第49回 「長方形の部屋」がはらむ問題 (エドワード・デンティンジャー・ホック)
野村胡堂は「銭形平次捕物控」シリーズを生涯に383編、書いたといわれる。これが同一作家による同一キャラクター作品の最多世界記録だろうが、20人以上のシリーズキャラクターを生み出し、総数約1000編という数の短編を残した、とんでもない作家がアメリカにいた。長編はわずか8編のみ(異説あり)。1955年のデビューから2008年に死去するまで、ほとんど短編のみを書き続けていたというから驚く。エドワード・デンティンジャー・ホック(1930年-2008年)である。
特に有名なキャラクターを挙げてみれば、ニック・ヴェルヴェット(怪盗ニック)、ジュールズ・レオポルド警部、サム・ホーソーン医師、オカルト探偵サイモン・アーク、などなど。それぞれ数巻に及ぶ作品集が日本でも出版されているから、読んだことがあるという方も多いだろう。短編小説の執筆だけで生計を立てている稀有な作家として有名だった。
このホックの代表作に「長方形の部屋」(The Oblong Room)という短編がある。「セイント」誌の1968年7月号に発表され、MWA賞の最優秀短編賞を受賞している。キャラクターでいえばレオポルド警部シリーズの1編である。日本では1973年6月に早川書房から刊行された伝説的な名アンソロジー「37の短編」(世界ミステリ全集 第18巻)で初めて訳された。以下、ストーリーに触れるので未読の方はご注意を。
ある大学の学生寮で殺人事件が起こる。殺されたのはラルフ・ローリングスという大学2年生の男。殺したのは同室のトム・マクバーンという、やはり大学2年生の男。容疑者と被害者はもうはっきりしている。問題はここからで、マクバーンは隣室の住人に発見されるまで22時間もローリングスの死体と一緒にいた。それはどうしてなのか。そして、仲が良かったはずの同室の友人をどうして殺したのか。レオポルド警部がガールフレンドや隣室の住人ら関係者から話を聞いて回っても、その「なぜ」の部分が一向に見えてこない。
つまりこの作品は事件の犯人探しがテーマなのではなく、犯行の動機探しがテーマなのである。謎解きの本格推理小説ではない。というより推理小説でさえないかもしれない。
犯人のマクバーンと話し合ったレオポルド警部は、やがてこう結論づける。ローリングスが自分の心臓を刺すように、マクバーンに言ったのだ――と。ではマクバーンはどうして死体のそばに長い間じっとしていたのか? ラストはこう締めくくられる。「待ってたのさ」レオポルドは目を宙に向けたまま、静かに言った。「ローリングスがよみがえるのをね」。
「長方形の部屋」というタイトルは、エドガー・アラン・ポーの短編小説「長方形の箱」からインスパイアされている。作品の中でも触れられていて、この部屋の形はポーの小説にあった長方形の箱――つまり棺桶を思わせる。まさにローリングスの墓場だ、とマクバーンも答えている。ここが肝心の部分で、「37の短編」にこの作品を選んだ評論家の石川喬司は、選出の理由をこう述べている(同書巻末の座談会「短篇の魅力について」より)。
「石川 最後の数行がきいていると思って取ったんですがね、この場合は、つまり、いまでもそうだけれど、アメリカのヒッピーというか、神なき世代、そういう連中の行動を解くカギみたいなものが、ミステリの形で出かかっているんじゃないかという気がしたのです」
もちろん反対意見もある。同じ座談会において、翻訳家の稲葉明雄のこの作品に対する評価はかなり低い。
「稲葉 (中略)こういう形式のものは、日本でも外国でも一般の小説に古くからありますね。それを新しい風俗と結びつけたというにすぎないのじゃないかと思うんですが」
この稲葉の見解を認めながら、石川は自説を続ける。
「石川 (中略)因果関係とか、現実の生と死の見分けのつかなくなった狂人という形で、これまであったわけです。こんどはもっと“狂気”というものが個人の内面だけのものじゃなくて、時代の産物じゃないかという形で描いていると思ったんですけれども」
さて――現在のわれわれから見ると、このホックの「長方形の部屋」はそれほどの出来ばえの作品とは言えないかもしれない。しかし発表された1968年という時代を考えれば、大きな問題を提起しているように思われる。
殺されたローリングスは、教祖のようにマクバーンの精神を支配していた。マクバーンは、ローリングスのためならどんなことでもする、命をかけてもあの男を信じる、と語っていた。そしてローリングス自身の指示によって彼を殺した後で、マクバーンは彼の再生と復活を願ってずっと待ち続けたのだ。これはすでにカルト指導者と信者の宗教的な信頼関係である。
思い出してほしい。ホックの短編が書かれた翌年の1969年には、全米を震撼させたチャールズ・マンソン・ファミリーによる女優シャロン・テートらの惨殺事件が起こっている。カルト指導者のマンソンが、自分のファミリー(つまり信者)に命じて無差別殺害を実行させたのだ。マンソン事件だけではない。1960年代から70年代にかけて、カルト指導者が関与した同様の犯罪が全世界で多発するようになった。
その意味で、石川が前出の座談会でカルト宗教の狂気を「時代の産物」ではないか――と読み取っていたことは卓見であろう。そのメッセージを時代に先んじて、しかもキャラクターものの短編推理小説の中にそっと潜り込ませたホックの先見の明は、大いに評価されるべきである。(こや)
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第48回 帰ってきた「かもめのジョナサン」 (リチャード・バック)
かつてのブームに比べるとまだささやかなものだが、「かもめのジョナサン 完成版」(2014年6月30日、新潮社刊)が快調なスタートを切っているという。7月31日付読売新聞首都圏版夕刊1面の広告には、「発売たちまち1位店続出 7万部突破!」の文字が躍っていた。40年前に読んだよ、という年配の読者も多いと思うが、今回はジョナサン・リヴィングストンという1羽のかもめの話に少しだけお付き合い願いたい。
同書の著者リチャード・バックは1936年イリノイ州生まれの元米空軍パイロット。除隊して飛行士などをしていたが、1970年に発表した「かもめのジョナサン」が全世界で4000万部を売る大ベストセラーとなった。日本では1974年6月、五木寛之の「創作翻訳(創訳)」として新潮社から出版され、最終的に260万部を記録している。
今回の「完成版」は、元版のパート1~3に、新しくパート4(結末)を付け加えたものである。著者バックの「完成版への序文」によれば、パート4は当時すでに書き上げられていたが、作者があえて外した(「物語にこの結末が必要だとは信じられず、どこかへ置きっぱなしにした」)のだという。
あらすじをたどっておこう。餌をとるために飛ぶという目的に疑念を持ち、飛ぶこと自体に本来の価値を見出したジョナサンは、危険な高速飛行を繰り返し練習したために、仲間や長老から異端視され、群れを追放されてしまった。それでも飛行練習を繰り返していた彼は、やがて光り輝くかもめに導かれてより高い次元へと上っていく(パート1)。
そこには飛ぶことの歓びに目覚めたかもめたちがいて、教官のサリヴァンの指導を受けたジョナサンは高度な飛行技術を習得する。また、長老の張(チャン)からは「天国とは、場所ではない。時間でもない。天国とは、完全なる境地のことなのだから」という教えと、瞬間移動(テレポーテーション)の能力を授かる(パート2)。
そしてある日、ジョナサンは弟子になったかもめのフレッチャーたちを連れて下界に戻る。追放かもめが戻ってきたぞ! 無視しろ! と群れのかもめたちに通達が出るが、ジョナサンの弟子になるかもめは次々に増えて行った。岩にぶつかったフレッチャーを蘇生させたことで、ジョナサンはかもめの群れから悪魔と恐れられ、2羽は遠く離れた場所に身を隠す。やがてジョナサンは遠い彼方に消え去り、後を継いだフレッチャーが若いかもめたちの指導者となる(パート3)。
40年前の元版はここで終わっていた。「無限なんですね、ジョナサン、そうでしょう? 彼は思った。そして微笑した。完全なるものへの彼の歩みは、すでにはじまっていたのだった」というフレッチャーのモノローグで物語は締めくくられている。
かつてこの小説や映画「わらの犬」などを取り上げて、「あのころは東の風が西に向かって吹いていたのだ」と指摘したのは、評論家の故・瀬戸川猛資だった(「夢想の研究」、1993年2月、早川書房刊)。
瀬戸川は「かもめのジョナサン」にタオイズム――西欧化された道教の影響を見ていた。道教は漢民族の伝統的な宗教である。中心概念の道(タオ)とは、世界を「精神と物質」に分離化してとらえる西欧的二元論のいわば対極にある考え方だ。「万物の合一性と相互関連性を自覚し、孤立した個としての自己を超越して究極のリアリティーと一体化することにある」というのが、タオイズムの基本的理念である。
そうした観点から「かもめのジョナサン」を読んでみると、ジョナサンにテレポーテーション(空間の超越、つまり万物の合一性につながる)を指南した長老かもめは張(チャン)という東洋名だったし、死んだフレッチャーが蘇生するのは、道教の理想とする不老不死(仙人になること)を象徴しているとも読める。実は70年代の英米文化を席巻したタオイズムの先駆けのような小説なのである。
さて、そこで今回の完成版で追加されたパート4を見てみよう。新しく師となったフレッチャーだが、ジョナサンから継承した自由と飛行の伝道が思うように進まなくなっていく。若いカモメたちは飛ぶ練習をするよりも、フレッチャーにジョナサンのことを聞きたがったのである。こんな調子だ――「ひとたび、メッセージを学ぶことに興味を持つと、彼らは厄介な努力を、つまり訓練、高速飛行、自由、空で輝くことなどを怠るようになっていった。そして、ジョナサンの伝説のほうにややもすれば狂気じみた目を向け始めた。アイドルのファンクラブのように」。
直接ジョナサンから学んだ弟子たちも、やがては次々に世を去っていく。そしてフレッチャーが最後に消えたとき、「ジョナサンの聖なる言葉」だけが残った。そのあたりを作者バックは序文で「ジョナサンを慕うカモメたちが儀式ばり、頭でっかちになって、飛行の精神を形骸化していくだって? これは違う!」と、当時を振り返って強く自己否定している。ではなぜ今、あえて発表したのか。
これはパート4をどう読むか、ということにつながるが、ラストの死を意識した若いかもめのアンソニーの前に、驚異的なスピードで飛ぶ謎のかもめが現れる。そして「ジョナサンだ」と名乗る。つまりジョナサンの偶像しか知らない信者の前に、時を超えてジョナサンの実像が復活する。これはタオイズムで言う「神仙」の究極の姿のようにも思われる。「何だ、俺はちゃんと書いていたじゃないか」と作者バックは感じたのかもしれない。40余年に及ぶパート4の封印を解いた理由は、おそらくそこにある。(こや)
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第47回 「殺人演技理論」とスタニスラフスキー・システム (ロバート・ブロック)
以前も当コラムで紹介した、扶桑社海外ミステリー文庫の短編集「予期せぬ結末」シリーズの刊行が、いよいよ佳境に入ってきた。1のジョン・コリア「ミッドナイト・ブルー」、2のチャールズ・ボーモント「トロイメライ」に続いて、この6月、「予期せぬ結末3 ハリウッドの恐怖」が出版された。満を持して巨匠ロバート・ブロックの登場である。ロバート・ブロックは、日本では主にアルフレッド・ヒッチコック監督の「サイコ」の原作者として知られているが、作家としてのキャリアは長く、しかも多岐にわたっている。インターネット資料などから、プロフィルをざっとまとめてみよう。
ロバート・アルバート・ブロック(Robert Albert Bloch 1917年4月5日 -1994年9月23日)は、アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ生まれの小説家、SF作家、ホラー小説作家、脚本家および映画原作者。父ラnファエル・(レイ)・ブロックは銀行員、母ステラ・ローブは社会活動家で、両親ともにドイツ・ユダヤ系アメリカ人である。パルプ雑誌「ウィアード・テールズ」の熱烈なファンで、同誌に掲載されたハワード・フィリップス・ラヴクラフトの作品に感銘を受け、1935年、同誌に「The Feast in the Abbey」を発表した。17歳にしてデビューというから驚く。この時期のブロックは短編小説を数多く執筆し、アンソロジーに作品が収録されるパルプ雑誌界の人気作家であった。
その時代を経て、ブロックを一躍有名にしたのは、1959年にアルフレッド・ヒッチコック監督の映画「サイコ」の原作を書いたことである。 ただし脚本などで協力した映画は、「サイコ」以外は英国アミカス・プロなどのB級ホラー作品が多かった。1959年、「地獄行き列車」(That Hell-Bound Train)でヒューゴー賞の短編小説部門を受賞。1994年9月23日にカリフォルニア州ロサンゼルスで没した。
さて、そこで「予期せぬ結末3 ハリウッドの恐怖」である。冒頭に収められた短編「殺人演技理論」について以下に書くが、ネタばれになるので未読の方はご注意を。
ミステリー作家の夫と意に添わない結婚をした妻が、劇団俳優の愛人と謀ってある犯罪を計画する。作家は自作に登場する絞殺魔が現実に現れ始めたと妻に訴える。その絞殺魔は俳優が扮したニセモノなのだが、半ばノイローゼになった作家は精神科医の元に相談に訪れることになるだろう。 そこを狙って絞殺魔に扮した俳優が精神科医を殺す。作家は自作のキャラクターが現実に現れて殺人を犯したと主張するが、もちろん警察は信じない。そしてノイローゼの作家は殺人の罪を着せられ、刑務所に収監される――。
そういうシナリオだったが、なんと俳優は精神科医だけでなく、当の作家までも殺してしまった。「なぜ殺してしまったの。罪をかぶせる人がいなくなって、私たちが怪しまれるじゃない」となじる妻に、俳優は襲いかかって彼女の首を絞めてしまう。かん高い笑い声を上げながら――。
このストーリー説明だけでは意味がよく分からないと思うが、「Method for Murder」という原題に読解のヒントがある。妻の愛人であるこの劇団俳優は、実はスタニスラフスキー・システムの熱烈な信奉者であった。
スタニスラフスキーとは、言うまでもなくロシアおよびソ連の俳優、演出家であったコンスタンチン・スタニスラフスキーのことである。彼は「俳優の感情や動作を演じる人物と完全に同一化してその人物になり切る演技法」を作り上げ、世界の演劇・映画人たちに多大な影響を与えた。
妻の愛人の俳優はその「なり切る演技」を崇拝するあまり、精神に異常をきたしてしまい、演技ではなく本物の絞殺魔(作家の作中人物)になり切ってしまったわけである。
ロバート・ブロックともあろう作家が何とバカな話を――と一笑に付せないのは、短編が発表されたアメリカという国と、1962年という時代に理由がある。スタニスラフスキー・システムがいちばん受け入れられたのは戦後のアメリカにおいてだった。
1920年代、スタニスラフスキーの演技理論に感銘を受けたアメリカ実験室劇場の学生リー・ストラスバーグらは「グループ・シアター」を設立、スタニスラフスキー・システムの普及に当たる。戦後の1948年、演劇学校「アクターズ・スタジオ」を創設したストラスバーグは、映画監督のエリア・カザンらを招き、スタニスラフスキー・システムをより大胆に体系化したメソッド演技法を確立していく。
つまりブロックがここで短編のタイトルにした「Method」とは、そのメソッド演技法のことなのである。この理論は「役柄の内面に注目し、感情を追体験することなどによって、より自然でリアルな演技・表現を行う」というもので、スタニスラフスキー・システムをさらに発展させている。
映画「波止場」で自分に銃を突きつけた兄をなだめるマーロン・ブランドや、「エデンの東」で父親に泣きつくジェームズ・ディーンの演技を思い浮かべてもらえば分かりやすい。やがてアクターズ・スタジオはポール・ニューマン、マリリン・モンロー、ニューシネマのダスティン・ホフマンら大スターを輩出し、メソッド演技法は1950年代から1960年代にかけてアメリカ演劇・映画界の主流となっていく。「殺人演技理論」の劇団俳優も、大スターの一員となるべくメソッド演技法を必死に学んでいた一人だったのだろう。
ただし、メソッド演技法には批判も多くあって、特にイギリスの伝統的な俳優陣――ローレンス・オリヴィエらは強く反対の立場を述べている。リアルな演技を心がけるあまり、薬物依存になるなど、精神や肉体を病んでしまった役者も多いからだ。あるいは「作中人物である絞殺魔になり切ってしまう俳優」を描いたロバート・ブロックこそが、ほかの誰よりもその批判者の代表格だったのではないか。(こや)
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第46回 ソーセージ並みに売れた名作 (ガブリエル・ガルシア=マルケス)
4月17日、メキシコ市内の自宅でガブリエル・ガルシア=マルケスが亡くなった。享年87歳だった。晩年はリンパ腫や認知症を発症し、闘病生活を送っていたと伝えられる。読売新聞4月18日付首都圏版夕刊の紙面は、偉大な作家の死をこう伝えている。「コロンビア北部アラカタカ生まれ。ボゴタ大法学部に進んだ後、短編小説を書くようになり中退。新聞記者として働きながら創作を続け、1955年に処女作『落葉』を発表。67年に出版された『百年の孤独』がベストセラーとなり、世界のラテンアメリカ文学ブームを先導した。82年にノーベル文学賞受賞」。
マルケスの代表作は言うまでもなく長編「百年の孤独」である。20世紀文学の傑作とされるこの小説についても、同紙は触れている。「代表作『百年の孤独』は、カリブ海沿岸の架空の町マコンドを舞台に、開拓者一族ブエンディア家の波乱に満ちた100年の歴史を描いた長編。超現実的で幻想的な描写を織り込む手法『魔術的リアリズム』を駆使したことで知られる。25を超える言語に翻訳・出版され、3000万部以上を売り上げたとされる。日本でも大江健三郎さん、池澤夏樹さんらに影響を与えた」。
新聞記事なのでどうしてもさらっとした書き方になるのだが、実際の「百年の孤独」はかなり難解な小説である。ざっと読むだけではストーリーやプロットがうまくつかめない。しかもラテン民族特有の舌を噛みそうな人物の名前が、血族100年の歴史の中で頻繁に登場するから、それが親なのか孫なのか、読んでいると頭が混乱してくる。そんな小説が世界のあちこちで名作と評価され、大ベストセラーになり、まさしく「ソーセージ並みによく売れた」のはなぜか。
先の記事で影響を受けた作家の一人とされる池澤夏樹は、4月21日付読売新聞首都圏版朝刊の文化面に「追悼 ガルシア・マルケス」と題する一文を寄せた。いかにも池澤らしい見取り図の立て方なので、長くなるが引用する。
「彼(マルケス)はまったく新しい文学の提唱者だった。小説は19世紀のヨーロッパで完成された。先進国の都市で生きる市民たちをリアリズムで描いて人間の本質を求める。フロベールとトルストイとジェイン・オースティンが代表」
「20世紀になると『ユリシーズ』を書いたジョイスと『失われた時を求めて』を書いたプルーストが出て、小説にできることをすべてやってしまった。言わば正規戦は終わり、散発的な掃討戦だけが残った」
「そういう黄昏の時期に『百年の孤独』というとんでもない作品が現れた。先進国でもなく、都市でもなく、正統リアリズムではないのにおそろしく魅力的。マコンドという架空の村に暮らす一族とその周囲の人々の100年を嘘みたいな口調で語る荒唐無稽な物語。エピソードがジャングルのように繁茂して、読む者はしばしば道に迷う。その五里霧中体験のいかに楽しいことか」。
要するにトーマス・マンもジャン=ポール・サルトルもアルベール・カミュもすべて「散発的な掃討戦」の担い手であると語っているわけで、乱暴ではあるが、さすがは世界文学に精通した作家の見解である。そういえば池澤は30年前の1984年に「『百年の孤独』の諸相」という論文を書き、すでに精緻な作品分析を試みていた(「ブッキッシュな世界像」1988年4月、白水社刊に所収)。追悼文でも、「彼(マルケス)とその仲間たちが言うマジック・リアリズムは世界中で若い作家たちを勇気づけた。こんな風に書いてもいいんだとみんなが思い、文学のシーンが変わってしまった」と締めている。
マルケス本人は自作「百年の孤独」についてどんなふうに語っているのだろう。死去の報と前後して訳出された、ガルシア=マルケスの全講演集「ぼくはスピーチをするために来たのではありません」(木村榮一訳、2014年4月、新潮社刊)の中にこんな一節がある。
「38歳の時(20歳で本を書き、それまでに本を4冊出していたのですが)、私はタイプライターの前に腰を下ろして、次のような文章を書きました。『長い歳月が流れて銃殺隊の前に立つはめになったとき、恐らくアウレリャノ・ブエンディア大佐は、父親のお供をして初めて氷というものを見た、あの遠い日の午後を思いだしたにちがいない。』(鼓直訳。新潮社)
この一文が何を意味し、どこから生まれてきたのか、さらにどこへ私を導こうとしているのか見当もつきませんでした。ただ、本を書き上げるまでの18か月間、1日も書く手を休めなかったことだけはよく覚えています」(同書所収「スペイン語のメッセージで満たしてもらおうと開かれている心――カルタへーナ・デ・インディアス。2007年3月26日」より)。まあこれも、小説さながらのけれん味にあふれた語り口ではあるけれども。
最後に、木村榮一の指摘が大変面白かったので紹介しておきたい。木村は多くのマルケス作品を訳しているスペイン文学・ラテンアメリカ文学翻訳の第一人者だが、マルケス追悼に合わせる形で出版された新著「謎ときガルシア=マルケス」(2014年5月、新潮社刊)の中でこんなことを書いていた。
「(マルケスの)祖母がケルト人の血を引いていることを思い起こさなければならない。祖母は幼いガブリエル少年をつかまえて、亡くなった人たちが今も生きているように話し(中略)こわがらせたと言う。死者が今も別のところに生きているという考えはケルト系の人たちが持っている考え方で(中略)こうした死生観が幼いガブリエル少年に大きな影響を与えたことは言うまでもない」「つまり、ガルシア=マルケスにあって幻想は、頭の中で作られたものではなく、彼自身の血となり、肉となって体の中に溶け込んでいるのである」。
「難解ながらよく売れる」マルケス文学の源泉に触れるような、卓越した着眼であろう。(こや)
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第45回 フランス・ユーモア作家の教養
ピエール・ルイ・アドリアン・シャルル・アンリ・カミ
「カミは“イン・ザ・ワールド”――世界でいちばん偉大なユーモア作家だ。カミの本はどれも巧みなユーモアにあふれた傑作である。悲壮かと思うと滑稽で、高尚かと思うと珍妙で、そのふたつの相反するものが世界中の作者の卓越した腕前で交互に配される……。その笑いは万国共通のものである。世界じゅうの人間が理解できるものだ」
こう言ったのは、誰あろう、チャールズ・チャップリンその人である。史上最高の喜劇王から史上最大の賛辞を受けたのは、20世紀前半のフランスきっての人気ユーモア作家、ピエール・ルイ・アドリアン・シャルル・アンリ・カミ。長ったらしい名前のため、日本では昔から「カミ」で通っている。長編「エッフェル塔の潜水夫」や、シャーロック・ホームズのパロディー「ルーフォック・オルメスの冒険」シリーズなどが、かつて翻訳されている。
この人の経歴が面白い。エピソード満載の人生を送っている。最近出たカミの中編集「機械探偵クリク・ロボット」(高野優訳、2014年2月、ハヤカワ・ミステリ文庫刊)の訳者あとがきやインターネット資料から、彼のプロフィールをざっとおさらいしてみよう。
1884年6月20日、フランス南西部の町ポーに生まれる。彼の父シャルル・カミは当時28歳で、職業はセールスマン。一家の経済状態は良好であり、彼と3人の妹は中流階級に育った。ポーはピレネー山脈のふもとにあり、スペインに近い。そのせいか、小さいころは闘牛士になる夢を持っていた。父親の反対もあって、その夢はあきらめ、1903年、19歳のときにパリの国立音楽演劇学院で、コメディー・フランセーズの名優として知られたモーリス・ド・フェロディーに師事。だが修士の資格は得られないまま、オデオン座やテアトル・モンダン、リトル・パレス座などを転々とした。
結局、俳優としては大成しなかったわけだが、このあたり、若いころ同じようにイギリスの場末の舞台を転々としたチャップリンが、カミにシンパシーを感じるのもうなずける気がする。
頭角を現したのは、文章と絵のほうである。1910年、26歳のときに、葬儀店のための会報「挿絵入り 小さな霊柩車」という風変わりな新聞を創刊。この新聞は「『不死の存在』とされるアカデミー会員が不死であることを認めない唯一の新聞」という触れ込みで、ブラックユーモアにあふれる記事を載せて好評だったが、残念ながら隔週刊の第7号を発行したところで自主的に廃刊にしたという。
それが11月1日の「死者の日」だったというから、わが国の明治期の風刺戯画雑誌――「團團珍聞」「驥尾団子」の野村文夫や、「自殺号」を出して廃刊した「滑稽新聞」の宮武外骨などを彷彿させる遊び心の持ち主であったに違いない。
その後カミは「ジュールナル」「パリ・ソワール」紙などに小説やコントを寄稿し、40冊以上の著作を刊行する流行作家になっていく。彼はイラストも自分で描いた。アルフォンス・アレーやローラン・トポールなど、フランスには絵と文をどちらも物する作家が多い。風刺文学の一種の伝統なのかもしれない。
戦時中はナチスの台頭から逃れるため、生まれ故郷のポーの近くに引っ込むが、戦後はまたパリに戻って創作活動を行う。「機械探偵クリク・ロボット」はそのころ書かれた。晩年もユーモア・アカデミーの設立や国際ユーモア大賞を受賞するなど、活躍したが、1958年にパリでひっそりと亡くなった。享年74歳だった。
さて、そこで「機械探偵クリク・ロボット」である。2010年にハヤカワ・ポケット・ミステリで出たばかりの日本語訳が、早くも文庫になった。この「機械探偵」は、シリーズといってもわずか2編の中編しかなく、「五つの館の謎」が1945年、「パンテオンの誘拐事件」が1947年と、今から約70年前に書かれたものである。同書の訳者あとがきにあるように、まさに「過去からの贈り物」であって、現在から見ると、古めかしく色あせて感じる点も少なくない。
何よりもミステリーとしてテンポがゆるいし、暗号の謎解きにしても、フランス語つまり原文のダジャレになっているから、そのままでは日本語に移せない。訳者の高野は苦心して日本語のダジャレに置き換えているが、今ひとつ流れが良くない。昔からこの作品の存在が知られていても、なかなか日本に紹介されなかった理由はそのあたりにあるのかもしれない。
そうはいってもカミのユーモアのセンスはやはり傑出している。まずは「五つの館の謎」で登場したクリク・ロボットの生みの親の名前をジュール・アルキメデス博士にしたこと。あの古代ギリシャの数学者、物理学者、技術者、発明家、天文学者、アルキメデスの直系の子孫という設定だ。「円周率の近似値計算」や「アルキメデスの原理」などを考案した偉人の名前が、技術の粋を結集した「機械探偵」の存在感に輝きを与えている。
続いて感心したのは、「パンテオンの誘拐事件」で、墓が荒らされ遺骸が「誘拐」された4人の知識人の名前である。ヴォルテール、ジャン=ジャック・ルソー、ヴィクトル・ユゴー、エミール・ゾラ。百科全書派とされる18世紀啓蒙主義の哲学者2人に、19世紀ロマン派と自然主義の作家が1人ずつ。いずれも近代フランスの知性を支えた巨人である。
しかもジャン=ポール・サルトルの「実存主義」(じつぞんしゅぎ、エグジスタンシアリスム)ならぬ「実欣主義」(人生の快楽を謳歌する哲学。じつごんしゅぎ、エクシタンシアリスム)を提唱するA・B・C・D・E・F・ジェーなる人物も登場する。ボリス・ヴィアンが1947年に書いた「日々の泡」にもジャン=ソール・パルトルなる哲学者が登場するから、サルトル批判はこの時代の流行だったのかもしれないが、カミのユーモアの奥にある教養には思わず舌を巻く。(こや)
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