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生涯に1000編を超える作品を残した星新一は、「ショートショートの神様」と呼ばれた。ご存じのように、星の父は星薬科大学の創立者で星製薬の創業者、星一。森鷗外が母方の大伯父に当たるというから、大変な家系である。短期間だが、父の死後、星製薬の社長を務めたこともある。
星新一に次ぐのが阿刀田高で、現在までに約800編のショートショートを書いている。阿刀田は若いころ結核を病んで療養生活を送り、大学卒業後は国立国会図書館に司書として勤務していた。その後、「ブラック・ユーモア入門 恐怖と笑いのカクテル 皮肉と毒舌に強くなる」(KKベストセラーズ刊)などを書き、コラムニストとして評判になった。やがてショートショート作家に転じて直木賞を受賞する。
つまり日本のショートショートは、会社社長出身と図書館司書出身の2人の作家が牽引してきた。けれどもここで忘れてはならない3人目がいる。都筑道夫である。都筑の書いたショートショートが何編あるか、正確には分からない。まずはインターネットで都筑の略歴を見てみよう。
1929年、東京市小石川区関口水道町(現在の東京都文京区関口)生まれ。生家は漢方薬局と的屋を兼ねていた。1945年、学費未納で早稲田実業学校を中退。正岡容や大坪砂男に師事し、学生時代から時代小説などを発表。1947年頃から約2年間、正岡の世話で新月書房に勤務し、カストリ雑誌を編集。1949年、初めて都筑道夫の名で原稿を発表。他にも淡路瑛一など、多数のペンネームを使う。1952年頃、オペラ口紅宣伝部にコピーライターとして勤務。1955年、室町書房にて日本初の海外SF紹介叢書である「世界空想科学小説全集」を平井イサクとともに企画したが、刊行は2冊で中断。
そして1956年、早川書房に入社する。「エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン」の編集長を務めたほか、ハヤカワ・ミステリで英米の新作を紹介した。1957年には、福島正実とともに「ハヤカワ・ファンタジー」(後に「ハヤカワSFシリーズ」)を立ち上げる。また、1958年に福島とともに講談社で「S・Fシリーズ」の企画にあたったが、シリーズは6冊で終了となった。1959年に退社し、本格的に推理小説の執筆活動に入った。
SF雑誌を作ったりつぶしたりと忙しいが、当時はまだSFが世間に認知されていなかった時代だから致し方ない。この略歴から分かることは、都筑は編集と執筆をずっと並行させてきた作家であるということだ。とすれば、彼には編集者としての立場からのショートショート観といったものがあるのではないか。会社社長や司書出身の作家とはまた違った、独自のものが。
都筑が日本を代表するショートショート作家と周知されたのは、1973年に桃源社から刊行された「都筑道夫ショート・ショート集成」全3巻の刊行からだった。ここには、それまでほぼ単行本未収録だった321編のショートショートが収録されている。主として推理小説家、翻訳者として知られていた都筑の別の側面を見せられた当時の読者は驚いた。
その「集成」の第2巻「悪意辞典」のあとがきに、都筑はこんなことを書いている。ショートショートとは何か? 単にオチのある短い短編小説のことではない。それは「アメリカの雑誌ジャーナリズムが、ある種の小説にあたえた呼称」である、と。「ある種の小説」とは何か。都筑の説明を要約すると、以下のようになる。
アメリカの大型雑誌は、カラーの写真やイラストの部分が前半に集まっている。小説でも実用記事でもそうで、冒頭の2ページだけが最初に来て、Continued on page○○○(○○○ページに続く)と書いてある。つまりは話がここでいったんちょん切れて、続きの部分は雑誌の後半にずらずらと並んでいる。
ちょっと前の話だが、1975年に日本で創刊された「月刊PLAYBOY」の日本語版がそうなっていた。それまでの日本の雑誌では一本の作品は中断なく一挙に載せられていたから、日本の読者はこれに驚いたが、アメリカの雑誌でははるか昔、19世紀の頃からずっと当たり前の掲載方法だったという。もしかするとアメリカの雑誌に多い中綴じ製本などでは、それが適しているのかもしれない。
しかし、そんな掲載方法はスピード時代の20世紀には合わないのではないか。そこでこんなことを考えた編集者がいた。Continued on page○○○(○○○ページに続く)が入らないようにするには、見開き2ページか、せいぜい3ページで終わる小説や実用記事を載せればいい。見開き2~3ページを日本の原稿用紙に換算すると、5~6枚、長くても20枚程度のごく短い作品となる。これを最初に考えたのは、アメリカの雑誌「コスモポリタン」の編集者らしい。この思い付きを面白がって、読み切り連載を引き受けたのがイギリスの作家サマセット・モームで、1920年代に同誌に掲載した短編を、後に「コスモポリタンズ」として一冊にまとめている。
つまりは掲載方法の工夫が先にあって、その必要から生まれたジャンルがショートショートだったのだ、と都筑は言っているのである。自ら書いたショートショートの数々を、前述の3巻本の企画が出るまで、書きっぱなしで掲載誌のまま積み上げておいたのも、都筑のショートショート観と無関係とは思えない。彼にとっては推理小説のほうが優先だったのだ。
都筑はこんなことも書いている。長編小説を1本の棒に例えれば、その一部分を任意に切り取って、読者の前に差し出したのが短編小説。その一部分や棒全体を読者の眼前に差し出して、小口をのぞかせたのがショートショート。小口は小さな丸にしか見えなくとも、後ろには棒の長さが伸びている、と。ショートショートの本質を、これほど言い当てた言葉はない。彼はしっかり見抜いていたのだ。
付け加えておけば、日本でショートショートという名称を最初に紹介したのは、他ならぬ都筑である。「エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン」の編集長だった1958年のことだった。せいぜい「雑誌のアクセサリーには絶好」という気持ちで同誌のフレドリック・ブラウンの作品解説に書いたというが、その呼称は、星新一らの活躍によって、見る見るうちに日本中に浸透することになる。すべての始まりは都筑だったのだ。「ショートショートの神様」という称号は、都筑にこそふさわしいように思えてきた。(こや)
生涯に1000編を超える作品を残した星新一は、「ショートショートの神様」と呼ばれた。ご存じのように、星の父は星薬科大学の創立者で星製薬の創業者、星一。森鷗外が母方の大伯父に当たるというから、大変な家系である。短期間だが、父の死後、星製薬の社長を務めたこともある。
星新一に次ぐのが阿刀田高で、現在までに約800編のショートショートを書いている。阿刀田は若いころ結核を病んで療養生活を送り、大学卒業後は国立国会図書館に司書として勤務していた。その後、「ブラック・ユーモア入門 恐怖と笑いのカクテル 皮肉と毒舌に強くなる」(KKベストセラーズ刊)などを書き、コラムニストとして評判になった。やがてショートショート作家に転じて直木賞を受賞する。
つまり日本のショートショートは、会社社長出身と図書館司書出身の2人の作家が牽引してきた。けれどもここで忘れてはならない3人目がいる。都筑道夫である。都筑の書いたショートショートが何編あるか、正確には分からない。まずはインターネットで都筑の略歴を見てみよう。
1929年、東京市小石川区関口水道町(現在の東京都文京区関口)生まれ。生家は漢方薬局と的屋を兼ねていた。1945年、学費未納で早稲田実業学校を中退。正岡容や大坪砂男に師事し、学生時代から時代小説などを発表。1947年頃から約2年間、正岡の世話で新月書房に勤務し、カストリ雑誌を編集。1949年、初めて都筑道夫の名で原稿を発表。他にも淡路瑛一など、多数のペンネームを使う。1952年頃、オペラ口紅宣伝部にコピーライターとして勤務。1955年、室町書房にて日本初の海外SF紹介叢書である「世界空想科学小説全集」を平井イサクとともに企画したが、刊行は2冊で中断。
そして1956年、早川書房に入社する。「エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン」の編集長を務めたほか、ハヤカワ・ミステリで英米の新作を紹介した。1957年には、福島正実とともに「ハヤカワ・ファンタジー」(後に「ハヤカワSFシリーズ」)を立ち上げる。また、1958年に福島とともに講談社で「S・Fシリーズ」の企画にあたったが、シリーズは6冊で終了となった。1959年に退社し、本格的に推理小説の執筆活動に入った。
SF雑誌を作ったりつぶしたりと忙しいが、当時はまだSFが世間に認知されていなかった時代だから致し方ない。この略歴から分かることは、都筑は編集と執筆をずっと並行させてきた作家であるということだ。とすれば、彼には編集者としての立場からのショートショート観といったものがあるのではないか。会社社長や司書出身の作家とはまた違った、独自のものが。
都筑が日本を代表するショートショート作家と周知されたのは、1973年に桃源社から刊行された「都筑道夫ショート・ショート集成」全3巻の刊行からだった。ここには、それまでほぼ単行本未収録だった321編のショートショートが収録されている。主として推理小説家、翻訳者として知られていた都筑の別の側面を見せられた当時の読者は驚いた。
その「集成」の第2巻「悪意辞典」のあとがきに、都筑はこんなことを書いている。ショートショートとは何か? 単にオチのある短い短編小説のことではない。それは「アメリカの雑誌ジャーナリズムが、ある種の小説にあたえた呼称」である、と。「ある種の小説」とは何か。都筑の説明を要約すると、以下のようになる。
アメリカの大型雑誌は、カラーの写真やイラストの部分が前半に集まっている。小説でも実用記事でもそうで、冒頭の2ページだけが最初に来て、Continued on page○○○(○○○ページに続く)と書いてある。つまりは話がここでいったんちょん切れて、続きの部分は雑誌の後半にずらずらと並んでいる。
ちょっと前の話だが、1975年に日本で創刊された「月刊PLAYBOY」の日本語版がそうなっていた。それまでの日本の雑誌では一本の作品は中断なく一挙に載せられていたから、日本の読者はこれに驚いたが、アメリカの雑誌でははるか昔、19世紀の頃からずっと当たり前の掲載方法だったという。もしかするとアメリカの雑誌に多い中綴じ製本などでは、それが適しているのかもしれない。
しかし、そんな掲載方法はスピード時代の20世紀には合わないのではないか。そこでこんなことを考えた編集者がいた。Continued on page○○○(○○○ページに続く)が入らないようにするには、見開き2ページか、せいぜい3ページで終わる小説や実用記事を載せればいい。見開き2~3ページを日本の原稿用紙に換算すると、5~6枚、長くても20枚程度のごく短い作品となる。これを最初に考えたのは、アメリカの雑誌「コスモポリタン」の編集者らしい。この思い付きを面白がって、読み切り連載を引き受けたのがイギリスの作家サマセット・モームで、1920年代に同誌に掲載した短編を、後に「コスモポリタンズ」として一冊にまとめている。
つまりは掲載方法の工夫が先にあって、その必要から生まれたジャンルがショートショートだったのだ、と都筑は言っているのである。自ら書いたショートショートの数々を、前述の3巻本の企画が出るまで、書きっぱなしで掲載誌のまま積み上げておいたのも、都筑のショートショート観と無関係とは思えない。彼にとっては推理小説のほうが優先だったのだ。
都筑はこんなことも書いている。長編小説を1本の棒に例えれば、その一部分を任意に切り取って、読者の前に差し出したのが短編小説。その一部分や棒全体を読者の眼前に差し出して、小口をのぞかせたのがショートショート。小口は小さな丸にしか見えなくとも、後ろには棒の長さが伸びている、と。ショートショートの本質を、これほど言い当てた言葉はない。彼はしっかり見抜いていたのだ。
付け加えておけば、日本でショートショートという名称を最初に紹介したのは、他ならぬ都筑である。「エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン」の編集長だった1958年のことだった。せいぜい「雑誌のアクセサリーには絶好」という気持ちで同誌のフレドリック・ブラウンの作品解説に書いたというが、その呼称は、星新一らの活躍によって、見る見るうちに日本中に浸透することになる。すべての始まりは都筑だったのだ。「ショートショートの神様」という称号は、都筑にこそふさわしいように思えてきた。(こや)
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