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2025/02/03 07:03 |
海外文学のコラム・たまたま本の話「第14回 史上最高の名探偵はだれか」(ハリイ・ケメルマン)

第14回 史上最高の名探偵はだれか

(ハリイ・ケメルマン)

1841年、エドガー・アラン・ポーが「モルグ街の殺人」という1編の小説を書き、オーギュスト・デュパンなる1人の人物に殺人事件を解決させた。これが探偵を主人公とした小説の嚆矢とされる、とは推理小説史のイロハのイである。以来、シャーロック・ホームズ(作者はアーサー・コナン・ドイル)、ブラウン神父(G・K・チェスタトン)、アルセーヌ・ルパン(モーリス・ルブラン)、エルキュール・ポアロ(アガサ・クリスティー)、エラリー・クイーン(同名)、明智小五郎(江戸川乱歩)、ギデオン・フェル博士(ジョン・ディクスン・カー)など、ミステリーには洋の東西を問わず、無数の名探偵ないしそれに該当する人物が登場し、現場に残されたわずかな証拠から事件を解決していくことになる。

その中で史上最高の名探偵はだれか。無謀な質問にはそれ以上の思い切った答えが必要であろう。ここでわずか8編の短編にしか登場しない人物を挙げてみたい。ニッキイ・ウェルト。ニッキイは専門の探偵でもなければ警察関係者でもない。カリフォルニア州フェアフィールドに住むスノードン基金名誉英語・英文学教授である。アメリカの作家ハリイ・ケメルマン(1908~1996年)が書いた連作短編集「9マイルは遠すぎる」に登場する。

物語は長年の知人である「わたし」が、いわばワトスン役となってニッキイの名推理ぶりを語っていく。代表作はもちろん8編のうちの表題作。以下、引用は「9マイルは遠すぎる」(永井淳訳、1976年7月、ハヤカワ・ミステリ文庫刊)から。作品内容に触れているので未読の方はご注意を。

「たとえば10語ないし12語からなる一つの文章を作ってみたまえ」「そうしたら、きみがその文章を考えたときにはまったく思いもかけなかった一連の論理的な推論を引きだしてお目にかけよう」というニッキイの挑発に乗って、ある日「わたし」は英語で11語からなる次の文章をニッキイに伝える――「9マイルもの道を歩くのは容易じゃない。ましてや雨の中となるとなおさらだ」。この短い文章からニッキイは以下の推論を徐々に導き出していく。

○話し手はうんざりしている。

○彼は雨が降ることを予想していなかった(「ましてや」という言葉から)。

○話し手はスポーツマンや戸外活動家ではない(彼は実際に歩いてみた体験を語っており、歩いた場所はこの界隈という2つの仮定の上で)。

○話し手が歩いたのは夜中か早朝、夜の12時から朝の5時か6時までの間である(列車やバスがなくなり、車がつかまらない真夜中でもない限り、誰が好き好んで9マイル=約4時間も歩くだろうか)。

○彼はある町から外に出たのではなく、町に向かって歩いてきた(町から出たなら町で乗り物が都合できたはずだ)。

○9マイルは正確な数字を表している(10とか100というのはおおよその数字。加えて、町からある地点までの距離よりも、ある地点から町までの距離と考えるほうが、はるかに正確なイメージを抱きやすい)。

○彼はあるはっきりした目的地に向かっていて、しかも一定時間までにそこへ到着しなければならなかった。

○その約束の時間は4時30分から5時30分の間だった(約束が4時30分前だったら最終バス、5時30分以降だったら始発バスに乗っていたはずだ)。

○彼が何かの合図か電話連絡を待っていたとすれば、遅くとも午前1時までだった(約束が5時ごろだったら、1時には出発しなければならない)。

○歩いてきた町はハドリーである(ワシントン0時47分発の列車がハドリーで給水のため5時に停車し、8時にボストンに到着する。また、ハドリーからきっかり9マイルの地点に車を調達しづらいオールド・サムター・インという町がある)。

以上のような推論を積み重ねていって、ニッキイはこんな結論を導き出す――その男はおそらくワシントンからの電話をオールド・サムター・インの部屋で待っていて、ワシントン行き列車に乗っているある乗客の車両と寝台番号を知らされた。それからホテルの部屋を忍び出てハドリーまで歩いた。給水中の車に乗り込むのは簡単だ。
そしてまさにその通り、ワシントン0時47分発の列車内で他殺死体が発見されていた。
死亡推定時刻はボストン到着時刻8時の3時間前、ちょうどハドリーに給水停車した時刻5時とピッタリ一致する。そして、この犯罪史上稀なる偶然の一致は、実は偶然の一致ではなかった。「9マイルもの道を……」は「わたし」の頭に偶然に浮かんだ文章ではなく、レストランでふと耳にした二人連れ(犯人)の会話に触発されたものだった、というオチがつく。

作者のケメルマンは、自らが英作文の教壇に立っているときにこの話のヒントを思いついたという。それが1947年、「9マイルは遠すぎる」という短編に結実するまでに14年を要した。8編のニッキイ・ウェルトものが1冊にまとまったのはさらにその20年後である。
ほかの7編はそうでもないが、「9マイルは遠すぎる」だけは推論を積み重ねていく純粋に演繹的な手法で作品が組み立てられている。これは探偵が帰納的推理に頼るのが当然のミステリー作品としては例外中の例外、まさに驚くべきことであろう。けだしニッキイこそ、ユニークかつ史上最高の名探偵ではなかろうか。(こや)


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(※「9マイルは遠すぎる」の翻訳者)


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2011/10/08 16:55 |
コラム「たまたま本の話」
海外文学のコラム・たまたま本の話「第13回 ロンドンの霧が書かせた傑作」(トマス・バーク)

第13回 ロンドンの霧が書かせた傑作

(トマス・バーク)

1949年のこと。かの大御所、エラリー・クイーンがミステリに精通した24人の関係者(自身を含む小説家、批評家など)にアンケートを実施した。内容は「古今東西を通じて12編のベストミステリ短編を選んでほしい」というもの。テーマがあまりにも大きかったせいか、アンケートに回答を寄せたのは半数の12人に留まった。得票は最高で12票ということになる。

12票のうち3票を獲得した作品は以下の6編。「犬のお告げ」(ギルバート・キース・チェスタトン)、「ナボテの葡萄園」(メルヴィル・デイヴィスン・ポースト)、「ジョコンダの微笑」(オルダス・ハックスレイ)、「黄色いなめくじ」(ヘンリー・クリストファー・ベイリー)、「ほんものの陣羽織」(エドマンド・クレリヒュー・ベントリー)、「疑惑」(ドロシー・リー・セイヤーズ)。4票はなく5票が「健忘症連盟」(ロバート・バー)、「13号独房の問題」(ジャック・フットレル)の2編。そして6票が「ぬすまれた手紙」(エドガー・アラン・ポー)、「赤毛組合」(アーサー・コナン・ドイル)、「偶然は審く」(アンソニー・バークリー)の3編。

いずれ劣らぬ古典的名作ばかりだが、これらの11編を抑えて最高位に輝いたのは「オッターモール氏の手」(トマス・バーク)だった。得票は8票。目利きぞろいの投票者の3分の2がこの短編を傑作と認めたことになる。当時ほとんど無名に近かったバークが、ポーやドイル、チェスタトンよりすぐれたミステリ短編を書いた作家として、世界的に認知された瞬間だった。

「オッターモール氏の手」はこんな話である。以下、作品の内容に触れているので未読の方はご注意を。霧に包まれたロンドン市街に絞殺魔が現れる。最初は住民の夫妻が殺され、続いて第2の殺人(少女)が起きる。ロンドン警察は本署の巡査部長を始め、総動員体制で捜査に当たるが、犯人の手がかりは全くつかめない。そして第3の殺人(警官)、第4の殺人(元船乗りの老夫婦とその娘)が発生。被害者は総勢7人になった。

若い新聞記者が事件の取材に当たる。記者はふと思いつく――「サンドイッチにハムが入っているなら、そこにハムを入れた人間がいなければならない。7人の人間が殺されたとすれば、だれかがそこにいって彼らを殺さなければならない。人間のポケットにはいるような飛行機や自動車はありはしない。だから、だれかが走り去ったか、そこに踏みとどまったかして逃げたのでなければならない」。彼は、警ら中のロンドン警察巡査部長オッターモール氏のところに行く。

いつも殺人現場にいて捜査に当たっている氏に、「なぜ君は罪のない、あれだけの人々を殺したのかね?」と新聞記者は尋ねる……。つまり連続絞殺事件の犯人は当の巡査部長オッターモール氏で、新聞記者も第5の殺人の被害者になるという結末でこの話は終わる。

警察官による犯罪や、より猟奇的な殺人事件が頻繁に描かれる現代小説のレベルから見ると、「オッターモール氏の手」はさほどの衝撃を読者に与えないかもしれない。しかしこの小説が書かれた当時、1931年のロンドンではそうではなかった。街にはひっきりなしに濃霧が立ち込め、隣に住んでいる人間の顔も判然としないという状況が、現実のものとしてあった。

江戸川乱歩がイギリスの作家アーサー・マッケンの小説について評した「群集の中のロビンソン・クルーソー」という言葉がある。まさにロンドンの霧は、そこに住む群集を、大都会の中にもかかわらず孤立させてしまう力を持っていた。「オッターモール氏の手」にも濃霧の描写があちこちに見られる。霧に包まれたロンドン市街に住む人々にとって、隣にいる謎の人物が、オッターモール氏さながら白い手袋をはめた手を伸ばして自分の首を絞めに来るという想像は、単に空想や妄想のレベルにとどまるものではなかっただろう。

作者のトマス・バークは1886年、ロンドンのイーストエンドに生まれ、1945年に没した。両親を幼いころに失い、孤児院で育ったとされる。エラリー・クイーン編のアンソロジー「世界傑作推理12選&ONE」(新庄哲夫訳、1977年9月、光文社カッパ・ノベルス刊。作品本編からの引用も同書より)によれば、バークのプロフィールは次のように紹介されている――「英国の短編作家、エッセイスト。ロンドンの南京町ライムハウスを描いたものや貧民街を舞台にした犯罪小説が多い。

生粋のロンドンっ子として、町の隅々まで知りぬいている彼の作品には、独特のメロドラマ的な雰囲気が漂い、第1作『ライムハウスの夜』(1916年)が代表作とみなされている」。19世紀末のロンドンに生まれ、濃霧に包まれたこの街で20世紀前半を生き抜いた人間にしか書けなかった傑作、それが「オッターモール氏の手」なのである。

短編集「ライムハウスの夜」には、「The Chink and the Child」という作品が収められている。「シナ人と子供」のタイトルでかつて邦訳もされているが、これがサイレント映画「散り行く花」(1919年、D・W・グリフィス監督)の原作であることを今回、初めて知った。映画はロンドンのライムハウスを舞台に、少女役のリリアン・ギッシュと中国人青年の悲恋を描いた永遠の名作。そこに描かれた少女の父親の暴力性はすさまじく、銀幕で見て驚かされたものだが、そういえばオッターモール氏とどこか通じるものがあったと、いま思い至った次第である。(こや)


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(※オッターモール氏のモデルとして)


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2011/09/05 14:17 |
コラム「たまたま本の話」
海外文学のコラム・たまたま本の話「第12回 カーのトリックに物申す?」(ジョン・ディクスン・カー)

第12回 カーのトリックに物申す?

(ジョン・ディクスン・カー)

かつてこの人の書く作品を「この世にこんなにおもしろいものがあっていいのだろうか?」と評したのは、ミステリ評論家の故・瀬戸川猛資である。その言い草がふるっている。「駄作・バカ作の呼び声高い『剣の八』や『パンチとジュディ』も許してしまう。『五つの箱の死』『魔女が笑う夜』『孔雀の羽根』あたりになると、もう感動あるのみである」(「夜明けの睡魔」、1999年5月、創元ライブラリ刊より)。この人の書いた作品の出来栄えにひたすらひれ伏しているのかと思いきや、「要するに、何でもいいのだ」「やみくもに好きなだけである」と、まるであばたもえくぼの惚れ込みようである。

この人――ジョン・ディクスン・カーという作家には、常に両極端の評価がつきまとう。カーの作品なら何でも読むという熱狂的なファンもいれば、カーの名前を聞くだけで顔をしかめる人もいる。ミステリ黄金時代の本格派の巨匠の一人なのに、ここまで毀誉褒貶が激しい作家も珍しい。
そのカーの第1短編集の翻訳が「カー短編全集1/不可能犯罪捜査課」(宇野利泰訳、1970年2月、創元推理文庫刊)。「新透明人間」「空中の足跡」「ホット・マネー」「楽屋の死」「銀色のカーテン」「暁の出来事」「もう一人の絞刑吏」「二つの死」「目に見えぬ凶器」「めくら頭巾」の初期短編10編が収められている。原著は1940年の刊行。カーといえばギデオン・フェル博士やヘンリー・メリヴェル卿ものの長編というイメージが強いが、短編も数多く書いている。以下、取り上げる作品のトリックに触れているので未読の方はご注意を。

「ホット・マネー」は、ある街で銀行強盗事件が起きる話。盗まれたのは2万3000ポンドの大金である。犯人グループはすぐに逮捕されたが、紙幣が見つからない。盗んだ金はどうやら故買人の手に渡ってしまったらしい。故買人とおぼしき人物の屋敷でそれらしい現金を見たと秘書が証言する。その家の主人が書斎で大量の紙幣を広げていたという。しかし警察が書斎を捜索しても紙幣1枚見つからない。主人が書斎から出た形跡はない。果たしてスーツケース一杯の現金はどこに消えたのか。

種を明かせば、実は家具ではなく、部屋のスチームラジエーターの中に大量の現金を隠していたという次第。屋敷はセントラルヒーティングなので、暖炉やストーブではなく、スチームラジエーターが備え付けてある。ところがそれは見せかけの装置で、中は空洞になっていて石油ストーブが入っている。だから一応、暖房としても機能する(市販されているものだとカーは書いている)。探偵役のマーチ大佐は次のように説明する。
見せかけのスチームラジエーターは「構造上、がたがたする恐れがなく、しかも、大量の商品を入れることができる。そしてなによりも、すぐ目の前にあっても、それと気づくことのない品だ。いい代えれば、だれもそれを、家具の一つとは考えん。いわんや、その内部に、なにか隠せるなどとは、考えてもみない」「簡単にいうと、あれは、合鍵も文字合わせ錠も必要のない金庫なんだ」。
この隠し場所のトリックを聞いて、読み手はどう思うか。「心理的に見えない場所に隠す」、すなわちエドガー・アラン・ポーの古典的名作「盗まれた手紙」に匹敵する卓抜なトリックだと評価する読者がいる一方、おいちょっと待ってくれ、と思う読者もいるに違いない。ポーの時代ならともかく、この短編の書かれた1930年代のイギリス近代警察が、ラジエーターの中を調べないというずさんな家宅捜索をするはずもなかろう。そんな疑問がわく。

この短編集はトリックの宝庫といえるが、それらのトリックをひとつひとつ見ていくと読み手は半信半疑にならざるを得ない。「暁の出来事」では、死人と思われた人物が実は生きていて、脈拍を一時的に止めて死体を装っていたというトリックが登場する。「小さなゴムのボールを腋の下に挟み、その上で、腕を強くしめつけると、血行は止まります」「あのときのケイン氏の姿勢を思いだしてください。上膊は脇にあてていたが、肘から先、手首を診てくれといわんばかりに前にさし出していたはずです」。死体は確かにうつ伏せに倒れていたが、発見者が死体の心臓の鼓動の有無を確かめないという状況は考えにくい。そもそも死人が自分の腕を強く締め付けていたら、それは弛緩した死体ではなく生きている人間だということが発見者に分かってしまうはずだ。

おそらくカー本人にも、自らが考案したトリックに穴があることは分かっていたのではないか。「目に見えぬ凶器」では、体の13か所をめった切りにした凶器が部屋の中にあるはずなのに見つからないというトリックが登場する。種明かしは、凶器はガラスで作った短剣で、犯人はそれを犯行後に部屋の透明なガラスの水差しの中に放り込んだというもの。水を張った透明なガラスの容器の中に透明なガラスの短剣を入れても見えない、とカーは書くが、実際は見えないわけがない。熱帯魚の水槽の中にガラスの金魚鉢を入れてみれば分かる。

この話が17世紀イギリスに設定されているのは、近代警察ではないから捜査が甘かったのだ、というエクスキューズにも思える。そういえば、カーは後年、中世を舞台にしたオカルト趣味の歴史・時代ミステリを数多く書くように
なる。自らのトリックと近代の科学的捜査を決別させたかったのだろうか。
(こや)


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2011/08/09 10:57 |
コラム「たまたま本の話」
第11回 池澤夏樹が読みほどく「白鯨」(ハーマン・メルヴィル)

第11回 池澤夏樹が読みほどく「白鯨」

(ハーマン・メルヴィル)

スタンダール「パルムの僧院」、トルストイ「アンナ・カレーニナ」、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」、メルヴィル「白鯨」、ジョイス「ユリシーズ」、マン「魔の山」、フォークナー「アブサロム、アブサロム!」、トウェイン「ハックルベリ・フィンの冒険」、ガルシア=マルケス「百年の孤独」、池澤夏樹「静かな大地」、ピンチョン「競売ナンバー49の叫び」。

どこかの世界文学全集のラインナップかと思えば、さにあらず。作家・池澤夏樹が京都大学文学部の夏期特殊講義で取り上げた作品である。講義は2003年9月15日から21日にかけて行われ、それらをまとめた講義録が2005年1月、新潮社から「世界文学を読みほどく―スタンダールからピンチョンまで」のタイトルで刊行された(現在でも売れていて、新潮選書の文学部門で年間売り上げベスト3位にランクされたとも聞く)。

その後2007年11月から2011年4月にかけて、池澤は河出書房新社から個人編集の「世界文学全集」全30巻を編んでいる。選んだのは20世紀文学ばかり、しかも近年の作品がほとんどだから、前述の11編とひとつも重複していないが、この京大連続講義の経験が「世界文学全集を一人で作る」という無謀な!試みへのスプリングボードとなったことは確かだろう。話を先の講義に戻せば、さすが希代の読み巧者・池澤夏樹らしく、古典文学に関しても斬新な「読みほどき」をしている。特にハーマン・メルヴィル「白鯨」についての解説には驚かされた。

「白鯨」といえば19世紀アメリカ文学の古典中の古典。ストーリーは単純明快で、ピークオッド号の船長エイハブが昔、大きな白い鯨のモービ・ディックに出会い、捕まえようとしたが失敗して、船を沈められ、片脚を食いちぎられてしまうという設定で話は始まる。したがってストーリーは必然的に、エイハブがもう一度モービ・ディックを見つけてこれを殺す、という形をとる。これ以上ないという予定調和的な、まさしく絵に描いたような復讐譚である。
それを池澤はどうとらえるか。「『モービ・ディック』という作品をひと言で言えば、百科事典的である」と断定する。
「この『モービ・ディック』という小説が描いてる世界は、構造的である以上に羅列的なのです。18章で書かれたことが、19章の前提として絶対そこになければならないということがない。A、B、CをB、C、Aにしたってかまわないかもしれない。言ってみれば、一つ一つのチャプターがストーリー全体の流れに対して直角に立っているのです」

「メルヴィルが書きたかったのは、世界の構造は、そもそも項目の羅列である、世界というのは、一人の神から派生したディレクトリ、樹木状の構成をしているものではない、頂点から細部に至るためのカラクリをとっているのでは決してない、ということだと思います。世界は個々の項目の羅列から成り立っていて、それらの間には関係性が深いものと深くないものがある。そして、全体を統一するディレクトリはない。あるいはその統率力は弱い」

そして池澤は、「モービ・ディック」は一個のデータベースである、と規定する。「データベースというのは読破するものではない、必要な部分を参照するものです。たぶんメルヴィルがこんなに長いものを書いて実証したかったのは、世界はデータベースであるということだろうと、2003年になれば言えます。けれど、データベースという言葉ができて世に普及するまでに、メルヴィルは150年待たなければいけなかった」

この池澤の指摘はまさしく目からウロコで、ここで私たちは子供のころに読んだ、復讐譚としての「白鯨」像を180度転換する必要に迫られるだろう。実は主人公のエイハブ船長は一人称の語り手ではなく、別にイシュメールという、現在でいえばニートのような存在の語り手が同じ船に乗っている。イシュメールは何しろ、しばらく休暇をとってタダで世界旅行をしたいから捕鯨船に乗り込んだという男である。船に乗ってからの彼は、自分を消して忠実な報告者に徹する。そして結末に至るまでの話の中身は、ひたすら捕鯨のデータベース、鯨の百科事典となる。つまりエイハブの鯨に対する復讐譚という構造は、すべてを覆い隠すためのカムフラージュ、迷彩服に過ぎなかったことになる。

まるで第二次世界大戦後に出て来た「世界のすべてを記述する」全体小説や前衛文学を思い出させる作品である。「時間割」「心変わり」「段階」などの諸作を書いたミシェル・ビュトールや、ヌーヴォーロマンのオピニオンリーダーであったアラン・ロブ=グリエの顔が思い浮かぶ。
メルヴィルが「白鯨」を書いたのは1851年だが、そのほかの作品も含めて生前は全く認められなかったという。19世紀文学としては新しすぎたのだ。再評価の機運が巻き起こったのは20世紀に入ってから。だから誰もが読んでおくべきアメリカ文学の古典となってから、まだそれほど時間は経っていない。池澤が講義で取り上げた11編の作品のうち、最も古典文学的と思われた作品が実は伝統的小説から最もかけ離れたデータベースであったという結論。こういう小説の読み方こそ、21世紀にふさわしいものかもしれない。(こや

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2011/07/15 16:48 |
コラム「たまたま本の話」
第10回 ポーの2匹目の黒猫(エドガー・アラン・ポー)

第10回 ポーの2匹目の黒猫

(エドガー・アラン・ポー)

ずっと前に読んだ小説について、ストーリーの細部を間違って覚えていたことに気づき、ハッとするケースがある。エドガー・アラン・ポーの名作短編「黒猫」を先日、光文社古典新訳文庫版(「黒猫/モルグ街の殺人」2006年10月刊、小川高義訳)で読み直してみた。

あまりに有名な話なので、ストーリーに触れておく。未読の方はご注意を。
可愛がっていた黒猫の片目をえぐり、首に縄をかけて吊り下げて殺した酒乱の男が、それとそっくりな(同じような片目の)黒猫を拾ってくる。しかしその猫に対して男はやがて憎悪の炎を燃やすようになる。彼はふとしたきっかけで妻を衝動的に殺してしまい、一計を案じて死体を直立にして地下室の壁の中に塗り込めて隠す。警察が家宅捜索に来たが、何も見つからない。
完全犯罪が成功しそうになった刹那、壁の中から何とも言えぬすすり泣きのような声が聞こえてきた。警察が壁を掘り返すと、腐乱した妻の死体と、その頭上にいた黒猫が発見された。男は猫を生きたまま壁に塗り込めていたのだ!

こうしてあらすじを書き記しているだけでも恐ろしく、しかもよくできている話だが、うかつにも筆者は、主人公を裁くことになった黒猫が2匹目だったことをすっかり失念していた。
猫は最初から最後まで1匹だと思い込んでいた。ところが男を裁いたのは2匹目の猫だった。1匹目のプルートーは、最初は主人公になついていたが、やがて酒におぼれた彼によって片目をえぐられ、そしてついには首に縄をかけられて殺される。前述の小川訳ではこう書かれている。

「ある朝、まったく故意に、猫の首に縄をかけて木の枝に吊した。私は頬に涙を流し、つくづく非道だと思いながら猫を吊した。私になついていた猫だから、私に悪さをしなかった猫だから、これで私が罪を犯すことになるから、私は猫を吊した。とんでもない罪だ。もう私ごときの魂は、慈しみ深くも恐ろしき神の、その無限の慈しみさえも届かないところに――というようなことがあるのなら――追い出されそうになっていた」

この小川訳は読めば読むほど素晴らしい文章である。ポー翻訳の先達たちの美文調の訳文にありがちな難解さや不明瞭さがない。この小川訳で読むと、無垢や良心の象徴が黒猫であるということがよく分かる。黒猫といえば、通常は不吉さや魔物といったイメージだろうが、それはむしろ日本的な固定観念に過ぎなかったのではないか。今回の小川訳では、それを改めて感じさせられる。

とすると、この「黒猫」の話はどう読めばいいのだろう。黒猫が無垢な良心であるならば、それを吊るして殺したということは、取りも直さず主人公が自分で自分の良心を殺したことを意味する。2匹目の猫は、良心を無くした彼を裁くためにやってきた使者だと考えられる。1匹目のプルートーそっくりだが、たったひとつ違っていたのは、2匹目には白い毛がまざっていたこと。
そしてその毛の模様が絞首台の形をしていたことである。つまり2匹目の猫は主人公を絞首台に連れにやってきた、主人公の第2の良心なのだ。
妻を殺した後で、彼は自分でも気づかぬうちに猫を妻の死体と一緒に壁に塗り込めてしまう。そして家宅捜査にやってきた警官たちの前で、何かに憑かれたかのような熱弁を振るう。調子に乗って壁を杖で叩いた瞬間、壁の中で猫が鳴く。
つまり彼はここですっかり殺したと思っていたはずの自分の良心に裁かれ、絞首台に送られることになったのではあるまいか。訳者の小川はそのあたりのストーリー展開を、同書の解説でこう読み解いている。

「もはや1匹の猫というだけではない。『私』が嫌えば嫌うほどに、猫は足元にからみつき、膝に飛び乗り、爪を立てて『私』の胸に迫る。そう、猫は『私』の良心の権化なのだ。『私』が冷徹に悪事を遂行する際に、猫を見失っているのは当然だろう。妻の死体を壁に塗り込めて隠すのは、良心までも埋めてしまうことだった。そんなことが可能なのかどうか、最後は見てのとおりである」

ポーには「ウィリアム・ウィルソン」という分身をテーマにした代表作がある。自分に酔って熱弁を振るうことで馬脚を現し完全犯罪がフイになる「告げ口心臓」などの傑作もある。自分が自分を裁くというテーマが、ポー文学の核心の一つであることには疑う余地がない。

「黒猫」がもしも猫が1匹だけ登場する作品だとしたら、ここまでの傑作になり得ていたかどうか。妻が可愛がっていたペットに妻を殺した男が裁かれるだけの話ならば、それは当然の報いに過ぎない。一種の仇討ちものにとどまることになる。
重要なのは2匹目の猫だ。主人公を裁く(つまり自らの良心が自らを裁く)2匹目が登場したから、この作品はポーの分身テーマの作品の中でもひときわ完成度の高いものとなった。

ポーは自らも飲酒癖が治らず、晩年は生活が破綻していたという。亡くなったのはわずか40歳のときだった。「黒猫」の主人公も飲酒によって性格破綻者になってしまった男だ。言うなれば酒がもたらす「悪心」と猫に代表される「良心」のせめぎ合いが、この作品を根底で支えている。おっと、今回は「黒猫」という類い稀なる傑作に対して、ちょっと理屈をこねすぎたかもしれない。酒を飲むと理屈っぽくなっていけない。(こや)


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2011/06/10 13:19 |
コラム「たまたま本の話」

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