第19回 今に生きるシャーロック・ホームズ
(アーサー・コナン・ドイル)
ロンドンのベイカー・ストリート221番地B宛てに、業務依頼やファンレターなど、たくさんの手紙が届くようになったのは、19世紀末から20世紀初頭にかけてである。ところがその宛て先は実際に存在しないものだったため、ロンドン中央郵便局は専門の係を置いて膨大な数の手紙の処理に当たっていたという。医者で作家のコナン・ドイルが生み出した架空の名探偵シャーロック・ホームズが、実在の人物以上に人々に愛されたことを示すエピソードである。
そのホームズが、またもや映画化されたこともあって、ちょっとしたブームになっている。書店では新訳を含めた作品集が山積みにされている。ホームズものの短編の中で1、2を争う傑作とされる「ゆがんだ唇の男」が「シャーロック・ホームズ傑作選」(中田耕治訳、1992年11月、集英社文庫刊)に収められているので、久々に読み返してみた。内容に触れているので未読の方はご注意を。
セントクレア夫人がロンドンの町で自分の夫を偶然見かける。夫は目の前の建物の3階の窓から自分に向けて気が狂ったように手を振った後、部屋の奥に姿を消してしまった。夫人は近くにいた警官とともに建物に入っていく。1階のアヘン窟を通り抜けて3階に駆け上がり、部屋中を探し回るが、セントクレアの姿はどこにもない。そこを住処にしている気味の悪い乞食だけがいて、奥の部屋の窓敷居や床板の上には血痕があった。窓から見下ろされる川の底から、ポケットに銅貨を詰め込んだセントクレアの上着が発見される。すわ殺人事件か。乞食が容疑者として留置場に連行される。
捜査を依頼されたホームズが見破った事件の真相は、その拘留中の乞食こそまさしく変装したセントクレア本人であったというもの。良き夫であり理想の父親である紳士が、毎日仕事に出かけると言って家を出た後、実は乞食に変装してロンドンの街頭で通行人から施しを受けていたのである。かつて新聞記者だったセントクレアは、ロンドンの乞食を取材するために自ら乞食を演じてみたとき、一日中座って施しを受けて稼いだ金が、あくせく働いて手に入れる自分の給料と変わらないことを知って、誘惑から逃れられなくなった。彼は今に至るも乞食を続けていて、夫人に見つかったときも、とっさに施しの銅貨を上着のポケットに詰め込んで、自ら川に投げ込んだのだった。
殺人事件のはずが実は犯罪ですらなかった。そんな話だが、読み終わってハタと思ったのは、ここまでうまく人を欺ける変装が果たしてあり得るかどうかということ。若いころ舞台に立っていたからメーキャップはお手のもの、という説明が一応なされているが、拘留されている乞食はセントクレア失踪事件の重要参考人なわけだから、警察が素性を詳しく調べるのは当然だろうし、身体検査もしないということがあり得るだろうか。かつらや顔のドーランや皮膚の引きつれを模した絆創膏などは、警察や拘置人が間近で見ればすぐに底が割れるのではないか。
百歩譲って赤の他人だから見破れなかったとしても、セントクレア夫人は警官とともに現場に踏み込んで乞食(つまり夫)を見ている。自分の夫の変装に気づかないということはあまりにも不自然ではないか。他のホームズものの短編「花婿の正体」でも、妻の連れ子の娘を同年代の男と結婚させないために義父が自ら変装して誘惑者となるが、いくら義理の関係だと言っても、父を見破れない娘がいるだろうか。ところがこの話もホームズものの傑作のひとつとして、前出の短編集に収められているのである。
当時はDNA鑑定など科学的手段もないし、警察の操作法も実に未熟であった。“シャーロック・ホームズの同時代のライバルたち”として有名な「隅の老人」(バロネス・オルツィが創造した安楽椅子探偵の元祖)シリーズにしても、一人二役というか、変装した犯人による犯罪というケースがきわめて多い。現在なら簡単に見破られてしまうはずの、子供だましが言い過ぎだとしたら児戯に類するような単純至極な変装であっても、当時はそれが本格推理小説のトリックの王道だったのかもしれない。
しかし、英文学者の廣野由美子は「ミステリーの人間学―英国古典探偵小説を読む」(2009年5月、岩波新書刊)の中で、「ゆがんだ唇の男」についてこう指摘している。「興味深いのは、道を歩く妻と建物の中の夫の目が合った瞬間の描写である。(中略)お互いに、先に気づいたのは相手のほうだと思っていること、顔を隠す夫の動作が妻には助けを求める手招きに見えたこと、慌てて逃げ出した夫の動作が、妻には背後から無理やり引っ張られたような印象であったことなど、互いの認識には心理的なズレがある。だが、そのような刹那にも、妻は夫が出かけたときと同じ上着を着ているのにネクタイをしていなかったことに気づいている。ここには夫婦間の信頼が危機にさらされる一瞬が凝縮されている」
さすが女性ならではの鋭い視点、と言っては差別になろうか。廣野は続けて「人生の断片を切り取り、人間関係や、金と安楽の誘惑に負ける人間の弱点を描いたこの小さな事件の話は、『文学』へと転化しつつある兆しを見せる」と書く。筆者も以前から、シャーロック・ホームズものは果たして本格推理小説と言っていいのだろうか、とずっと思い続けてきた。これらの小説が、なぜ発表後100年以上経った今でも古典文学として読み継がれるのか。単なる謎解き小説と侮るなかれ、奥には深い文学の深淵が潜んでいる。(こや)
アーサー・コナン・ドイルをWIKI PEDEIAで調べる
にほんブログ村
ブログランキングに参加しています。
クリックしてご協力いただければ幸いです。
ツイート海外文学作品についてのコラム「たまたま本の話」を掲載しています。
「たまたま本の話」は「miniたま」に毎号掲載しているコラムです。
「miniたま」は、インターネット古書店「ほんのたまご」とお客様を結ぶ架け橋として、
ご注文書籍とともにお送りしているミニコミ紙です。
「miniたま」のバックナンバーPDF版はこちらからどうぞ
(アーサー・コナン・ドイル)
ロンドンのベイカー・ストリート221番地B宛てに、業務依頼やファンレターなど、たくさんの手紙が届くようになったのは、19世紀末から20世紀初頭にかけてである。ところがその宛て先は実際に存在しないものだったため、ロンドン中央郵便局は専門の係を置いて膨大な数の手紙の処理に当たっていたという。医者で作家のコナン・ドイルが生み出した架空の名探偵シャーロック・ホームズが、実在の人物以上に人々に愛されたことを示すエピソードである。
そのホームズが、またもや映画化されたこともあって、ちょっとしたブームになっている。書店では新訳を含めた作品集が山積みにされている。ホームズものの短編の中で1、2を争う傑作とされる「ゆがんだ唇の男」が「シャーロック・ホームズ傑作選」(中田耕治訳、1992年11月、集英社文庫刊)に収められているので、久々に読み返してみた。内容に触れているので未読の方はご注意を。
セントクレア夫人がロンドンの町で自分の夫を偶然見かける。夫は目の前の建物の3階の窓から自分に向けて気が狂ったように手を振った後、部屋の奥に姿を消してしまった。夫人は近くにいた警官とともに建物に入っていく。1階のアヘン窟を通り抜けて3階に駆け上がり、部屋中を探し回るが、セントクレアの姿はどこにもない。そこを住処にしている気味の悪い乞食だけがいて、奥の部屋の窓敷居や床板の上には血痕があった。窓から見下ろされる川の底から、ポケットに銅貨を詰め込んだセントクレアの上着が発見される。すわ殺人事件か。乞食が容疑者として留置場に連行される。
捜査を依頼されたホームズが見破った事件の真相は、その拘留中の乞食こそまさしく変装したセントクレア本人であったというもの。良き夫であり理想の父親である紳士が、毎日仕事に出かけると言って家を出た後、実は乞食に変装してロンドンの街頭で通行人から施しを受けていたのである。かつて新聞記者だったセントクレアは、ロンドンの乞食を取材するために自ら乞食を演じてみたとき、一日中座って施しを受けて稼いだ金が、あくせく働いて手に入れる自分の給料と変わらないことを知って、誘惑から逃れられなくなった。彼は今に至るも乞食を続けていて、夫人に見つかったときも、とっさに施しの銅貨を上着のポケットに詰め込んで、自ら川に投げ込んだのだった。
殺人事件のはずが実は犯罪ですらなかった。そんな話だが、読み終わってハタと思ったのは、ここまでうまく人を欺ける変装が果たしてあり得るかどうかということ。若いころ舞台に立っていたからメーキャップはお手のもの、という説明が一応なされているが、拘留されている乞食はセントクレア失踪事件の重要参考人なわけだから、警察が素性を詳しく調べるのは当然だろうし、身体検査もしないということがあり得るだろうか。かつらや顔のドーランや皮膚の引きつれを模した絆創膏などは、警察や拘置人が間近で見ればすぐに底が割れるのではないか。
百歩譲って赤の他人だから見破れなかったとしても、セントクレア夫人は警官とともに現場に踏み込んで乞食(つまり夫)を見ている。自分の夫の変装に気づかないということはあまりにも不自然ではないか。他のホームズものの短編「花婿の正体」でも、妻の連れ子の娘を同年代の男と結婚させないために義父が自ら変装して誘惑者となるが、いくら義理の関係だと言っても、父を見破れない娘がいるだろうか。ところがこの話もホームズものの傑作のひとつとして、前出の短編集に収められているのである。
当時はDNA鑑定など科学的手段もないし、警察の操作法も実に未熟であった。“シャーロック・ホームズの同時代のライバルたち”として有名な「隅の老人」(バロネス・オルツィが創造した安楽椅子探偵の元祖)シリーズにしても、一人二役というか、変装した犯人による犯罪というケースがきわめて多い。現在なら簡単に見破られてしまうはずの、子供だましが言い過ぎだとしたら児戯に類するような単純至極な変装であっても、当時はそれが本格推理小説のトリックの王道だったのかもしれない。
しかし、英文学者の廣野由美子は「ミステリーの人間学―英国古典探偵小説を読む」(2009年5月、岩波新書刊)の中で、「ゆがんだ唇の男」についてこう指摘している。「興味深いのは、道を歩く妻と建物の中の夫の目が合った瞬間の描写である。(中略)お互いに、先に気づいたのは相手のほうだと思っていること、顔を隠す夫の動作が妻には助けを求める手招きに見えたこと、慌てて逃げ出した夫の動作が、妻には背後から無理やり引っ張られたような印象であったことなど、互いの認識には心理的なズレがある。だが、そのような刹那にも、妻は夫が出かけたときと同じ上着を着ているのにネクタイをしていなかったことに気づいている。ここには夫婦間の信頼が危機にさらされる一瞬が凝縮されている」
さすが女性ならではの鋭い視点、と言っては差別になろうか。廣野は続けて「人生の断片を切り取り、人間関係や、金と安楽の誘惑に負ける人間の弱点を描いたこの小さな事件の話は、『文学』へと転化しつつある兆しを見せる」と書く。筆者も以前から、シャーロック・ホームズものは果たして本格推理小説と言っていいのだろうか、とずっと思い続けてきた。これらの小説が、なぜ発表後100年以上経った今でも古典文学として読み継がれるのか。単なる謎解き小説と侮るなかれ、奥には深い文学の深淵が潜んでいる。(こや)
アーサー・コナン・ドイルをWIKI PEDEIAで調べる
にほんブログ村
ブログランキングに参加しています。
クリックしてご協力いただければ幸いです。
ツイート海外文学作品についてのコラム「たまたま本の話」を掲載しています。
「たまたま本の話」は「miniたま」に毎号掲載しているコラムです。
「miniたま」は、インターネット古書店「ほんのたまご」とお客様を結ぶ架け橋として、
ご注文書籍とともにお送りしているミニコミ紙です。
「miniたま」のバックナンバーPDF版はこちらからどうぞ
PR
第18回 史上で最も偉大な短編
(フレドリック・ブラウン)
「創元推理文庫」創刊50周年を記念して、2010年12月、発行元が「東京創元社 文庫解説総目録 1959.4-2010.3」(高橋良平+東京創元社編集部編)を出した。本編と資料編が2冊セットになった豪華本で、眺めていると時間を忘れるほど楽しい。1959(昭和34)年4月の創刊から50余年に及ぶ歴史を振り返りながら、創元推理文庫史上最高の短編集、最高の短編は何だろうかと思った。
同文庫創刊の2年後、短命に終わったが「創元ブックス」という新書サイズの叢書が4冊出ている。その第1回配本(1961年7月)は「スポンサーから一言」(ともう1冊)。1963年9月には同文庫にSF部門が新設され、第1回配本は「未来世界から来た男」だった。「スポンサー」「未来世界」ともに作者はフレドリック・ブラウン。つまりブラウンこそは東京創元社が社運をかけてトップバッターに送り出すドル箱作家だった。その後、ブラウンの多くのミステリー長編やSF長編が同文庫で出たが、それらよりも広く読まれたのは彼の短編集だった。SFで5冊(アンソロジー含む)、ミステリーで2冊ある。その中から最高の短編集として「まっ白な嘘」(1962年5月刊)を、最高の短編として同書収録の1編「史上で最も偉大な詩」をここで推してみたい。
「史上で最も偉大な詩」はこんな話だ(引用は中村保男訳。以下、内容に触れているので未読の方はご注意を)。駆け出しの新聞記者だった「わたし」が大物批評家にインタビューし、「史上で最も偉大な詩は?」と尋ねる。批評家は熟考の末、「やっぱりカール・マーニーの詩だろうな」と答える。「わたし」はあいにくその名に聞き覚えがない。批評家はマーニーの話を始める。
アメリカの若き資産家であり詩人であったマーニーは、一人乗りの帆船で冒険旅行に出る。途中、嵐に遭って南米チリ沖の小島で難破する。そこは都会の1ブロックしかない小さな無人島で、跡形もなく壊れてしまった船から食料と水、ラジオ、航海日誌、紙、筆記用具などをやっとのことで持ち出したマーニーは、やむなく蒸気船が通りかかるのを待ちながら無人島生活を始める。洞穴を掘って住居を作り、食料が切れると魚を獲って食べ、飢えをしのいだ。水は島にある泉から調達した。栄養失調や病気で体や精神が衰えながらも、彼は一人で9年間、生き延びた。
そんなマーニーの心の支えになったのが詩作だった。遭難して数か月後、彼は一大長編詩の制作に取り組み始めた。救助されるまで時間がかかるだろうと気づいていたから、完璧な言葉が見つかるまで何日、何週間でもひとつの句に費やした。1年半ほど経って、彼はラジオ(受信専用)で自分のフィアンセが別の男と結婚したことを知った。3年後の1929年には、株式市場の暴落によって自分が無一文の破産者になったことを知らされた。4年が過ぎ、ラジオも磨滅して外界との接触はすべて絶たれた。すでに救助される希望は捨てていた。
「それでもあの詩、一大長編詩は執筆をつづけた。今では、それによって名声と世の承認を得たいために書くのではなく、書くこと自体が目的と化していた。彼を生きつづけさせるもの、寒さと空腹と寂しさに意味を与えるもの、表現を与えるものが、この詩だった」「彼は詩作をつづけた。伸ばすよりもむしろ改善に力を注いだ。(中略)圧縮。今では、それが仕事の眼目となった。(中略)ついに彼はそれを最後の1滴、ぎりぎりの精髄、ただ1音節の1語に圧縮していた。とうとうものにしたのだ! 彼の身に起こったすべてを表現する完璧の詩が遂に」。
救助の船がやってきて、彼は岸に近づいてきた水夫にその1句を絶叫する。「それ以後もいく度か彼はこれを絶叫した、が、他の言葉はついに1度も語らなかった。彼と9年の歳月とが合作した偉大な詩のみが彼の口から漏れた」。それは「無題で4文字から成る1語の印刷不能の詩」だった。具体的にどんな詩だったか、作者フレドリック・ブラウンは記していない。
こうして書き写していてもいい話だと感心してしまうが、それを記事にした「わたし」の原稿は編集長によって没になる。「もしマーニーが帰ってから詩の1句以外なんにも言わなかったとしたら、島で起こったことを、どうしてその批評家が知っているんだろうか?」というわけだ。なるほど、よく出来たオチまでついている。
かつて私(というのは筆者のこと)はこの「4文字から成る1語」をLOVE(マーニーはフィアンセを愛していた)、LIFE(生き延びた)、POEM(詩を作りながら)、NINE(9年も!)、HELP(説明不要)などではないかと考えていた。結局、その詩は具体的な単語ではなく、「印刷不能」な人生そのものを意味しているのではないかと思い至った。
ところが最近、フレドリック・ブラウンの経歴を調べていて、彼が作家になる前にミルウォーキー貿易新聞や別の出版社で校正係をしていたことを知った(翻訳家の稲葉明雄が別の本の解説で書いていた)。一説によれば、プロの記者や作家が書く原稿を校正していて、こんな程度のものなら俺でも書けると思ったという。
その後、彼は校正係を続けながら文筆生活に身を投じ、人気作家としての地位を確立する。父親も広告業に携わっていたそうだから、言葉に関してはひときわ鋭敏であっただろう。他人の原稿やゲラ刷りを読みながら、「この文章はこうしたらいいのに」「もっとふさわしい語句がある」「この部分を削ればすっきりするはず」といった思いが頭の中を駆け巡っていたに違いない。そうした自らの校正係としての経験が「史上で最も偉大な詩」に結実したのではなかったか。(こや)
創元推理文庫をWIKI PEDEIAで調べる
にほんブログ村
ブログランキングに参加しています。
クリックしてご協力いただければ幸いです。
ツイート海外文学作品についてのコラム「たまたま本の話」を掲載しています。
「たまたま本の話」は「miniたま」に毎号掲載しているコラムです。
「miniたま」は、インターネット古書店「ほんのたまご」とお客様を結ぶ架け橋として、
ご注文書籍とともにお送りしているミニコミ紙です。
「miniたま」のバックナンバーPDF版はこちらからどうぞ
(フレドリック・ブラウン)
「創元推理文庫」創刊50周年を記念して、2010年12月、発行元が「東京創元社 文庫解説総目録 1959.4-2010.3」(高橋良平+東京創元社編集部編)を出した。本編と資料編が2冊セットになった豪華本で、眺めていると時間を忘れるほど楽しい。1959(昭和34)年4月の創刊から50余年に及ぶ歴史を振り返りながら、創元推理文庫史上最高の短編集、最高の短編は何だろうかと思った。
同文庫創刊の2年後、短命に終わったが「創元ブックス」という新書サイズの叢書が4冊出ている。その第1回配本(1961年7月)は「スポンサーから一言」(ともう1冊)。1963年9月には同文庫にSF部門が新設され、第1回配本は「未来世界から来た男」だった。「スポンサー」「未来世界」ともに作者はフレドリック・ブラウン。つまりブラウンこそは東京創元社が社運をかけてトップバッターに送り出すドル箱作家だった。その後、ブラウンの多くのミステリー長編やSF長編が同文庫で出たが、それらよりも広く読まれたのは彼の短編集だった。SFで5冊(アンソロジー含む)、ミステリーで2冊ある。その中から最高の短編集として「まっ白な嘘」(1962年5月刊)を、最高の短編として同書収録の1編「史上で最も偉大な詩」をここで推してみたい。
「史上で最も偉大な詩」はこんな話だ(引用は中村保男訳。以下、内容に触れているので未読の方はご注意を)。駆け出しの新聞記者だった「わたし」が大物批評家にインタビューし、「史上で最も偉大な詩は?」と尋ねる。批評家は熟考の末、「やっぱりカール・マーニーの詩だろうな」と答える。「わたし」はあいにくその名に聞き覚えがない。批評家はマーニーの話を始める。
アメリカの若き資産家であり詩人であったマーニーは、一人乗りの帆船で冒険旅行に出る。途中、嵐に遭って南米チリ沖の小島で難破する。そこは都会の1ブロックしかない小さな無人島で、跡形もなく壊れてしまった船から食料と水、ラジオ、航海日誌、紙、筆記用具などをやっとのことで持ち出したマーニーは、やむなく蒸気船が通りかかるのを待ちながら無人島生活を始める。洞穴を掘って住居を作り、食料が切れると魚を獲って食べ、飢えをしのいだ。水は島にある泉から調達した。栄養失調や病気で体や精神が衰えながらも、彼は一人で9年間、生き延びた。
そんなマーニーの心の支えになったのが詩作だった。遭難して数か月後、彼は一大長編詩の制作に取り組み始めた。救助されるまで時間がかかるだろうと気づいていたから、完璧な言葉が見つかるまで何日、何週間でもひとつの句に費やした。1年半ほど経って、彼はラジオ(受信専用)で自分のフィアンセが別の男と結婚したことを知った。3年後の1929年には、株式市場の暴落によって自分が無一文の破産者になったことを知らされた。4年が過ぎ、ラジオも磨滅して外界との接触はすべて絶たれた。すでに救助される希望は捨てていた。
「それでもあの詩、一大長編詩は執筆をつづけた。今では、それによって名声と世の承認を得たいために書くのではなく、書くこと自体が目的と化していた。彼を生きつづけさせるもの、寒さと空腹と寂しさに意味を与えるもの、表現を与えるものが、この詩だった」「彼は詩作をつづけた。伸ばすよりもむしろ改善に力を注いだ。(中略)圧縮。今では、それが仕事の眼目となった。(中略)ついに彼はそれを最後の1滴、ぎりぎりの精髄、ただ1音節の1語に圧縮していた。とうとうものにしたのだ! 彼の身に起こったすべてを表現する完璧の詩が遂に」。
救助の船がやってきて、彼は岸に近づいてきた水夫にその1句を絶叫する。「それ以後もいく度か彼はこれを絶叫した、が、他の言葉はついに1度も語らなかった。彼と9年の歳月とが合作した偉大な詩のみが彼の口から漏れた」。それは「無題で4文字から成る1語の印刷不能の詩」だった。具体的にどんな詩だったか、作者フレドリック・ブラウンは記していない。
こうして書き写していてもいい話だと感心してしまうが、それを記事にした「わたし」の原稿は編集長によって没になる。「もしマーニーが帰ってから詩の1句以外なんにも言わなかったとしたら、島で起こったことを、どうしてその批評家が知っているんだろうか?」というわけだ。なるほど、よく出来たオチまでついている。
かつて私(というのは筆者のこと)はこの「4文字から成る1語」をLOVE(マーニーはフィアンセを愛していた)、LIFE(生き延びた)、POEM(詩を作りながら)、NINE(9年も!)、HELP(説明不要)などではないかと考えていた。結局、その詩は具体的な単語ではなく、「印刷不能」な人生そのものを意味しているのではないかと思い至った。
ところが最近、フレドリック・ブラウンの経歴を調べていて、彼が作家になる前にミルウォーキー貿易新聞や別の出版社で校正係をしていたことを知った(翻訳家の稲葉明雄が別の本の解説で書いていた)。一説によれば、プロの記者や作家が書く原稿を校正していて、こんな程度のものなら俺でも書けると思ったという。
その後、彼は校正係を続けながら文筆生活に身を投じ、人気作家としての地位を確立する。父親も広告業に携わっていたそうだから、言葉に関してはひときわ鋭敏であっただろう。他人の原稿やゲラ刷りを読みながら、「この文章はこうしたらいいのに」「もっとふさわしい語句がある」「この部分を削ればすっきりするはず」といった思いが頭の中を駆け巡っていたに違いない。そうした自らの校正係としての経験が「史上で最も偉大な詩」に結実したのではなかったか。(こや)
創元推理文庫をWIKI PEDEIAで調べる
にほんブログ村
ブログランキングに参加しています。
クリックしてご協力いただければ幸いです。
ツイート海外文学作品についてのコラム「たまたま本の話」を掲載しています。
「たまたま本の話」は「miniたま」に毎号掲載しているコラムです。
「miniたま」は、インターネット古書店「ほんのたまご」とお客様を結ぶ架け橋として、
ご注文書籍とともにお送りしているミニコミ紙です。
「miniたま」のバックナンバーPDF版はこちらからどうぞ
第17回 ちょこっとドストエフスキー
(フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー)
このほど三笠書房の知的生きかた文庫で「90分で読む! 超訳『罪と罰』」が刊行された(2011年11月)。原作者はもちろんフョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー。19世紀ロシアを代表するこの文豪の代表作を、東京・西荻窪で古書店(古書比良木屋)を経営する日比野敦が訳し下ろした。
新潮文庫版で上下2巻、岩波文庫版では上中下3巻、近年話題になった亀山郁夫訳の光文社古典新訳文庫版でも1~3巻と、大部にわたる小説をわずか300ページの文庫本1冊に収めるというのは、無謀な試みである。しかしこれがなかなか面白い。ドストエフスキー文学特有の繰り返しや冗長さがきれいに削ぎ落とされて、引き締まった中編小説を読むような趣がある。超訳を認めることはドストエフスキー研究者や愛好家にとって沽券にかかわることかもしれないけれども、門外漢の私がここで評価しておきたい。
第3部で登場する予審判事ポルフィーリイが、主人公の青年ラスコーリニコフがかつて書いた論文の内容に関して、議論を吹きかける。ラスコーリニコフの主張は次の通り(以下、引用は日比野訳より)。「『ある種の人間』は『ある種の障害』を超えるとき、自らの良心から自身に犯罪を許す権利を持つ、と暗示しただけです」「つまり自分の思想―全人類のために救世的意義を有する思想ならば、それを実現するときにその権利が生じるのです」「ニュートンが自分の発見を世間に発表するとき、10人か100人かの邪魔する人間がいて、どうしても彼らを排除する必要があったとしたらどうでしょう。全人類の進歩のためには、その10人なり100人なりを抹殺する権利が生じてくるんじゃないでしょうか」
「罪と罰」全編を貫くテーマがここに集約されている。「すべての人間は『人間である人間』と『人間でない人間』に分かれるということです。人間は常に法律を守らなければならないが、『人間でない人間』はあらゆる犯罪を行なう権利、あらゆる法律を超越する権利を持つ、ということなのです。確か、そういったような内容でしたな?」と、ポルフィーリイもラスコーリニコフ理論を補足する。ラスコーリニコフの犯罪行為は、金貸しの老婆とその妹のリザヴェータ殺し、そして若干の金品類の窃盗である。特に2件の殺人をどうとらえればいいのか、ラスコーリニコフ理論に沿って見ていこう。
ラスコーリニコフが老婆を殺したのは、貧困が原因である。彼は家賃を滞納するほど生活に窮していた。高利貸しの老婆から何度か金も借りていた。老婆殺しを実行に移す前のある日、ラスコーリニコフはふと立ち寄ったレストランで、隣の席の大学生が仲間の若い将校にこんなことを語っているのを小耳に挟んでギョッとする―「いいか? ここに何の価値もなければむしろ有害なくらいの、自分でも何のために生きているのかわからないくらいの、明日にでも一人で死んでゆくかもしれない老婆がいるとする。ところがだ、一方には経済的な助けがないばかりに、その芽をつみとられる若い才能がある。(中略)その金があれば、そうした若い才能を伸ばしてやることもできるじゃないか。(中略)ここで重要な前提が立ち上がってくる。それは、その金をすべて全人類への奉仕のために使用するということだ。数千もの善いことをすれば、それはたった一つの犯罪をなかったことにするんじゃないか。たった一つの命を消すことで、数千もの有意義な命が救われるとしたら、どうだろう。つまり一つの死が百の生に変わるのさ」。
若い才能をニュートンに、老婆をニュートンの発見を邪魔する人間に置き換えれば、まさに先のラスコーリニコフ理論そのままである。あるいはこれは他人の会話ではなくラスコーリニコフ自身の内なる声なのかもしれない。かつて「分身」でドッペルゲンガーを登場させたドストエフスキーらしいといえる。しかしラスコーリニコフの老婆殺しには金を奪うというれっきとした動機があった。当然それは彼自身の貧困からの脱出という私事に過ぎず、全人類への奉仕にはなり得ないという矛盾をはらむ。
では老婆の妹のリザヴェータ殺しについては? ラスコーリニコフにはリザヴェータから金を奪う目的も怨恨もない。一見、いかにも動機なき殺人―先のポルフィーリイが指摘した「『人間でない人間』はあらゆる犯罪を行なう権利、あらゆる法律を超越する権利を持つ」というラスコーリニコフ理論にふさわしく思える。けれどもラスコーリニコフが老婆殺しの現場を目撃されなかったら果たして動機もなくリザヴェータを殺したかどうか。私欲で殺人を犯した者が罪の発覚を恐れて第二の殺人を犯したケースと何ら変わりはない。
ラスコーリニコフは犯行前、往来を歩きながら「これから“すごいこと”をやろうとしているこの俺が、この程度のことでびくびくするなんて、だらしない」「果たして俺にアレができるかどうか、まじめに検証してみようとしていたんだ」などとつぶやいていた。すごいことやアレが老婆殺しという確証はどこにもない。あるいはラスコーリニコフの目指していたことは、もっと全人類的な革命―たとえば救世のためのロシア皇帝殺しだったかもしれない。そう指摘する識者は何人もいるし、ドストエフスキー自身も若いころ政治事件に巻き込まれ、死刑判決を受けている(恩赦、減刑)。これなら一応はうなずける。
だとしても、である。全人類救世のはずの革命が私利私欲の犯罪にすり替わってしまうのは、多くの歴史が証明している。ラスコーリニコフ理論のはらむ矛盾を通じて、ドストエフスキーは何人にも罪を犯す権利はないことを逆説的に証明したかったのではないか。(こや)
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーをWIKI PEDEIAで調べる
にほんブログ村
ブログランキングに参加しています。
クリックしてご協力いただければ幸いです。
ツイート海外文学作品についてのコラム「たまたま本の話」を掲載しています。
「たまたま本の話」は「miniたま」に毎号掲載しているコラムです。
「miniたま」は、インターネット古書店「ほんのたまご」とお客様を結ぶ架け橋として、
ご注文書籍とともにお送りしているミニコミ紙です。
「miniたま」のバックナンバーPDF版はこちらからどうぞ
(フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー)
このほど三笠書房の知的生きかた文庫で「90分で読む! 超訳『罪と罰』」が刊行された(2011年11月)。原作者はもちろんフョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー。19世紀ロシアを代表するこの文豪の代表作を、東京・西荻窪で古書店(古書比良木屋)を経営する日比野敦が訳し下ろした。
新潮文庫版で上下2巻、岩波文庫版では上中下3巻、近年話題になった亀山郁夫訳の光文社古典新訳文庫版でも1~3巻と、大部にわたる小説をわずか300ページの文庫本1冊に収めるというのは、無謀な試みである。しかしこれがなかなか面白い。ドストエフスキー文学特有の繰り返しや冗長さがきれいに削ぎ落とされて、引き締まった中編小説を読むような趣がある。超訳を認めることはドストエフスキー研究者や愛好家にとって沽券にかかわることかもしれないけれども、門外漢の私がここで評価しておきたい。
第3部で登場する予審判事ポルフィーリイが、主人公の青年ラスコーリニコフがかつて書いた論文の内容に関して、議論を吹きかける。ラスコーリニコフの主張は次の通り(以下、引用は日比野訳より)。「『ある種の人間』は『ある種の障害』を超えるとき、自らの良心から自身に犯罪を許す権利を持つ、と暗示しただけです」「つまり自分の思想―全人類のために救世的意義を有する思想ならば、それを実現するときにその権利が生じるのです」「ニュートンが自分の発見を世間に発表するとき、10人か100人かの邪魔する人間がいて、どうしても彼らを排除する必要があったとしたらどうでしょう。全人類の進歩のためには、その10人なり100人なりを抹殺する権利が生じてくるんじゃないでしょうか」
「罪と罰」全編を貫くテーマがここに集約されている。「すべての人間は『人間である人間』と『人間でない人間』に分かれるということです。人間は常に法律を守らなければならないが、『人間でない人間』はあらゆる犯罪を行なう権利、あらゆる法律を超越する権利を持つ、ということなのです。確か、そういったような内容でしたな?」と、ポルフィーリイもラスコーリニコフ理論を補足する。ラスコーリニコフの犯罪行為は、金貸しの老婆とその妹のリザヴェータ殺し、そして若干の金品類の窃盗である。特に2件の殺人をどうとらえればいいのか、ラスコーリニコフ理論に沿って見ていこう。
ラスコーリニコフが老婆を殺したのは、貧困が原因である。彼は家賃を滞納するほど生活に窮していた。高利貸しの老婆から何度か金も借りていた。老婆殺しを実行に移す前のある日、ラスコーリニコフはふと立ち寄ったレストランで、隣の席の大学生が仲間の若い将校にこんなことを語っているのを小耳に挟んでギョッとする―「いいか? ここに何の価値もなければむしろ有害なくらいの、自分でも何のために生きているのかわからないくらいの、明日にでも一人で死んでゆくかもしれない老婆がいるとする。ところがだ、一方には経済的な助けがないばかりに、その芽をつみとられる若い才能がある。(中略)その金があれば、そうした若い才能を伸ばしてやることもできるじゃないか。(中略)ここで重要な前提が立ち上がってくる。それは、その金をすべて全人類への奉仕のために使用するということだ。数千もの善いことをすれば、それはたった一つの犯罪をなかったことにするんじゃないか。たった一つの命を消すことで、数千もの有意義な命が救われるとしたら、どうだろう。つまり一つの死が百の生に変わるのさ」。
若い才能をニュートンに、老婆をニュートンの発見を邪魔する人間に置き換えれば、まさに先のラスコーリニコフ理論そのままである。あるいはこれは他人の会話ではなくラスコーリニコフ自身の内なる声なのかもしれない。かつて「分身」でドッペルゲンガーを登場させたドストエフスキーらしいといえる。しかしラスコーリニコフの老婆殺しには金を奪うというれっきとした動機があった。当然それは彼自身の貧困からの脱出という私事に過ぎず、全人類への奉仕にはなり得ないという矛盾をはらむ。
では老婆の妹のリザヴェータ殺しについては? ラスコーリニコフにはリザヴェータから金を奪う目的も怨恨もない。一見、いかにも動機なき殺人―先のポルフィーリイが指摘した「『人間でない人間』はあらゆる犯罪を行なう権利、あらゆる法律を超越する権利を持つ」というラスコーリニコフ理論にふさわしく思える。けれどもラスコーリニコフが老婆殺しの現場を目撃されなかったら果たして動機もなくリザヴェータを殺したかどうか。私欲で殺人を犯した者が罪の発覚を恐れて第二の殺人を犯したケースと何ら変わりはない。
ラスコーリニコフは犯行前、往来を歩きながら「これから“すごいこと”をやろうとしているこの俺が、この程度のことでびくびくするなんて、だらしない」「果たして俺にアレができるかどうか、まじめに検証してみようとしていたんだ」などとつぶやいていた。すごいことやアレが老婆殺しという確証はどこにもない。あるいはラスコーリニコフの目指していたことは、もっと全人類的な革命―たとえば救世のためのロシア皇帝殺しだったかもしれない。そう指摘する識者は何人もいるし、ドストエフスキー自身も若いころ政治事件に巻き込まれ、死刑判決を受けている(恩赦、減刑)。これなら一応はうなずける。
だとしても、である。全人類救世のはずの革命が私利私欲の犯罪にすり替わってしまうのは、多くの歴史が証明している。ラスコーリニコフ理論のはらむ矛盾を通じて、ドストエフスキーは何人にも罪を犯す権利はないことを逆説的に証明したかったのではないか。(こや)
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーをWIKI PEDEIAで調べる
にほんブログ村
ブログランキングに参加しています。
クリックしてご協力いただければ幸いです。
ツイート海外文学作品についてのコラム「たまたま本の話」を掲載しています。
「たまたま本の話」は「miniたま」に毎号掲載しているコラムです。
「miniたま」は、インターネット古書店「ほんのたまご」とお客様を結ぶ架け橋として、
ご注文書籍とともにお送りしているミニコミ紙です。
「miniたま」のバックナンバーPDF版はこちらからどうぞ
第16回 マリリン・モンローとベン・ヘクト
(ベン・ヘクト)
亀井俊介といえば、東京大学教授を務めたアメリカ文学の権威である。アメリカ大衆文化にも詳しく、1987年7月には著書「マリリン・モンロー」を岩波新書で刊行した。東大の先生が天下の岩波からモンローの本を、と当時、話題になったものである。その中にこんな一節がある。「マリリン・モンローの伝記類もおびただしく出ている。(中略)一つ不思議な本もある。マリリン・モンローが著者となり、『私の物語(マイ・ストーリー)』(1974年)と題している本だ。(中略)これはボヘミアン的な作家兼ジャーナリストとして知られるベン・ヘクトと、マリリンとの協力によって出来たものらしい。だがベン・ヘクトは1964年に死んでいる。同書のカバーには、マリリンが原稿を彼女のフォトグラファーとして有名なミルトン・グリーンに与えた、とのみ記されている」
ミルトン・グリーンは1955年、ニューヨークで一緒に「マリリン・モンロー・プロダクション」(通称MMP)を設立したほど、マリリンと親交の深かったカメラマンだ。膨大な量のマリリンの写真を撮っている。プロダクションの経営不振をめぐって2人の関係にはやがて亀裂が入る。前記の自伝は、マリリン本人から預かって温めていた原稿を1974年に初めて公開したものではないかと思われる。それでは自伝執筆の協力者ベン・ヘクトとはだれか。
ベン・ヘクト(1893~1964)は波乱万丈の生涯を送った作家である。アメリカの小説家、ジャーナリストだが、エラリー・クイーンによれば、子供のころは天才的なバイオリニストであり、サーカスのアクロバットや劇場主などの職業を転々としたという。日本では戦前(昭和6年)に「悪魔の殿堂」、戦後(昭和35年)に「情事の人びと」(光文社)などが訳されているが、いずれも絶版。今ではわずかに「情熱なき犯罪」(1934年)や「15人の殺人者たち」(1943年)などのミステリや、怪奇幻想小説の短編が読めるだけだ。
ところがその短編が面白い。以下、ストーリーの紹介をするので、未読の方はご注意を。「15人の殺人者たち」(橋本福夫訳、1961年5月、創元推理文庫刊「世界短編傑作集5」に所収)は、Xクラブと称する3か月ごとの会合に集まる15人の医師たちを描いた作品。「このXクラブの会員がこうして会合を持つのは、ひとつの、興味のある目的を持っているからなのだ。会員たちは、3か月ごとに、前の会合以後にだれかが殺人罪を犯した場合、それを告白するために、ここに集まることにしている」と医師の1人が言う。ショッキングな発言だが、殺人とはもちろん手術の失敗や診察ミスなど、あくまで医療上の死亡事故のこと。ここに新顔の医師が参加して自分の患者の死亡事故を告白するが、実は当の患者はまだ死んでおらず、周囲の医師たちの「こうすれば良かった」というアドバイスを聞いた足で病院に向かい、ただちに手術を施して患者を救うという話。実にさわやかな読後感の短編である。
「情熱なき犯罪」(新庄哲夫訳、1977年9月、光文社刊「世界傑作推理12選&ONE」に所収)は、別れ話のいさかいの末、愛人を過失で殺してしまった冷静沈着な弁護士が周到なアリバイ工作を図る話。工作が成功しそうになったとき、鉄壁なはずのアリバイを崩す目撃者の男が現れ、今度はその男を殺してしまう。しかし殺したと思った愛人は生きていた。弁護士は、過失による無罪判決が出たかもしれない愛人の殺人未遂ではなく、目撃者殺しの重罪(謀殺罪)で裁かれることになる。こちらは実に皮肉な因果応報を描いた短編である。
ベン・ヘクトはこうした上質かつ多彩な内容の短編をいくつも残したが、現在では映画人としての方が知られている。
彼が原作、脚本、監督、製作など何らかの形でかかわった映画を列記してみよう。1927年「暗黒街」、31年「犯罪都市」、32年「暗黒街の顔役」、35年「生きているモレア」、39年「嵐ヶ丘」、40年「ヒズ・ガール・フライデー」、40年「紐育(ニューヨーク)の天使」、42年「運命の饗宴」、45年「白い恐怖」、46年「汚名」、47年「死の接吻」、49年「ラヴ・ハッピー」、54年「ユリシーズ」、57年「武器よさらば」、64年「サーカスの世界」……。これはアメリカ映画史そのものではないか。「暗黒街」と「生きているモレア」(チャールズ・マッカーサーと共同)ではアカデミー賞の脚本賞(ともに原案部門)を受賞している。
話があちこちに飛んでどこに行くのかストーリーの読めない恋愛喜劇を、野球の変化球になぞらえて「スクリューボール・コメディ」と呼ぶが、ヘクトはまさにその分野の達人だった。没後も、かつて書いた原作(「犯罪都市」「ヒズ・ガール・フライデー」)がビリー・ワイルダー監督によってリメークされる(74年「フロント・ページ」)など、ハリウッドに与えた影響はきわめて大きかった。
そんなヘクトとマリリン・モンローの接点は? 1952年にヘクトら3人が脚本を書いた傑作喜劇映画「モンキー・ビジネス」(ハワード・ホークス監督)にマリリンは出演している。「ナイアガラ」でトップスターに躍り出る前の年で、彼女はまだ助演クラスだったが、後に自分を主役に抜擢してくれることになるホークスやワイルダーには全面的な信頼を寄せていた。ホークスやワイルダーには、ヘクトと組んだ仕事も多い。マリリンがヘクトに自伝執筆の協力を依頼したのは、けだし当然ではなかろうか。
今回のコラムは、亀井俊介から始まって、マリリン・モンロー、ミルトン・グリーン、ベン・ヘクト、アメリカ映画と話があちこちに飛んだ。このスクリューボールも、最後はキャッチャーミットに収まっただろうか?(こや)
亀井俊介をWIKI PEDEIAで調べる
にほんブログ村
ブログランキングに参加しています。
クリックしてご協力いただければ幸いです。
ツイート海外文学作品についてのコラム「たまたま本の話」を掲載しています。
「たまたま本の話」は「miniたま」に毎号掲載しているコラムです。
「miniたま」は、インターネット古書店「ほんのたまご」とお客様を結ぶ架け橋として、
ご注文書籍とともにお送りしているミニコミ紙です。
「miniたま」のバックナンバーPDF版はこちらからどうぞ
(ベン・ヘクト)
亀井俊介といえば、東京大学教授を務めたアメリカ文学の権威である。アメリカ大衆文化にも詳しく、1987年7月には著書「マリリン・モンロー」を岩波新書で刊行した。東大の先生が天下の岩波からモンローの本を、と当時、話題になったものである。その中にこんな一節がある。「マリリン・モンローの伝記類もおびただしく出ている。(中略)一つ不思議な本もある。マリリン・モンローが著者となり、『私の物語(マイ・ストーリー)』(1974年)と題している本だ。(中略)これはボヘミアン的な作家兼ジャーナリストとして知られるベン・ヘクトと、マリリンとの協力によって出来たものらしい。だがベン・ヘクトは1964年に死んでいる。同書のカバーには、マリリンが原稿を彼女のフォトグラファーとして有名なミルトン・グリーンに与えた、とのみ記されている」
ミルトン・グリーンは1955年、ニューヨークで一緒に「マリリン・モンロー・プロダクション」(通称MMP)を設立したほど、マリリンと親交の深かったカメラマンだ。膨大な量のマリリンの写真を撮っている。プロダクションの経営不振をめぐって2人の関係にはやがて亀裂が入る。前記の自伝は、マリリン本人から預かって温めていた原稿を1974年に初めて公開したものではないかと思われる。それでは自伝執筆の協力者ベン・ヘクトとはだれか。
ベン・ヘクト(1893~1964)は波乱万丈の生涯を送った作家である。アメリカの小説家、ジャーナリストだが、エラリー・クイーンによれば、子供のころは天才的なバイオリニストであり、サーカスのアクロバットや劇場主などの職業を転々としたという。日本では戦前(昭和6年)に「悪魔の殿堂」、戦後(昭和35年)に「情事の人びと」(光文社)などが訳されているが、いずれも絶版。今ではわずかに「情熱なき犯罪」(1934年)や「15人の殺人者たち」(1943年)などのミステリや、怪奇幻想小説の短編が読めるだけだ。
ところがその短編が面白い。以下、ストーリーの紹介をするので、未読の方はご注意を。「15人の殺人者たち」(橋本福夫訳、1961年5月、創元推理文庫刊「世界短編傑作集5」に所収)は、Xクラブと称する3か月ごとの会合に集まる15人の医師たちを描いた作品。「このXクラブの会員がこうして会合を持つのは、ひとつの、興味のある目的を持っているからなのだ。会員たちは、3か月ごとに、前の会合以後にだれかが殺人罪を犯した場合、それを告白するために、ここに集まることにしている」と医師の1人が言う。ショッキングな発言だが、殺人とはもちろん手術の失敗や診察ミスなど、あくまで医療上の死亡事故のこと。ここに新顔の医師が参加して自分の患者の死亡事故を告白するが、実は当の患者はまだ死んでおらず、周囲の医師たちの「こうすれば良かった」というアドバイスを聞いた足で病院に向かい、ただちに手術を施して患者を救うという話。実にさわやかな読後感の短編である。
「情熱なき犯罪」(新庄哲夫訳、1977年9月、光文社刊「世界傑作推理12選&ONE」に所収)は、別れ話のいさかいの末、愛人を過失で殺してしまった冷静沈着な弁護士が周到なアリバイ工作を図る話。工作が成功しそうになったとき、鉄壁なはずのアリバイを崩す目撃者の男が現れ、今度はその男を殺してしまう。しかし殺したと思った愛人は生きていた。弁護士は、過失による無罪判決が出たかもしれない愛人の殺人未遂ではなく、目撃者殺しの重罪(謀殺罪)で裁かれることになる。こちらは実に皮肉な因果応報を描いた短編である。
ベン・ヘクトはこうした上質かつ多彩な内容の短編をいくつも残したが、現在では映画人としての方が知られている。
彼が原作、脚本、監督、製作など何らかの形でかかわった映画を列記してみよう。1927年「暗黒街」、31年「犯罪都市」、32年「暗黒街の顔役」、35年「生きているモレア」、39年「嵐ヶ丘」、40年「ヒズ・ガール・フライデー」、40年「紐育(ニューヨーク)の天使」、42年「運命の饗宴」、45年「白い恐怖」、46年「汚名」、47年「死の接吻」、49年「ラヴ・ハッピー」、54年「ユリシーズ」、57年「武器よさらば」、64年「サーカスの世界」……。これはアメリカ映画史そのものではないか。「暗黒街」と「生きているモレア」(チャールズ・マッカーサーと共同)ではアカデミー賞の脚本賞(ともに原案部門)を受賞している。
話があちこちに飛んでどこに行くのかストーリーの読めない恋愛喜劇を、野球の変化球になぞらえて「スクリューボール・コメディ」と呼ぶが、ヘクトはまさにその分野の達人だった。没後も、かつて書いた原作(「犯罪都市」「ヒズ・ガール・フライデー」)がビリー・ワイルダー監督によってリメークされる(74年「フロント・ページ」)など、ハリウッドに与えた影響はきわめて大きかった。
そんなヘクトとマリリン・モンローの接点は? 1952年にヘクトら3人が脚本を書いた傑作喜劇映画「モンキー・ビジネス」(ハワード・ホークス監督)にマリリンは出演している。「ナイアガラ」でトップスターに躍り出る前の年で、彼女はまだ助演クラスだったが、後に自分を主役に抜擢してくれることになるホークスやワイルダーには全面的な信頼を寄せていた。ホークスやワイルダーには、ヘクトと組んだ仕事も多い。マリリンがヘクトに自伝執筆の協力を依頼したのは、けだし当然ではなかろうか。
今回のコラムは、亀井俊介から始まって、マリリン・モンロー、ミルトン・グリーン、ベン・ヘクト、アメリカ映画と話があちこちに飛んだ。このスクリューボールも、最後はキャッチャーミットに収まっただろうか?(こや)
亀井俊介をWIKI PEDEIAで調べる
にほんブログ村
ブログランキングに参加しています。
クリックしてご協力いただければ幸いです。
ツイート海外文学作品についてのコラム「たまたま本の話」を掲載しています。
「たまたま本の話」は「miniたま」に毎号掲載しているコラムです。
「miniたま」は、インターネット古書店「ほんのたまご」とお客様を結ぶ架け橋として、
ご注文書籍とともにお送りしているミニコミ紙です。
「miniたま」のバックナンバーPDF版はこちらからどうぞ
第15回 異色の短編「信・望・愛」
(アーヴィン・S・コッブ)
江戸川乱歩が編集した「世界短編傑作集」(創元推理文庫)全5巻には、1860年に書かれたウィルキー・コリンズ「人を呪わば」から1950年のディビッド・C・クック「悪夢」まで、44編の傑作短編が年代順に収められている。いずれ劣らぬ珠玉の名品ぞろいだが、一番の異色作は第4巻(1961年4月刊)に収められている「信・望・愛」(1930年)だろう。
作者はアーヴィン・S・コッブ。専門のミステリ作家ではない。評論家の中島河太郎によれば、「アーヴィン・S・コッブはアメリカのジャーナリストであり、ユーモリストであり、また劇作家であった。1876年に生まれ、『ニューズ・デモクラット』の編集長などをはじめ、『サタデイ・イヴニング・ポスト』『コスモポリタン』誌などのスタッフとなったりした一方、ユーモア小説や短編集を著している。また映画脚本も手がけていて、1944年に死去した」(同書解説)とある。
以下、ストーリーの紹介となるので、未読の方はご注意を(引用は田中小実昌訳)。列車に3人の囚人が乗り合わせている。囚人はフランス人のラフィット、イタリア人のヴェルディ、途中から乗ってきたスペイン人のガサ。3人には本国送還のためそれぞれ1人ずつ監視官(刑事)が付き添い、ニューヨークへ向かっていた。2人の刑事が車中で食中毒にかかってしまい、残った1人が3人の囚人を監視することになる。
3人は本国送還されれば極刑が待っている。フランスの死刑は言うまでもなくギロチンである。フランス人のラフィットは「死刑になるおれには、それは永遠の長さだ。きっと、そうにちがいない。ギロチンの刃の下に首をさしだして待っている間に、今まで生きていた年月の何百倍も生き、そして何百回となく死ぬような思いがするだろう。それから、首が胴体からはなれる。おれのからだが二つになってしまうんだ」と、ギロチンによる死刑をおそれる。
スペイン人のガサは、スペインの法廷は血に飢えている、裁判官は被告を憐憫もなく罰するだけだと前置きし、こう言う。「やつらはおれをガロットにかける。ガロットってのは、でかい、がっちりした鉄の椅子だ。こいつに、両手、両足、胴体をしばりつける。そして頭を、まっすぐに立った柱にもたせかける。この柱にカラーのような鉄のバンドがついていて、そのなかにすっぽり首をいれ、後から死刑執行人が、そのねじくぎをしめるんだ」。そして「一寸きざみに息がつまり、死んで行くんだよ」と、ガロットによる死刑におびえる。
イタリアには死刑がなく、無期懲役である。しかし、イタリア人のヴェルディは「まったくひとりぼっちで監禁されるんだ。つまり、生きながら埋葬されるんだよ。監房の厚い壁のなかに、たったひとりでとじこめられる。ほんとうの墓場だ。大声をあげてわめいても、だれも答えてはくれん。沈黙と闇。このはてしない闇と沈黙のうちに気が狂い、死んでいくんだ」と、陽気なイタリア人にとって死刑よりも残酷な無期懲役におののく。
列車がニューメキシコ州の町に停車した一瞬の隙をついて、たった1人の監視官を殴り倒した囚人3人は、手錠の鍵とピストルを奪って脱走する。彼らはあれほど恐れていた本国送還と刑の執行から逃れ、自由の身になったように思われた。が、運命は彼らを逃さなかった。フランス人のラフィットは1人で逃亡する道を選ぶが、ホテルで追っ手に発見される。動き始めたエレベーターの中で従業員(「手の早い血の気の多いアイルランド人」と記述されている)と格闘の末、ドアに首をはさまれる。「まるで、なにかの大きな重い刃で首のところをすっぽりちょん切られたように、エレベーターのそとに首、中に胴体と、ラフィットのからだはきれいに2つになってしまったのだ」。
イタリア人とスペイン人も同様に死の運命にとらわれる。近くの小屋に住むメキシコ人の羊番を殺し、その男になり変わろうとしたスペイン人のガサは、脱走囚に襲われたことを装うためにイタリア人に体をがんじがらめに縛ってもらう。ところが縛るのにロープでなく牛皮を使ったのが命取りになった。「牛の生皮は、最初は、ただ首のまわりにまいてある程度だったのだろうが、時間がたつにつれて、それは鉄の輪のように首をしめつけ、刻一刻とちぢまって、おそろしい力で息の根をとめたのだ。つまり、スペイン人のガサは、正真正銘のガロットでじわじわと絞首刑にされたのだった」。
となればイタリア人の運命も想像がつくだろう。彼は入り込んだ谷で落石を受け、命からがら逃げ出したが、道がふさがり追っ手がやってくる可能性がなくなった。しかしそれは同時に、どこにも出口のない袋谷に迷い込んだことを意味する。「イタリア人のヴェルディは、栓をされた壜のなかの蝿のように、あるいは井戸の底におちこんだかえるみたいに、とじこめられてしまったのだった」。飢えて死ぬまでの間、あんなに恐れていた無期懲役さながらの孤独の苦しみに直面しなければならなくなった彼は、自ら命を絶つ。
ほとんどミステリとは言いがたいが、読めば読むほどよくできている話だ。さすが移民の国アメリカのジャーナリストらしく、各国の歴史や風土、因習を踏まえた上で見事な短編小説に仕上げている。調べてみると、アーヴィン・S・コッブは名匠ジョン・フォード監督の映画「プリースト判事」の原作者で、俳優としても同監督の「周遊する蒸気船」などに出演している。コッブの目に、アイルランド系アメリカ人のフォードは「血の気が多い」と映っていたのかどうか、聞いてみたかった気もする。(こや)
アイルランド系アメリカ人をWIKI PEDEIAで調べる
にほんブログ村
ブログランキングに参加しています。
クリックしてご協力いただければ幸いです。
ツイート海外文学作品についてのコラム「たまたま本の話」を掲載しています。
「たまたま本の話」は「miniたま」に毎号掲載しているコラムです。
「miniたま」は、インターネット古書店「ほんのたまご」とお客様を結ぶ架け橋として、
ご注文書籍とともにお送りしているミニコミ紙です。
「miniたま」のバックナンバーPDF版はこちらからどうぞ
(アーヴィン・S・コッブ)
江戸川乱歩が編集した「世界短編傑作集」(創元推理文庫)全5巻には、1860年に書かれたウィルキー・コリンズ「人を呪わば」から1950年のディビッド・C・クック「悪夢」まで、44編の傑作短編が年代順に収められている。いずれ劣らぬ珠玉の名品ぞろいだが、一番の異色作は第4巻(1961年4月刊)に収められている「信・望・愛」(1930年)だろう。
作者はアーヴィン・S・コッブ。専門のミステリ作家ではない。評論家の中島河太郎によれば、「アーヴィン・S・コッブはアメリカのジャーナリストであり、ユーモリストであり、また劇作家であった。1876年に生まれ、『ニューズ・デモクラット』の編集長などをはじめ、『サタデイ・イヴニング・ポスト』『コスモポリタン』誌などのスタッフとなったりした一方、ユーモア小説や短編集を著している。また映画脚本も手がけていて、1944年に死去した」(同書解説)とある。
以下、ストーリーの紹介となるので、未読の方はご注意を(引用は田中小実昌訳)。列車に3人の囚人が乗り合わせている。囚人はフランス人のラフィット、イタリア人のヴェルディ、途中から乗ってきたスペイン人のガサ。3人には本国送還のためそれぞれ1人ずつ監視官(刑事)が付き添い、ニューヨークへ向かっていた。2人の刑事が車中で食中毒にかかってしまい、残った1人が3人の囚人を監視することになる。
3人は本国送還されれば極刑が待っている。フランスの死刑は言うまでもなくギロチンである。フランス人のラフィットは「死刑になるおれには、それは永遠の長さだ。きっと、そうにちがいない。ギロチンの刃の下に首をさしだして待っている間に、今まで生きていた年月の何百倍も生き、そして何百回となく死ぬような思いがするだろう。それから、首が胴体からはなれる。おれのからだが二つになってしまうんだ」と、ギロチンによる死刑をおそれる。
スペイン人のガサは、スペインの法廷は血に飢えている、裁判官は被告を憐憫もなく罰するだけだと前置きし、こう言う。「やつらはおれをガロットにかける。ガロットってのは、でかい、がっちりした鉄の椅子だ。こいつに、両手、両足、胴体をしばりつける。そして頭を、まっすぐに立った柱にもたせかける。この柱にカラーのような鉄のバンドがついていて、そのなかにすっぽり首をいれ、後から死刑執行人が、そのねじくぎをしめるんだ」。そして「一寸きざみに息がつまり、死んで行くんだよ」と、ガロットによる死刑におびえる。
イタリアには死刑がなく、無期懲役である。しかし、イタリア人のヴェルディは「まったくひとりぼっちで監禁されるんだ。つまり、生きながら埋葬されるんだよ。監房の厚い壁のなかに、たったひとりでとじこめられる。ほんとうの墓場だ。大声をあげてわめいても、だれも答えてはくれん。沈黙と闇。このはてしない闇と沈黙のうちに気が狂い、死んでいくんだ」と、陽気なイタリア人にとって死刑よりも残酷な無期懲役におののく。
列車がニューメキシコ州の町に停車した一瞬の隙をついて、たった1人の監視官を殴り倒した囚人3人は、手錠の鍵とピストルを奪って脱走する。彼らはあれほど恐れていた本国送還と刑の執行から逃れ、自由の身になったように思われた。が、運命は彼らを逃さなかった。フランス人のラフィットは1人で逃亡する道を選ぶが、ホテルで追っ手に発見される。動き始めたエレベーターの中で従業員(「手の早い血の気の多いアイルランド人」と記述されている)と格闘の末、ドアに首をはさまれる。「まるで、なにかの大きな重い刃で首のところをすっぽりちょん切られたように、エレベーターのそとに首、中に胴体と、ラフィットのからだはきれいに2つになってしまったのだ」。
イタリア人とスペイン人も同様に死の運命にとらわれる。近くの小屋に住むメキシコ人の羊番を殺し、その男になり変わろうとしたスペイン人のガサは、脱走囚に襲われたことを装うためにイタリア人に体をがんじがらめに縛ってもらう。ところが縛るのにロープでなく牛皮を使ったのが命取りになった。「牛の生皮は、最初は、ただ首のまわりにまいてある程度だったのだろうが、時間がたつにつれて、それは鉄の輪のように首をしめつけ、刻一刻とちぢまって、おそろしい力で息の根をとめたのだ。つまり、スペイン人のガサは、正真正銘のガロットでじわじわと絞首刑にされたのだった」。
となればイタリア人の運命も想像がつくだろう。彼は入り込んだ谷で落石を受け、命からがら逃げ出したが、道がふさがり追っ手がやってくる可能性がなくなった。しかしそれは同時に、どこにも出口のない袋谷に迷い込んだことを意味する。「イタリア人のヴェルディは、栓をされた壜のなかの蝿のように、あるいは井戸の底におちこんだかえるみたいに、とじこめられてしまったのだった」。飢えて死ぬまでの間、あんなに恐れていた無期懲役さながらの孤独の苦しみに直面しなければならなくなった彼は、自ら命を絶つ。
ほとんどミステリとは言いがたいが、読めば読むほどよくできている話だ。さすが移民の国アメリカのジャーナリストらしく、各国の歴史や風土、因習を踏まえた上で見事な短編小説に仕上げている。調べてみると、アーヴィン・S・コッブは名匠ジョン・フォード監督の映画「プリースト判事」の原作者で、俳優としても同監督の「周遊する蒸気船」などに出演している。コッブの目に、アイルランド系アメリカ人のフォードは「血の気が多い」と映っていたのかどうか、聞いてみたかった気もする。(こや)
アイルランド系アメリカ人をWIKI PEDEIAで調べる
にほんブログ村
ブログランキングに参加しています。
クリックしてご協力いただければ幸いです。
ツイート海外文学作品についてのコラム「たまたま本の話」を掲載しています。
「たまたま本の話」は「miniたま」に毎号掲載しているコラムです。
「miniたま」は、インターネット古書店「ほんのたまご」とお客様を結ぶ架け橋として、
ご注文書籍とともにお送りしているミニコミ紙です。
「miniたま」のバックナンバーPDF版はこちらからどうぞ