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2024/11/21 18:30 |
第121回 「映画=自惚れ鏡」説のゆくえ(佐藤忠男) 文学に関するコラム・たまたま本の話
PDF版はこちらから
今から45年前の話だ。映画評論家の佐藤忠男が「映画=自惚れ鏡」という説を提唱したことがある。1976年11月に刊行された「映画をどう見るか」(講談社現代新書)の中にある。長くなるが引用しつつ紹介しよう。
映画とは、いうなれば「自惚れ鏡、あるいは、ナルシスが自分の顔を写して見た川の水、というふうにもいえると思う。その鏡で見ると、自分という人間が実物よりずっと素晴らしく見える鏡である。または、神話のナルシスが、川の水に写った自分自身に恋いこがれてその川に飛び込んだという、その川の水である。映画のなかでいい恰好を見せるヒーローやヒロインは、ファンの憧れの化身であり、ファンはそのスクリーンの中にみずからとけ込んでしまいたいと願う。つまりは、ファンは、スクリーンのなかに理想化された自分自身を見て、それに惚れるのである」。つまり映画は現実をそのまま映す鏡ではなく、観客に都合の良いように現実を信じさせる鏡なのである、と佐藤は言うのだ。
個人個人の映画ファンの心理についてもそれは言えるが、民族的、国家的な規模においてもそれは指摘できる。すべての民族や国家はナルシスト的な性格を持っており、映画という表現手段を手にすれば、それを表現しないではいられない。つまり「映画は民族や国家の自惚れ鏡である」。
戦後イタリアに、なぜネオレアリズモの映画が登場したか。戦時中、けなげにファシズムと戦ったイタリア人というイメージを世界に植え付けたかったからである。フランスでも戦時中の対独協力の事実を信じたくない人たちがいて、ドイツ軍に抵抗した人々を英雄として描いた映画がしきりに作られた。ソビエトしかり、東欧しかり、ポーランドしかり、他ならぬドイツしかり。そしてわが日本でも、善良な日本人はおおむね戦争の犠牲者に過ぎなかった、という映画作りに情熱を注ぐようになった。
その具体例に挙げるのが、1954年の木下惠介監督の「二十四の瞳」である。周知のように、この映画は瀬戸内海の小豆島の眺望を背景に、心の美しい女性教師と質朴そのもののような教え子たちとの、昭和の初めから敗戦直後に至る20余年の美しい心の交流を描いている。日本映画史上、屈指の名作である。
中でも観客を泣かせたのは、戦後、この女性教師が墓地に行って、戦死した教え子たちの墓の一つ一つに呼びかける場面であろう、と佐藤は書く。かつて彼らが可愛らしい小学生だったときの印象的なエピソードを、女性教師は涙ながらに語る。それを聞きながら、われわれ観客は、あの可愛らしい少年たちがこうして戦争で死んでしまったのだと感じて、とめどなく涙にくれてしまう。
「しかし、これはじつに巧妙な錯覚であるといわねばならない」と、佐藤は言う。「なぜなら、この墓に眠っている教え子たちは、けっしてあの可愛らしい子どもとして死んだのではなく、大日本帝国の軍人として、もしかしたら残虐な人殺しとして死んだのである。ただこの映画では、兵隊になってからの彼らの姿がいっさい省略され、可愛らしい子どものときの姿から、出征のときの涙ぐましい見送りの情景を一シーンはさんだだけで、一挙にこの墓参りのシーンにとぶので、殺人や放火や強姦すらやったかもしれない兵士としての彼らのことが、ぜんぜん想像できないだけのことなのである」。
つまり佐藤は、あの子供たちが善良なまま死んだとすることは日本人の自己欺瞞である、と言っているのである。そしてその自己欺瞞を信じさせてしまうものが、自惚れ鏡としての映画なのだ、と。
かなり刺激的な書き方ではあるが、映画というメディアの本質をこれほど鋭く突いた言葉を知らない。佐藤の提唱した「映画=自惚れ鏡」説は、やがてアメリカ映画が世界市場で圧倒的優位にあるのはなぜか、という問題につながっていく。なぜなら、それは単にアメリカ人にとっての自惚れ鏡だけでなく、世界の警察として、ほとんど人類全体の自惚れ鏡という性格を持って作られているからである――。
それから45年が経つ。ここのところ、「映画=自惚れ鏡」説はすっかり影を潜めてしまった。なぜだろうか。2つの理由が考えられるだろう。
1つには、戦争というものが遠い存在になってしまったこと。総務省の人口推計によると、2019年10月1日現在、戦後生まれの人口は1億655万人で、全体の84.5%を占める。一方、戦前生まれは1962万人。現在と同じ形式で人口推計が始まった1947年の7384万人から70年余りで4分の1に減少した。
注目すべきは、戦後生まれの人口が戦前生まれの人口を上回ったのは1976年であること。まさに佐藤忠男の「映画をどう見るか」が刊行された年である。1976年には多くの日本人の脳裏にあった戦争の記憶が、それ以降、どんどん薄れていけば、当然、「映画は民族や国家の自惚れ鏡である」という考えも薄れていくだろう。
もう1つは、映画を見る人々の理想とする生き方や人生観が多様化していること。映画の中でいい恰好を見せるスターたちが、多くの人々の理想と必ずしも合致しなくなってきた。つまり自惚れ鏡が自惚れ鏡としての効果を発揮しなくなってきた。いまや一人一人が、それぞれ独自の自惚れ鏡を持っている時代である。21世紀のナルシスは、どの川に飛び込めばいいのだろうか。
(こや)
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2021/03/02 13:38 |
コラム「たまたま本の話」

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