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2025/02/02 13:48 |
海外文学のコラム・たまたま本の話 「第44回 われ酒の酌をする侍者たらん」(ヘクター・ヒュー・マンロー)

第44回 われ酒の酌をする侍者たらん
(ヘクター・ヒュー・マンロー)

 ヘクター・ヒュー・マンローはスコットランド系のイギリス人。父がビルマ(現ミャンマー)の警察長官を務めていた関係で1870年、ビルマに生まれた。2歳のとき母に死なれて、兄と姉とヘクターの3人はイギリスに帰国、2人の伯母の世話になって育つ。どうもこの伯母たちがしつけに厳しく、ヘクターたちとそりが合わなかったらしい。
 ビルマの陸軍大佐を最後に退役してイギリスに帰国した父と、やがてフランス、ドイツ、スイスなどを旅行して回り、見聞を広めた。学歴らしきものはほとんどないという。24歳でジャーナリズムの世界に入り、海外特派員としてバルカン半島、ロシア、パリ各地の新聞社に勤務。38歳でイギリスに帰国したヘクターは、短編小説を発表し始める。短編135編と長編2編を残した後、第一次世界大戦が勃発すると、自ら志願してフランス戦線に出た。1916年、敵に銃撃され、46歳で名誉の戦死を遂げる。一説によれば、塹壕で戦友が煙草に火をつけたので「消せ」とどなった瞬間、弾丸が飛んできた。撃たれたのはヘクターのほうだったという。
 死後も彼の作品は世界中の人々に読み継がれ、O・ヘンリーと並ぶ20世紀の短編の名手として評価されている。中でも「開いた窓」(The Open Window)は最も著名な1編であろう。
 娘が来客に告げる――「もうすぐ伯母がまいります。3年前、猟に出かけたまま、沼地に飲まれて帰ってこない夫と弟たちと犬が、いつか帰ってくるのではないかと、ずっと窓を開けて待っているのです。内緒ですが、精神を病んでいます」。やがて伯母がやってきてその話の通りのことをしゃべるが、直後、本当に夫と弟たちと犬がずぶ濡れ姿で窓から入ってくる! 幽霊を見たショックであわてて逃げ出す来客。実はとっさの作り話が娘の得意技なのであった。
まるで、子供時代にそりが合わなかった自らの伯母への複雑な思いが反映されているような短編である。ユニークなのは、「開いた窓」ほか傑作の数々を執筆する際にヘクターが使ったペンネーム。「サキ」という。
 この変わった名前は、11世紀ペルシャの科学者、哲学者、詩人であるオマル・ハイヤームの4行詩「ルバイヤート」に基づいている。ただし命名の由来についてはそのまま鵜呑みにはできない。南アメリカ産のサルの一種に「サキ」というのがあって、そちらから名前をとったという説もあるが、これはうがった見方かもしれない。ともあれ「ルバイヤート」からの命名説をとれば、該当部分は以下の通り。

 「この道を歩んで行った人たちは、ねぇ酒姫(サーキイ)、
もうあの誇らしい地のふところに臥(ふ)したよ。
酒をのんで、おれの言うことをききたまえ――
あの人たちの言ったことはただの風だよ」
(「ルバイヤート」、オマル・ハイヤーム作、小川亮作訳、1979年9月、岩波文庫刊より)

 酒姫(サーキイ)については、こう註にある――「酒の酌をする侍者。普通は女でなくて紅顔の美少年で、よく同性愛の対象とされた」。
「ルバイヤート」は今でこそ世界的古典に位置づけられているが、19世紀後半まではそうではなかった。全く無名の作品だったのである。実は19世紀のイギリス詩人エドワード・フィツジェラルドが、1859年に「ルバイヤート」の英語訳をひっそりと自費出版してから火がついた。それについては前出の岩波文庫版「ルバイヤート」に詳しい。
「フィツジェラルドが、1859年にその翻訳を自費出版の形で初版わずかに250部だけ印刷した時には、若干を友人に分けて、残りはこれを印刷した本屋に1冊5シリングで売らせたのであったが、当時はいっこうに人気がなく、いくら値を下げても買手がつかないので、ついには1冊1ペニイの安値で古本屋の見切り本の箱の中にならべられる運命となった」(前掲書)
 最初はそんな状態だったフィツジェラルド訳「ルバイヤート」は、やがて識者の注目を集めるようになる。「ことに19世紀末から20世紀の初めにかけてオマル・ハイヤーム熱は一種の流行となって英米を風靡し、その余波は大陸諸国にも及んだ。ロンドンやアメリカには『オマル・ハイヤーム・クラブ』が設立され、またパリでは彼の名が、酒場の看板にまで用いられるほどであった」(同)

 つまりヘクター・ヒュー・マンローが生まれた1870年ごろというのは、オマル・ハイヤーム熱がちょうどイギリスを中心に高まってきた時期に当たるのである。長じて、彼が各地で新聞記者を務めていた19世紀末には、そのブームがピークに達していて、「ルバイヤート」を読まざる者は知識人にあらず、という機運がおそらく欧米中に広がっていた。ひょっとするとヘクター自身が新聞記事を書き上げた後、パリのオマル・ハイヤーム酒場で毎日のように一杯、引っ掛けていたかもしれない。
 時は20世紀初頭。欧米列強による帝国主義が推し進められる中、ヘクターは海外特派員を辞めてイギリスに引っ込み、自らの表現活動に入る。とすれば、ペンネームに「ルバイヤート」の酒姫の名前を借りてくることに何の躊躇があろうか。われ酒の酌をする侍者たらん――。主人に酒を注ぎながら「解き得ぬ謎」「生きのなやみ」「太初のさだめ」「万物流転」「無常の車」「ままよ、どうあろうと」「むなしさよ」「一瞬をいかせ」(「ルバイヤート」各章の表題)といった教えを授かるように、世界から物語を引き出し、練り上げ、紡いでいく。それが作家としてのヘクターの仕事であり、人生となった。そういえば、かのコナン・ドイルも「オマル・ハイヤーム・クラブ」に加入していたという話を聞いた。(こや)


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2014/04/14 11:58 |
コラム「たまたま本の話」
海外文学のコラム・たまたま本の話 「第43回 アダムとイブとテレビの話」(ジャージ・コジンスキー)

第43回 アダムとイブとテレビの話
(ジャージ・コジンスキー)

 「BEING THERE」(1971年)というタイトルを聞いて、ピンと来る人は少ないかもしれない。2005年1月に「庭師 ただそこにいるだけの人」(高橋啓訳)という、あまりパッとしない邦題で飛鳥新社から翻訳が出た長編小説である。
 作者はジャージ・コジンスキー(1933-1991年)。ユダヤ系ポーランド人で、ほぼ亡命に近い形でアメリカに移住し、作家活動を展開した。「BEING THERE」は、実は1970年代にすでに「預言者」というタイトルで日本でも翻訳が出ていたのだが、あまり知られていない。むしろピーター・セラーズの主演した映画「チャンス」(原題は「BEING THERE」、1979年)の原作として有名である。

 古い屋敷の庭師として住み込む孤児のチャンス(チャンスというのも本名ではなく、偶然によって生まれ落ちたから命名された)は、屋敷から外に出たことがない。すでに初老にさしかかっているが、いまだに読み書きが出来ず、庭の手入れ以外は一日中テレビを見ているのみ。やがて主人が死んでしまい、雇用記録どころか自分の存在証明すらないチャンスはこの家を出て行くことになる。
 チャンスは街に出るのが初めてで、道を歩いていると車にぶつかってしまう。この車に乗っていたのが、実は大統領とも親交の深い米金融界の重鎮ベンジャミン・ランドの若い妻、イブであった。それが縁でチャンスはランド邸に身を寄せることになる。「お名前は?」と聞かれたチャンスは、「チャンスです、庭師(ガーディナー)の」と答える。そのときから彼の名前は「チョンシー・ガードナー」となった。
 物語はここから急展開していく。病床にあるランドとともに大統領と対面したチャンスは、「植物の衰退の時期の後には成長の時期が自然に訪れる」と庭の手入れの心得を語る。この話が大統領に深い感銘を与える。大統領は植物の話を世界経済や金融政策の比喩ととらえたのだ。テレビに呼ばれたチャンスは同じ話をして聴衆や視聴者から大喝采を浴びる。
 その後、国連のレセプションに呼ばれ、ソ連大使など各国首脳とも交流を深めるが、何しろ戸籍も何もないから、この謎の人物が果たして何者なのか、米FBIはもとより、他国の諜報機関にもわからない。その空白の経歴によって、「過去の汚点に足をすくわれない人物」という理由から、チャンスは次期米大統領の最有力候補に挙げられるようになる――。

 結末は未読の方のために伏せておくが、これはまさしく1960年代のアメリカ社会の寓話になっている。登場人物やシチュエーションには、すべて何らかのメッセージが込められているようだ。まず主人公チャンスの存在をどうとらえるか。
 2002年2月、福岡女子大学文学部紀要「文藝と思想」第66号掲載の論文「ジャージ・コジンスキー『ビーイング・ゼア』(1971年)論――浮遊する『空白のページ』」の中で、筆者の馬塲弘利はこう書いている。
 「チャンスの幽閉されたこの『庭』には、当然、聖書の<エデンの園>へのアナロジーがある。チャンスの物語が日曜日に始まっていることは神の天地創造と重ねられている。聖書のアダムのように、彼は『庭の中では心配はなく安全で』『高く赤いレンガの壁で』外界から守られている」。そしてそのエデンの園を出たチャンスは自動車事故に遭い、ランドの妻に助けられる。彼女は洗礼名エリザベス・イブ(EE)。「もちろん、この妻のEEはエデンの園の<無垢なるアダム>を誘惑する<イブ>と重ねられていて、知的に障害があるだけでなく性的にも不能のチャンスを性的に誘惑しようとする女性である」と馬塲は鋭く指摘する。
 アダムとイブの寓話に、時代状況がさらに別の要素を加える。それはテレビの存在である。1960年代のアメリカはテレビというメディアが社会を支配した時代だった。ラジオデイズはとっくに終焉を迎え、新聞もナンバーワンメディアの座を降りていた。
 何しろチャンスは新聞を読まず(読めず)、一日中テレビばかり見ている男だ。屋敷でもランド邸でもテレビを見るだけの立場だった彼が、逆にテレビに出ることになった場面では、作者コジンスキーによってこんな考察がなされているのが興味深い。

 「チャンスは今、これまでの人生に出会った人々よりもはるかに多くの人々に見られていた。テレビ画面で彼の姿を見ている人は、自分と面と向かっている人物が誰なのか知らない。実際に会ったこともないのに、どうしてわかるだろう? テレビは人の表面しか映さない。と同時に、その肉体からイメージを剥ぎ取ってしまう」(高橋啓訳)
 テレビというメディアの本質を的確にとらえている指摘だ。実像でなく、実体のない虚像が物事の本質になる社会。エデンの園の住人であったチャンスにとっても例外ではない。彼の話す言葉はテレビを見て学んだものだから、いわば実体のない「テレビ語」のようなものである。
 つまり個性もなければ裏もない。彼が庭の手入れの話をありのままに語れば、裏がないぶん、聞く人々は経済動向の比喩と思い込んで疑いを持たない。そういえば映画「チャンス」のラストで、チャンス役のピーター・セラーズがセリフを言ったとたん、思わず吹き出してしまうNGシーンがあった。名優セラーズにしてからが、実体なきテレビ語をなぞろうとして笑いをこらえ切れなかったのだろうか。
 「BEING THERE」は、小説も映画も素晴らしい作品であった。ただし、1960年代のアメリカ社会を描いたものとしては、という条件がつく。1991年に没したコジンスキーが生きていたら、インターネットの蔓延する現代社会をどう描いただろうか。(こや)


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2014/03/09 15:47 |
コラム「たまたま本の話」
海外文学のコラム・たまたま本の話 「第42回 虹をつかむジェイムズ・サーバー」(ジェイムズ・サーバー)

第42回 虹をつかむジェイムズ・サーバー
(ジェイムズ・サーバー)

 映画「虹をつかむ男」が久しぶりにリメークされたというので話題になっている。1947年の最初の映画化ではコメディアンのダニー・ケイが主演。1939年、雑誌ニューヨーカーに発表されたジェイムズ・サーバーの原作はわずか10ページほどの短編(原題「The Secret Life of Walter Mitty」)だったが、脚本家のケン・イングランドとエヴェレット・フリーマンがプロットを大幅にふくらませ、名匠ノーマン・Z・マクロードが監督して一級品の喜劇映画に仕上げた。日本でも1950年に劇場公開されている(当時の邦題は「虹を摑む男」で、同年のキネマ旬報外国語映画ベストテン8位に入選)。
 今回の再映画化の邦題は「LIFE!」(本年3月、全国ロードショー予定)。雑誌「ライフ」の2000年の廃刊騒動をからめ、これまた原作をかなりアレンジして練り上げた独自のストーリーになっているらしい。うれしかったのは、映画の公開に合わせて原作「虹をつかむ男」を表題作とする短編集が文庫化されたことである(鳴海四郎訳、2014年1月、ハヤカワepi文庫刊)。かつて異色作家短篇集およびその新装版で出たジェイムズ・サーバーのオリジナル傑作選が、これで手軽に読めるようになった。

 この機会に、代表作「虹をつかむ男」を文庫版で読み直してみた。主人公Walter Mittyには「夢想にふける人」の意味がある――そう書いている英和辞典もあるほど本国では有名な作品である。現実では妻の尻に敷かれながら美容院や買い物に付き合わされる恐妻家のウォルター・ミティが、夢想の中では常にヒーローになる。「ある時は悪天候をモノともしない勇猛果敢な艇長、ある時はいかなる事態にも冷静に対処するスゴ腕の外科医、またある時は高潔なる射撃の名手、そしてまたある時は命知らずのパイロット……」(文庫版カバーより)。
 つまり現実で自家用車のスピードを出し過ぎて妻にしかられると、空想の中では悪天候の中でも勇敢にスピードを出して突き進む艇長になっているという次第。夢想と現実が尻とり遊びのように、交互にシニカルにつづられていくのが妙味である。

 翻訳した鳴海四郎は2004年10月にすでに故人となっていて、同書巻末の解説を鳴海に代わってH・Kなる署名の人物が書いている。中にこんな一節がある――「じつはサーバーは6歳のときに事故で片目の視力を失っており、また生涯にわたって残った目の視力の低下に悩まされていた」。驚いたので調べてみると、「『脳のなかの幽霊』を読む。」というインターネット記事の中にこうあるのを見つけた――「作家で諷刺漫画家のジェイムズ・サーバーは、6歳のとき、兄が投げたおもちゃの矢が右眼に突き刺さるという事故にあい、それ以来、右眼が見えなくなった。(中略)やっかいなことに、事故から何年かたって、左眼もしだいに衰えはじめ、35歳のときに完全に失明してしまった」。
 サーバーは1894年生まれ。とすれば1900年に右目の視力を失い、1929年には両目とも失明してしまったことになる。1929年というのは最初の著作「Is Sex Necessary?」(「Sexは必要か」「性の心理」などのタイトルでかつて邦訳あり)をE・B・ホワイトとの共著で出版した年である。
 失明といっても多少は見えていたのかもしれないが、作家としてのキャリアのほとんどを不自由な視力で過ごしたというのは驚くべきことであろう。しかもサーバーは文章だけでなくイラストやマンガも書く。それぞれの短編の扉や本文に描かれているユニークな自筆マンガは有名だが、今回の文庫版「虹をつかむ男」のカバーイラストもサーバー自身の手によるものである。満足にものが見えない状態で、長年ずっと文章や絵を描いていたのだろうか。
 実はサーバーは「シャルル・ボネ症候群」だったという説がある。シャルル・ボネ症候群とは視力の低下とともに、そこにないはずの人物、動物、建物などが見える症状のこと。脳には目から送られてきた映像を瞬時に認識し判断する必要があるから、処理時間を早めるために今まで経験してきた映像で補う働きがある。視覚システムに異常をきたすと、それをさらに補うため、脳は独自に像を作り始める。したがってかつて経験してきて、今は実際にそこにはない映像が見える気がする――という学説で、これを「幻肢現象」(ケガや病気で四肢を切断された人が、あるはずのない手や足の痛みを覚える症状)と類似したものと主張する学者もいる。

 「虹をつかむ男」の主人公ウォルター・ミティは、病院の前を通れば自分がスゴ腕の外科医になるし、新聞売りが裁判所の公判のニュースを叫ぶと高潔なる射撃の名手になる。雑誌の爆撃機の写真を見れば命知らずのパイロットになってしまう。ミティは目が見えているのだが、この症状はまさにシャルル・ボネ症候群に該当するのではないか。
 サーバー自身を長年にわたって悩ませた(あるいは楽しませた?)症状の経験が、おそらくミティという主人公のキャラクター造形には生かされている。

 ところで夢想部分の随所に「ポケタ・ポケタ」という擬音が登場する。それは水上艇のシリンダーの音であったり、手術室の麻酔器の音であったり、新式の火炎放射器の音であったりとさまざまだが、作品に見事な効果を与えている。原文ではpocketaとつづってある。pocketとはどうやら関係なさそうだが、夢想の中になぜわざわざ擬音を持ってきたのか、以前から気になっていた。サーバーがシャルル・ボネ症候群だったと考えると納得がいく。この症状が擬音をきっかけとして誘発されることは十分に考えられるからである。(こや)


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2014/02/11 15:34 |
コラム「たまたま本の話」
海外文学のコラム・たまたま本の話 「第41回 ジャック・リッチーの短編作法」(ジャック・リッチー)

第41回 ジャック・リッチーの短編作法
(ジャック・リッチー)

 帯には「『このミステリーがすごい!』第1位作家が、ものすごい手をつくした厳選短篇23篇!」とある。「すごい」が2つも続く、かくも仰々しいキャッチコピーを引っ提げて、先ごろ「ジャック・リッチーのあの手この手」がハヤカワ・ミステリの1冊として刊行された(2013年11月、早川書房刊)。「クライム・マシン」「10ドルだって大変だ」「ダイアルAを回せ」「カーデュラ探偵社」に続く、ジャック・リッチー5冊目のオリジナル短編集。しかも編者の小鷹信光が貴重な原文を入手して厳選したという、オール初訳の23編が収録されている。日本でリッチーの短編集が翻訳刊行されるのは3年ぶりだから、これは確かに2013年海外ミステリーの収穫の一つかもしれない。

 ジャック・リッチーは1922年、アメリカのウィスコンシン州ミルウォーキー生まれ。ミルウォーキー教員養成大学を卒業後、第二次世界大戦ではアメリカ陸軍に入隊していた。終戦後は家業の洋裁店を手伝っていたが、デビュー前のこの時期に短編小説をずいぶんと書き溜めていたらしい。
 1953年にニューヨーク・デイリー・ニューズ紙に掲載された「Always the Season」で作家デビュー。以後、亡くなる1983年までの30年間、「マンハント」「ヒッチコック・マガジン」「エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン」などのミステリー雑誌に毎月のように作品を発表し続けた。1961年発表の「クライム・マシン」は各種の短編アンソロジーに何度も収録されている名作だし、また1981年発表の「エミリーがいない」では翌1982年のアメリカ探偵作家クラブ(MWA)賞の最優秀短編賞を受賞している。

 奇妙なのはこれだけの売れっ子作家なのに、著作の出版では長らく不遇を囲っていたことである。生前に刊行された著書はわずか1冊、1971年の短編集「A New Leaf and Other Stories」のみ。これとて短編「The Green Heart」がウォルター・マッソー主演で映画化(「おかしな求婚」、原題は「A New Leaf」)されたことによる便乗出版だろう。
 生涯に350編を超える短編小説を残した作家としては、寂しい限りである。ちょっと器用な職人作家として、軽視されていたのだろうか。むしろ日本では生前、「クライム・マシン」1編を除いて知名度が低かったために、死後20年以上も経ってから再評価の機運が逆に盛り上がってきたとも言えるのだが。

 さて、ここからが本題。かつてインタビューで本人が答えていたところによれば、リッチー独特の短編小説作法があるという。「カーデュラ探偵社」(2010年9月、河出文庫刊)の解説で羽柴壮一が紹介している。
「ショートショートなら、書き始める前に、ほとんど一言一句にいたるまで頭の中で作品が出来上がっているというリッチーだが、もっと長いものになると記憶力に頼ってはいられない。この場合は『ジグソー法』と名づけた方法をとる。
 まず物語を、冒頭、中盤、結末、どこでもいいから書き始める。作業の途中で思いついたアイディアや文章があれば、前後1行あけて書きとめておく。ほぼストーリーが完成したと思ったら、ハサミを取り出してタイプ原稿を適切な箇所で切っていく。あとはそれを並べ替えてつなげるだけ。リッチーいわく、『これでうまくいく。もっとも、私はジグソー・パズルのちょっとしたマニアでね。むかし、時間がたっぷりあったころには、何時間でもそうやって並べ替えていたものさ』」
 かなりユニークな創作法だが、考えてみるとどことなく他の何かに似ているようにも思われる。これはむしろコラムやエッセーを書く手法なのではないか。名コラムニストの青木雨彦は、かつてある著書の中で、自分の書きたいことを整理する方法について「箱庭にして全体を見通す短冊方式がいい」と語っていた。

 ①まず短冊のような細長いメモ用紙を作る
 ②書こうとする文章の中で落とせない要点を思いつくまま1枚のメモ用紙に1つずつ
  書き込む
 ③書き込んだ短冊を机の上いっぱいに広げる
 ④これは序論に使う、これは結論にとっておく、などと入れ替える
 ⑤机の上に並んだ骨組みをつなぎ、肉をつけて、所定の長さの文章に仕上げる―。

 この作業の利点として、青木は次の点を挙げていた。「頭の中にあるかすみのようなものが、紙に書き写すことによってハッキリと形にまとまる」「短冊に書くとき見出し文句のように短く濃縮するので、自分の言いたいことが簡潔にできる」「机の上に項目別にグループを作ってまとめるので、大事なことで落ちこぼしがあるかどうか点検できる」「序論、本論、結論に使うネタを、簡単に自由に入れ替えられる」「骨組みさえできれば、後は原稿の長さは実例を入れるなどで調節できる」。まさにリッチーの短編小説作法にそっくりではないか。

 試みに「ジャック・リッチーのあの手この手」所収の1980年発表「ABC連続殺人事件」を見てみよう。A、B、Cの順に人が殺されていく、アガサ・クリスティーの名作に想を得ながらも、クリスティーと全く異なる謎と解決を導き出していく。定評のある簡潔な文体は確かにここでも見事で、ヘンリー・ターンバックル部長刑事とその同僚が事件に対するそれぞれの仮説を積み上げていくという、謎解き合戦の鮮やかさには思わず舌を巻く。なかなかの短編なのだが、残念ながら隔靴掻痒の部分がなきにしもあらず。
 ネタバレになるのを承知で言うと、最後にA、B、Cの頭文字を持つ三つ子が出てくるのだが、本質と関係がない部分にとどまってしまっているのだ。これなどはABCと三つ子というジグソー・パズルのピースを思いつきながらも、それが適材適所にうまくはまってくれなかった例だろうか。(こや)


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2014/01/14 13:39 |
コラム「たまたま本の話」
海外文学のコラム・たまたま本の話 第40回  「マラマッドは古典作家か」(バーナード・マラマッド)

第40回 マラマッドは古典作家か
(バーナード・マラマッド)

 バーナード・マラマッドの代表作「魔法の樽 他12篇」(2013年10月、岩波文庫刊)が、阿部公彦の新訳でこのたび刊行された。日本でもかつて1970年前後に荒地出版社、角川文庫、新潮文庫からそれぞれ翻訳(抄訳)が出て、人気のあった作品である。いまごろ岩波文庫に初収録とはずいぶん遅い印象があるが、原著の刊行は1958年。驚いたことに、バリバリの戦後派文学なのである。

 マラマッドは1914年に生まれている。最初の長編「ナチュラル」が1952年、続く2作目の長編「アシスタント」が1957年の発表。本書はそれに続く処女短編集である。作家としては遅咲きのスタートだった。何となく古典的な作家というイメージがあるのはそのせいだろうか。あるいは安部公房が以前インタビューで語っていた、こんなマラマッド評も影響しているかもしれない。
「――ユダヤ人作家の中で、安部さんがとくに関心を寄せられている一人はマラマッドですね。それもやはり同時代性ということですか。
安部 いや、少しずれるようだ。多少前の世代に属する感じがある。(中略)マラマッドにはさほど同時代性は感じられない。彼には非常に優れた素質と、ものを見る目に、とかく僕らが忘れがちな繊細な愛情というものがあると思う。むしろ、ドストエフスキーの現代版みたいなところがあって、たしかに一世代前のものではあるけれど、やはり見失っては困るものだろう。だから、マラマッドは方法の上でかなり異質だけど、好きなんだ」(インタビュー「内的亡命の文学」、1979年1月)

 ここでマラマッドの略歴をたどってみよう。前出の岩波文庫版「魔法の樽」の解説で、訳者はこうまとめている。
 「バーナード・マラマッドは1914年、ロシア系ユダヤ人の両親の元にニューヨーク・ブルックリンで生まれた。年代からもわかるようにマラマッドの両親は、帝政ロシア期のユダヤ人迫害を逃れてアメリカにやってきたのである。ブルックリンと言えば(中略)つい最近までそこは貧しい住民の多い、危険な場所でもあった。ましてやマラマッドの両親が移住してきた20世紀はじめのブルックリンは、迫害の地から命からがら逃げてきたような移民も多くいた地域で、それだけに日本的な意味とはまた別の人情や情念の渦巻く場所でもあった。(中略)
 ニューヨークに移住したユダヤ人の多くは、子供たちの教育には熱心だった。マラマッドは両親の店を手伝いながら高校に通い、卒業後、一時的に教員見習いとして働いたが、その後ニューヨーク市立大で英文学を勉強し、コロンビア大の修士課程に進んでトマス・ハーディの研究で修士号を取得している(中略)。貧しい家庭に生まれつつも、学校では成績優秀で利発な子供だったマラマッドは、奨学金の助けも借り、苦学しながら学歴を得ていく。そこには持ち前の勤勉さも大きく役立っていた」

 本書の冒頭に置かれた短編「はじめの7年」には、そんな勤勉な苦労人マラマッドの分身といえる人物がちりばめられている。靴屋のフェルドが、自分の娘ミリアムの結婚相手に、知り合いの大学生マックスはどうかと薦める。フェルドはポーランド移民で教育熱心だが、娘ミリアムは教育を受けるよりも早く自立して仕事をしたいと思っている。マックスは行商人の息子だが、大学に通っている勤勉家である。ミリアムとマックスは何度かデートするが、「物質主義者(マテリアリスト)」マックスにミリアムは興味を示さない。
 フェルドの店にはソベルという腕のいい靴直し職人がいる。店主のフェルドといさかいがあって彼は店を飛び出してしまう。代わりに雇った助手が店の金を使い込んでいたことが発覚し、フェルドはソベルに戻ってきてくれと言う。そのとき35歳のポーランド移民のソベルは、実はあなたの娘の19歳のミリアムが好きだと言う。激情にかられたフェルドは「ソベル、お前は狂っている。ミリアムがお前みたいに年取った醜い男と結婚するわけがない」と言い放ってしまう。
 ソベルは泣く。やがてフェルドは暴言を吐いたことを涙ながらに反省し、ミリアムと彼の結婚を了承する。最後、ソベルは店に戻って以前のように仕事を再開する。

 安部公房がマラマッドを「前の世代に属する作家」と感じる理由はここにある。実に古典的なプロットと、アメリカのユダヤ人社会のリアリズム描写。安部が「ユダヤ性」といえば、それは同じユダヤ人でもフランツ・カフカのことだから、こうした短編を書くマラマッドから同時代性を感じないのも無理はない。心温まるストーリー展開は、雑誌「ニューヨーカー」に載るような大衆文学の味わいにむしろ近い。
 しかし本当に心温まる話――だろうか? フェルドはアメリカに渡って一軒の靴屋を持ったから、ひとまず成功者かもしれない。ソベルは命からがらヒトラーのガス室から逃れてきたが、いまだに使用人に甘んじている。いわばこれは勝ち組が自分の娘を奪っていく負け組に怒りをぶつける話だが、もとを正せばどちらもポーランド移民である。アメリカという大国の中の小さなユダヤ人社会で細々と生きていくほかに道はない。期待を込めて育ててきた娘も母親と同様、靴職人の妻となるしかないだろう。そうした諦念を抱く成功者も、婚約して人生に希望が出てきた使用人も、逃れられないユダヤ民族の連鎖の中にいる。

 マラマッド作品の登場人物に「弱さ」や「貧しさ」などネガティブな要素を見る評者は多いが、それでも彼の文学は多くの読者に読まれる。対立する者同士が、ヒットラー対ユダヤ民族の構図ではなく、ユダヤ人対ユダヤ人の「最後は分かり合える」関係になっているからだろう。それが絶望の中のささやかな希望の光に過ぎなくても。(こや)


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2013/12/13 16:36 |
コラム「たまたま本の話」

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