~1990)に、タイトルもそのままの「ウィリアムとメアリー」という短編小説があるからである。かつて「異色作家短篇集」シリーズの1冊として刊行された「キス・キス」に収められた1編で、長らく作家・開高健による名訳で知られていたが、昨年、田口俊樹による画期的な新訳が出た(「キス・キス〔新訳版〕」、2014年5月、ハヤカワ・ミステリ文庫刊)。新訳刊行を機に、久々に読み返してみた。以下、ストーリーに触れるので未読の方はご注意を。
ウィリアムは癌で余命いくばくもない。死の直前、知人の神経外科医ランディの申し出を受け入れる。それはウィリアムの肉体が滅びても、ダメージの全くない脳と眼球を切除し、人工心肺につないで生きながらえさせるというものだった。いわば永遠の生命(意識と視覚)を彼は与えられることになる。実験は成功し、脳だけになったウィリアムと、残された彼の妻メアリーとの対面が実現する。しかし生前、横暴で口うるさかった夫に悩まされ続けた妻は、ウィリアムの眼球の前で煙草を吸って見せつける挑発行為に出る。
誰もが思い浮かべるように、ロシアのSF作家アレクサンドル・ロマノヴィッチ・ベリャーエフの名作「ドウエル教授の首」(1925年)を髣髴させる話である。高名な外科医が生首だけになって生きながらえるという先駆的なSF作品であるが、1950年代に「ウィリアムとメアリー」を書いたダールは当然、先行するベリャーエフ作品を意識していただろう。「ドウエル教授の首」は、ベリャーエフ自身が脊椎カリエスを発症し、6年間も寝たきりだった自らの療養体験が創作の基になっているとされる。1917年のロシア革命で生まれたソビエト連邦という史上初の社会主義国家の体制下で、ついに評価されなかった作家・ベリャーエフのルサンチマンも当然あったはずである。では1950年代のダールが「ウィリアムとメアリー」を書いた理由とは何か。
田口俊樹が「キス・キス〔新訳版〕」の訳者あとがきでこんな興味深い指摘をしている――「ダールの大人向けの短篇には夫婦が登場するものが多い。『あなたに似た人』では15篇のうち9編、本書では11篇のうち6篇がそうだ。(中略)1作以外はみな、O・ヘンリーの名短篇『賢者の贈り物』に出てくるような仲睦まじくも麗しい夫婦とは言えない夫婦ばかり」。「ウィリアムとメアリー」についても「読みどころはやはり夫婦像の可笑しさだろう。“横暴な夫”に“従順な妻”。まさに夫唱婦随。そんな夫婦の妻が(中略)最後に夫に意趣返しをするお噺である。ウィリアムにしてみればちょっと考えが甘かった、妻を舐めていた、ということになるのだろうが、いつまで続くかもわからない今後のことを考えると、ウィリアムがいささか気の毒に思えなくもない」と書いている。
この物語に「ウィリアムとメアリー」と名づけたのは、ダール特有のシニカルさの表れであると思わざるを得ない。イギリス史において唯一、3王国を共同統治した夫婦の名前をあえてタイトルに持ってきたのは、決して偶然ではないだろう。生前、暴君だった夫に従っていたが、その死後、夫に意趣返しをする妻の存在。実際の17世紀イギリス史では妻のメアリー2世のほうが先に死去するのだが、まさしくこれは皮肉屋ダールらしい、裏返しの「ウィリアムとメアリー」にほかならない。
今、ダールの略歴を調べていて驚いた。ノルウェー移民の両親のもとに生まれた彼が、第二次世界大戦でパイロットとしてイギリス空軍に従軍していたことは有名である。飛行機の墜落で重症を負いながらも、何とか生還したのだが、そのとき負傷した箇所が脊椎で、ダールは生涯、後遺症に悩まされたという。ベリャーエフも脊椎カリエスだったのは前述の通り。首と脳の違いはあるにせよ、死後も永遠に生き続ける話を書いた2人の作家が、ともに脊椎に不調を抱えていたことは興味深い。(こや)
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英米文学の名翻訳家だった大久保康雄の手になる「シャーロック・ホームズの冒険」(アーサー・コナン・ドイル著)が、このたび活字が大きく読みやすいトールサイズの上下分冊となって再刊された(2015年4月、ハヤカワ・ミステリ文庫刊)。大久保は1987年に没しているから、「新訳」という訳にはいかない。「新版」、つまり1981年6月に同文庫で刊行されたものの新装版であるが、今回読み返してみて、21世紀の今日でも全く古びていない大久保の邦訳に改めて驚かされた。
名作を名訳で読み返すと、かつて気づかなかった色々なことが見えてくる。例えばホームズものの中でも1、2を争う傑作とされる「赤毛連盟」。エラリー・クイーンが1946年に選んだミステリ短編ベストテンで2位。同じくクイーンが1950年に選んだ、いわゆる「黄金の12」で3位。江戸川乱歩の英米短編傑作集計で6位。同じく乱歩の有名な短編ベストテン「奇妙な味に重きを置くもの」でも3位に選ばれた傑作中の傑作だが、作中にこんな会話があることに初めて気づいた。
ストーリーはあまりにも有名だからあえて繰り返さないが、赤毛連盟の欠員募集の広告に応じた赤毛の質屋ジェイベズ・ウィルスンが、事務所で「大英百科事典」をAの項から順に筆記する名目だけの仕事を週4ポンドで請け負う。連日、順調に筆記を続けていたウィルスンだったが、ある日突然、赤毛連盟解散の貼り紙が事務所のドアにあった。驚いた彼が、1階に住んでいる家主の計理士の元を訪ねる場面である。
「赤毛連盟の解散のいきさつをたずねると、そんな団体のことなんか聞いたこともない、というんです。ではダンカン・ロスという男を知っているかとたずねると、そんな名前は聞いたことがない、という返事です。
『あの、ほら、4号室の紳士ですよ』と、わしは言いました。
『ああ、あの髪の毛の赤い人ですか?』
『そうです』
『あの人はウイリアム・モリスといって、弁護士です。新しい事務所ができあがるまで、一時しのぎに、ここの部屋を使っていたんです。昨日、引っ越しましたよ』」。
ここで唐突に出てくるウイリアム・モリス(William Morris)の名前。「この」モリスは「あの」モリスのことだろうか? どうもそうらしいのである。
1834年、イギリスに生まれ、詩人、デザイナー、マルクス主義者など多くの分野で活躍、1896年に没したウイリアム・モリスは、1859年生まれのコナン・ドイルよりも25歳ほど年長だが、同じく19世紀イギリスの卓越した知識人と言っていい。
「赤毛連盟」などドイルの読み切り短編が「ストランド・マガジン」に連載されていた1891年といえば、すでに晩年に差し掛かっていたモリスはケルムスコットプレスを設立、美しい装丁の書物を出版するなど、モダンデザインの先駆けとなる分野で活躍していた時期に当たる。それにしても、このモリスの名前が、なぜシャーロック・ホームズの1編に場違いのように登場するのか。
ここに興味深い研究があるので紹介したい。「アイリッシュ・フランケンシュタインと『赤毛同盟』:コナン・ドイルとアイルランド問題」。岐阜聖徳学園大学外国語学部教授の角田信恵が2011年に「岐阜聖徳学園大学紀要<外国語学部編>」に掲載した論文である。
角田はこの「赤毛連盟」(角田は「赤毛同盟」としている)の物語をいろいろな角度から読み解いている。いわく――「『赤毛』と『質屋』という特徴は、そのままアイルランド系とユダヤ系を連想させる」「赤毛同盟(The Red‐Headed League)という言葉自体が(中略)当時のさまざまな政治団体の名称が示すように(中略)政治的な結社にこそふさわしいものであった」「テクストの暗示のレベルは、この同盟が秘密結社であったであろうことをほのめかす。ホームズはウィルスンに彼がフリーメイスンの会員であることを当ててみせる」など、鋭い指摘が随所に見られるが、中でも次のウイリアム・モリスをめぐる分析には舌を巻く。
「ダンカン・ロスが赤毛同盟の事務所の家主にウイリアム・モリスと名乗っていたことの意味もここにある。1883年にロンドン警視庁捜査部に特別アイルランド部局が設けられた(中略)。その部局は、すぐにその監視の対象を、アイルランド人以外の外国人や無政府主義者、さらには社会主義者まで広げていた(中略)。1886年2月8日には、ウエスト・エンドで社会主義者による暴動も起きている。社会主義が自由主義のイデオロギーに対する脅威となっていたこの時代において(中略)工芸美術家であると同時に社会主義者であったウイリアム・モリスの名前は、アイルランド独立のための秘密結社の事務長の隠れ蓑にぴったりだったのである」
そういえば赤毛の質屋ウィルスンが、家主から引っ越し先と聞いた住所に訪ねていっても、そこには膝当てを作る工場があるだけだった。角田の卓抜な見解に接した後では、この膝当てを作る工場というあたりも、工芸美術家モリスに引っ掛けているようでニヤリとさせられる。
それにしても「赤毛連盟」という1編のミステリ小説の奥深さには驚かされる。赤毛の質屋に何らかの意味があることは分かるが、実在の同時代人ウイリアム・モリスまでがある意図を持って登場する。謎解きのメインストーリーの陰に、英国史から当時の社会情勢までを巧みに織り込むというコナン・ドイルの芸当に、しばし堪能させられた。(こや)
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岡山といえば、1964年から現在まで50年以上にわたって「岡山文庫」を発行し続けている文教県である。同文庫には「岡山の植物」や「岡山の俳句」などの書名が並び、自然と文化のライブラリーとなっているが、昨年そのラインナップに素晴らしい1冊が加わった。
岡山県立図書館副館長の岡長平が書いた「カバヤ児童文庫の世界」(2014年2月、日本文教出版株式会社刊)。戦後の子ども文化史にその名を刻む「カバヤ児童文庫」について詳細な研究を試みた労作である。以下、同書を参考に、カバヤ児童文庫の概要を見ていきたい。
カバヤ児童文庫は、1952年(昭和27年)8月から1954年(昭和29年)5月まで、わずか2年足らずの間に174冊(実物未確認の巻が未刊だったとすれば131冊という説を岡は述べている)を週刊ペースで刊行した児童向け文学全集だった。1冊あたりの発行部数は最低5万部で、人気の号については50万部を超え、総発行部数は2500万部に達したという。本来なら、講談社の「世界名作全集」(1952年~1962年、全180巻)や偕成社の「世界名作文庫」(1950年~1956年、全140巻)と肩を並べる、日本の児童文学出版史上、特筆すべき大事業だった。ところが意外に知られていないのは、これは岡山県の菓子メーカー「カバヤ食品」がキャラメルの景品として作ったシリーズだったから。書店で扱われる出版物ではなかったのである。
カバヤ食品は1946年(昭和21年)、岡山県で創業された。明治時代に開業した水あめ製造業「林原商店」社長の林原一郎と、岡山駅前で喫茶店「河馬屋」を経営する前田政二が、店舗の裏でキャラメルやキャンディーなどの菓子製造販売を始めたのが最初である(社名もそこから来ている)。敗戦間もない昭和21年当時、キャラメルは国の統制品で、進駐軍の特需品か都道府県の配給品として供給されるのみだった。日本人は甘いものに飢えていた。
1949年(昭和24年)に水あめの統制が撤廃され、キャラメルが自由販売になると、たちまち200メーカーもの零細業者が乱立した。しかしそれらの業者も、砂糖の規制撤廃によってキャラメル生産が過剰になったため、淘汰されていく。
残ったメーカーは大手のグリコや森永製菓、明治製菓などを除けば数えるほどになった。西のカバヤ食品と東の紅梅製菓はその中でも頭一つ抜きん出た存在だったが、先細りになるキャラメルの販売促進を図るためには何か手立てを考えないとならない。そこでカバヤ食品が考えたのは、キャラメルを買うとおまけに本がもらえる、というキャンペーンだった。岡は著書で次のように書いている。
「昭和27(1952)年4月、カバヤ食品に宣伝課長としてスカウトされ入社した原敏は、知り合いの日本写真印刷の役員から『キャラメルの景品として本をやってはどうか』というアドバイスを受けた。当時は多くの業者が、キャラメルの販売促進のため熾烈な景品合戦を展開していたが、それらは、カードを集めるとキャラメルがもう一つもらえるというもので、そのことが子どもたちの射幸心を煽ると、学校や保護者から不評だった。
しかし『本』なら学校を味方にできるのではないか―。しかも、子どもたちに本を読ませることができる。そう考えた原は、社長の林原一郎に相談し、即決で了承を得た。京都の日本写真印刷内にカバヤ児童文化研究所を設けて、原が常務理事事務局長となり、できあがった本をカバヤ食品が買い取るという格好にした」
了承を得たはいいが、ここからカバヤ児童文庫編集者・原の経費節減への努力が始まる。本の体裁はB6判125ページのハードカバーで統一。キャラメルの景品であっても、子どもたちにきちんとした本を与えたかったからだが、1冊の文庫原価30円(以下、値段は当時)を捻出するため、キャラメルを薄く削って小さくして生産原価を抑えたという。
原稿料については、児童文学作家にオリジナル作品を依頼することなどとても無理。そこですでに著作権の切れた世界の名作のリライトなら学生アルバイトでもできるし、経費も最低限に抑えられる。400字詰め原稿用紙100枚で1冊として原稿料は2万円、表紙イラストがカラーで1万円、本文中の挿絵も1万円――その条件で書き手を募集したところ、文学志望の青年や学校の教員たちから執筆希望が殺到した。
「『作』も『画』もすべて匿名で、カバヤ児童文化研究所の編集という格好にしたため、今となっては書き手が誰だったかを知るすべもない」と岡は書いている。
キャラメルが運んでくる文化、カバヤ児童文庫はこうしてスタートした。岡の書いた詳細な作品解説によれば、1952年8月3日発行の第1巻第1号はシャルル・ペロー原作の「シンデレラひめ」である。「ペロー童話集」から表題作と「もりのなかのねむりひめ」「おやゆびこぞう」の3編を収録している。その後、カルロ・コッローディ「ピノキオの冒険」、エドモンド・デ・アミーチス「母をたずねて クオレより」、マーク・トウェイン「乞食と王子」、ヤーコブ&ウィルヘルムのグリム兄弟「しらゆきひめ」など名作中の名作が続き、現存を確認できる最後の号
――1954年5月9日発行の第12巻第3号のルイザ・メイ・オルコット「花の少女」で、カバヤ児童文庫は2年弱の歴史に幕を閉じる。
ちなみに日本文学は第2巻第1号の「たけとり物語」が最初で、あとは森鷗外「安寿姫」と曲亭馬琴「里見八犬伝」しかない。カバヤ児童文庫は世界の名作のリライトシリーズだったわけである。それは海外文化への憧憬というよりも、日本のイキのいい近代文学を使うことが出来ない、経費節減という制約のなせる業だったかもしれない。(こや)
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第55回 「細い線」のミステリー?(エドワード・アタイヤ)
「男はたったいま1人の女を殺してきた、何の動機もなく、親友の妻を! 不安に怯えるというより、何も感ずることができないほど男の心は虚ろだった」――エドワード・アタイヤ「細い線」(文村潤訳、1977年5月、ハヤカワ・ミステリ文庫刊)の裏表紙の紹介文はこんな書き出しで始まる
(以下、ストーリーに触れるので未読の方はご注意を)。
女の死体はすぐに発見されるが、執拗なはずの警察の捜査の手がなぜか男には及ばない。「捕まることへの怖れよりも、このまま行けば完全犯罪が成立してしまうという現実が男の心を圧迫しはじめた。誰かに告白したい!」。
男は耐え兼ねて自らの犯罪を吐露するが、打ち明けられた妻も親友も警察には伝えない。夫の被害妄想を疑ったり、殺された妻の身持ちの悪さを非難したりするばかり。男はついに自首を決意する。そうなったら家庭はめちゃくちゃになる。妻は夫を青酸カリで殺害、その死はノイローゼの果ての自殺として処理された。
わが国の成瀬巳喜男監督(1966年、「女の中にいる他人」)、フランスのクロード・シャブロル監督(1971年、日本未公開)という名匠によって映画化されているほどだから、「細い線」(原著1951年刊)は紛れもなく世界ミステリー史上に残る名作である。が、成瀬の作品は男を演じた小林桂樹よりも、むしろ妻を演じた新珠三千代のほうが光る女性映画となっていた。
果たして「細い線」をミステリー小説と呼んでいいのだろうか。そんなことを考えていた折、評論家・杉江末恋の刺激的なブックレビュー集「路地裏の迷宮踏査」(2014年6月、東京創元社刊)に収められている「アタイヤにつながる線」を読んで驚いた。エドワード・アタイヤの知られざる側面が書かれていたのである。
「数学のノーベル賞」としてよく知られているフィールズ賞。この賞を1966年に受賞したマイケル・F・アティヤ卿という人がいる。現代最高の数学者の1人であることは間違いなく、1983年にはイギリス王室からナイトの称号も贈られている。このマイケルの父が、「細い線」を書いたアタイヤその人だったのである。アラブ言語圏の発音でより正確に表記すれば、1903年生まれのレバノン出身の歴史研究家、エドワード・アティヤとなる。杉江はこう記している。
「アタイヤには『細い線』のほかにも犯罪小説の著書が複数あるが、一般的には自伝An Arab Tells His Story(1946年)と、アラブ諸国の歴史風土を綴ったルポルタージュThe Arabs(1955年)の作者として知られている。特に後者は、1948年に起きたパレスチナ難民の国外大量脱出が、パレスチナ人の自発的な選択によるものか、イスラエル軍による迫害によって引き起こされたものかという論争の、重要な論拠として扱われた。
アタイヤは同書で、イスラエル軍による大虐殺があったことを指摘したのである」。さらに杉江は彼について「戦後になってアラブ諸国の政治的協力機構であるアラブ連盟のロンドン・オフィスに職を得て、以降はイギリスに定着した」とも書いている。アタイヤのこんな側面は、アラブ問題に詳しい専門家以外、わが国でほとんど知られていないはずである。
振り返ってみれば、「細い線」を日本に最初に紹介したのは江戸川乱歩だった。1953年2月号の中央公論に掲載した「最近の英米探偵小説」の一節にこうある
――「エドワード・アタイヤの『細い線』について記すと、著者アタイヤはシリヤ人で(中略)この作は彼の処女作である。これも『サスペンス小説』と銘うたれているもので、純探偵小説ではなく、殺人犯人の恐怖を描いた犯罪心理小説だが、そういうものとして相当の感銘を受けた。新分野を開拓したというようなものではなく、従来からある型にはちがいないが、テーマが異常で、書き方も清新であり、サスペンスがきわめて強く、近来になくおもしろく読んだ」。
あの乱歩がアタイヤと書けばアタイヤになる。レバノン人でなくシリヤ人と書けばシリヤ人にもなるだろう。「細い線」について、わが国では長年にわたって「犯罪心理小説」「サスペンス小説」という乱歩の説が踏襲されてきたわけである。
「細い線」は、余技といっては言い過ぎだが、要するにミステリーが本業ではないアラブ問題の専門家エドワード・アティヤが書いた小説だったのだ。その点を考慮すれば、ちょっとうがった見方ができないこともない。
「細い線」というタイトルは作中、男が妻に告白する次の言葉から取られている――「どこかに僕の越えた細い線があるような気がしているんだ、幻想と現実との間にある、ごく細い線が、恐ろしく大事な線がね。そして、それをどうして越えてしまったのか、僕にはわからない。それにしても、それを越えることはいともやさしかったように思える。今線のこちら側にいたかと思うと、次の瞬間には向こう側におり、そのときには彼女は死んでいたんだ」。
原題はTHE THIN LINEという。人間の犯罪心理の中にある「線」について語られているので、「細い線」の訳題に誤りはないが、LINEには「国境線」の意味もある。
1948年2月、エドワード・アティヤも所属していたアラブ連盟の加盟国がカイロでイスラエル建国の阻止を決議し、それをきっかけに内戦が勃発、やがて第一次中東戦争につながっていく。アティヤの1955年の著作はその辺の事情に迫ったルポルタージュだった。それに先立つ1951年の小説のタイトルが「細い線」である。そこには「細い国境線」を越えて、紛争の渦中にあった「パレスチナ・イスラエル問題」の意味が、まさしく込められていたのではないだろうか。(こや)
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