第43回 アダムとイブとテレビの話
(ジャージ・コジンスキー)
「BEING THERE」(1971年)というタイトルを聞いて、ピンと来る人は少ないかもしれない。2005年1月に「庭師 ただそこにいるだけの人」(高橋啓訳)という、あまりパッとしない邦題で飛鳥新社から翻訳が出た長編小説である。
作者はジャージ・コジンスキー(1933-1991年)。ユダヤ系ポーランド人で、ほぼ亡命に近い形でアメリカに移住し、作家活動を展開した。「BEING THERE」は、実は1970年代にすでに「預言者」というタイトルで日本でも翻訳が出ていたのだが、あまり知られていない。むしろピーター・セラーズの主演した映画「チャンス」(原題は「BEING THERE」、1979年)の原作として有名である。
古い屋敷の庭師として住み込む孤児のチャンス(チャンスというのも本名ではなく、偶然によって生まれ落ちたから命名された)は、屋敷から外に出たことがない。すでに初老にさしかかっているが、いまだに読み書きが出来ず、庭の手入れ以外は一日中テレビを見ているのみ。やがて主人が死んでしまい、雇用記録どころか自分の存在証明すらないチャンスはこの家を出て行くことになる。
チャンスは街に出るのが初めてで、道を歩いていると車にぶつかってしまう。この車に乗っていたのが、実は大統領とも親交の深い米金融界の重鎮ベンジャミン・ランドの若い妻、イブであった。それが縁でチャンスはランド邸に身を寄せることになる。「お名前は?」と聞かれたチャンスは、「チャンスです、庭師(ガーディナー)の」と答える。そのときから彼の名前は「チョンシー・ガードナー」となった。
物語はここから急展開していく。病床にあるランドとともに大統領と対面したチャンスは、「植物の衰退の時期の後には成長の時期が自然に訪れる」と庭の手入れの心得を語る。この話が大統領に深い感銘を与える。大統領は植物の話を世界経済や金融政策の比喩ととらえたのだ。テレビに呼ばれたチャンスは同じ話をして聴衆や視聴者から大喝采を浴びる。
その後、国連のレセプションに呼ばれ、ソ連大使など各国首脳とも交流を深めるが、何しろ戸籍も何もないから、この謎の人物が果たして何者なのか、米FBIはもとより、他国の諜報機関にもわからない。その空白の経歴によって、「過去の汚点に足をすくわれない人物」という理由から、チャンスは次期米大統領の最有力候補に挙げられるようになる――。
結末は未読の方のために伏せておくが、これはまさしく1960年代のアメリカ社会の寓話になっている。登場人物やシチュエーションには、すべて何らかのメッセージが込められているようだ。まず主人公チャンスの存在をどうとらえるか。
2002年2月、福岡女子大学文学部紀要「文藝と思想」第66号掲載の論文「ジャージ・コジンスキー『ビーイング・ゼア』(1971年)論――浮遊する『空白のページ』」の中で、筆者の馬塲弘利はこう書いている。
「チャンスの幽閉されたこの『庭』には、当然、聖書の<エデンの園>へのアナロジーがある。チャンスの物語が日曜日に始まっていることは神の天地創造と重ねられている。聖書のアダムのように、彼は『庭の中では心配はなく安全で』『高く赤いレンガの壁で』外界から守られている」。そしてそのエデンの園を出たチャンスは自動車事故に遭い、ランドの妻に助けられる。彼女は洗礼名エリザベス・イブ(EE)。「もちろん、この妻のEEはエデンの園の<無垢なるアダム>を誘惑する<イブ>と重ねられていて、知的に障害があるだけでなく性的にも不能のチャンスを性的に誘惑しようとする女性である」と馬塲は鋭く指摘する。
アダムとイブの寓話に、時代状況がさらに別の要素を加える。それはテレビの存在である。1960年代のアメリカはテレビというメディアが社会を支配した時代だった。ラジオデイズはとっくに終焉を迎え、新聞もナンバーワンメディアの座を降りていた。
何しろチャンスは新聞を読まず(読めず)、一日中テレビばかり見ている男だ。屋敷でもランド邸でもテレビを見るだけの立場だった彼が、逆にテレビに出ることになった場面では、作者コジンスキーによってこんな考察がなされているのが興味深い。
「チャンスは今、これまでの人生に出会った人々よりもはるかに多くの人々に見られていた。テレビ画面で彼の姿を見ている人は、自分と面と向かっている人物が誰なのか知らない。実際に会ったこともないのに、どうしてわかるだろう? テレビは人の表面しか映さない。と同時に、その肉体からイメージを剥ぎ取ってしまう」(高橋啓訳)
テレビというメディアの本質を的確にとらえている指摘だ。実像でなく、実体のない虚像が物事の本質になる社会。エデンの園の住人であったチャンスにとっても例外ではない。彼の話す言葉はテレビを見て学んだものだから、いわば実体のない「テレビ語」のようなものである。
つまり個性もなければ裏もない。彼が庭の手入れの話をありのままに語れば、裏がないぶん、聞く人々は経済動向の比喩と思い込んで疑いを持たない。そういえば映画「チャンス」のラストで、チャンス役のピーター・セラーズがセリフを言ったとたん、思わず吹き出してしまうNGシーンがあった。名優セラーズにしてからが、実体なきテレビ語をなぞろうとして笑いをこらえ切れなかったのだろうか。
「BEING THERE」は、小説も映画も素晴らしい作品であった。ただし、1960年代のアメリカ社会を描いたものとしては、という条件がつく。1991年に没したコジンスキーが生きていたら、インターネットの蔓延する現代社会をどう描いただろうか。(こや)
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第42回 虹をつかむジェイムズ・サーバー
(ジェイムズ・サーバー)
映画「虹をつかむ男」が久しぶりにリメークされたというので話題になっている。1947年の最初の映画化ではコメディアンのダニー・ケイが主演。1939年、雑誌ニューヨーカーに発表されたジェイムズ・サーバーの原作はわずか10ページほどの短編(原題「The Secret Life of Walter Mitty」)だったが、脚本家のケン・イングランドとエヴェレット・フリーマンがプロットを大幅にふくらませ、名匠ノーマン・Z・マクロードが監督して一級品の喜劇映画に仕上げた。日本でも1950年に劇場公開されている(当時の邦題は「虹を摑む男」で、同年のキネマ旬報外国語映画ベストテン8位に入選)。
今回の再映画化の邦題は「LIFE!」(本年3月、全国ロードショー予定)。雑誌「ライフ」の2000年の廃刊騒動をからめ、これまた原作をかなりアレンジして練り上げた独自のストーリーになっているらしい。うれしかったのは、映画の公開に合わせて原作「虹をつかむ男」を表題作とする短編集が文庫化されたことである(鳴海四郎訳、2014年1月、ハヤカワepi文庫刊)。かつて異色作家短篇集およびその新装版で出たジェイムズ・サーバーのオリジナル傑作選が、これで手軽に読めるようになった。
この機会に、代表作「虹をつかむ男」を文庫版で読み直してみた。主人公Walter Mittyには「夢想にふける人」の意味がある――そう書いている英和辞典もあるほど本国では有名な作品である。現実では妻の尻に敷かれながら美容院や買い物に付き合わされる恐妻家のウォルター・ミティが、夢想の中では常にヒーローになる。「ある時は悪天候をモノともしない勇猛果敢な艇長、ある時はいかなる事態にも冷静に対処するスゴ腕の外科医、またある時は高潔なる射撃の名手、そしてまたある時は命知らずのパイロット……」(文庫版カバーより)。
つまり現実で自家用車のスピードを出し過ぎて妻にしかられると、空想の中では悪天候の中でも勇敢にスピードを出して突き進む艇長になっているという次第。夢想と現実が尻とり遊びのように、交互にシニカルにつづられていくのが妙味である。
翻訳した鳴海四郎は2004年10月にすでに故人となっていて、同書巻末の解説を鳴海に代わってH・Kなる署名の人物が書いている。中にこんな一節がある――「じつはサーバーは6歳のときに事故で片目の視力を失っており、また生涯にわたって残った目の視力の低下に悩まされていた」。驚いたので調べてみると、「『脳のなかの幽霊』を読む。」というインターネット記事の中にこうあるのを見つけた――「作家で諷刺漫画家のジェイムズ・サーバーは、6歳のとき、兄が投げたおもちゃの矢が右眼に突き刺さるという事故にあい、それ以来、右眼が見えなくなった。(中略)やっかいなことに、事故から何年かたって、左眼もしだいに衰えはじめ、35歳のときに完全に失明してしまった」。
サーバーは1894年生まれ。とすれば1900年に右目の視力を失い、1929年には両目とも失明してしまったことになる。1929年というのは最初の著作「Is Sex Necessary?」(「Sexは必要か」「性の心理」などのタイトルでかつて邦訳あり)をE・B・ホワイトとの共著で出版した年である。
失明といっても多少は見えていたのかもしれないが、作家としてのキャリアのほとんどを不自由な視力で過ごしたというのは驚くべきことであろう。しかもサーバーは文章だけでなくイラストやマンガも書く。それぞれの短編の扉や本文に描かれているユニークな自筆マンガは有名だが、今回の文庫版「虹をつかむ男」のカバーイラストもサーバー自身の手によるものである。満足にものが見えない状態で、長年ずっと文章や絵を描いていたのだろうか。
実はサーバーは「シャルル・ボネ症候群」だったという説がある。シャルル・ボネ症候群とは視力の低下とともに、そこにないはずの人物、動物、建物などが見える症状のこと。脳には目から送られてきた映像を瞬時に認識し判断する必要があるから、処理時間を早めるために今まで経験してきた映像で補う働きがある。視覚システムに異常をきたすと、それをさらに補うため、脳は独自に像を作り始める。したがってかつて経験してきて、今は実際にそこにはない映像が見える気がする――という学説で、これを「幻肢現象」(ケガや病気で四肢を切断された人が、あるはずのない手や足の痛みを覚える症状)と類似したものと主張する学者もいる。
「虹をつかむ男」の主人公ウォルター・ミティは、病院の前を通れば自分がスゴ腕の外科医になるし、新聞売りが裁判所の公判のニュースを叫ぶと高潔なる射撃の名手になる。雑誌の爆撃機の写真を見れば命知らずのパイロットになってしまう。ミティは目が見えているのだが、この症状はまさにシャルル・ボネ症候群に該当するのではないか。
サーバー自身を長年にわたって悩ませた(あるいは楽しませた?)症状の経験が、おそらくミティという主人公のキャラクター造形には生かされている。
ところで夢想部分の随所に「ポケタ・ポケタ」という擬音が登場する。それは水上艇のシリンダーの音であったり、手術室の麻酔器の音であったり、新式の火炎放射器の音であったりとさまざまだが、作品に見事な効果を与えている。原文ではpocketaとつづってある。pocketとはどうやら関係なさそうだが、夢想の中になぜわざわざ擬音を持ってきたのか、以前から気になっていた。サーバーがシャルル・ボネ症候群だったと考えると納得がいく。この症状が擬音をきっかけとして誘発されることは十分に考えられるからである。(こや)
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第41回 ジャック・リッチーの短編作法
(ジャック・リッチー)
帯には「『このミステリーがすごい!』第1位作家が、ものすごい手をつくした厳選短篇23篇!」とある。「すごい」が2つも続く、かくも仰々しいキャッチコピーを引っ提げて、先ごろ「ジャック・リッチーのあの手この手」がハヤカワ・ミステリの1冊として刊行された(2013年11月、早川書房刊)。「クライム・マシン」「10ドルだって大変だ」「ダイアルAを回せ」「カーデュラ探偵社」に続く、ジャック・リッチー5冊目のオリジナル短編集。しかも編者の小鷹信光が貴重な原文を入手して厳選したという、オール初訳の23編が収録されている。日本でリッチーの短編集が翻訳刊行されるのは3年ぶりだから、これは確かに2013年海外ミステリーの収穫の一つかもしれない。
ジャック・リッチーは1922年、アメリカのウィスコンシン州ミルウォーキー生まれ。ミルウォーキー教員養成大学を卒業後、第二次世界大戦ではアメリカ陸軍に入隊していた。終戦後は家業の洋裁店を手伝っていたが、デビュー前のこの時期に短編小説をずいぶんと書き溜めていたらしい。
1953年にニューヨーク・デイリー・ニューズ紙に掲載された「Always the Season」で作家デビュー。以後、亡くなる1983年までの30年間、「マンハント」「ヒッチコック・マガジン」「エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン」などのミステリー雑誌に毎月のように作品を発表し続けた。1961年発表の「クライム・マシン」は各種の短編アンソロジーに何度も収録されている名作だし、また1981年発表の「エミリーがいない」では翌1982年のアメリカ探偵作家クラブ(MWA)賞の最優秀短編賞を受賞している。
奇妙なのはこれだけの売れっ子作家なのに、著作の出版では長らく不遇を囲っていたことである。生前に刊行された著書はわずか1冊、1971年の短編集「A New Leaf and Other Stories」のみ。これとて短編「The Green Heart」がウォルター・マッソー主演で映画化(「おかしな求婚」、原題は「A New Leaf」)されたことによる便乗出版だろう。
生涯に350編を超える短編小説を残した作家としては、寂しい限りである。ちょっと器用な職人作家として、軽視されていたのだろうか。むしろ日本では生前、「クライム・マシン」1編を除いて知名度が低かったために、死後20年以上も経ってから再評価の機運が逆に盛り上がってきたとも言えるのだが。
さて、ここからが本題。かつてインタビューで本人が答えていたところによれば、リッチー独特の短編小説作法があるという。「カーデュラ探偵社」(2010年9月、河出文庫刊)の解説で羽柴壮一が紹介している。
「ショートショートなら、書き始める前に、ほとんど一言一句にいたるまで頭の中で作品が出来上がっているというリッチーだが、もっと長いものになると記憶力に頼ってはいられない。この場合は『ジグソー法』と名づけた方法をとる。
まず物語を、冒頭、中盤、結末、どこでもいいから書き始める。作業の途中で思いついたアイディアや文章があれば、前後1行あけて書きとめておく。ほぼストーリーが完成したと思ったら、ハサミを取り出してタイプ原稿を適切な箇所で切っていく。あとはそれを並べ替えてつなげるだけ。リッチーいわく、『これでうまくいく。もっとも、私はジグソー・パズルのちょっとしたマニアでね。むかし、時間がたっぷりあったころには、何時間でもそうやって並べ替えていたものさ』」
かなりユニークな創作法だが、考えてみるとどことなく他の何かに似ているようにも思われる。これはむしろコラムやエッセーを書く手法なのではないか。名コラムニストの青木雨彦は、かつてある著書の中で、自分の書きたいことを整理する方法について「箱庭にして全体を見通す短冊方式がいい」と語っていた。
①まず短冊のような細長いメモ用紙を作る
②書こうとする文章の中で落とせない要点を思いつくまま1枚のメモ用紙に1つずつ
書き込む
③書き込んだ短冊を机の上いっぱいに広げる
④これは序論に使う、これは結論にとっておく、などと入れ替える
⑤机の上に並んだ骨組みをつなぎ、肉をつけて、所定の長さの文章に仕上げる―。
この作業の利点として、青木は次の点を挙げていた。「頭の中にあるかすみのようなものが、紙に書き写すことによってハッキリと形にまとまる」「短冊に書くとき見出し文句のように短く濃縮するので、自分の言いたいことが簡潔にできる」「机の上に項目別にグループを作ってまとめるので、大事なことで落ちこぼしがあるかどうか点検できる」「序論、本論、結論に使うネタを、簡単に自由に入れ替えられる」「骨組みさえできれば、後は原稿の長さは実例を入れるなどで調節できる」。まさにリッチーの短編小説作法にそっくりではないか。
試みに「ジャック・リッチーのあの手この手」所収の1980年発表「ABC連続殺人事件」を見てみよう。A、B、Cの順に人が殺されていく、アガサ・クリスティーの名作に想を得ながらも、クリスティーと全く異なる謎と解決を導き出していく。定評のある簡潔な文体は確かにここでも見事で、ヘンリー・ターンバックル部長刑事とその同僚が事件に対するそれぞれの仮説を積み上げていくという、謎解き合戦の鮮やかさには思わず舌を巻く。なかなかの短編なのだが、残念ながら隔靴掻痒の部分がなきにしもあらず。
ネタバレになるのを承知で言うと、最後にA、B、Cの頭文字を持つ三つ子が出てくるのだが、本質と関係がない部分にとどまってしまっているのだ。これなどはABCと三つ子というジグソー・パズルのピースを思いつきながらも、それが適材適所にうまくはまってくれなかった例だろうか。(こや)
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第40回 マラマッドは古典作家か
(バーナード・マラマッド)
バーナード・マラマッドの代表作「魔法の樽 他12篇」(2013年10月、岩波文庫刊)が、阿部公彦の新訳でこのたび刊行された。日本でもかつて1970年前後に荒地出版社、角川文庫、新潮文庫からそれぞれ翻訳(抄訳)が出て、人気のあった作品である。いまごろ岩波文庫に初収録とはずいぶん遅い印象があるが、原著の刊行は1958年。驚いたことに、バリバリの戦後派文学なのである。
マラマッドは1914年に生まれている。最初の長編「ナチュラル」が1952年、続く2作目の長編「アシスタント」が1957年の発表。本書はそれに続く処女短編集である。作家としては遅咲きのスタートだった。何となく古典的な作家というイメージがあるのはそのせいだろうか。あるいは安部公房が以前インタビューで語っていた、こんなマラマッド評も影響しているかもしれない。
「――ユダヤ人作家の中で、安部さんがとくに関心を寄せられている一人はマラマッドですね。それもやはり同時代性ということですか。
安部 いや、少しずれるようだ。多少前の世代に属する感じがある。(中略)マラマッドにはさほど同時代性は感じられない。彼には非常に優れた素質と、ものを見る目に、とかく僕らが忘れがちな繊細な愛情というものがあると思う。むしろ、ドストエフスキーの現代版みたいなところがあって、たしかに一世代前のものではあるけれど、やはり見失っては困るものだろう。だから、マラマッドは方法の上でかなり異質だけど、好きなんだ」(インタビュー「内的亡命の文学」、1979年1月)
ここでマラマッドの略歴をたどってみよう。前出の岩波文庫版「魔法の樽」の解説で、訳者はこうまとめている。
「バーナード・マラマッドは1914年、ロシア系ユダヤ人の両親の元にニューヨーク・ブルックリンで生まれた。年代からもわかるようにマラマッドの両親は、帝政ロシア期のユダヤ人迫害を逃れてアメリカにやってきたのである。ブルックリンと言えば(中略)つい最近までそこは貧しい住民の多い、危険な場所でもあった。ましてやマラマッドの両親が移住してきた20世紀はじめのブルックリンは、迫害の地から命からがら逃げてきたような移民も多くいた地域で、それだけに日本的な意味とはまた別の人情や情念の渦巻く場所でもあった。(中略)
ニューヨークに移住したユダヤ人の多くは、子供たちの教育には熱心だった。マラマッドは両親の店を手伝いながら高校に通い、卒業後、一時的に教員見習いとして働いたが、その後ニューヨーク市立大で英文学を勉強し、コロンビア大の修士課程に進んでトマス・ハーディの研究で修士号を取得している(中略)。貧しい家庭に生まれつつも、学校では成績優秀で利発な子供だったマラマッドは、奨学金の助けも借り、苦学しながら学歴を得ていく。そこには持ち前の勤勉さも大きく役立っていた」
本書の冒頭に置かれた短編「はじめの7年」には、そんな勤勉な苦労人マラマッドの分身といえる人物がちりばめられている。靴屋のフェルドが、自分の娘ミリアムの結婚相手に、知り合いの大学生マックスはどうかと薦める。フェルドはポーランド移民で教育熱心だが、娘ミリアムは教育を受けるよりも早く自立して仕事をしたいと思っている。マックスは行商人の息子だが、大学に通っている勤勉家である。ミリアムとマックスは何度かデートするが、「物質主義者(マテリアリスト)」マックスにミリアムは興味を示さない。
フェルドの店にはソベルという腕のいい靴直し職人がいる。店主のフェルドといさかいがあって彼は店を飛び出してしまう。代わりに雇った助手が店の金を使い込んでいたことが発覚し、フェルドはソベルに戻ってきてくれと言う。そのとき35歳のポーランド移民のソベルは、実はあなたの娘の19歳のミリアムが好きだと言う。激情にかられたフェルドは「ソベル、お前は狂っている。ミリアムがお前みたいに年取った醜い男と結婚するわけがない」と言い放ってしまう。
ソベルは泣く。やがてフェルドは暴言を吐いたことを涙ながらに反省し、ミリアムと彼の結婚を了承する。最後、ソベルは店に戻って以前のように仕事を再開する。
安部公房がマラマッドを「前の世代に属する作家」と感じる理由はここにある。実に古典的なプロットと、アメリカのユダヤ人社会のリアリズム描写。安部が「ユダヤ性」といえば、それは同じユダヤ人でもフランツ・カフカのことだから、こうした短編を書くマラマッドから同時代性を感じないのも無理はない。心温まるストーリー展開は、雑誌「ニューヨーカー」に載るような大衆文学の味わいにむしろ近い。
しかし本当に心温まる話――だろうか? フェルドはアメリカに渡って一軒の靴屋を持ったから、ひとまず成功者かもしれない。ソベルは命からがらヒトラーのガス室から逃れてきたが、いまだに使用人に甘んじている。いわばこれは勝ち組が自分の娘を奪っていく負け組に怒りをぶつける話だが、もとを正せばどちらもポーランド移民である。アメリカという大国の中の小さなユダヤ人社会で細々と生きていくほかに道はない。期待を込めて育ててきた娘も母親と同様、靴職人の妻となるしかないだろう。そうした諦念を抱く成功者も、婚約して人生に希望が出てきた使用人も、逃れられないユダヤ民族の連鎖の中にいる。
マラマッド作品の登場人物に「弱さ」や「貧しさ」などネガティブな要素を見る評者は多いが、それでも彼の文学は多くの読者に読まれる。対立する者同士が、ヒットラー対ユダヤ民族の構図ではなく、ユダヤ人対ユダヤ人の「最後は分かり合える」関係になっているからだろう。それが絶望の中のささやかな希望の光に過ぎなくても。(こや)
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第39回 安部公房が嫉妬した作家
(エリアス・カネッティ)
著書「安部公房とわたし」(2013年8月、講談社刊)で、作家・安部公房が死去するまでの20年以上にわたる恋愛関係を告白した女優・山口果林。本の売れ行きも好調な彼女が、このほど週刊文春の人気対談「阿川佐和子のこの人に会いたい」のゲストに登場した(第991回、10月24日号)。こんなことを語っている。
「阿川 安部さんは次期ノーベル文学賞に一番近いと噂されていましたけど。
山口 狙ってはいたでしょうね。(エリアス・)カネッティがもらったとき、彼の本を読んでものすごく刺激を受けたみたいでした。次の作品はあのレベルで書かなきゃいけないって葛藤して……。それで書けなくなって、寡作になっていったんだろうと思います」
エリアス・カネッティのノーベル文学賞受賞は1981年。受賞理由は「着想と芸術性に富み、幅広い視野によって書かれた著作に対して」というものだった。1981年といえば、安部公房は長編「密会」(1977年)を書き終えてすでに4年。次作「方舟さくら丸」の執筆を進めていた時期に当たる。途中、演劇集団「安部公房スタジオ」の活動に傾注する、ワードプロセッサーによる執筆に切り替える――などの曲折があったにせよ、それが書き下ろし長編となって結実するのはようやく1984年のこと。7年間という長い沈黙を考えると、山口果林のこの発言も信ぴょう性を帯びてくる。
カネッティとはどんな作家か。ウィキペディアなどによってまとめると、1905年にブルガリアのルスチュク(ルセ)に生まれる。トルコ国籍を持ち、イベリア半島系ユダヤ人共同体の言語(スパニオール語)を母語とし、のちに英語、フランス語、ドイツ語を学んだ。著述はドイツ語を用いている。1913年にウィーンに移住し、ウィーン大学で化学を学ぶ。1929年に学位を取得。このころ代表作の小説「眩暈」(1935年)を書き始める。
ナチス・ドイツによるオーストリア併合の際にもウィーンに留まり、ナチス党員や人々の様子を見守った。のちにこの時を回顧して「ナチズムとの具体的な体験を持ったこの半年間は、それ以前の何年にもまして、私の目を開いてくれた」と語っている。1939年にユダヤ人迫害を逃れてイギリスに亡命。自らの体験をもとに、1960年に「群衆と権力」を発表した。
晩年は独特の視点から書かれた自伝的3部作「救われた舌」(1977年)、「耳の中の炬火」(1980年)、「目の戯れ」(1985年)に取り組み、若い日々の時代と社会、そして自らの人生を書き記した。1981年のノーベル文学賞はイギリス人として受賞している。1994年にスイスのチューリヒで死去、その亡骸はジェイムズ・ジョイスの隣に葬られた。
以上がカネッティの略歴だが、では当の安部はこの作家のどこに着目していたか。かつてインタビュー「地球儀に住むガルシア・マルケス」(「すばる」1983年5月号)で、ノーベル文学賞をその2年前に受賞したカネッティについて聞かれ、こう答えている。
「スペイン系のユダヤ人だけど、長いあいだ認められなかった。世界で最初にカフカ論を書いているんです。見えすぎていたのかもしれない。芝居も書いていますが、上演途中でみんな帰ってしまうし、新聞にはたたかれるし。イギリスに行って、本当に貧乏な暮しをしていたらしい。偶然だけど荻原延寿君がオクスフォードに行っていたころ、これも金がなかったから学校が終ると安いパブに行って、ビール飲んでパンでも食べていた。いつも隣り合わせに爺さんが一人いた。自分も黄色いアジア人で、孤独で、金もない。すぐその爺さんと友達になった。
ずいぶん頭のいい乞食だなあと思って、試しにちょっと難しいこと言うと、向こうはそれ以上のこと知っている。名前を聞いたら、エリアス・カネッティ。さすがイギリスともなると立派な乞食がいるものだと名前は憶えていた(中略)というできすぎた話があるくらい、孤独に耐え抜いて来た作家です」
インタビューでは詳しく語っていないので、推測に過ぎないが、おそらく安部はカネッティの多国籍性と多言語性に強く引かれていたのではないか。晩年の安部はクレオール言語について並々ならぬ関心を寄せていた。クレオール言語とは、意思疎通ができない異なる言語の商人同士などの間で自然に作り上げられた言語(ピジン言語)が、その子供たちの世代で母語として話されるようになった言語を指す。公用語や共通語として使用されている地域・国もある。
カネッティはブルガリアに生まれ、幼少時はユダヤ人コミューンの共同体言語で育っている。これは生まれながらにしてクレオール言語的な環境下にあったということで、やがて英語、フランス語、ドイツ語を学び、長じては作品をドイツ語で書くようになる。まさに多言語作家の鑑のような存在である。またトルコ国籍に始まり、ドイツ、イギリスに活動の場を移していく。かつて安部が主張し続けてきた20世紀文学の大きなテーマ――「故郷喪失」や「内的亡命」につながる多国籍作家の先駆的存在であって、しかも内的どころではない、本物の亡命作家だった。
インタビュー集「都市への回路」(1980年6月、中央公論社刊)の中で安部公房は、ガブリエル・ガルシア・マルケスを始めとするラテンアメリカ文学やボリス・ヴィアン、フラン・オブライエンといった20世紀作家の名をいくつも挙げ、「内的亡命の文学」として高く評価している。しかし安部が本当に評価していたのは、実は「ノーベル文学賞受賞後に名前を知った」というエリアス・カネッティただ一人だったのではなかろうか。20世紀文学をまさに体現した現代作家として、あるいは嫉妬さえ覚えていたかもしれない。(こや)
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