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「そのころ政府は『家族計画』という名称で産児制限政策を展開していた。医学的な理由での妊娠中絶手術が合法化されてすでに10年が経過しており、女だということが医学的な理由ででもあるかのように、性の鑑別と女児の堕胎が大っぴらに行われていた」
韓国の女性作家、チョ・ナムジュが2016年に書いた小説「82年生まれ、キム・ジヨン」(邦訳は2018年12月、筑摩書房刊、斎藤真理子訳)を読んでいて、まず目に留まるのは、こんな一節である。「そのころ」というのは遠い昔のことではない。「1980年代はずっとそんな雰囲気が続き、90年代のはじめには性比のアンバランスが頂点に達し、3番目以降の子供の出生比率は男児が女児の2倍以上だった」と続く。わずか30年前の韓国の話なのである。
そこで、キム・ジヨンの母親は、姉、妹(ジヨン)に続いて懐妊した3人目の子供を自らの意志で堕胎してしまう。エコー検査でまたもや女児だということが分かったからだ。今度も女児だと医師から聞かされたとき、彼女は「もしもよ、今おなかにいる子がまた娘だったら、あなたどうする?」と夫に尋ねてみる。何をばかな、息子でも娘でも大事に産んで育てるもんだろう、という言葉を期待して。しかし夫は答える。「そんなこと言ってるとほんとにそうなるぞ。縁起でもないことを言わないで、さっさと寝ろ」
このあたりの描写はショッキングで、思わず息を飲むが、この夫だけがひどい男というわけではない。韓国社会全体の認識がそうだったのだ。数年後、彼女はまた子供を授かる。「男だったその子は無事に生まれてくることができた」。女、女と来て、ようやく生まれた男の子に、ジヨンの家では家族を挙げて愛情を注ぐことになる。ジヨン自身は弟ばかりが優先される現実に違和感を覚えているのだが。
こうした政策を続けて行った結果、韓国はどうなったか。「1990年代になっても韓国は、非常に深刻な男女出生比のアンバランスを抱えていた。キム・ジヨン氏が生まれた1982年には女児100人あたり106.8人の男児が生まれていたが、男児の比率がだんだん高くなり、1990年には116.5人となった。自然な出生性比は103~107人とされている」
同じ世代でこれだけ男児の数が増えてくれば、当然、教育にも影響が出てくる。当時は共学の中学があまりにも少なく、たとえ共学でも男女は別のクラスに分かれ、男子クラスの数が女子クラスの倍もできてしまう不均衡が見られたという。そこで政府は垣根を取っ払って、何年かの間に中学のほとんどを男女共学とする制度変更に踏み切った。
「82年生まれ、キム・ジヨン」が描いているのは、韓国の男女格差がこうして徐々に是正されていく過渡期の時代の物語である。統計データが丹念に描き込まれているから、韓国の現代史も同時に見えてきて、きわめて興味深い。
1995年にキム・ジヨンは中学に入学し、やがて高校に進学する。20世紀末のこの時期に韓国で起きたことは、まず1997年のIMF危機。アジア通貨危機に直面した韓国が国際通貨基金(IMF)に経済主権を委ねた事件で、国家の財政破綻が何とか回避される代わりに、社会全体にリストラの嵐が吹き荒れた。大統領には金大中(キム・デジュン)が就任。小説の中では、安定した公務員であったキム・ジヨンの父親も、退職勧奨を受けて退職することになる。
1999年には「男女差別禁止及び救済に関する法律」が制定された。2001年には「女性家族部」がスタートしたが、これは女性の地位向上、家族の健康福祉、多文化家族の支援、児童・青少年の育成・福祉・保護などを管轄する行政機関のことである。そう書くと、韓国の20世紀末から21世紀初頭にかけては、男女格差が縮まってきた時代であるかのように思われるが、小説の中ではこんな指摘がされている。
「キム・ジヨン氏が(大学を)卒業した2005年、ある就職情報サイトで100あまりの企業を対象に調査をした結果、女性採用率比率は29.6パーセントだった。たったそれだけの数値で、女性が追い風だと報道していたのである」。さらにこう続く。「同じ年、大企業50社の人事担当者に行ったアンケートでは、『同じ条件なら男性の志願者を選ぶ』と答えた人が44パーセントであり、残り56パーセントは『男女を問わない』と答えたが、『女性を選ぶ』と答えた人は1人もいなかった」。何のことはない、女性が働く現場に格差は歴然とあったのだ。
この後も小説の中では、女性勤労者の育児休暇取得率や、女性管理職の比率の低さについて指摘される。勤労者の賃金については、「大韓民国はOECD(経済協力開発機構)加盟国の中で男女の賃金格差が最も大きい国である」とまで書かれている。「2014年の統計によれば、男性の賃金を100万ウォンとしたとき、OECDの平均では女性の賃金は84万4000ウォンであり、韓国の女性の賃金は63万3000ウォンだった」
韓国は2008年に戸主制度廃止を主たる内容とする改正民法を施行している。戸籍というものがなくなり、一人一人の登録簿だけになったが、まだ父親の姓を継ぐ者がほとんどだという。母親の姓を継ぐと何か特別な事情があると思われるからだ。
「82年生まれ、キム・ジヨン」は、男女格差に満ちた韓国現代社会を生き抜いて来た1人の女性、キム・ジヨンが、2015年秋に心身に変調を来たし、精神科のカウンセリングを受けるところで終わっている。韓国では2016年秋の刊行以来、100万部を超える売れ行きを見せ、社会現象になった。フェミニズム小説としては異例のベストセラーである。
作者のチョ・ナムジュはもともと放送作家。1982年に出生した女児の中で一番多い名前がキム・ジヨンだったことから、本書のタイトルを決めたという。(こや)
「そのころ政府は『家族計画』という名称で産児制限政策を展開していた。医学的な理由での妊娠中絶手術が合法化されてすでに10年が経過しており、女だということが医学的な理由ででもあるかのように、性の鑑別と女児の堕胎が大っぴらに行われていた」
韓国の女性作家、チョ・ナムジュが2016年に書いた小説「82年生まれ、キム・ジヨン」(邦訳は2018年12月、筑摩書房刊、斎藤真理子訳)を読んでいて、まず目に留まるのは、こんな一節である。「そのころ」というのは遠い昔のことではない。「1980年代はずっとそんな雰囲気が続き、90年代のはじめには性比のアンバランスが頂点に達し、3番目以降の子供の出生比率は男児が女児の2倍以上だった」と続く。わずか30年前の韓国の話なのである。
そこで、キム・ジヨンの母親は、姉、妹(ジヨン)に続いて懐妊した3人目の子供を自らの意志で堕胎してしまう。エコー検査でまたもや女児だということが分かったからだ。今度も女児だと医師から聞かされたとき、彼女は「もしもよ、今おなかにいる子がまた娘だったら、あなたどうする?」と夫に尋ねてみる。何をばかな、息子でも娘でも大事に産んで育てるもんだろう、という言葉を期待して。しかし夫は答える。「そんなこと言ってるとほんとにそうなるぞ。縁起でもないことを言わないで、さっさと寝ろ」
このあたりの描写はショッキングで、思わず息を飲むが、この夫だけがひどい男というわけではない。韓国社会全体の認識がそうだったのだ。数年後、彼女はまた子供を授かる。「男だったその子は無事に生まれてくることができた」。女、女と来て、ようやく生まれた男の子に、ジヨンの家では家族を挙げて愛情を注ぐことになる。ジヨン自身は弟ばかりが優先される現実に違和感を覚えているのだが。
こうした政策を続けて行った結果、韓国はどうなったか。「1990年代になっても韓国は、非常に深刻な男女出生比のアンバランスを抱えていた。キム・ジヨン氏が生まれた1982年には女児100人あたり106.8人の男児が生まれていたが、男児の比率がだんだん高くなり、1990年には116.5人となった。自然な出生性比は103~107人とされている」
同じ世代でこれだけ男児の数が増えてくれば、当然、教育にも影響が出てくる。当時は共学の中学があまりにも少なく、たとえ共学でも男女は別のクラスに分かれ、男子クラスの数が女子クラスの倍もできてしまう不均衡が見られたという。そこで政府は垣根を取っ払って、何年かの間に中学のほとんどを男女共学とする制度変更に踏み切った。
「82年生まれ、キム・ジヨン」が描いているのは、韓国の男女格差がこうして徐々に是正されていく過渡期の時代の物語である。統計データが丹念に描き込まれているから、韓国の現代史も同時に見えてきて、きわめて興味深い。
1995年にキム・ジヨンは中学に入学し、やがて高校に進学する。20世紀末のこの時期に韓国で起きたことは、まず1997年のIMF危機。アジア通貨危機に直面した韓国が国際通貨基金(IMF)に経済主権を委ねた事件で、国家の財政破綻が何とか回避される代わりに、社会全体にリストラの嵐が吹き荒れた。大統領には金大中(キム・デジュン)が就任。小説の中では、安定した公務員であったキム・ジヨンの父親も、退職勧奨を受けて退職することになる。
1999年には「男女差別禁止及び救済に関する法律」が制定された。2001年には「女性家族部」がスタートしたが、これは女性の地位向上、家族の健康福祉、多文化家族の支援、児童・青少年の育成・福祉・保護などを管轄する行政機関のことである。そう書くと、韓国の20世紀末から21世紀初頭にかけては、男女格差が縮まってきた時代であるかのように思われるが、小説の中ではこんな指摘がされている。
「キム・ジヨン氏が(大学を)卒業した2005年、ある就職情報サイトで100あまりの企業を対象に調査をした結果、女性採用率比率は29.6パーセントだった。たったそれだけの数値で、女性が追い風だと報道していたのである」。さらにこう続く。「同じ年、大企業50社の人事担当者に行ったアンケートでは、『同じ条件なら男性の志願者を選ぶ』と答えた人が44パーセントであり、残り56パーセントは『男女を問わない』と答えたが、『女性を選ぶ』と答えた人は1人もいなかった」。何のことはない、女性が働く現場に格差は歴然とあったのだ。
この後も小説の中では、女性勤労者の育児休暇取得率や、女性管理職の比率の低さについて指摘される。勤労者の賃金については、「大韓民国はOECD(経済協力開発機構)加盟国の中で男女の賃金格差が最も大きい国である」とまで書かれている。「2014年の統計によれば、男性の賃金を100万ウォンとしたとき、OECDの平均では女性の賃金は84万4000ウォンであり、韓国の女性の賃金は63万3000ウォンだった」
韓国は2008年に戸主制度廃止を主たる内容とする改正民法を施行している。戸籍というものがなくなり、一人一人の登録簿だけになったが、まだ父親の姓を継ぐ者がほとんどだという。母親の姓を継ぐと何か特別な事情があると思われるからだ。
「82年生まれ、キム・ジヨン」は、男女格差に満ちた韓国現代社会を生き抜いて来た1人の女性、キム・ジヨンが、2015年秋に心身に変調を来たし、精神科のカウンセリングを受けるところで終わっている。韓国では2016年秋の刊行以来、100万部を超える売れ行きを見せ、社会現象になった。フェミニズム小説としては異例のベストセラーである。
作者のチョ・ナムジュはもともと放送作家。1982年に出生した女児の中で一番多い名前がキム・ジヨンだったことから、本書のタイトルを決めたという。(こや)
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ハリウッド映画が世界を席巻した1950年代。総天然色、ワイドスクリーンで華やかに上映される西部劇、コメディー、ミュージカルなどの大作に目を奪われるが、問題意識にあふれる佳作も数多く作られた。以下は独断と偏見で選んだ1950~1959年製作の外国映画。順不同。ご笑覧ください。(こや)
①夜行列車
監督:イェジー・カワレロウィッチ 製作:1959年、ポーランド
ポーランド中心部の駅から発車する夜行列車は、翌朝バルチック海岸の町に到着する汽車だった……。夜行列車に乗り合せた人々のさまざまな人生模様を描くドラマ。「尼僧ヨアンナ」のイェジー・カワレロウィッチが監督した。謎の黒メガネの男がミステリー映画の雰囲気を漂わすが、アウシュビッツのイメージを想起させるシーンもあり、ハッとさせられる1編。
②非情の罠
監督:スタンリー・キューブリック 製作:1955年、アメリカ
わずか67分のフィルム・ノワールながら、落ち目のボクサーが大物ギャングの情婦を救うというハードボイルドの基本的要素を押さえた逸品。巨匠スタンリー・キューブリックの監督2作目で、ほかに脚本、製作、撮影、編集と1人5役をこなしている。悪夢のシーンはもちろんだが、マネキン工場の対決シーンの映像1つ取ってみても、非凡な演出力に舌を巻く。
③リラの門
監督:ルネ・クレール 製作:1957年、フランス
ルネ・クレールはサイレントからトーキーの移行期に活躍したフランス映画界の名匠だが、第二次世界大戦後も素晴らしい作品を残している。善良だが怠け者の男が、負傷した強盗をかくまうことによって生きる張り合いを得る。その事実を恋人に打ち明けたとき、恋人は強盗の魅力に惹かれて駆け落ちを企てる……。往年のフランス短編小説を思わせる人情悲喜劇。
④十二人の怒れる男
監督:シドニー・ルメット 製作:1957年、アメリカ
父親殺しの罪に問われた少年の裁判で、12人の陪審員が一室で議論し、ついに無罪評決に達するまでを描く。言わずと知れた密室劇の傑作で、原作はレジナルド・ローズ。全陪審員一致で有罪になると思われたところ、ただ1人、陪審員8番だけが少年の無罪を主張する。彼の熱意と理路整然とした推理によって、陪審員たちの心にも徐々に変化が訪れる……。
⑤ボディ・スナッチャー/恐怖の街(日本未公開、DVD発売)
監督:ドン・シーゲル 製作:1956年、アメリカ
ジャック・フィニイの名作SF「盗まれた街」をドン・シーゲル監督が映画化した。ある街が宇宙から来た未知の生命体によって侵略され、人々はそれに心と体を乗っ取られてしまっている。おそらく物語の奥には、忍び寄るソ連の共産主義思想に自国の民主主義が脅かされるのでは……という1950年代アメリカの不安構造がある。その後、何回もリメイクされた。
⑥手錠のまゝの脱獄
監督:スタンリー・クレイマー 製作:1958年、アメリカ
手錠で互いに繋がれたまま脱走した黒人と白人の2人の囚人が、当初は激しく反目し合いながらも絆を深めてゆく姿を描く。アカデミー賞脚本賞、同撮影賞、ベルリン国際映画祭男優賞(シドニー・ポワチエ)などを受賞。現在に続く人種問題映画のルーツのような1編で、監督は社会派のスタンリー・クレイマー。「ニュールンベルグ裁判」など硬質なドラマを作った。
⑦シェーン
監督:ジョージ・スティーヴンス 製作:1953年、アメリカ
かつては善(開拓農民のスターレット一家)と悪(牧畜業者のライカー一家)の対立、そして流れ者シェーンと殺し屋ウィルスンの代理戦争の物語だと思った。今見ると、南北戦争後、自分たちが所有していた土地を政府に無償提供しなければならないライカーたちのほうが被害者で、真っ当な主張に思える。アンドレ・バザンが「新たな西部劇」と呼んだ永遠の名作。
⑧雨に唄えば
監督:ジーン・ケリー、スタンリー・ドーネン 製作:1952年、アメリカ
サイレントからトーキーに移る時代を描いたバックステージ(舞台裏)ミュージカルの金字塔。いかに偉大な映画かは、アメリカ映画協会(AFI)が発表したミュージカル映画ベスト第1位、アメリカ映画主題歌ベスト100第3位、アメリカ映画ベスト100第10位、情熱的な映画ベスト100第16位に選出されたことでも分かる。ジーン・ケリーが見事。
⑨お若いデス
監督:ノーマン・タウログ 製作:1955年、アメリカ
一世を風靡したコメディー「底抜け」シリーズのコンビ、ディーン・マーティンとジェリー・ルイスの傑作の1本。宝石盗難事件に巻き込まれた底抜けコンビが、真犯人を追っててんやわんやの騒動を繰り返す。監督は娯楽映画の達人ノーマン・タウログだが、脚本にその後、世界的なベストセラー作家となるシドニー・シェルダンが名を連ねているのが注目される。
⑩愛情物語
監督:ジョージ・シドニー 製作:1955年、アメリカ
ハリウッドには、ミュージカルと一線を画す音楽映画の伝統がある。これは1930年から20年間にわたって甘美な演奏で全米を魅了した音楽家エディ・デューチンを主人公とした音楽映画。ピアニストとして身を立てるべくニューヨークにやってきたエディ・デューチンが一流の音楽家になり、不治の病で死去するまでを、ショパンの名曲に乗せて流麗に描く。
ハリウッド映画が世界を席巻した1950年代。総天然色、ワイドスクリーンで華やかに上映される西部劇、コメディー、ミュージカルなどの大作に目を奪われるが、問題意識にあふれる佳作も数多く作られた。以下は独断と偏見で選んだ1950~1959年製作の外国映画。順不同。ご笑覧ください。(こや)
①夜行列車
監督:イェジー・カワレロウィッチ 製作:1959年、ポーランド
ポーランド中心部の駅から発車する夜行列車は、翌朝バルチック海岸の町に到着する汽車だった……。夜行列車に乗り合せた人々のさまざまな人生模様を描くドラマ。「尼僧ヨアンナ」のイェジー・カワレロウィッチが監督した。謎の黒メガネの男がミステリー映画の雰囲気を漂わすが、アウシュビッツのイメージを想起させるシーンもあり、ハッとさせられる1編。
②非情の罠
監督:スタンリー・キューブリック 製作:1955年、アメリカ
わずか67分のフィルム・ノワールながら、落ち目のボクサーが大物ギャングの情婦を救うというハードボイルドの基本的要素を押さえた逸品。巨匠スタンリー・キューブリックの監督2作目で、ほかに脚本、製作、撮影、編集と1人5役をこなしている。悪夢のシーンはもちろんだが、マネキン工場の対決シーンの映像1つ取ってみても、非凡な演出力に舌を巻く。
③リラの門
監督:ルネ・クレール 製作:1957年、フランス
ルネ・クレールはサイレントからトーキーの移行期に活躍したフランス映画界の名匠だが、第二次世界大戦後も素晴らしい作品を残している。善良だが怠け者の男が、負傷した強盗をかくまうことによって生きる張り合いを得る。その事実を恋人に打ち明けたとき、恋人は強盗の魅力に惹かれて駆け落ちを企てる……。往年のフランス短編小説を思わせる人情悲喜劇。
④十二人の怒れる男
監督:シドニー・ルメット 製作:1957年、アメリカ
父親殺しの罪に問われた少年の裁判で、12人の陪審員が一室で議論し、ついに無罪評決に達するまでを描く。言わずと知れた密室劇の傑作で、原作はレジナルド・ローズ。全陪審員一致で有罪になると思われたところ、ただ1人、陪審員8番だけが少年の無罪を主張する。彼の熱意と理路整然とした推理によって、陪審員たちの心にも徐々に変化が訪れる……。
⑤ボディ・スナッチャー/恐怖の街(日本未公開、DVD発売)
監督:ドン・シーゲル 製作:1956年、アメリカ
ジャック・フィニイの名作SF「盗まれた街」をドン・シーゲル監督が映画化した。ある街が宇宙から来た未知の生命体によって侵略され、人々はそれに心と体を乗っ取られてしまっている。おそらく物語の奥には、忍び寄るソ連の共産主義思想に自国の民主主義が脅かされるのでは……という1950年代アメリカの不安構造がある。その後、何回もリメイクされた。
⑥手錠のまゝの脱獄
監督:スタンリー・クレイマー 製作:1958年、アメリカ
手錠で互いに繋がれたまま脱走した黒人と白人の2人の囚人が、当初は激しく反目し合いながらも絆を深めてゆく姿を描く。アカデミー賞脚本賞、同撮影賞、ベルリン国際映画祭男優賞(シドニー・ポワチエ)などを受賞。現在に続く人種問題映画のルーツのような1編で、監督は社会派のスタンリー・クレイマー。「ニュールンベルグ裁判」など硬質なドラマを作った。
⑦シェーン
監督:ジョージ・スティーヴンス 製作:1953年、アメリカ
かつては善(開拓農民のスターレット一家)と悪(牧畜業者のライカー一家)の対立、そして流れ者シェーンと殺し屋ウィルスンの代理戦争の物語だと思った。今見ると、南北戦争後、自分たちが所有していた土地を政府に無償提供しなければならないライカーたちのほうが被害者で、真っ当な主張に思える。アンドレ・バザンが「新たな西部劇」と呼んだ永遠の名作。
⑧雨に唄えば
監督:ジーン・ケリー、スタンリー・ドーネン 製作:1952年、アメリカ
サイレントからトーキーに移る時代を描いたバックステージ(舞台裏)ミュージカルの金字塔。いかに偉大な映画かは、アメリカ映画協会(AFI)が発表したミュージカル映画ベスト第1位、アメリカ映画主題歌ベスト100第3位、アメリカ映画ベスト100第10位、情熱的な映画ベスト100第16位に選出されたことでも分かる。ジーン・ケリーが見事。
⑨お若いデス
監督:ノーマン・タウログ 製作:1955年、アメリカ
一世を風靡したコメディー「底抜け」シリーズのコンビ、ディーン・マーティンとジェリー・ルイスの傑作の1本。宝石盗難事件に巻き込まれた底抜けコンビが、真犯人を追っててんやわんやの騒動を繰り返す。監督は娯楽映画の達人ノーマン・タウログだが、脚本にその後、世界的なベストセラー作家となるシドニー・シェルダンが名を連ねているのが注目される。
⑩愛情物語
監督:ジョージ・シドニー 製作:1955年、アメリカ
ハリウッドには、ミュージカルと一線を画す音楽映画の伝統がある。これは1930年から20年間にわたって甘美な演奏で全米を魅了した音楽家エディ・デューチンを主人公とした音楽映画。ピアニストとして身を立てるべくニューヨークにやってきたエディ・デューチンが一流の音楽家になり、不治の病で死去するまでを、ショパンの名曲に乗せて流麗に描く。
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脚本家の山田太一が昭和末期に書いた「異人たちとの夏」(1987年12月、新潮社刊。その後、1991年11月に新潮文庫)という長編小説がある。新潮社によって設立された山本周五郎賞の第1回受賞作品で、刊行当時、かなり話題になった。以下、作品の内容に触れるので未読の方はご注意を。
妻子と別れ、仕事場のマンションで一人暮らしをするテレビドラマの人気シナリオライターの原田。彼の両親は彼が12歳のときに交通事故死している。ある日、原田は幼いころに住んでいた浅草で、すでに亡くなったはずの両親と偶然、出会う。早くに死に別れた両親が懐かしく、彼は両親の元へ通い出す。
また原田は、同じマンションに住む桂(ケイ)という女性にも出会う。不思議な女性だと感じつつ、彼女と愛し合うようになる。しかし二つの出会いとともに、原田の体はみるみる衰弱していく。
と、書けばお分かりのように、この話はいわば現代版「怪談・牡丹灯籠」である。「怪談・牡丹灯籠」は江戸時代末期の1861~1864年ごろ、浅井了意による怪奇物語集「御伽婢子」や怪談などに着想を得て創作されたとされる。若い女の幽霊が男と逢瀬を重ねたものの、幽霊であることがばれ、幽霊封じをした男を恨んで殺すという話だった。これを怪談噺として完成させたのは明治の落語家、三遊亭圓朝。圓朝はこの幽霊話に仇討ちや殺人、母子再会など、多くの事件と登場人物を加え、それらが複雑に絡み合う一大ドラマに仕立て上げた。
「異人たちとの夏」は、両親とケイという共に異人(幽霊)たちとのひと夏の出会いを描いて、かなり感動的な物語に仕上がっている。翌1988年には市川森一脚色、大林宣彦監督によって映画化され、両親役の片岡鶴太郎と秋吉久美子が各種の助演賞に輝く名演を見せた。映画によって、作品の評価がさらに高まったと言っていい。現代の怪談噺にして人情噺の名作の1つだろう。
そんな昭和末期の傑作を令和の今、読み返してみると、面白い描写があることに気づく。例えばこんな一節。主人公の原田が生まれ故郷の浅草を久々に歩いていると、思わぬ光景に出くわす。
「急に、大きくて明るいビルが現れた。前に来た時はなかった。いくつもの商店が入ったテナントビルというようなものである」「渋谷であれ吉祥寺であれ、どこの盛り場にあってもおかしくないような建物である。ただ、このあたりにだけはあまり似合わない。周りの汚れて古い建築と馴染(なじ)まず、別の次元からなにかの間違いで移送されてしまったような印象があった」「私には、閉鎖され板で囲われている映画館やとりこわされたあとの空地よりも明るくて清潔なビルの方が、この街のいたましい傷痕のように感じられた」。そしてこう感想を締めくくる。「無論たちまちビルの方に合せて街は変り、そんな印象はなくなって行くのだろうが」。
「異人たちとの夏」が雑誌「小説新潮」に一挙掲載されたのが1987年。世はまさにバブル景気の絶頂期である。おそらく都市の再開発が、渋谷や新宿といった都心部から、土地がまだ高騰していない周縁地へと移っていった時代に当たる。浅草の旧歓楽街にある閉鎖された建物の所有権も、バブル景気の波に乗った資本家たちの潤沢な資金によって、次々と買い上げられていったのだろう。
そう考えると、この物語は人情噺や怪談噺とは全く別の局面を見せ始める。まだインターネットもパソコンも携帯電話も普及していない時代、メディアの頂点に君臨していたのはテレビだった。主人公の原田はテレビドラマの人気シナリオライターだから、いわばバブル景気の申し子のような人物である。本人はバブル時代に流行したトレンディードラマを打ち破り、斬新な作品を書く気概を持っているようだが、現実の彼はまさにその世界にどっぷりとつかっている。
そこに、昭和26年に死んだ両親が現れる。これは空前の好景気に踊るバブル時代の日本人が、バブルなど影も形もなかった時代に生きた、かつての日本人から「それでいいのか」と問いを突き付けられる物語ではないのか。父は彼に辛辣に言う――「物書きなんてのは、一番世間のほんとのとこを知らねえ連中でよ」と。再び両親と会えたことに感謝する彼の前から、父と母は使命を終えたかのように姿を消す。すき焼き屋での別れのシーンは、涙なくしては読めない。
もう1人のケイは、最後に幽霊だと分かる。実は最初の夜、彼の部屋に押しかけてきて入室を拒絶された直後、彼女は自分の胸をナイフで何度も刺して自殺していたのだ。幽霊になってから、原田の部屋でチーズ占いをしたり、胸に傷跡があるから背後から抱いてほしいと言ったり、まさにトレンディードラマの俳優そのもののようなセリフを吐く。
思えばケイもまさにバブルの申し子ではないか。バブルに踊るシナリオライターが、バブルの幽霊と恋に落ちる。バブル(泡)さながら、ケイも「下らない命(いのち)を大切にしたらいい」という捨てゼリフとともに、彼の前から消えていく。これは要するに、バブルの申し子が同じバブルの申し子からも見透かされてしまっているという構図である。
「異人たちとの夏」は、いわばバブル景気への警鐘の物語だったのではないか。発表後30余年が経った現在から振り返ると、まさに売れっ子シナリオライター山田太一が、自戒の念を込めながら書き上げた小説だったように思われる。(こや)
脚本家の山田太一が昭和末期に書いた「異人たちとの夏」(1987年12月、新潮社刊。その後、1991年11月に新潮文庫)という長編小説がある。新潮社によって設立された山本周五郎賞の第1回受賞作品で、刊行当時、かなり話題になった。以下、作品の内容に触れるので未読の方はご注意を。
妻子と別れ、仕事場のマンションで一人暮らしをするテレビドラマの人気シナリオライターの原田。彼の両親は彼が12歳のときに交通事故死している。ある日、原田は幼いころに住んでいた浅草で、すでに亡くなったはずの両親と偶然、出会う。早くに死に別れた両親が懐かしく、彼は両親の元へ通い出す。
また原田は、同じマンションに住む桂(ケイ)という女性にも出会う。不思議な女性だと感じつつ、彼女と愛し合うようになる。しかし二つの出会いとともに、原田の体はみるみる衰弱していく。
と、書けばお分かりのように、この話はいわば現代版「怪談・牡丹灯籠」である。「怪談・牡丹灯籠」は江戸時代末期の1861~1864年ごろ、浅井了意による怪奇物語集「御伽婢子」や怪談などに着想を得て創作されたとされる。若い女の幽霊が男と逢瀬を重ねたものの、幽霊であることがばれ、幽霊封じをした男を恨んで殺すという話だった。これを怪談噺として完成させたのは明治の落語家、三遊亭圓朝。圓朝はこの幽霊話に仇討ちや殺人、母子再会など、多くの事件と登場人物を加え、それらが複雑に絡み合う一大ドラマに仕立て上げた。
「異人たちとの夏」は、両親とケイという共に異人(幽霊)たちとのひと夏の出会いを描いて、かなり感動的な物語に仕上がっている。翌1988年には市川森一脚色、大林宣彦監督によって映画化され、両親役の片岡鶴太郎と秋吉久美子が各種の助演賞に輝く名演を見せた。映画によって、作品の評価がさらに高まったと言っていい。現代の怪談噺にして人情噺の名作の1つだろう。
そんな昭和末期の傑作を令和の今、読み返してみると、面白い描写があることに気づく。例えばこんな一節。主人公の原田が生まれ故郷の浅草を久々に歩いていると、思わぬ光景に出くわす。
「急に、大きくて明るいビルが現れた。前に来た時はなかった。いくつもの商店が入ったテナントビルというようなものである」「渋谷であれ吉祥寺であれ、どこの盛り場にあってもおかしくないような建物である。ただ、このあたりにだけはあまり似合わない。周りの汚れて古い建築と馴染(なじ)まず、別の次元からなにかの間違いで移送されてしまったような印象があった」「私には、閉鎖され板で囲われている映画館やとりこわされたあとの空地よりも明るくて清潔なビルの方が、この街のいたましい傷痕のように感じられた」。そしてこう感想を締めくくる。「無論たちまちビルの方に合せて街は変り、そんな印象はなくなって行くのだろうが」。
「異人たちとの夏」が雑誌「小説新潮」に一挙掲載されたのが1987年。世はまさにバブル景気の絶頂期である。おそらく都市の再開発が、渋谷や新宿といった都心部から、土地がまだ高騰していない周縁地へと移っていった時代に当たる。浅草の旧歓楽街にある閉鎖された建物の所有権も、バブル景気の波に乗った資本家たちの潤沢な資金によって、次々と買い上げられていったのだろう。
そう考えると、この物語は人情噺や怪談噺とは全く別の局面を見せ始める。まだインターネットもパソコンも携帯電話も普及していない時代、メディアの頂点に君臨していたのはテレビだった。主人公の原田はテレビドラマの人気シナリオライターだから、いわばバブル景気の申し子のような人物である。本人はバブル時代に流行したトレンディードラマを打ち破り、斬新な作品を書く気概を持っているようだが、現実の彼はまさにその世界にどっぷりとつかっている。
そこに、昭和26年に死んだ両親が現れる。これは空前の好景気に踊るバブル時代の日本人が、バブルなど影も形もなかった時代に生きた、かつての日本人から「それでいいのか」と問いを突き付けられる物語ではないのか。父は彼に辛辣に言う――「物書きなんてのは、一番世間のほんとのとこを知らねえ連中でよ」と。再び両親と会えたことに感謝する彼の前から、父と母は使命を終えたかのように姿を消す。すき焼き屋での別れのシーンは、涙なくしては読めない。
もう1人のケイは、最後に幽霊だと分かる。実は最初の夜、彼の部屋に押しかけてきて入室を拒絶された直後、彼女は自分の胸をナイフで何度も刺して自殺していたのだ。幽霊になってから、原田の部屋でチーズ占いをしたり、胸に傷跡があるから背後から抱いてほしいと言ったり、まさにトレンディードラマの俳優そのもののようなセリフを吐く。
思えばケイもまさにバブルの申し子ではないか。バブルに踊るシナリオライターが、バブルの幽霊と恋に落ちる。バブル(泡)さながら、ケイも「下らない命(いのち)を大切にしたらいい」という捨てゼリフとともに、彼の前から消えていく。これは要するに、バブルの申し子が同じバブルの申し子からも見透かされてしまっているという構図である。
「異人たちとの夏」は、いわばバブル景気への警鐘の物語だったのではないか。発表後30余年が経った現在から振り返ると、まさに売れっ子シナリオライター山田太一が、自戒の念を込めながら書き上げた小説だったように思われる。(こや)
NHK朝の連続テレビ小説「おちょやん」
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