第33回 殺人鬼がレギュラーとは・・・
(ロード・ダンセイニ)
1878年、アイルランドに生まれたエドワード・ジョン・モアトン・ドラックス・プランケット、18代ダンセイニ男爵なる人物がいる。彼はイギリス陸軍の将校としてボーア戦争と第一次世界大戦に出征、1916年のダブリン暴動では暴徒の鎮圧中、顔面に銃弾を受けて重症を負うなどの戦歴を持っている。
そんな武勲を残すと同時に、彼はロード・ダンセイニ名義で小説も書いた。「ペガーナの神々」を始めとする6冊の幻想短編集が次々に刊行された1905年から1910年代。「エルフランドの王女」などファンタジー長編中心の1920年代。そしてそれ以降の1930年代は、ロンドンのクラブのほら話「ジョゼフ・ジョーキンズ」シリーズが5冊ある。ほかにも戯曲集、詩集、戦争小説集、アイルランドに関するエッセー、自伝などを書いたというから、長年にわたって多彩なジャンルで活躍した作家だったのだろう。
とりわけミステリーファンには忘れがたい1編がある。「二壜の調味料」。1928年ごろの作とされるが、日本では戦後、江戸川乱歩がいわゆる「奇妙な味」の代表作として絶賛したことから、多くの雑誌やアンソロジーなどに掲載された。以下、作品の内容に触れるので未読の方はご注意を。
肉や塩味料理にかける調味料ナムヌモの訪問販売をしているスメザーズという男がいる。この男がふとしたきっかけでリンリーという紳士と共同で部屋を借りることになる。そんなある日、殺人事件が起きる。スティーガーという男がノース・ダウンズの町にある家で同棲中の女性を殺したらしい。しかし死体はもちろん殺人の証拠がいくら捜しても見つからない。
警察が厳重な見張りを敷く中、スティーガーは毎日、庭の木を切り倒して薪にする作業に打ち込む。彼は菜食主義者らしく、食料はすべて青果物店から買う。ところがなぜか肉料理専用の調味料ナムヌモを2壜、買ったという報告がもたらされる。
すべてのことを照合してリンリーは事件の真相に至る。「しかしなぜあの男は木を切り倒したのでしょう?」というスコットランドヤードの警部の質問に答えて、リンリーは答える――「ひとえに食欲をつけるためです」と。
この暗示的な結末を「世界短編傑作集3」(江戸川乱歩編、1960年12月、創元推理文庫刊)で読んだときの衝撃は忘れられない(訳名は「二壜のソース」)。分類すれば死体の隠し場所トリックであり、語り手のスメザーズと謎を解く紳士リンリーの関係はちょうどワトソンとホームズの関係に当たる。したがって典型的なミステリー短編なのだが、その枠組みに納まらない何かがある。
「二壜の調味料」は1952年にイギリスで出版されたダンセイニの短編集「THE LITTLE TALES OF SMETHERS AND OTHER STORIES」に収められている。全訳が刊行されたのは57年後(「二壜の調味料」、小林晋訳、2009年3月、ハヤカワ・ミステリ刊)。それによって分かったのは、「二壜の調味料」は独立した短編ではなく、スメザーズとリンリーの登場するシリーズものの第1作だったことである。短編集には全26編が収められているが、そのうちの9編――「二壜の調味料」に始まり「一度でたくさん」までがスメザーズ&リンリーものである。
驚くべきことに、シリーズ第2作「スラッガー巡査の射殺」、第4作「第二戦線」、第9作「一度でたくさん」でも殺人鬼スティーガーが容疑者として暗躍する。犯人がレギュラーで登場するミステリーなど前代未聞だろう。つまりスティーガーは第1作「二壜の調味料」の後でも第2作「スラッガー巡査の射殺」の後でも逮捕されずに野放しになっていることになる。なぜなら殺人の確固たる物証を警察がつかめなかったから。
リンリーの謎解きがいかにすぐれていたとしても、それは単なる推論に過ぎないとスコットランドヤードは判断した。
「警察はどちらの事件でも彼を逮捕することができませんでした。おかしな話でもあります。なぜなら、警察は彼が両方の殺人を実行した犯人であることを完璧に把握し、リンリーさんが協力してその方法を警察に教えたからです。それでも、警察は彼を逮捕できませんでした。確かに、捕まえたければ警察はいつでも彼を捕まえることはできました。しかし、無罪の評決になってしまうということなのです。犯罪者が有罪の評決を恐れる以上に、警察は無罪の評決を恐れていました」(「第二戦線」、小林訳より)
全9編をまとめて読むと、スコットランドヤードの警察官がリンリーの元を訪れてお知恵を拝借するという構造になっていることが分かる。それは「二壜の調味料」だけを独立した短編として読んでいては見えてこない。作者ダンセイニはスメザーズ&リンリーのシリーズを書くことで、物証にこだわるスコットランドヤード流捜査方法を猛烈に皮肉っているのではないか。
スコットランドヤードは、18世紀に始まった市民警察が1829年に首都警察として創設されたものである。ホームズものや、ロバート・バーの著名な短編「健忘症連盟」などを見ても分かるように、しばしば名探偵の卓抜な推理に敵対する存在として作品に登場する。
そもそも警察が事件をすんなりと解決する物語ならば、それは本格ミステリーではなく警察小説なのであって、警察でお手上げの事件だからこそ私立探偵にお知恵を拝借に来るわけである。ところがせっかく名探偵が真相を見抜いても、「証拠がない」という理由で逮捕することができないというもどかしさ。ダンセイニのこのシリーズからは、そんなスコットランドヤードに対する批判精神が見て取れるように思う。(こや)
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第32回 ウイリアム・アイリッシュの魅力
(ウイリアム・アイリッシュ)
創元推理文庫は時折、復刊フェアを行ってくれる。それによって長らく品切れ状態だった作品が読めるようになる。今ぜひ復刊してほしいタイトルがある。「アイリッシュ短編集」1~6巻。ちょっと前にその中の1冊が復刊されたはずだが、またもや書店で見かけなくなってしまった。
作者のウイリアム・アイリッシュは言うまでもなくサスペンス小説の巨匠で、コーネル・ウールリッチ、あるいはジョージ・ハプリー名義でも多くの作品を残している。オールタイムベストの名作と定評のある「幻の女」はハヤカワ・ミステリ文庫で版を重ねているが、他の長編や短編集を探すとなるとちょっと難しい。幸いにして「アイリッシュ短編集2」(田中小実昌、宇野利泰訳、1972年4月刊)を古書店で手に入れた。読み返してみると、これがきわめて面白い。7編の中短編が収められていて、特に最初の「消えた花嫁」にはアイリッシュの魅力がすべて含まれているように思う。
こんな話だ(内容に触れるので未読の方はご注意を)。アリス・ブラウンという娘と結婚した主人公の「ぼく」は新婚旅行に出かける。ツインルームが満室のため、それぞれ別のホテルのシングルルームに一泊する。翌朝、アリスはホテルからこつ然と姿を消してしまう。ホテルの従業員に聞いても、誰もそんな女性は見たことがないと言う。やってきた警官もぼくの話を信じてくれない。前日、結婚に立ち会ってくれたはずの公証人も、警察からの問い合わせの電話にそんな新婚夫婦は知らないと答える。
アリスには身寄りがなく、結婚直前までベレスフォードという邸宅で住み込みの使用人をしていた。当の邸宅に問い合わせても、そんな使用人の名前は聞いたことがないという返事が返ってくる。花嫁はぼくの頭の中だけの幻で、本当は存在しなかったのか?
――と書けば、これときわめて類似する有名な映画が思い浮かぶだろう。ネタバレになるので名前は伏せるが、分かる人には分かる。サスペンス映画の巨匠と呼ばれる監督が戦前に撮った、長距離列車の中で老婦人が失踪する作品(原作小説がある)。あるいは最近ヒットしたアメリカ映画で、亡き夫の棺とともに乗り込んだ飛行機の機内で、妻が目を離した隙に娘が消えてしまう作品。両作とも老婦人や娘がいたことを周囲の乗客も乗務員も否定し、「最初からいなかった」と主張する。この2作だけでなく探せばまだまだあるだろう。
「消えた花嫁」では、ふとポケットから取り出したA・Bのイニシャル入りのハンカチが決め手となって、刑事とぼくがアリス失踪の謎を追いかけていく。彼女はアルマ・ベレスフォード(同じくA・B)という名で、使用人ではなくその邸宅の娘だった。
駆け落ち同然にぼくと結婚したので、このままでは彼女が相続した財産が自分のものにならないと知った後見人が追いかけてきて彼女を拉致した。後見人とその一味は彼女を麻酔薬で眠らせ、病死したと偽って葬式を出そうとする。アリスは生きたまま埋葬されてしまうのか。危機一髪のところでぼくと刑事は彼女を救い出す。
推理小説の完成度から見れば、きわめて穴が多い作品といえる。ホテルの従業員や公証人すべてを買収して「そんな人物はいない」と偽証させるなど、どう考えても無理がある。かかりつけの医者に替え玉の死体を診察させて彼女の死亡診断書を書かせるくだりを読んだときには、あまりのご都合主義に苦笑した。では馬鹿馬鹿しいと一笑に付すべき作品だろうか。
故・瀬戸川猛資は、ミステリ評論の名著「夜明けの睡魔 海外ミステリの新しい波」(1999年5月、創元ライブラリ刊)の中でアイリッシュについてこんな指摘をしている。「短篇にはいいものが多く、長篇よりも好きだが、ストーリイをよく覚えていない。そうした内容よりも、題名の印象のほうが遥かに強烈である」「短篇のタイトルがまた恰好いい」「題名そのものが文体を持ち、独特の節まわしを持っている感じを受ける。勝手な憶測だが、作者はこれらの作品の大半を、まず題名から先に思いつき、それに合わせてストーリイを書くという方法で完成させたのではないだろうか」
今回「消えた花嫁」(原題All At Once,No Alice=突然アリスがいなくなった)を読んで、瀬戸川の慧眼を改めて思った。「まず題名から先に思いつき、それに合わせてストーリイを書くという方法」をアイリッシュがとったとすれば、アリスという女性=花嫁が突然消えるという発想が最初に頭にあったはずだ。
次に彼女の存在を主人公以外の誰も知らなかったら……というシチュエーションを立てる。続いて、今度は周囲がすべて偽証しているといった骨組みと細部を作り上げねばならない。そして最後に真相は財産目当ての犯罪だったと結論づける。おそらくアイリッシュはそのように話を練っている。
これは通常の推理小説の作り方と順番が逆なのではないか。異論があるかもしれないが、まず事件の真相(この場合だったら財産目当ての犯罪)を練るところから始まるのが通常の本格物の作り方である。冒頭の事件(アリスの失踪)はその後で考えられる。だから本格派の作家は途中で細部に伏線を張りたがる。
ところがアイリッシュは良く言えば伏線に執着しない。悪く言えば思いつきで書き始め、行き当たりばったりで話を作り上げ、最後につじつま合わせをしているようにさえ思える。
これはけなしているのではなく、本格派とは対極にあるこの作家に最大級の賛辞を送っている。前出の映画の例を見ても「いかに無理が多いか」という話が強烈なサスペンスを生むケースが数多くある。アイリッシュほど、サスペンスがいかにして醸成されるかを熟知している作家はいない。(こや)
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第31回 ベストテン選びは辛口で?
(アガサ・クリスティー)
①そして誰もいなくなった(アガサ・クリスティー)
②Yの悲劇(エラリー・クイーン)
③シャーロック・ホームズの冒険(アーサー・コナン・ドイル)
④幻の女(ウイリアム・アイリッシュ)
⑤アクロイド殺し(アガサ・クリスティー)
⑥長いお別れ/ロング・グッドバイ(レイモンド・チャンドラー)
⑦薔薇の名前(ウンベルト・エーコ)
⑧ブラウン神父の童心(ギルバート・キース・チェスタトン)
⑨羊たちの沈黙(トマス・ハリス)
⑩火刑法廷(ジョン・ディクスン・カー)
――以上は「週刊文春」の今年1月4日臨時増刊号「東西ミステリーベスト100」で発表されたオールタイム総合ランキング海外編の上位10作。ミステリー関係者387人のアンケート回答をまとめたものである。
これが1985年に同誌が選んだベストテンとだいぶ顔ぶれが変わった、と話題になっている。ちなみに1985年版のベストテンは以下の通り。
①Yの悲劇
②幻の女
③長いお別れ
④そして誰もいなくなった
⑤鷲は舞い降りた(ジャック・ヒギンズ)
⑥深夜プラス1(ギャビン・ライアル)
⑦樽(フリーマン・ウィルス・クロフツ)
⑧アクロイド殺し⑨僧正殺人事件(S・S・ヴァン・ダイン)
⑩シャーロック・ホームズの冒険。
なあんだ、上位10作のうち6作が同じ顔ぶれじゃないか、と言うなかれ。わずか四半世紀余で4作も入れ替わったことの方が大事件なのである。思えば1985年は冒険小説やハードボイルドのブームだった。それらの作品が2013年版では軒並み順位を下げ、「薔薇の名前」(1980年発表)、「羊たちの沈黙」(1988年)と、比較的新しい作品がランクインしている。
とはいうものの、今回むしろ順位を上げたチェスタトンやカーを見れば、やはり本格物の古典は強いと言わざるを得ない。
今回の「ベスト」にはミステリーの論客4人による特別座談会も収録されていて、出席者の2人――大森望と千街晶之はクリスティーの「そして誰もいなくなった」がクイーンの「Yの悲劇」を抜いて1位になったことを高く評価している。
「千街 思うにこれは『Y』の評価が落ちたんじゃなくて、『そして誰もいなくなった』の評価が上がったんですね。若島正さんがクリスティーの原書にあたって、『明るい館の秘密』(『乱視読者の帰還』所収)という評論を書いた。これは、『そして誰もいなくなった』が実はきわめてフェアなミステリーなんだよということを証明する評論なんですが、そういう再評価の流れが今回の逆転につながったんじゃないですか。
大森 要するに、作中ですべての容疑者の内心の描写をしているにもかかわらず、犯人が誰なのか特定できないのはなぜかという問題ね。これまでの翻訳で読むと、クリスティーの叙述がアンフェアに見えるんだけど、若島さんは原書を検証して、作者がきわめてフェアな叙述を心がけていたことを明らかにした。(中略)
クイーンに比べてクリスティーって、新本格以降、本格ミステリー評論的にはあんまり日が当たらなかったじゃないですか。むしろ風俗小説的なうまさとか、キャラクターの魅力で読まれていて、クリスティーは素人受け、クイーンは玄人受け、みたいな空気がずっとあった。それが若島さんの評論で『クリスティー、やっぱりちゃんとしてるじゃん』ってことになった」
言うまでもなく「そして誰もいなくなった」は、「アクロイド殺し」と並ぶクリスティーの代表作。
お互い面識もなく年齢も職業も異なる10人の男女(8人の来客と2人の使用人)が、兵隊島という小島に呼び寄せられる。その夜、彼ら10人全員が過去に殺人を犯したことを告発する録音の声が流れる。そして童謡の歌詞をなぞるように1人1人命を奪われていき、最後に「そして誰もいなくなっ」てしまう話である。
それでは一体、犯人は誰なのか。そんな話だから、かつては本格ミステリーというよりもサスペンス小説と見なされていた。
若島の指摘については、ネタバレになるのでここで詳しく触れる余裕はないが、要するに第11章6と第13章1のパートで、誰のものとも特定できない心理描写(モノローグ)が出てくる。従来アンフェアと見なされていたその部分を、クリスティーはフェアに叙述していると主張した。この若島説については反論や否定的意見も多いが、その後、早川書房のクリスティー文庫で「そして誰もいなくなった」が新訳版で刊行された(青木久恵訳、2010年11月)ことなどを思えば、ミステリー研究に一石を投じたことは確かだろう。
もっともミステリーのベストテン選びにはこんな厳しい意見もある。
「オールタイムのベストテンとなると、いろいろなバイアスがかかる。ほとんどの人が、そのために読み返すことなどしないから、あいまいな記憶や歴史的評価に影響され、定番作品に無批判に点を入れてしまう」
「わたしが、アンフェアなミステリーの最たるもの、とみなす『幻の女』(W・アイリッシュ/1942年)が毎度ベストテンの上位に顔を出すのは、その顕著な例である。この作品の人気は、恣意的な視点操作による犯人の意外性で、支えられている。発表当時は、それで許されたかもしれないが、現今の基準からすれば見過ごしがたいご都合主義、というべきだろう。この手で、『こいつが犯人だ!』と鼻先に突きつけられれば、だれしも驚くのが当然だ」。
これはミステリー通の作家、逢坂剛のエッセー「ベストテンのマナー 公正な順位づけ不可能」(読売新聞2013年1月22日付夕刊)からの引用。「幻の女」は1985年②、2013年④といわば諸氏絶賛の鉄板の名作で、フェアかアンフェアかの論議はあまり聞いたことがない。それに対する辛口の意見だから驚く。
(こや)
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第30回 ハヤカワ・ミステリは「よい悪書」
(丸谷才一)
英文学者にして芥川賞作家の日本文学界の重鎮、丸谷才一が亡くなったのは2012年10月13日のこと。小説、文芸批評、エッセー、翻訳とあらゆる分野で業績を残した丸谷だが、実は大変なミステリー通でもあった。
その長年にわたるミステリー評などをまとめた1冊「快楽としてのミステリー」(2012年11月、ちくま文庫刊)が、著者死去の直後に出版された。
冒頭の鼎談「ハヤカワ・ポケット・ミステリは遊びの文化」がきわめて面白い。出席者は丸谷と向井敏、瀬戸川猛資。これら稀代の読み巧者たちは今や3人とも鬼籍に入ってしまった。感慨ひとしおである。
鼎談ではハヤカワ・ポケット・ミステリ(現ハヤカワ・ミステリ)についてのウンチクが語られている。1989年新春の「東京人」18号に掲載されたものの再録だが、ハヤカワ・ミステリの部数や定価をめぐる一節が目を引く。
「向井 当初の出版部数は、どれぐらいだったんですか。
瀬戸川 昭和40年代前半ぐらいまでは、6000~8000というのが多かったんじゃないでしょうか。
丸谷 1万まではいかない?
瀬戸川 ええ。007や87分署は、例外で。
丸谷 もっともあのころは、ほかの本だってそんなにたくさん刷らなかったんですね。
向井 それに値段もかなり高かったんですね。一番安くて150円。平均して200円か300円でしょう。あのころ、昭和30年ごろの初任給は1万円ぐらいだから、いまでいえばだいたい5000円前後の本を買う感じです。
丸谷 ぼくの給料は、昭和30年ごろ、1万2000円なかったんじゃないかな。ハヤカワ・ミステリは近所の貸本屋で借りて読んでいた記憶があります。
向井 ぼくも、ほとんど貸本屋なんです。あのころの貸本屋というのは、いまのレンタルビデオ屋のようなものだから、6000しか刷らなくても、読んだ人の数というのは、その10倍以上あるんじゃないかな」
最後の「レンタルビデオ屋」というのがすでに懐かしい。この鼎談の行われた1989(平成元)年当時は、DVDもネットも地デジもまだなかった。それはともかく、この一節にはハヤカワ・ミステリ(昭和28年刊行スタート)だけでなく、昭和30年代日本における文化の受容ぶりがよく表れていると思う。
つまりこの時期、ハヤカワ・ミステリという「よい悪書」を受け入れる土壌がようやく日本にも根付きつつあったのである。
「よい悪書」とは何か。かつてこのコラムでギルバート・キース・チェスタトンの「ブラウン神父」について触れた。そのとき、経済学者でヨーロッパ文化に詳しい高橋哲雄の「ミステリーは労働者でなく知的ブルジョアの読み物」という指摘を紹介したことがある。そうした質の高い娯楽読み物のことを「よい悪書」と名付けたのが、ほかならぬチェスタトンなのである。そして昭和30年代日本における「よい悪書」の役割を担っていたのが、ハヤカワ・ミステリや創元推理文庫など、質の高い娯楽読み物を提供するシリーズだった。
2013年現在の大卒初任給を、まあ20万円だとしよう。昭和30年当時の初任給が鼎談にあったように1万円とすると、この58年間で給料はほぼ20倍になっている。物価も20倍になったと考えれば、当時150円のハヤカワ・ミステリは現在の価格で3000円。200円、300円ならばそれぞれ4000円、6000円。
つまり昭和30年ごろにハヤカワ・ミステリの新刊を買っていた熱心な読者は、今なら大枚6000円を払ってレイモンド・チャンドラーやエラリー・クイーンや007を読んでいたことになる。
知的ブルジョア層で多少は生活に余裕があったとしても、そんな出費はさすがに厳しいだろうから、買わずに貸本屋で借りて読むことになる。文芸批評の丸谷や書物に関する著作が多い向井が「ハヤカワ・ミステリを借りて読んでいた」とはいささか驚くが、昭和30年代には貸本屋が町じゅうにあった。ハヤカワ・ミステリだけではない。むしろ本は借りて読むという方が一般的だった。
その状況は19世紀末から20世紀初頭にかけてのイギリス読書事情に似ているように思う。前述の高橋哲雄は、「(イギリスにおける)小説の歴史に貸本屋の果たしてきた役割の大きさは、今日の、とくに若い世代には想像もできないだろう。
ミステリー読者層の成立・発展期である世紀末から両大戦間にかけての時代には、イギリスの新刊フィクションの大きな部分――ものによっては8割にも及ぶ――は貸本屋向けに出版された」と書いている(「ミステリーの社会学」、1989年9月、中公新書刊)。
やがてイギリスは1935年の「ペンギン・ブックス」創刊に始まるペーパーバック革命によって貸本屋が衰退していく。本は安価で提供されるようになり、買って読むものになっていく。
日本は昭和30年代、40年代に入っても貸本屋が全盛を誇っていた。イギリスに遅れること、30年ほどだろうか。これは全くの推測だが、当時のハヤカワ・ミステリの出版社(つまり早川書房)も、値段の高い本を何万部のベストセラーに仕立て上げるのはきわめて難しいわけだから、刷った6000部から8000部を確実に全国各地の貸本屋や図書館に配本してもらうことに力を注いでいたのではなかったか。
たとえ発行部数5000部であっても、借りて読む人が10倍いれば5万人。これはもう立派なベストセラーである。「よい悪書」ハヤカワ・ミステリは、こうして日本の読書文化に貢献してきたのだ。(こや)
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第29回 ノーベル賞を拒否した作家
(ジャン=ポール・サルトル)
2012年のノーベル文学賞は中国の作家、莫言(モーイエン)に与えられた。「赤い高粱」「百檀の刑」などが代表作。中国籍作家で初との報道に、2000年に受賞した高行健(ガオ・シンヂエン)を思った。
高はフランスに亡命し、中国語とフランス語で作品を書いている。フランス国籍の作家で、つまり賞はフランスに与えられたことになる。共産党の一党独裁を批判する高の受賞に当時、中国政府は大いに反発した。そういえば2010年、平和活動家で詩人の劉暁波(リウ・シャオボー)の平和賞受賞に対して国を挙げて猛抗議したことも記憶に新しい。今回の莫言の受賞について、中国では歓迎の声が沸き上がっている。
ノーベル文学賞は第1回のフランスの詩人シュリ・プリュドム以来、現在まで109人に与えられている。その中で受賞を拒否した作家が2人いる。
1人は1958年のソ連のボリス・パステルナーク。正確にいえばこれは「国によって拒否させられた」に等しい。受賞拒否に至るまでの経緯を「ノーベル文学賞―『文芸共和国』をめざして」(柏倉康夫著、2012年10月、吉田書店刊)はこう書いている(以下、引用はすべて同書より)。
「ノーベル文学賞の授賞を知ったパステルナークは、スウェーデン・アカデミーに電報を打った。『非常に感謝している。感動、誇り、驚き、戸惑いを感じている』。だが、4日後には別の電報がアカデミーに届いた。『残念だが賞は辞退したい』」「いったいこの4日間になにがあったのか。
ソビエトのマスコミは、授賞の報を知ると、いっせいにパステルナーク批判を開始した。『裏切り者のユダ』、『社会主義にこびりついている汚れ』等々、ありとあらゆる悪意にみちたレッテルが、パステルナークに貼られたのである。その上彼はソビエト作家同盟からも除名された」「パステルナークはなによりも祖国ロシアを愛しており、自分が祖国なしに作品を創造できないことをよく知っていた。彼はフルシチョフ書記長にあてて書簡を送り、『祖国を離れることは、死ぬことと同じです』と、国外追放の措置を取らないように懇願した。ノーベル賞辞退はその代価であった」
20世紀半ばのソ連の話だから、これはリアリティーがある。実際、代表作「ドクトル・ジバゴ」は前年の1957年にソ連で出版禁止処分を受けている。イタリアに持ち出されてイタリア語で出版された同書は、すぐさま世界18か国語に翻訳され、大ベストセラーとなる。
映画化もされてヒットした。「パステルナークへの授賞には、こうしたソビエト当局の言論弾圧にたいする抗議、弾圧にあえぐパステルナーク支援の意味が多分に含まれていた。しかし、それが逆にパステルナークを窮地に追いこんでしまったのである」
感動的なのは、パステルナーク本人不在のまま、予定通り授賞式が行われたことだ。メダルはスウェーデン・アカデミーが預かった。パステルナークは1960年に亡くなった。「ロシア語の『ドクトル・ジバゴ』の完成版が祖国で出版されたのは1988年のことである。
そしてこの同じ年に彼の息子がストックホルムを訪れて、かつて父がもらうはずであったノーベル文学賞のメダルを手にしたのだった。授賞から30年がたっていた」
さてもう1人の受賞拒否者、フランスの哲学者で作家のジャン=ポール・サルトルの場合は、パステルナークと事情が異なる。1964年10月23日付のル・フィガロ紙はサルトルの公式声明を掲載したが、彼は受賞を辞退した「個人的な理由」として、こんなことを述べている。
作家がこうした栄誉を受諾するのは、授与する機関に公約を与えてしまう。だから作家は自ら甘んじて組織に成り果てるようなことがあってはならない――と。
サルトルははなはだ慎重に、辞退はスウェーデン・アカデミーともノーベル賞とも関係ないと書いているが、これは明らかなノーベル文学賞への批判であったという。
「サルトルは(中略)ソ連の作家としてはパステルナークにだけあたえられたことを取りあげて、ノーベル文学賞は『実質的には西側の作家にだけ』あたえられる賞であると批判した。
この頃サルトルはモスクワの平和大会に出席して、文化の面でも平和共存が実現されなければならないと主張していた。そうしたサルトルの目からすれば、ノーベル文学賞は東西の対立を解消するどころか、逆に西側の文化を意図的に擁護することによって、東西対立をおし進めるものと映ったのである」
いかにも東西冷戦の時代を感じさせる発言だが、サルトルのこの声明を受けて、さすがにスウェーデン・アカデミーのアンダーシュ・エステルリング理事長も1964年の授賞式で次のようにあいさつせざるを得なかった。
「受賞者がこの賞を受ける意志のないことを伝えてきたことは、ご記憶のことと思いますが、氏がこの栄誉を
辞退したからといって、この賞の有効性は少しも損なわれるものではありません。しかし、こういった事情ですので、アカデミーといたしましては、賞の授賞が行われないことをここにお伝えするだけにとどめておきたいと思います」
史上初めて、作家が自らの意志でノーベル文学賞の受賞を拒否し、それをスウェーデン・アカデミーが公式に認めた瞬間だった。これは同アカデミーにとっても深刻な事態となった。その後、ノーベル文学賞をフランスの作家が受賞するのは1985年のクロード・シモンまで待たねばならない。21年が経っていた。ヌーヴォー・ロマンの大家シモンの受賞を当時、フランスの新聞は「スウェーデン・アカデミーとフランス文学界の和解」と書き立てた。(こや)
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第29回 ノーベル賞を拒否した作家
(ジャン=ポール・サルトル)
2012年のノーベル文学賞は中国の作家、莫言(モーイエン)に与えられた。「赤い高粱」「百檀の刑」などが代表作。中国籍作家で初との報道に、2000年に受賞した高行健(ガオ・シンヂエン)を思った。
高はフランスに亡命し、中国語とフランス語で作品を書いている。フランス国籍の作家で、つまり賞はフランスに与えられたことになる。共産党の一党独裁を批判する高の受賞に当時、中国政府は大いに反発した。そういえば2010年、平和活動家で詩人の劉暁波(リウ・シャオボー)の平和賞受賞に対して国を挙げて猛抗議したことも記憶に新しい。今回の莫言の受賞について、中国では歓迎の声が沸き上がっている。
ノーベル文学賞は第1回のフランスの詩人シュリ・プリュドム以来、現在まで109人に与えられている。その中で受賞を拒否した作家が2人いる。
1人は1958年のソ連のボリス・パステルナーク。正確にいえばこれは「国によって拒否させられた」に等しい。受賞拒否に至るまでの経緯を「ノーベル文学賞―『文芸共和国』をめざして」(柏倉康夫著、2012年10月、吉田書店刊)はこう書いている(以下、引用はすべて同書より)。
「ノーベル文学賞の授賞を知ったパステルナークは、スウェーデン・アカデミーに電報を打った。『非常に感謝している。感動、誇り、驚き、戸惑いを感じている』。だが、4日後には別の電報がアカデミーに届いた。『残念だが賞は辞退したい』」「いったいこの4日間になにがあったのか。
ソビエトのマスコミは、授賞の報を知ると、いっせいにパステルナーク批判を開始した。『裏切り者のユダ』、『社会主義にこびりついている汚れ』等々、ありとあらゆる悪意にみちたレッテルが、パステルナークに貼られたのである。その上彼はソビエト作家同盟からも除名された」「パステルナークはなによりも祖国ロシアを愛しており、自分が祖国なしに作品を創造できないことをよく知っていた。彼はフルシチョフ書記長にあてて書簡を送り、『祖国を離れることは、死ぬことと同じです』と、国外追放の措置を取らないように懇願した。ノーベル賞辞退はその代価であった」
20世紀半ばのソ連の話だから、これはリアリティーがある。実際、代表作「ドクトル・ジバゴ」は前年の1957年にソ連で出版禁止処分を受けている。イタリアに持ち出されてイタリア語で出版された同書は、すぐさま世界18か国語に翻訳され、大ベストセラーとなる。
映画化もされてヒットした。「パステルナークへの授賞には、こうしたソビエト当局の言論弾圧にたいする抗議、弾圧にあえぐパステルナーク支援の意味が多分に含まれていた。しかし、それが逆にパステルナークを窮地に追いこんでしまったのである」
感動的なのは、パステルナーク本人不在のまま、予定通り授賞式が行われたことだ。メダルはスウェーデン・アカデミーが預かった。パステルナークは1960年に亡くなった。「ロシア語の『ドクトル・ジバゴ』の完成版が祖国で出版されたのは1988年のことである。
そしてこの同じ年に彼の息子がストックホルムを訪れて、かつて父がもらうはずであったノーベル文学賞のメダルを手にしたのだった。授賞から30年がたっていた」
さてもう1人の受賞拒否者、フランスの哲学者で作家のジャン=ポール・サルトルの場合は、パステルナークと事情が異なる。1964年10月23日付のル・フィガロ紙はサルトルの公式声明を掲載したが、彼は受賞を辞退した「個人的な理由」として、こんなことを述べている。
作家がこうした栄誉を受諾するのは、授与する機関に公約を与えてしまう。だから作家は自ら甘んじて組織に成り果てるようなことがあってはならない――と。
サルトルははなはだ慎重に、辞退はスウェーデン・アカデミーともノーベル賞とも関係ないと書いているが、これは明らかなノーベル文学賞への批判であったという。
「サルトルは(中略)ソ連の作家としてはパステルナークにだけあたえられたことを取りあげて、ノーベル文学賞は『実質的には西側の作家にだけ』あたえられる賞であると批判した。
この頃サルトルはモスクワの平和大会に出席して、文化の面でも平和共存が実現されなければならないと主張していた。そうしたサルトルの目からすれば、ノーベル文学賞は東西の対立を解消するどころか、逆に西側の文化を意図的に擁護することによって、東西対立をおし進めるものと映ったのである」
いかにも東西冷戦の時代を感じさせる発言だが、サルトルのこの声明を受けて、さすがにスウェーデン・アカデミーのアンダーシュ・エステルリング理事長も1964年の授賞式で次のようにあいさつせざるを得なかった。
「受賞者がこの賞を受ける意志のないことを伝えてきたことは、ご記憶のことと思いますが、氏がこの栄誉を
辞退したからといって、この賞の有効性は少しも損なわれるものではありません。しかし、こういった事情ですので、アカデミーといたしましては、賞の授賞が行われないことをここにお伝えするだけにとどめておきたいと思います」
史上初めて、作家が自らの意志でノーベル文学賞の受賞を拒否し、それをスウェーデン・アカデミーが公式に認めた瞬間だった。これは同アカデミーにとっても深刻な事態となった。その後、ノーベル文学賞をフランスの作家が受賞するのは1985年のクロード・シモンまで待たねばならない。21年が経っていた。ヌーヴォー・ロマンの大家シモンの受賞を当時、フランスの新聞は「スウェーデン・アカデミーとフランス文学界の和解」と書き立てた。(こや)
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