*** 自家目録を発行しました ***
第28回 「禁じられた遊び」のミシェル
(フランソワ・ボワイエ)
英語学者の梅田修が書いた「世界人名物語 名前の中のヨーロッパ文化」は近年屈指の名著である。1999年1月に講談社現代新書で刊行されたときも大変な話題となったが、その名著がこのたび講談社学術文庫の1冊に収められた(2012年9月刊)。
ヨーロッパの歴史と文化に根ざす名前の由来と変遷を探っていく試みで、その指摘は神話からハリウッドスターまで及ぶ。まことに含蓄にあふれた本で、現代新書から学術文庫に「昇格」したのも当然であろう。
「英語の男子名マイケル(Michael)やその女性名ミシェル(Michelle)は今日もっとも人気のある名前である」という1節が同書にある。マイケルの名をもつ人物として挙げられるのは、ロック歌手の故マイケル(Michael)・ジャクスン、映画俳優のマイケル(Michael)・ダグラスなど。それらマイケルの女性形がミシェルになる。ビートルズの「Michelle」という歌によって、1960年以降、とくに人気の名前になった。
ところがこの女性名ミシェル(Michelle)は、フランス語の男子名ミシェル(Michel)の女性形なのだという。
つまり女性名からleを取ると男性名となる。フランス語には男性名詞と女性名詞があって、leは男性名詞に付く定冠詞、laは女性名詞に付く定冠詞。leがないほうが男性名とは話が逆さまのようだが、それはさておくとしよう。興味深いのは、これらマイケル、ミシェルのルーツについて、著者がミカエル(Michael)に由来すると指摘している点だ。
言うまでもなく、ミカエルとは天上で神に代わって正義を行う大天使のことである。「ユダヤ・キリスト教では、神の使いをする天使たちがいて、神の意思を人間に伝えたり、人間の祈りを神にとりつぐ役割をはたしていると考えられています。そして、それらの天使のなかでも、ミカエル、ガブリエル、ウリエル、ラファエルは、神の玉座を四方から支えている大天使です」と著者は書いている。
そこで思い出したのが「禁じられた遊び」のこと。ルネ・クレマンが1952年に監督したフランス映画があまりにも有名だが、元々は文学作品である。原作は1947年にフランスの作家、脚本家のフランソワ・ボワイエが書いた同名の小説で、発表されると同時に世界的なベストセラーになった。
ボワイエ自身もダイアローグ(対話)担当として映画に多少かかわっているようだが、詳しくは分からない。この「禁じられた遊び」の孤児の少女の名前がポーレット(Paulette)という。そして少女の世話をするドレ家の少年の名前が、まさにミシェル(Michel)というのだ。
この映画は名作だから、多くの人がスクリーンで見ていることと思う。先日、DVDで見直してみて、ふと気づいたことがある。第二次世界大戦さなかの1940年のフランス郊外が舞台。ドイツ軍に爆撃され、両親を亡くしたパリの少女ポーレットの薄幸の運命を描いた作品だと記憶していたのだが、隣り合う農園の家族同士がお互いにいがみ合い、少女と少年が動物の墓に捧げるために墓地から十字架を盗み出す、という部分がむしろ中心になっている。「お涙ちょうだいというよりも、きわめて(反)宗教的な話だなあ」というのが、数10年ぶりにこの映画に再会しての感想だった。
いがみ合う2つの農園家族はミシェルら5人の子供のいるドレ家と、グアール家(小説ではガナール家)である。両家はどちらが戦争で武勲を残すかを競っていて、それがいがみ合いの原因となる。そしてドレ家のミシェルが動物の墓に捧げるために十字架を盗んだのを、グアール家の嫌がらせだと誤解し、両家の父親たちが取っ組み合いの喧嘩を始めてしまう。
前回このコラムでも書いたが、隣り合う一家が争いを繰り返すシチュエーションには、1946年のウォルト・ディズニーのアニメ「マーチン家とコーイ家」という先例がある。小説「禁じられた遊び」の出版はその翌年。いずれも第二次世界大戦の終結直後で、お隣さん同士が争う話が時を置かずに米仏両国で生まれているのは偶然だろうか。戦勝国になったアメリカにもフランスにも、いつの間にか隣国や友好国との戦争に巻き込まれていった反省があって、それがこうしたシチュエーションに反映されているのではないか。十字架をめぐる誤解から分かるように、ちょっとしたボタンの掛け違いが戦争に発展するという歴史の教訓がここに読み取れないだろうか。
それらは推測の域を出ないにしても、「禁じられた遊び」で十字架を盗んで回る少年がミシェルという名前なのはきわめて興味深い。前述のようにミシェル=ミカエルだとすれば、本来は神と人間の間に立って両者の仲を取り持つはずの大天使自らが、「十字架を盗む」という許されざる大罪を犯していることになる。たとえ「名もなき動物たちの墓に捧げるため」という大義名分があるにせよ、正義の使者ミカエルにあるまじき行為であろう。
しかし戦争は数多くの「名もなき死者たち」を生む。少女=人間の切々たる願いに、大天使も踏み越えを行わざるを得なかったとすれば、それこそまさに戦争の悲劇ということになる。
映画の終盤で、少女ポーレットは戦災孤児院に送られる。ミシェルは彼女との仲を引き裂かれた悲しさに、十字架を引き抜いて川に投げ捨ててしまう。これも神に背く行為であるが、ポーレットが「ミシェル」「ママ」と名を呼びながら駅の雑踏を走っていくラストシーンで、カメラはポーレットをとらえたまま上方にスッと上がっていく。あたかも神が沈黙の中で大天使と人間をじっと見守ってくれているようで、とても美しい。(こや)
禁じられた遊び(映画)WIKI PEDEIAで調べる
にほんブログ村
ブログランキングに参加しています。
クリックしてご協力いただければ幸いです。
海外文学作品についてのコラム「たまたま本の話」を掲載しています。
「たまたま本の話」は「miniたま」に毎号掲載しているコラムです。
「miniたま」は、インターネット古書店「ほんのたまご」とお客様を結ぶ架け橋として、
ご注文書籍とともにお送りしているミニコミ紙です。
「miniたま」のバックナンバーPDF版はこちらからどうぞ
第28回 「禁じられた遊び」のミシェル
(フランソワ・ボワイエ)
英語学者の梅田修が書いた「世界人名物語 名前の中のヨーロッパ文化」は近年屈指の名著である。1999年1月に講談社現代新書で刊行されたときも大変な話題となったが、その名著がこのたび講談社学術文庫の1冊に収められた(2012年9月刊)。
ヨーロッパの歴史と文化に根ざす名前の由来と変遷を探っていく試みで、その指摘は神話からハリウッドスターまで及ぶ。まことに含蓄にあふれた本で、現代新書から学術文庫に「昇格」したのも当然であろう。
「英語の男子名マイケル(Michael)やその女性名ミシェル(Michelle)は今日もっとも人気のある名前である」という1節が同書にある。マイケルの名をもつ人物として挙げられるのは、ロック歌手の故マイケル(Michael)・ジャクスン、映画俳優のマイケル(Michael)・ダグラスなど。それらマイケルの女性形がミシェルになる。ビートルズの「Michelle」という歌によって、1960年以降、とくに人気の名前になった。
ところがこの女性名ミシェル(Michelle)は、フランス語の男子名ミシェル(Michel)の女性形なのだという。
つまり女性名からleを取ると男性名となる。フランス語には男性名詞と女性名詞があって、leは男性名詞に付く定冠詞、laは女性名詞に付く定冠詞。leがないほうが男性名とは話が逆さまのようだが、それはさておくとしよう。興味深いのは、これらマイケル、ミシェルのルーツについて、著者がミカエル(Michael)に由来すると指摘している点だ。
言うまでもなく、ミカエルとは天上で神に代わって正義を行う大天使のことである。「ユダヤ・キリスト教では、神の使いをする天使たちがいて、神の意思を人間に伝えたり、人間の祈りを神にとりつぐ役割をはたしていると考えられています。そして、それらの天使のなかでも、ミカエル、ガブリエル、ウリエル、ラファエルは、神の玉座を四方から支えている大天使です」と著者は書いている。
そこで思い出したのが「禁じられた遊び」のこと。ルネ・クレマンが1952年に監督したフランス映画があまりにも有名だが、元々は文学作品である。原作は1947年にフランスの作家、脚本家のフランソワ・ボワイエが書いた同名の小説で、発表されると同時に世界的なベストセラーになった。
ボワイエ自身もダイアローグ(対話)担当として映画に多少かかわっているようだが、詳しくは分からない。この「禁じられた遊び」の孤児の少女の名前がポーレット(Paulette)という。そして少女の世話をするドレ家の少年の名前が、まさにミシェル(Michel)というのだ。
この映画は名作だから、多くの人がスクリーンで見ていることと思う。先日、DVDで見直してみて、ふと気づいたことがある。第二次世界大戦さなかの1940年のフランス郊外が舞台。ドイツ軍に爆撃され、両親を亡くしたパリの少女ポーレットの薄幸の運命を描いた作品だと記憶していたのだが、隣り合う農園の家族同士がお互いにいがみ合い、少女と少年が動物の墓に捧げるために墓地から十字架を盗み出す、という部分がむしろ中心になっている。「お涙ちょうだいというよりも、きわめて(反)宗教的な話だなあ」というのが、数10年ぶりにこの映画に再会しての感想だった。
いがみ合う2つの農園家族はミシェルら5人の子供のいるドレ家と、グアール家(小説ではガナール家)である。両家はどちらが戦争で武勲を残すかを競っていて、それがいがみ合いの原因となる。そしてドレ家のミシェルが動物の墓に捧げるために十字架を盗んだのを、グアール家の嫌がらせだと誤解し、両家の父親たちが取っ組み合いの喧嘩を始めてしまう。
前回このコラムでも書いたが、隣り合う一家が争いを繰り返すシチュエーションには、1946年のウォルト・ディズニーのアニメ「マーチン家とコーイ家」という先例がある。小説「禁じられた遊び」の出版はその翌年。いずれも第二次世界大戦の終結直後で、お隣さん同士が争う話が時を置かずに米仏両国で生まれているのは偶然だろうか。戦勝国になったアメリカにもフランスにも、いつの間にか隣国や友好国との戦争に巻き込まれていった反省があって、それがこうしたシチュエーションに反映されているのではないか。十字架をめぐる誤解から分かるように、ちょっとしたボタンの掛け違いが戦争に発展するという歴史の教訓がここに読み取れないだろうか。
それらは推測の域を出ないにしても、「禁じられた遊び」で十字架を盗んで回る少年がミシェルという名前なのはきわめて興味深い。前述のようにミシェル=ミカエルだとすれば、本来は神と人間の間に立って両者の仲を取り持つはずの大天使自らが、「十字架を盗む」という許されざる大罪を犯していることになる。たとえ「名もなき動物たちの墓に捧げるため」という大義名分があるにせよ、正義の使者ミカエルにあるまじき行為であろう。
しかし戦争は数多くの「名もなき死者たち」を生む。少女=人間の切々たる願いに、大天使も踏み越えを行わざるを得なかったとすれば、それこそまさに戦争の悲劇ということになる。
映画の終盤で、少女ポーレットは戦災孤児院に送られる。ミシェルは彼女との仲を引き裂かれた悲しさに、十字架を引き抜いて川に投げ捨ててしまう。これも神に背く行為であるが、ポーレットが「ミシェル」「ママ」と名を呼びながら駅の雑踏を走っていくラストシーンで、カメラはポーレットをとらえたまま上方にスッと上がっていく。あたかも神が沈黙の中で大天使と人間をじっと見守ってくれているようで、とても美しい。(こや)
禁じられた遊び(映画)WIKI PEDEIAで調べる
にほんブログ村
ブログランキングに参加しています。
クリックしてご協力いただければ幸いです。
海外文学作品についてのコラム「たまたま本の話」を掲載しています。
「たまたま本の話」は「miniたま」に毎号掲載しているコラムです。
「miniたま」は、インターネット古書店「ほんのたまご」とお客様を結ぶ架け橋として、
ご注文書籍とともにお送りしているミニコミ紙です。
「miniたま」のバックナンバーPDF版はこちらからどうぞ
PR
第27回 侮るなかれマック・レナルズ
(マック・レナルズ)
「地球外の星から最初の訪問者が飛来して、宇宙船を地球上に着地させる場合、着地点は、かならずしもホワイト・ハウスの芝生の上とは限らない。どこに着地するかもわからない――ひょっとするとケンタッキーの丘の上や山奥かもしれない。そうなったらどんなことでも起こりかねない。事実わたしの著名な共同編纂者が書いた、この愉快でばかばかしい話がそれを物語っている。F・B」
文末のF・BとはSFとミステリーでかつて才筆をふるったフレドリック・ブラウンのこと。そのブラウンが愛情を込めて紹介するのは、親友の作家マック・レナルズが書いたSF短編「火星人来襲」(1951年作)である。レナルズと共同編集に当たったアンソロジー「SFカーニバル」(原著は1953年刊。翻訳は1964年11月、創元推理文庫刊)に「火星人来襲」を収める際、ブラウンは上記の一文を添えた。
指折りの才人にここまで評価される「火星人来襲」とはどんな話か。以下、作品の内容に触れているので未読の方はご注意を(引用は小西宏訳)。
ケンタッキー州の山奥で酒の醸造所を経営しているコーイという一家がいる。彼らは税務署の役人や、仲の悪い近隣のマーチン一家を目の敵にしている。父、母、3人の子供ともそろって学がなく、中でも息子のレムは母親からも「ばか息子」と呼ばれているほどだ。家族がちょうど出払ってしまい、レムが森の中で一人留守番をしているところに、火星人たちが地球人に変装して現れて……というストーリー。
異星人がひそかに地球征服を企むというシチュエーションは、米ソ冷戦の時代を象徴している。
火星人の隊長はあらかじめラジオで地球および地球人の情報を仕入れてきている。「われわれは油断なく感覚をとぎすまして、サム・スペードや、スーパーマンや、ローン・レインジャーを警戒しなくてはならない」と仲間に注意を促す。
「驚くべき能力を持つ、邪悪きわまりない3人の地球の戦士ですよ。彼らの活動ぶりを、かなりのあいだラジオから聴取してきましたが、彼らは千里眼を持っているらしく、暴力沙汰の現場にはかならずといっていいくらい、3人のうちの誰か1人が登場してきます」
この小説の書かれた1950年代が、冷戦時代であると同時に1930年代から連綿と続くポップカルチャーの全盛時代だったことがわかる。説明の要もないだろうが、サム・スペードはハードボイルド作家ダシール・ハメットが1930年の「マルタの鷹」で初登場させた私立探偵。
ローン・レインジャーはジョージ・W・トレンドルとフラン・ストライカー原作の西部劇の主人公。1933年からラジオドラマが放送され、好評を博した。
スーパーマンについては言わずもがな、1938年にアクション・コミックス誌に登場して以来、現在までアメリカ最大のヒーローの座を守っている。つまり火星人たちはミステリー、ラジオドラマ、コミックスから地球に関する知識を得ているわけである。
この火星人たちと頭の弱い息子レムとの掛け合いが、まるで落語の与太郎話を聞いているようできわめて面白い。レムは「おれたち家族はマーチンを探している。マーチンを見つけたら撃つ」と言う。
それを聞いた火星人は「マーシャン(火星人)を撃つつもりだ。地球人にわれわれの存在がばれているのだ」と勘違いする。そこで火星人は毒薬やIQ抑圧器や伝染病菌を持つ蚤を使って目の前のレムをやっつけようとするが、ことごとく失敗する。
もともと「ばか息子」なのだから、IQをそれ以上抑圧したって効果あるはずはない。あげくの果てに「われわれはマーシャンだ」と火星人がメッセージを述べた途端、レムに「マーチンめ」と散弾銃をぶっ放され、ほうほうの態で宇宙船に戻って地球から去っていくという体たらく。
なかなかの水準のユーモアSFだが、最近になって原題「The Martians and The Coys」に意味がありそうなことに気づいた。このタイトルはウォルト・ディズニー制作のアニメ映画のパロディーになっているのではないか。
1946年4月、ディズニーは「Make Mine Music」という10編の独立したミュージカル・ファンタジーからなるオムニバス作品を作った(日本未公開、かつてビデオ発売されたという記録あり)。その中の1編に「The Martins and the Coys」というのがある。ある土地の谷間を挟んで仲の悪いマーチン一家とコーイ一家が住んでいる。ついには一家同士の決闘になるが、最後に残った両家の息子と娘が恋に落ちてしまうというストーリー。内容はレナルズ作品とだいぶ違うにしても、タイトルはaが1つあるかないかだけの違いである。
全くの推測だが、この日本未公開のディズニー短編アニメは本国アメリカではかなり人口に膾炙しているのではなかろうか。隣り合う一家が争いを繰り返すというシチュエーションは、アメリカ文学はもとよりフランス映画「禁じられた遊び」などにも登場し、現在まで脈々と受け継がれている。
その初期の代表作というか、クラシックとされているのがディズニーの「The Martins and the Coys」であって、以来、マーチンとコーイと言えば対立する家族の代名詞になっているのでは――。そんな気がする。
マック・レナルズを侮るなかれ。この一筋縄ではいかない作家はディズニーアニメからも想を得ていた。そんなレナルズの名が、2012年9月に限定復刊された創元推理文庫の「SFカーニバル」の表紙や扉や奥付から消え、同書はフレドリック・ブラウンの単独編集の扱いになっている。日本の出版社が2人の知名度を考慮した結果だろうが、残念と言うしかない。(こや)
ローン・レンジャーをWIKI PEDEIAで調べる
にほんブログ村
ブログランキングに参加しています。
クリックしてご協力いただければ幸いです。
海外文学作品についてのコラム「たまたま本の話」を掲載しています。
「たまたま本の話」は「miniたま」に毎号掲載しているコラムです。
「miniたま」は、インターネット古書店「ほんのたまご」とお客様を結ぶ架け橋として、
ご注文書籍とともにお送りしているミニコミ紙です。
「miniたま」のバックナンバーPDF版はこちらからどうぞ
*** 自家目録を発行しました ***
第26回 Heaven Can Wait!
(C・B・ギルフォード)
今回はちょっとややこしい話になるかもしれない。
3つの「Heaven Can Wait」について書く。
1943年制作のアメリカ映画「Heaven Can Wait」は、言わずと知れたエルンスト・ルビッチ監督の名作。死後の世界にやってきた男ヘンリー・ヴァン・クリーヴ(ドン・アメチー好演!)が、閻魔大王(His Excellencyと呼ばれている)を相手に自分のこれまでの人生を振り返るというストーリーである。彼はこれまでプレイボーイとして浮名を流してきたため、閻魔大王に「自分は地獄行きで当然だ」と訴える。しかし閻魔大王は「地獄行きは認められない。天国で君を待っている人がいる」と言い、ヘンリーを天国行きのエレベーターに乗せる――。
レスリー・ブッシュ=フェキート作の戯曲「Birthday」をサムソン・ラファエルソンが脚色した、ルビッチ初のカラー映画。日本では長らく幻の名作として知られていたが、ようやく1990年に「天国は待ってくれる」の邦題で初公開された。
ルビッチ映画から遅れること35年。1978年になって、「Heaven Can Wait」という1本の映画がアメリカで製作された。日本では「天国から来たチャンピオン」というタイトルで翌1979年に公開。
アメリカンフットボールチームの控え選手ジョー・ペンドルトン(ウォーレン・ベイティ好演!)が、スーパーボウルの前日、交通事故に遭って急死する。
自分の死に納得できないジョーが天国で確認したところ、天使のミスで50年早く天国に召されたことが判明。ところがジョーの肉体はすでに火葬されていた。そこでジョーと天使長ジョーダンは一緒に下界に戻って、代わりの“肉体”に、まもなく殺される運命にある会社社長のレオを選ぶ。やがてレオの肉体も明け渡さざるを得なくなったジョーは、アメフトチームの同僚トム(ケガで死を宣告された)の体の中に移り、スーパーボウルで大活躍する。
そして美しい女性と恋に落ちて――というよく出来たラブストーリー。ベイティとジュリー・クリスティという当時の人気スターの共演で日本でも大ヒットした。
こちらの原作はハリー・シーガルの1938年の舞台劇「Heaven Can Wait」。すでに1941年に一度、映画になっている。「Here Comes Mr.Jordan」で、日本では1946年に「幽霊紐育を歩く」の邦題で公開された。
3つ目の「Heaven can Wait」は、C・B・ギルフォードが1953年8月号の米国版「エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン」に書いた短編ミステリである(canは小文字)。
「探偵作家は天国へ行ける」のタイトルで日本版「エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン」1959年4月号に訳載された(宇野利泰訳)。
ギルフォードは短編作家として「マンハント」や「アルフレッド・ヒッチコック・ミステリ・マガジン」などに数多くの作品を発表している。日本でも多くの短編がミステリ雑誌に翻訳されていて、1950~1960年代にはかなり人気のあった流行作家らしいが、詳しい経歴は分からない。調べた限り、日本では彼の作品が1冊にまとまった形跡はない。
人気探偵作家のアリグザンダー・アーリントンは死んで天国に行くが、天使長ミカエルから自分は何者かに殺されたのだと聞かされる。
そこでアリグザンダーは事件の真相を知るために、ミカエルの許可をもらって下界に戻り、「最後の日」をもう一度、繰り返す。すると驚いたことに妻、妻の愛人、秘書、甥、庭番の5人にアーリントン殺害の動機があったことが判明。結局、アーリントンは犯人が分からぬまま再び殺されてしまい、天国に戻ってくる。
誰が犯人だったかの謎(妻と妻の愛人の共謀)を解いたのは意外にも天使長ミカエルだった。
ミカエルが知恵を借りたのは、天国にいる「エドガー、アーサー卿、それにG・K・C」という顔ぶれ。言うまでもなくエドガー・アラン・ポー、サー・アーサー・コナン・ドイル、ギルバート・キース・チェスタトンである。
ミカエルの最後の台詞が心憎い――「そんなところだよ、アーリントン君。探偵作家は、一人残らず天国に来られることを、知らなかったのか?」。もっともこの最後の1行は、アンソロジー「天外消失」(早川書房編集部編、2008年12月、ハヤカワミステリ刊)に収録された最新訳の「探偵作家は天国へ行ける」からは削除されている。意図的な省略か、編集ミスかは分からない。
以上3つの全く別の話に、いずれも付された「Heaven Can Wait」のタイトル。深刻に考える必要はないのかもしれないが、3作における「死後の世界の導き役」を比較してみるとなかなか面白い。
ルビッチの監督作品で主人公の天国行きを決める閻魔大王His Excellencyには、大統領、首相、閣僚、大使などの意味がある。この場合、「閣下」と訳すのが適当かもしれない。
ベイティの主演映画では天使長Jordanがアメフト選手と一緒に下界に降りていく。このJordanは国名や川の名前のヨルダンと同義で、一説によれば「急に下る水」という意味がある。
ギルフォードの短編ミステリの天使長ミカエルについては説明不要だろう。天上で神に代わって正義を行う大天使で、神の意思を人間に伝えて、祈りを神に取り次ぐ役目を果たす。人名のマイケルやミシェルのルーツでもある。
要するに閣下は審判を下して人を天国に送り、ジョーダンは人を連れて天国から下界に降りていく。そしてミカエルは天国に留まりながら人(探偵作家)とともに正義の鉄槌を下す。状況は違っても「天国はそれを待ってくれている」のだ。(こや)
エルンスト・ルビッチをWIKI PEDEIAで調べる
にほんブログ村
ブログランキングに参加しています。
クリックしてご協力いただければ幸いです。
海外文学作品についてのコラム「たまたま本の話」を掲載しています。
「たまたま本の話」は「miniたま」に毎号掲載しているコラムです。
「miniたま」は、インターネット古書店「ほんのたまご」とお客様を結ぶ架け橋として、
ご注文書籍とともにお送りしているミニコミ紙です。
「miniたま」のバックナンバーPDF版はこちらからどうぞ
第26回 Heaven Can Wait!
(C・B・ギルフォード)
今回はちょっとややこしい話になるかもしれない。
3つの「Heaven Can Wait」について書く。
1943年制作のアメリカ映画「Heaven Can Wait」は、言わずと知れたエルンスト・ルビッチ監督の名作。死後の世界にやってきた男ヘンリー・ヴァン・クリーヴ(ドン・アメチー好演!)が、閻魔大王(His Excellencyと呼ばれている)を相手に自分のこれまでの人生を振り返るというストーリーである。彼はこれまでプレイボーイとして浮名を流してきたため、閻魔大王に「自分は地獄行きで当然だ」と訴える。しかし閻魔大王は「地獄行きは認められない。天国で君を待っている人がいる」と言い、ヘンリーを天国行きのエレベーターに乗せる――。
レスリー・ブッシュ=フェキート作の戯曲「Birthday」をサムソン・ラファエルソンが脚色した、ルビッチ初のカラー映画。日本では長らく幻の名作として知られていたが、ようやく1990年に「天国は待ってくれる」の邦題で初公開された。
ルビッチ映画から遅れること35年。1978年になって、「Heaven Can Wait」という1本の映画がアメリカで製作された。日本では「天国から来たチャンピオン」というタイトルで翌1979年に公開。
アメリカンフットボールチームの控え選手ジョー・ペンドルトン(ウォーレン・ベイティ好演!)が、スーパーボウルの前日、交通事故に遭って急死する。
自分の死に納得できないジョーが天国で確認したところ、天使のミスで50年早く天国に召されたことが判明。ところがジョーの肉体はすでに火葬されていた。そこでジョーと天使長ジョーダンは一緒に下界に戻って、代わりの“肉体”に、まもなく殺される運命にある会社社長のレオを選ぶ。やがてレオの肉体も明け渡さざるを得なくなったジョーは、アメフトチームの同僚トム(ケガで死を宣告された)の体の中に移り、スーパーボウルで大活躍する。
そして美しい女性と恋に落ちて――というよく出来たラブストーリー。ベイティとジュリー・クリスティという当時の人気スターの共演で日本でも大ヒットした。
こちらの原作はハリー・シーガルの1938年の舞台劇「Heaven Can Wait」。すでに1941年に一度、映画になっている。「Here Comes Mr.Jordan」で、日本では1946年に「幽霊紐育を歩く」の邦題で公開された。
3つ目の「Heaven can Wait」は、C・B・ギルフォードが1953年8月号の米国版「エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン」に書いた短編ミステリである(canは小文字)。
「探偵作家は天国へ行ける」のタイトルで日本版「エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン」1959年4月号に訳載された(宇野利泰訳)。
ギルフォードは短編作家として「マンハント」や「アルフレッド・ヒッチコック・ミステリ・マガジン」などに数多くの作品を発表している。日本でも多くの短編がミステリ雑誌に翻訳されていて、1950~1960年代にはかなり人気のあった流行作家らしいが、詳しい経歴は分からない。調べた限り、日本では彼の作品が1冊にまとまった形跡はない。
人気探偵作家のアリグザンダー・アーリントンは死んで天国に行くが、天使長ミカエルから自分は何者かに殺されたのだと聞かされる。
そこでアリグザンダーは事件の真相を知るために、ミカエルの許可をもらって下界に戻り、「最後の日」をもう一度、繰り返す。すると驚いたことに妻、妻の愛人、秘書、甥、庭番の5人にアーリントン殺害の動機があったことが判明。結局、アーリントンは犯人が分からぬまま再び殺されてしまい、天国に戻ってくる。
誰が犯人だったかの謎(妻と妻の愛人の共謀)を解いたのは意外にも天使長ミカエルだった。
ミカエルが知恵を借りたのは、天国にいる「エドガー、アーサー卿、それにG・K・C」という顔ぶれ。言うまでもなくエドガー・アラン・ポー、サー・アーサー・コナン・ドイル、ギルバート・キース・チェスタトンである。
ミカエルの最後の台詞が心憎い――「そんなところだよ、アーリントン君。探偵作家は、一人残らず天国に来られることを、知らなかったのか?」。もっともこの最後の1行は、アンソロジー「天外消失」(早川書房編集部編、2008年12月、ハヤカワミステリ刊)に収録された最新訳の「探偵作家は天国へ行ける」からは削除されている。意図的な省略か、編集ミスかは分からない。
以上3つの全く別の話に、いずれも付された「Heaven Can Wait」のタイトル。深刻に考える必要はないのかもしれないが、3作における「死後の世界の導き役」を比較してみるとなかなか面白い。
ルビッチの監督作品で主人公の天国行きを決める閻魔大王His Excellencyには、大統領、首相、閣僚、大使などの意味がある。この場合、「閣下」と訳すのが適当かもしれない。
ベイティの主演映画では天使長Jordanがアメフト選手と一緒に下界に降りていく。このJordanは国名や川の名前のヨルダンと同義で、一説によれば「急に下る水」という意味がある。
ギルフォードの短編ミステリの天使長ミカエルについては説明不要だろう。天上で神に代わって正義を行う大天使で、神の意思を人間に伝えて、祈りを神に取り次ぐ役目を果たす。人名のマイケルやミシェルのルーツでもある。
要するに閣下は審判を下して人を天国に送り、ジョーダンは人を連れて天国から下界に降りていく。そしてミカエルは天国に留まりながら人(探偵作家)とともに正義の鉄槌を下す。状況は違っても「天国はそれを待ってくれている」のだ。(こや)
エルンスト・ルビッチをWIKI PEDEIAで調べる
にほんブログ村
ブログランキングに参加しています。
クリックしてご協力いただければ幸いです。
海外文学作品についてのコラム「たまたま本の話」を掲載しています。
「たまたま本の話」は「miniたま」に毎号掲載しているコラムです。
「miniたま」は、インターネット古書店「ほんのたまご」とお客様を結ぶ架け橋として、
ご注文書籍とともにお送りしているミニコミ紙です。
「miniたま」のバックナンバーPDF版はこちらからどうぞ
第25回 「ラヴデイ氏の短い休暇」が描くもの
(イーヴリン・ウォー)
ウィリアム・サマセット・モームやグレアム・グリーンと比べて日本での知名度は劣るが、カトリック作家イーヴリン・ウォー(1903~1966年)は20世紀イギリス文学を代表する巨匠の一人である。主な作品には「Decline and Fall」(1928年)や「Brideshead Revisited」(1945年)がある。
妙なことに、前者は「ポール・ペニフェザーの冒険」(福武文庫)と「大転落」(岩波文庫)という全く異なるタイトルの翻訳が出ている。後者の訳題も「ブライヅヘッドふたたび」(筑摩書房、ちくま文庫)、「青春のブライズヘッド」(講談社)、「回想のブライズヘッド」(岩波文庫)と微妙に異なっているから、あるいは正編と続編があるのかと思う読者がいるかもしれない。
全く同じ作品――しかも代表作とされる長編の翻訳でこれほどタイトルが異なるというのは、日本では受け入れられにくい作家であることの証明であろう。ドストエフスキーの「罪と罰」は明治以来このかた、誰が訳しても「罪と罰」で定着している。
そのウォーに「ラヴデイ氏の短い休暇」(1951年)という短編がある。早川書房編集部編のミステリ傑作アンソロジー「天外消失」(2008年12月、ハヤカワミステリ刊)に収められているほか、各種の翻訳があるから、ウォーの短編の代表作といっていいだろう。以下、「ラヴデイ氏の短い休暇」の内容に触れているので未読の方はご注意を。
自殺未遂で州立精神病院に運び込まれ、そこで私費患者として10年を過ごしているモーピング卿を、ある日、夫人と娘が見舞う。卿にはラヴデイという付き添いがいて、まさに秘書のような役目を担っている。病院が世話役として雇ってくれたのかと思いきや、なんとラヴデイはこの精神病院の入院患者だという。しかも卿のように裕福な私費患者ではなく、若いころ自転車に乗った女性を押し倒して絞め殺してしまい、強制入院させられたまま35年が経過した老人だった。
モーピング卿を始め、私費患者たちの誇大妄想的な望みをかなえる世話役としてこまめに働くラヴデイを不憫に思った娘は、つてを頼って彼の退院を画策する。ラヴデイも「外へ出たらぜひやってみたいことがある」という。娘の努力が実り、とうとう望みがかなう日がやってきた。ラヴデイは医師や患者に祝福されながら病院を出て行くが、2時間もしないうちに戻ってくる。
「望みがかなったので帰ってきた。これでもうここに身を落ち着けて、心置きなく気の毒な人たちのために奉仕できる」と彼はほほえむ。以下は、それに続くラストシーン(永井淳訳)。
「それからしばらく経って、病院の門から半マイルほど行ったところで、人々は乗り捨てられた1台の自転車を発見した。それはかなり古くなった婦人用の自転車だった。そして、近くの溝の中から、お茶の時間に間に合うように自転車で帰宅する途中で、獲物を探しながら歩いていたラヴデイ氏に遭遇したと思われる若い娘の絞殺死体が発見された」
なかなか引き締まった落ちであり、ウォーのストーリーテラーとしての才能には舌を巻く。同時に、イギリスの伝統や上流階級を風刺するのが身上の作家だけに、これは何かの寓意なのだろうと思う。ところが何の寓意になっているのかが、よく分からない。作品の構成にも疑問があって、本来は自殺未遂を起こして精神病院に入院させられたモーピング卿や上流階級の患者たちの奇矯な振る舞いに焦点を絞るべきところが、途中からラヴデイの方に話の中心が移ってしまう。
要するに「ラヴデイ氏の短い休暇」はイギリスのどうにも逃れようのない社会格差を描いた寓話なのではないか――そう思いついたのは、別の作家の別の作品を読んでいるときだった。ウォーよりはるか後輩に当たるイギリス作家、カズオ・イシグロの世界的ベストセラー長編「わたしを離さないで」(2005年発表。翻訳は2006年4月、早川書房刊)である。
「わたしを離さないで」は臓器提供、クローン人間などさまざまな現代的テーマが提起された問題作だが、それ以上に強く表れているのは臓器を提供する立場と提供される立場が生まれつき設定されてしまっているという絶望感であろう。
臓器を提供する方は、そのために作られたクローン人間なわけだから、どうあがいても運命からは逃れられない。時期が来れば彼らは他人に臓器を提供し、自分の生涯を終えねばならない。提供された方は彼らの臓器で生き延びる。
弱った臓器を次々と新品に換えていけば、むしろ寿命は延びていくだろう。これを寓話として読めば、言うまでもなく提供する方はどんなに頑張っても報いられない貧困層、提供される方は生まれついての富裕層である。イギリスを覆う社会格差の寓意がここに見られる。
「ラヴデイ氏の短い休暇」のラヴデイとモーピング卿たちの関係にも、社会格差の寓意が読み取れないだろうか。精神病院から外の世界(つまり殺伐とした貧困社会)に出て行ったラヴデイが、しかしすぐに35年前と同様の殺人を犯して戻ってきてしまう現実。
そして一方では外の世界(つまり何不自由ない富裕社会)から精神病院に入っても、私費患者として特権的な立場が与えられ続けるモーピング卿たちの現実。精神病院というステージにおいても、ラヴデイは付き添いという立場で自らの人生を提供し続け、モーピング卿たちは他人の人生を資源として提供され続ける。
ウォーの短編とイシグロの長編との間には、かれこれ半世紀以上の歳月が流れている。イギリスの社会格差は一向に縮まる気配がなく、むしろ大きくなっている。(こや)
イーヴリン・ウォーをWIKI PEDEIAで調べる
にほんブログ村
ブログランキングに参加しています。
クリックしてご協力いただければ幸いです。
海外文学作品についてのコラム「たまたま本の話」を掲載しています。
「たまたま本の話」は「miniたま」に毎号掲載しているコラムです。
「miniたま」は、インターネット古書店「ほんのたまご」とお客様を結ぶ架け橋として、
ご注文書籍とともにお送りしているミニコミ紙です。
「miniたま」のバックナンバーPDF版はこちらからどうぞ
第24回 南アフリカ発の傑作短編
(アーサー・ウイリアムズ)
1948年のこと。本国版「EQMM」、つまりエラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン編集部に1編の短編小説の原稿が送られてきた。南アフリカのケープタウンからで、作者はアーサー・ウイリアムズとあった。その短編「この手で人を殺してから」を一読した編集長のクイーンは驚嘆し、さっそく同年8月号の同誌「国別ミステリ特集」に作品を掲載。年次コンテストでも国外作品ベスト3に選出された。
ところがこのウイリアムズという筆者、全くの無名どころか経歴すらサッパリ分からない。南アフリカ在住の作家と思われるが、小説のテーマが完全犯罪なだけに、「本当に自分でこういう殺人をやらかした犯人の手記ではないか」という噂さえ、まことしやかに語られるようになる。次回作も発表される気配はなく、やがて謎の覆面作家は、たった1編の短編でミステリ史上に名が残ることになった。
今日、アーサー・ウイリアムズは、実はアメリカの大衆作家ジャック・M・ビッカムのことだとされている。ビッカムはウェスタン、スリラー、ミステリなどの分野で70冊を超える長編を残し、1997年に没した。「なるほど、正体はビッカムか」という話にならないのは、そちらの名前でも日本では馴染みが薄いからで、邦訳も1989年発表のテニス・ミステリ「タイブレーク」以降はなく、それも入手困難になっている。日本ではむしろウイリアムズ名のほうがはるかに有名だろう。
ビッカムは1930年生まれとプロフィルにあるから、「この手で人を殺してから」を書いたときは、わずか18歳になるかならないか。若書きの短編ではあるが、いま読み返してみると興味深い面が見えてくる。以下、作品の内容に触れているので未読の方はご注意を。引用は早川書房編集部編のアンソロジー「天外消失」(2008年12月、ハヤカワミステリ刊)に収められた同作(都筑道夫訳)から。
作品は主人公「わたし」の手記の形をとっている。「わたし」の元に、かつて恋人だった女が戻ってくる。女はヨハネスブルクの株式投資で大儲けした男と結婚したが、男は結婚したとたんにエゴイスト丸出しになり、それに耐え切れなくなった女が昔のよしみで「わたし」に助けを求めてきたのだ。しかしいま順風満帆に養鶏場を経営する「わたし」は女を助けず、逆に殺してしまう。やがて警察がやってくる。女の足取りが「わたし」の家で途絶えたため、不審に思って尋問と家宅捜索に来たのだ。ところが家や養鶏場を徹底的に調べても、死体は出てこない。実は「わたし」は、女の体を隅から隅まで粉砕機にかけて粉々にし、本来の骨粉餌と肉餌、血餌、アルファルファ草、とうもろこしなどに混ぜて、ひよこに食べさせてしまったのである。
「(ひよこが)どんなに立派なひなどりに育ったかは、セロン(顔見知りの警官)に訊けばわかる。事実、わたしはこのすばらしい若どりたちのおかげで、名声をかちえたのだ。ほかの養鶏業者たちは、餌のまぜかたを訊きに押しよせてわたしを悩ませた」「セロンがこれを読んで、あんなに喜んでたべたひなどりの、体質や栄養分がなんであったかを知ったら、どんな顔をするだろう」
物語は、新しく雇った家政婦の存在がわずらわしくなった「わたし」の暗示的な独白で幕を閉じる。「かわいそうに!(家政婦が)死んで悲しむものもない。ところで、わたしは来たるべきシーズンに、とくに優秀なストックを育てあげることで、夢中になっている。豊かでバランスのとれた餌をあたえて。国際養鶏協会の会長も、わたしの農場を見学したい、といってきている。わたしをかくも有名にしたすばらしいひなどりたちを、ぜひ見学したいと」
ブラックユーモアにあふれた傑作である。もしも現在のようにDNA鑑定があれば……という疑問をぶつけるのは野暮というものであろう。何しろ1948年当時の南アフリカが舞台の作品である。アメリカ人があえて謎の覆面作家として、アフリカ大陸最南端の地から(という触れ込みで)このメッセージを届けた理由も、あるいはそのあたりにあったのではないか。
南アフリカは古くから白人対黒人の人種問題に揺れている国で、1910年に4州(ケープ、ナタール、トランスヴァール、オレンジ)からなる連邦として統一された後も、1911年に鉱山労働における白人保護法「鉱山・労働法」を制定。1948年(この小説の書かれた年)に政権を握った国民党はアパルトヘイト(人種隔離)政策を本格的に推進していく。そんな状況の中で、人口の9割を占める黒人や混血、移民系の貧しい人々は、畜産やとうもろこし栽培などの農業や、金やダイヤモンドなどを採掘する鉱業に従事する以外になかった。登場人物が白人であるか黒人であるかは、一切書かれていないのだが、いずれにせよ小説で養鶏業者を描く際、大国アメリカを舞台にするよりリアリティーが生まれやすいのは事実だろう。
また、作品には「わたし」と顔見知りの地方警察の巡査部長セロンが、最大都市ヨハネスブルクの警察本部から来た警部に捜査介入され、あげくの果ては、南アフリカとともに人種差別政策をとる近隣国――ローデシアの警察に突然、転任になってしまうくだりも出てくる。これは何らかの政治的圧力がかかったようにも読める。
さらに、人の死体を食べて育ったひな鳥を食べる、その卵を食べる、さらにそのひな鳥の骨をすりつぶしてまた別のひよこに食べさせる、と人肉嗜食(カニバリズム)の連鎖が永劫に続くような無常観が漂う。1948年の南アフリカという舞台に、本格ミステリの要素が合致して、永遠の傑作がここに完成した。(こや)
エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジンをWIKI PEDEIAで調べる
にほんブログ村
ブログランキングに参加しています。
クリックしてご協力いただければ幸いです。
海外文学作品についてのコラム「たまたま本の話」を掲載しています。
「たまたま本の話」は「miniたま」に毎号掲載しているコラムです。
「miniたま」は、インターネット古書店「ほんのたまご」とお客様を結ぶ架け橋として、
ご注文書籍とともにお送りしているミニコミ紙です。
「miniたま」のバックナンバーPDF版はこちらからどうぞ