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これは、従来のつげ義春研究に一石を投じる労作ではないか。元読売新聞記者の矢崎秀行が書いた「つげ義春『ねじ式』のヒミツ」(2018年1月、響文社刊)である。矢崎は「ねじ式」の初めのほうの5ページ目、「背広姿の黒縁メガネの男性がスパナを持って胡坐(あぐら)をかいている不思議なコマ」を取り上げて、これは「木村伊兵衛(1901~74)の写真『知里高央(たかなか)氏』(1965年)からの引用」だと指摘する。写真と漫画を見比べてみると、確かに構図から何からそっくりだ。スパナは持っていないが、この絵が知里高央(ちり・たかなか、1907~65)をモデルにしていることは疑いない。
知里高央とは誰か。北海道・幌別のアイヌ名門の家柄の教育者である。インターネット資料によれば、「明治40年4月15日生まれ。知里ナミの長男。知里幸恵(ゆきえ)の弟。知里真志保(ましほ)の兄。イギリス人宣教師バチェラー家の家庭教師,幌別中学などの教師をつとめ、またアイヌ語の語彙研究に従事した。昭和40年8月25日死去。58歳。北海道出身。小樽高商(現小樽商大)卒」とある。
矢崎の指摘は続く。「知里はこの写真が撮られてすぐ、同じ年、1965年に58歳で亡くなっている。その意味ではこの絵の元になった彼の写真は遺影ポートレートとも言えるものだ」「写真が収録された『定本 木村伊兵衛』(朝日新聞社)はずっと後、2002年の発行なので、おそらくつげはこれが発表された『アサヒカメラ1965年7月号』で見ている可能性が高い。彼は自ら写真を撮る漫画家で、一時は中古カメラ屋を開いたほどの写真カメラ愛好家である。写真雑誌には日常的に親しんでいた」。
「ねじ式」は「ガロ」1968年6月臨時増刊号に発表されている。つまり「ねじ式」発表の時点で知里高央はすでに故人であった。とすれば、メメクラゲに噛まれて静脈が切断され、切迫した死への恐怖におののく主人公の前にスパナを持って現れる彼は、生の担い手ではなく死の導き手であったということになる。こんな重要な点が50年間も見逃されてきたことに驚くが、インターネット上では数年前から「この絵の元ネタは知里のポートレートではないか」と話題になっていたらしい。しかし「何故いきなりアイヌの名門家系の末裔が脈略もなく突然登場するのだろうか。それも左手に両口スパナを持って」。矢崎の疑問ももっともである。
以下はあくまでも私見である。「ねじ式」は、先行する同じつげ義春の傑作「山椒魚」(「ガロ」1967年5月号)との関連性でとらえられるべき作品ではないか。「山椒魚」を振り返ってみよう。山椒魚は「悪臭と汚物によどんだ穴の中」、つまり下水道に棲んでいる。最後に人間の胎児の屍骸が流れてくるシーンがある。これは不幸にも産み捨てられ、下水道に流されて来てしまった胎児なのだろう。山椒魚と胎児は、単なる行きずりの関係なのだろうか。山椒魚は人間の生まれ変わりなのではないか。胎児は山椒魚の前世の姿なのではないか。そんな思いを強く感じさせる。前世と現世がなぜこの下水道で出会うのか。
今回、この下水道をニライカナイと考えたらどうか、と思い至った。ニライカナイとは遥か遠い東(辰巳の方角)の海の彼方、または海の底、地の底にあるとされる異界のこと。豊穣や生命の源であり、神界でもある。年初にはニライカナイから神がやってきて豊穣をもたらし、年末にはまた帰るとされている。また、生者の魂もニライカナイから来て、死者の魂はニライカナイに去ると考えられている。ニライカナイ信仰は、沖縄県や鹿児島県奄美群島の各地において伝統的な民間信仰である。
「山椒魚」において、胎児は下水道にやってきた。つまりニライカナイに来た死者の魂である。その胎児と遭遇した山椒魚は、ニライカナイで生まれ変わった生者の魂であろう。最後、背を向けて泳いでいく山椒魚の姿は象徴的である。そう考えると、この下水道は決して不吉な空間でなく、神と輪廻と転生の神界であるということが分かる。そしてそこには永遠の時間が流れている。
この神界ニライカナイのイメージが、聖地アフンルパルに転換したのが「ねじ式」という作品だったのではないか、と思うのだ。アフンルパルとは何か。沖縄とアイヌは民族的に同じルーツを持つとされる。ニライカナイに似た概念として、アフンルパルと呼ばれる聖地が沖縄にもある。アフンルパルは「“入る道の口”の義。あの世への入口。多くは海岸または河岸の洞穴であるが、波打際近くの海中にあって干潮の際に現れる岩穴であることもあり、また地上に深く掘った人口の竪穴であることもある」。この解説を「地名アイヌ語小辞典」で書いているのは、他ならぬ知里高央の実弟で、アイヌ初の北海道大学教授になった知里真志保である。そして形状的にアフンルパルは、窪地状でありねじ溝状であるケースが多い。まさに「ねじ式」聖地だ。これは詩人の吉増剛造も指摘しているという。
「ねじ式」では、最初のコマから、主人公はメメクラゲに左腕を噛まれて静脈が切断されている。つまり下水道でゆったりと泳ぐ山椒魚と違って、切迫する死への恐怖の中で、少年は医者を探すことを必然づけられている。「山椒魚」では永遠であったはずの時間が、「ねじ式」では限定された時間に転化している。山椒魚が背を向けて去っていったのとは対照的に、少年は海からこちらに顔を向けてやってくる。「ねじ式」における彼は、あの世への入口に足を踏み入れたのだ。だから死からの生還をねじに委ねざるを得なかった。そうは考えられないだろうか。(こや)
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これは、従来のつげ義春研究に一石を投じる労作ではないか。元読売新聞記者の矢崎秀行が書いた「つげ義春『ねじ式』のヒミツ」(2018年1月、響文社刊)である。矢崎は「ねじ式」の初めのほうの5ページ目、「背広姿の黒縁メガネの男性がスパナを持って胡坐(あぐら)をかいている不思議なコマ」を取り上げて、これは「木村伊兵衛(1901~74)の写真『知里高央(たかなか)氏』(1965年)からの引用」だと指摘する。写真と漫画を見比べてみると、確かに構図から何からそっくりだ。スパナは持っていないが、この絵が知里高央(ちり・たかなか、1907~65)をモデルにしていることは疑いない。
知里高央とは誰か。北海道・幌別のアイヌ名門の家柄の教育者である。インターネット資料によれば、「明治40年4月15日生まれ。知里ナミの長男。知里幸恵(ゆきえ)の弟。知里真志保(ましほ)の兄。イギリス人宣教師バチェラー家の家庭教師,幌別中学などの教師をつとめ、またアイヌ語の語彙研究に従事した。昭和40年8月25日死去。58歳。北海道出身。小樽高商(現小樽商大)卒」とある。
矢崎の指摘は続く。「知里はこの写真が撮られてすぐ、同じ年、1965年に58歳で亡くなっている。その意味ではこの絵の元になった彼の写真は遺影ポートレートとも言えるものだ」「写真が収録された『定本 木村伊兵衛』(朝日新聞社)はずっと後、2002年の発行なので、おそらくつげはこれが発表された『アサヒカメラ1965年7月号』で見ている可能性が高い。彼は自ら写真を撮る漫画家で、一時は中古カメラ屋を開いたほどの写真カメラ愛好家である。写真雑誌には日常的に親しんでいた」。
「ねじ式」は「ガロ」1968年6月臨時増刊号に発表されている。つまり「ねじ式」発表の時点で知里高央はすでに故人であった。とすれば、メメクラゲに噛まれて静脈が切断され、切迫した死への恐怖におののく主人公の前にスパナを持って現れる彼は、生の担い手ではなく死の導き手であったということになる。こんな重要な点が50年間も見逃されてきたことに驚くが、インターネット上では数年前から「この絵の元ネタは知里のポートレートではないか」と話題になっていたらしい。しかし「何故いきなりアイヌの名門家系の末裔が脈略もなく突然登場するのだろうか。それも左手に両口スパナを持って」。矢崎の疑問ももっともである。
以下はあくまでも私見である。「ねじ式」は、先行する同じつげ義春の傑作「山椒魚」(「ガロ」1967年5月号)との関連性でとらえられるべき作品ではないか。「山椒魚」を振り返ってみよう。山椒魚は「悪臭と汚物によどんだ穴の中」、つまり下水道に棲んでいる。最後に人間の胎児の屍骸が流れてくるシーンがある。これは不幸にも産み捨てられ、下水道に流されて来てしまった胎児なのだろう。山椒魚と胎児は、単なる行きずりの関係なのだろうか。山椒魚は人間の生まれ変わりなのではないか。胎児は山椒魚の前世の姿なのではないか。そんな思いを強く感じさせる。前世と現世がなぜこの下水道で出会うのか。
今回、この下水道をニライカナイと考えたらどうか、と思い至った。ニライカナイとは遥か遠い東(辰巳の方角)の海の彼方、または海の底、地の底にあるとされる異界のこと。豊穣や生命の源であり、神界でもある。年初にはニライカナイから神がやってきて豊穣をもたらし、年末にはまた帰るとされている。また、生者の魂もニライカナイから来て、死者の魂はニライカナイに去ると考えられている。ニライカナイ信仰は、沖縄県や鹿児島県奄美群島の各地において伝統的な民間信仰である。
「山椒魚」において、胎児は下水道にやってきた。つまりニライカナイに来た死者の魂である。その胎児と遭遇した山椒魚は、ニライカナイで生まれ変わった生者の魂であろう。最後、背を向けて泳いでいく山椒魚の姿は象徴的である。そう考えると、この下水道は決して不吉な空間でなく、神と輪廻と転生の神界であるということが分かる。そしてそこには永遠の時間が流れている。
この神界ニライカナイのイメージが、聖地アフンルパルに転換したのが「ねじ式」という作品だったのではないか、と思うのだ。アフンルパルとは何か。沖縄とアイヌは民族的に同じルーツを持つとされる。ニライカナイに似た概念として、アフンルパルと呼ばれる聖地が沖縄にもある。アフンルパルは「“入る道の口”の義。あの世への入口。多くは海岸または河岸の洞穴であるが、波打際近くの海中にあって干潮の際に現れる岩穴であることもあり、また地上に深く掘った人口の竪穴であることもある」。この解説を「地名アイヌ語小辞典」で書いているのは、他ならぬ知里高央の実弟で、アイヌ初の北海道大学教授になった知里真志保である。そして形状的にアフンルパルは、窪地状でありねじ溝状であるケースが多い。まさに「ねじ式」聖地だ。これは詩人の吉増剛造も指摘しているという。
「ねじ式」では、最初のコマから、主人公はメメクラゲに左腕を噛まれて静脈が切断されている。つまり下水道でゆったりと泳ぐ山椒魚と違って、切迫する死への恐怖の中で、少年は医者を探すことを必然づけられている。「山椒魚」では永遠であったはずの時間が、「ねじ式」では限定された時間に転化している。山椒魚が背を向けて去っていったのとは対照的に、少年は海からこちらに顔を向けてやってくる。「ねじ式」における彼は、あの世への入口に足を踏み入れたのだ。だから死からの生還をねじに委ねざるを得なかった。そうは考えられないだろうか。(こや)
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電子書籍「文学コラム・いいたま」を公開しました
斜陽の映画業界を、あなただったらどう改善しますか――と問われ、ある作家はこう答えている。
「ぼくは簡単なことだと思うんだ。お客さんがイージーに見にゆけんようにしたらいい。まず、田舎の映画館を整理することですね。都会でも場末の館は転業させて、一流の映画館だけ残す。そして、観客がフロアに入ってきたときから『これはゴージャスなもんや』と驚くような――いわばホテル・ニュー・オータニ式の雰囲気(笑)を盛り込む。場内では必ずオーヴァーはぬがし、ちゃんとした姿勢で見させる。ちょうど、18世紀の芝居見物と同じようなマナーを要求するわけです」
映画の観客を外食券食堂に並ばせるのでなく、金屏風の前に座らせなくてはならない。そう主張する作家は誰あろう、司馬遼太郎(1923年生まれ)である。「キネマ旬報」1965年3月上旬号の「『映画革命』に関する対話」で、時事通信記者・岡本太郎のインタビューに答えている。小さな町にも1つはあった映画館がなくなり、環境設備の整った都心のシネマコンプレックスで特別料金を払って3D、4D映画を楽しむ。そんな現在の映画鑑賞の姿を、さながら予見しているかのようだ。
1958年に戦後最高の11億2,745万人あった映画観客動員数は、テレビの普及などによって翌年から急激に減り始めた。その7年後、司馬発言のあった1965年は、映画産業の不況が深刻な社会問題となった年である。映画館数で見ると、1960年の7,457館から、1965年は約4割減の4,649館にまで落ち込んでいる。娯楽の王者が衰退していくのを、指をくわえながらただ眺めているだけ。おそらく司馬はそんな状況に我慢できなかったのだろう。
埋もれていたこの対談記事を発掘してくれたのは、先日、刊行された「文豪文士が愛した映画たち 昭和の作家映画論コレクション」(根本隆一郎編、2018年1月、ちくま文庫刊)である。明治時代に産声を上げて、大正時代に花開き、昭和時代に全盛を迎えた映画というメディアについて、かつて文豪や文士がどんなことを書いていたか。「モンローを川端が語り ヒッチコックを乱歩が論じる シネマに魅せられ、熱く語った作家たち」(帯のコピー)の貴重な記録が51編、収められている。
一読して興味深いのは、映画というメディアに対するスタンスの違いである。これは世代によってかなり変わってきている。極端に言えば、昭和初期までの文豪にとっては、映画などという娯楽は芸術でないのだから、たしなみ程度に書いておけばいいという認識があったように思う。
「しかし映画というものは記憶しないものだ。きょうのだって誰の次に誰が出たという場所はもう記憶していない。映画ってどうして芝居やなんかと違って忘れてしまうのだろうね。細かいところをみんな忘れてしまいましたよ。早いからでしょうね」(1955年)。これは「女優ナナ」(クリスチャン・ジャック監督、1955年、フランス)を見た、1879年生まれの永井荷風の言葉。
「大衆に金を払わせるものは、『芸術』であってはならない。『娯楽』でなければならない。『芸術』というものは、本質は、全く面白くないものである。もし、それがすこしでも面白かったら、それは『芸術』の枠から、はみ出してしまっているのである。『芸術』には、一般大衆に理解させようとする努力が払われる必要はない。それが判る人だけに、提供されるべきものである。映画が、どう考えても『芸術』として成立つわけがない。それをどうして映画人たちは『映画芸術を』とうそぶくのか。阿呆らしい話である」(1966年)。この批判の主は1917年生まれのシバレンこと柴田錬三郎。自作の「眠狂四郎」はずいぶん映画化されているが。
他にも、内田百閒(1889年生まれ)や佐藤春夫(1892年生まれ)は、「映画を見ない、好きではない」とエッセーで公言している。多くの文士たちにとっては「たかが映画」に過ぎなかったのである。ただし、そうではない文豪もいる。谷崎潤一郎(1886年生まれ)は、すでに1921年の日本公開時に「カリガリ博士」(ロベルト・ウィーネ監督、1919年、ドイツ)の芸術性を高く評価していた。
映画を芸術として認め、その表現手段が文学の脅威になると認識していたのは、松本清張(1909年生まれ)であろう。1974年に発表されたエッセー「スリラー映画」の中で、推理小説と映画の違いについてこう書いている。
「小説は何時間も何日間もかかって読むことが出来るが、映画は2時間くらいで終了せざるを得ない。この時間の拘束が、観客に考える余裕を与えない。謎解きを主とした推理小説は、読者が途中で速度をゆるめたり休んだりすることで、謎を考えることが出来るが、映画の観客は絶えず忙しく画面の流動に眼をさらされることを余儀なくされる」。そして「謎解きを主とした推理映画のむつかしさがここにある」と述べ、「それにくらべると、加害者の企みも見せ、被害者の危機も見せるスリラー映画は安心である。そこには思考の負担が少なくなり、行動だけでスリルを描くことが出来る」と、推理小説とは異なるスリラー映画の独自性に賛辞を送るのだ。
かつてサスペンス映画の名匠アルフレッド・ヒッチコックは「本格推理はサスペンスを生まない」という名言を残した。それと通底するものがある。松本清張の小説は数多く映画化、テレビドラマ化されていて、映像メディアとの相性の良さが指摘されるが、その理由の一端を垣間見た気がする。(こや)「たまたま本の話」は「miniたま」に毎号掲載しているコラムです。
「miniたま」は、インターネット古書店「ほんのたまご」とお客様を結ぶ架け橋として、
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斜陽の映画業界を、あなただったらどう改善しますか――と問われ、ある作家はこう答えている。
「ぼくは簡単なことだと思うんだ。お客さんがイージーに見にゆけんようにしたらいい。まず、田舎の映画館を整理することですね。都会でも場末の館は転業させて、一流の映画館だけ残す。そして、観客がフロアに入ってきたときから『これはゴージャスなもんや』と驚くような――いわばホテル・ニュー・オータニ式の雰囲気(笑)を盛り込む。場内では必ずオーヴァーはぬがし、ちゃんとした姿勢で見させる。ちょうど、18世紀の芝居見物と同じようなマナーを要求するわけです」
映画の観客を外食券食堂に並ばせるのでなく、金屏風の前に座らせなくてはならない。そう主張する作家は誰あろう、司馬遼太郎(1923年生まれ)である。「キネマ旬報」1965年3月上旬号の「『映画革命』に関する対話」で、時事通信記者・岡本太郎のインタビューに答えている。小さな町にも1つはあった映画館がなくなり、環境設備の整った都心のシネマコンプレックスで特別料金を払って3D、4D映画を楽しむ。そんな現在の映画鑑賞の姿を、さながら予見しているかのようだ。
1958年に戦後最高の11億2,745万人あった映画観客動員数は、テレビの普及などによって翌年から急激に減り始めた。その7年後、司馬発言のあった1965年は、映画産業の不況が深刻な社会問題となった年である。映画館数で見ると、1960年の7,457館から、1965年は約4割減の4,649館にまで落ち込んでいる。娯楽の王者が衰退していくのを、指をくわえながらただ眺めているだけ。おそらく司馬はそんな状況に我慢できなかったのだろう。
埋もれていたこの対談記事を発掘してくれたのは、先日、刊行された「文豪文士が愛した映画たち 昭和の作家映画論コレクション」(根本隆一郎編、2018年1月、ちくま文庫刊)である。明治時代に産声を上げて、大正時代に花開き、昭和時代に全盛を迎えた映画というメディアについて、かつて文豪や文士がどんなことを書いていたか。「モンローを川端が語り ヒッチコックを乱歩が論じる シネマに魅せられ、熱く語った作家たち」(帯のコピー)の貴重な記録が51編、収められている。
一読して興味深いのは、映画というメディアに対するスタンスの違いである。これは世代によってかなり変わってきている。極端に言えば、昭和初期までの文豪にとっては、映画などという娯楽は芸術でないのだから、たしなみ程度に書いておけばいいという認識があったように思う。
「しかし映画というものは記憶しないものだ。きょうのだって誰の次に誰が出たという場所はもう記憶していない。映画ってどうして芝居やなんかと違って忘れてしまうのだろうね。細かいところをみんな忘れてしまいましたよ。早いからでしょうね」(1955年)。これは「女優ナナ」(クリスチャン・ジャック監督、1955年、フランス)を見た、1879年生まれの永井荷風の言葉。
「大衆に金を払わせるものは、『芸術』であってはならない。『娯楽』でなければならない。『芸術』というものは、本質は、全く面白くないものである。もし、それがすこしでも面白かったら、それは『芸術』の枠から、はみ出してしまっているのである。『芸術』には、一般大衆に理解させようとする努力が払われる必要はない。それが判る人だけに、提供されるべきものである。映画が、どう考えても『芸術』として成立つわけがない。それをどうして映画人たちは『映画芸術を』とうそぶくのか。阿呆らしい話である」(1966年)。この批判の主は1917年生まれのシバレンこと柴田錬三郎。自作の「眠狂四郎」はずいぶん映画化されているが。
他にも、内田百閒(1889年生まれ)や佐藤春夫(1892年生まれ)は、「映画を見ない、好きではない」とエッセーで公言している。多くの文士たちにとっては「たかが映画」に過ぎなかったのである。ただし、そうではない文豪もいる。谷崎潤一郎(1886年生まれ)は、すでに1921年の日本公開時に「カリガリ博士」(ロベルト・ウィーネ監督、1919年、ドイツ)の芸術性を高く評価していた。
映画を芸術として認め、その表現手段が文学の脅威になると認識していたのは、松本清張(1909年生まれ)であろう。1974年に発表されたエッセー「スリラー映画」の中で、推理小説と映画の違いについてこう書いている。
「小説は何時間も何日間もかかって読むことが出来るが、映画は2時間くらいで終了せざるを得ない。この時間の拘束が、観客に考える余裕を与えない。謎解きを主とした推理小説は、読者が途中で速度をゆるめたり休んだりすることで、謎を考えることが出来るが、映画の観客は絶えず忙しく画面の流動に眼をさらされることを余儀なくされる」。そして「謎解きを主とした推理映画のむつかしさがここにある」と述べ、「それにくらべると、加害者の企みも見せ、被害者の危機も見せるスリラー映画は安心である。そこには思考の負担が少なくなり、行動だけでスリルを描くことが出来る」と、推理小説とは異なるスリラー映画の独自性に賛辞を送るのだ。
かつてサスペンス映画の名匠アルフレッド・ヒッチコックは「本格推理はサスペンスを生まない」という名言を残した。それと通底するものがある。松本清張の小説は数多く映画化、テレビドラマ化されていて、映像メディアとの相性の良さが指摘されるが、その理由の一端を垣間見た気がする。(こや)「たまたま本の話」は「miniたま」に毎号掲載しているコラムです。
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田中小実昌の名前は、直木賞、谷崎潤一郎賞受賞作家として、日本文学史にさん然と輝いている。しかし作家というイメージからどことなくかけ離れているのは、そのユニークな風貌や経歴によるものだろう。インターネット資料からプロフィールをまとめてみる。
田中小実昌(たなか・こみまさ)は1925年(大正14年)、東京市千駄ヶ谷生まれ。父・田中種助はバプテストの神学校を出た牧師であった。父の転勤で4歳から広島県呉市東三津田町で育つ。1944年、19歳で出征し、山口県の連隊に入営。中国の湖北省と湖南省の境で、鉄道警備部隊に編入され、苦しい行軍中にアメーバ赤痢、マラリア、コレラに罹る。特徴的なツルツル頭はその後遺症ともいわれる――と資料にはあった。野戦病院に移され、終戦を迎える。呉市に戻り、英語が堪能だったので米軍基地の兵舎のストーブマンなどを務めたあと、1947年、東京大学文学部哲学科に無試験入学するもほとんど出席せず、除籍となる。
ユニークなのはここからで、在学中からストリップ劇場「東京フォーリーズ」での演出助手(後にコメディアンとして出演)や、バーテンダー、啖呵売、易者などの職を渡り歩き、その経験を元に踊り子や客たちとの交流を描いたエッセイを書いて注目された。1950年に進駐軍横田基地で職を得る。1954年より米軍の医学研究所で化学実験の仕事をし、その傍ら、翻訳家として、主にハードボイルド小説を多数、翻訳する。早川書房のカーター・ブラウン作品などはほとんど訳している。文筆活動の出発点が翻訳だったことは押さえておいていい。
小説家としてのキャリアは、1952年「新潮」に「上陸」を発表、1966年に「どうでもいいこと」を「文學界」に発表しているが、本格的に作家活動に入ったのは1967年以降、「オール讀物」「小説現代」などに大衆小説を発表し始めてからである。1971年、「自動巻時計の一日」で直木賞候補。1979年、「ミミのこと」「浪曲師朝日丸の話」の2作品で直木賞を受賞した。
今回、資料で知ったことだが、その2作を雑誌に発表したのは、実は1971年だったという。それが8年後に単行本「香具師の旅」に収録されため、直木賞候補になって受賞に至ったもので、きわめて異例である。同年、戦争体験や父の姿に題材を取った短編集「ポロポロ」(これも表題作は1977年発表)で谷崎潤一郎賞も受賞する。
受賞後も直木賞、谷崎賞作家らしくないユニークな活動ぶりで知られた。「コミさん」の愛称で親しまれ、往年の深夜番組「11PM」を始めとしてテレビドラマ、映画、CMに出演。ピンク映画でカラミを演じたこともある。毛糸で編んだ帽子がトレードマーク。新宿ゴールデン街の常連としても鳴らした。午前中に原稿を書き、午後は映画会社の試写室で映画を見て、夜は家か飲み屋で飲む。週末には、目的もなくバスに乗っていたという。2000年2月、滞在先のアメリカ・ロサンゼルスで肺炎のため客死した。74歳。
牧師の息子で英語が堪能、翻訳や文筆活動の傍ら、大酒を飲み、ストリップ劇場やピンク映画にも出演する。こうしたコミさんの多面的な活動の原動力はどこから来るのだろう。このほど刊行された「田中小実昌ベスト・エッセイ」(大庭萱朗編、2017年12月、ちくま文庫刊)を読むと、その人生哲学の一端が垣間見える。例えばこんな描写がある。戦争末期、行軍中にコミさんの赤痢とマラリアがひどくなり、同じく病気にかかった戦友とともに旅団本部に送り返されるくだりだ(「昭和19年…(抄)」より)。
「新入りの患者のほうが病状はひどくて、ほとんどが板の上に寝かされたまま、息をひきとった。このときぼくの中隊からは、乙幹の軍曹と4年兵の上等兵とぼくの3人がおくられてきたのだが、乙幹の軍曹はついたあくる日に死んだ。死んだ顔は歯をむきだすようにし、そっ歯に、デコレーション・ケーキにつかうフィップ・クリームのようなものがべったりついていた」
戦地だから当然と言えば当然だが、まさに死が周辺にごろごろと転がっている日常。凄まじい描写がさらに続く。
「4年兵の上等兵は、しずかな口をきく、オジさんみたいなひとで(召集兵だったんだろう)これも1週間ほどで死んだ。このひとは栄養失調で顔がだんだん茶っぽいような色になり、死んだときはほんとにほうじ茶みたいな色をしていた。ぼくのとなりにいた初年兵も栄養失調で、便所にいったら、赤い血がすとーんと出ました、なんて軍医に言い、軍医は、へえ、赤い血がすとーんとねえ、とわらっていたが、ある晩、『寒(さぶ)い、寒い……』とほそい悲鳴みたいな声をだすので、せめてぼくの体温であたためてやろうと、抱いて寝たが、朝、目がさめたら、死んでいた。衛生兵がカンフル注射を打ちにきたら、死んでたので、衛生兵は『おい、タナカ、かわりにおまえに打ってやろう』とぼくにカンフル注射を打ってくれた」
死者を見送るコミさん自身も、重いマラリアで苦しんでいるのだから、軍曹や上等兵や初年兵の運命は、まさに明日の自分を見るようであっただろう。この本には戦後の一時代を築いたストリッパーの追悼文も収められている(「ジプシー・ローズをしのぶ」)。初年兵に打つはずだったカンフル注射を打ってもらったことに象徴されるように、自分の人生は無念にも倒れていった死屍累々の隣人たちによって生かされている、という思いがコミさんにはあるのだと思う。文筆活動もストリップとのかかわりも、そのすべてが彼らへの深い鎮魂に満ちている。(こや)
海外文学作品についてのコラム「たまたま本の話」を掲載しています。
「たまたま本の話」は「miniたま」に毎号掲載しているコラムです。
「miniたま」は、インターネット古書店「ほんのたまご」とお客様を結ぶ架け橋として、
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田中小実昌の名前は、直木賞、谷崎潤一郎賞受賞作家として、日本文学史にさん然と輝いている。しかし作家というイメージからどことなくかけ離れているのは、そのユニークな風貌や経歴によるものだろう。インターネット資料からプロフィールをまとめてみる。
田中小実昌(たなか・こみまさ)は1925年(大正14年)、東京市千駄ヶ谷生まれ。父・田中種助はバプテストの神学校を出た牧師であった。父の転勤で4歳から広島県呉市東三津田町で育つ。1944年、19歳で出征し、山口県の連隊に入営。中国の湖北省と湖南省の境で、鉄道警備部隊に編入され、苦しい行軍中にアメーバ赤痢、マラリア、コレラに罹る。特徴的なツルツル頭はその後遺症ともいわれる――と資料にはあった。野戦病院に移され、終戦を迎える。呉市に戻り、英語が堪能だったので米軍基地の兵舎のストーブマンなどを務めたあと、1947年、東京大学文学部哲学科に無試験入学するもほとんど出席せず、除籍となる。
ユニークなのはここからで、在学中からストリップ劇場「東京フォーリーズ」での演出助手(後にコメディアンとして出演)や、バーテンダー、啖呵売、易者などの職を渡り歩き、その経験を元に踊り子や客たちとの交流を描いたエッセイを書いて注目された。1950年に進駐軍横田基地で職を得る。1954年より米軍の医学研究所で化学実験の仕事をし、その傍ら、翻訳家として、主にハードボイルド小説を多数、翻訳する。早川書房のカーター・ブラウン作品などはほとんど訳している。文筆活動の出発点が翻訳だったことは押さえておいていい。
小説家としてのキャリアは、1952年「新潮」に「上陸」を発表、1966年に「どうでもいいこと」を「文學界」に発表しているが、本格的に作家活動に入ったのは1967年以降、「オール讀物」「小説現代」などに大衆小説を発表し始めてからである。1971年、「自動巻時計の一日」で直木賞候補。1979年、「ミミのこと」「浪曲師朝日丸の話」の2作品で直木賞を受賞した。
今回、資料で知ったことだが、その2作を雑誌に発表したのは、実は1971年だったという。それが8年後に単行本「香具師の旅」に収録されため、直木賞候補になって受賞に至ったもので、きわめて異例である。同年、戦争体験や父の姿に題材を取った短編集「ポロポロ」(これも表題作は1977年発表)で谷崎潤一郎賞も受賞する。
受賞後も直木賞、谷崎賞作家らしくないユニークな活動ぶりで知られた。「コミさん」の愛称で親しまれ、往年の深夜番組「11PM」を始めとしてテレビドラマ、映画、CMに出演。ピンク映画でカラミを演じたこともある。毛糸で編んだ帽子がトレードマーク。新宿ゴールデン街の常連としても鳴らした。午前中に原稿を書き、午後は映画会社の試写室で映画を見て、夜は家か飲み屋で飲む。週末には、目的もなくバスに乗っていたという。2000年2月、滞在先のアメリカ・ロサンゼルスで肺炎のため客死した。74歳。
牧師の息子で英語が堪能、翻訳や文筆活動の傍ら、大酒を飲み、ストリップ劇場やピンク映画にも出演する。こうしたコミさんの多面的な活動の原動力はどこから来るのだろう。このほど刊行された「田中小実昌ベスト・エッセイ」(大庭萱朗編、2017年12月、ちくま文庫刊)を読むと、その人生哲学の一端が垣間見える。例えばこんな描写がある。戦争末期、行軍中にコミさんの赤痢とマラリアがひどくなり、同じく病気にかかった戦友とともに旅団本部に送り返されるくだりだ(「昭和19年…(抄)」より)。
「新入りの患者のほうが病状はひどくて、ほとんどが板の上に寝かされたまま、息をひきとった。このときぼくの中隊からは、乙幹の軍曹と4年兵の上等兵とぼくの3人がおくられてきたのだが、乙幹の軍曹はついたあくる日に死んだ。死んだ顔は歯をむきだすようにし、そっ歯に、デコレーション・ケーキにつかうフィップ・クリームのようなものがべったりついていた」
戦地だから当然と言えば当然だが、まさに死が周辺にごろごろと転がっている日常。凄まじい描写がさらに続く。
「4年兵の上等兵は、しずかな口をきく、オジさんみたいなひとで(召集兵だったんだろう)これも1週間ほどで死んだ。このひとは栄養失調で顔がだんだん茶っぽいような色になり、死んだときはほんとにほうじ茶みたいな色をしていた。ぼくのとなりにいた初年兵も栄養失調で、便所にいったら、赤い血がすとーんと出ました、なんて軍医に言い、軍医は、へえ、赤い血がすとーんとねえ、とわらっていたが、ある晩、『寒(さぶ)い、寒い……』とほそい悲鳴みたいな声をだすので、せめてぼくの体温であたためてやろうと、抱いて寝たが、朝、目がさめたら、死んでいた。衛生兵がカンフル注射を打ちにきたら、死んでたので、衛生兵は『おい、タナカ、かわりにおまえに打ってやろう』とぼくにカンフル注射を打ってくれた」
死者を見送るコミさん自身も、重いマラリアで苦しんでいるのだから、軍曹や上等兵や初年兵の運命は、まさに明日の自分を見るようであっただろう。この本には戦後の一時代を築いたストリッパーの追悼文も収められている(「ジプシー・ローズをしのぶ」)。初年兵に打つはずだったカンフル注射を打ってもらったことに象徴されるように、自分の人生は無念にも倒れていった死屍累々の隣人たちによって生かされている、という思いがコミさんにはあるのだと思う。文筆活動もストリップとのかかわりも、そのすべてが彼らへの深い鎮魂に満ちている。(こや)
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年が明ければ平成も30年。新聞によれば、天皇陛下が2019年4月30日に退位、5月1日に皇太子が即位、同時に改元という方向で調整に入っている。平成という時代も風前の灯なのだ。もはや「昭和は遠くなりにけり」である。
そんな折、往年の名作ミステリが復刊されたので取り上げたい。「あるフィルムの背景 ミステリ短篇傑作選」(2017年11月、ちくま文庫刊)。著者は結城昌治(1927-1996)。新刊の帯には「昭和に書かれていた極上イヤミス見つけちゃいました」という惹句が書かれている。ミステリ評論家の日下三蔵の編集による1冊だが、これがとてつもなく面白い。スマートフォンもGPS機能もなかった昭和という時代を考えるためには、最良のテキストといえる。
1972(昭和47)年6月に角川文庫から結城昌治の短編集が刊行された。著者自らが選んだサスペンス系列の短編8編を収めた「あるフィルムの背景」である。刊行当時、質の高さで話題になったものだが、今回のちくま文庫版はその短編集を丸ごと収録している。それだけではない。ブラックユーモア系列の短編5編が増補され、合わせて13編を収めた垂涎の1冊に仕上がっている。これはまぎれもなくザ・ベスト・オブ結城昌治であろう。
タイトルと執筆時期を見てみよう。掲載誌名は省くが、サスペンス系列8編が「惨事」1963年12月、「蝮の家」1961年4月、「孤独なカラス」1964年2月、「老後」1966年1月、「私に触らないで」1964年9月、「みにくいアヒル」1965年3月、「女の檻」1966年10月、「あるフィルムの背景」1963年2月。ブラックユーモア系列5編が「絶対反対」1962年1月、「うまい話」1960年8月、「雪山讃歌」1962年1月、「葬式紳士」1961年9月、「温情判事」1960年11月。
見事なまでに、1960年代の前半から中盤(昭和35~41年)にかけて書かれた作品ばかりである。当時がどんな時代だったかといえば、1960年の安保闘争と1964年の東京オリンピックを経て、1970年の大阪万国博覧会を見据えた時期に当たる。日本の高度経済成長期は、1956年に経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言したことに始まる。1955年から1973年の18年間は、年平均10%以上の経済成長を達成した。結城がこれらの秀作短編を矢継ぎ早に発表した時期は、まさに日本が高度経済成長と国際化の波に乗っていた時代だったのである。
その時代にミステリ短編を書くとはどういうことを意味するか。高度経済成長の波に乗って順調に人生を送っている人物を描くのではドラマにならない。当然、登場するのは社会から弾き飛ばされた人間ばかりだ。以下、作品の内容に触れるので未読の方はご注意を。
「惨事」では、定時制高校に通いながら地元の信用金庫に勤めている少女が、花火大会で強姦されたことによって人生が変転していくさまが描かれている。やがてバスガイドとなった彼女は、乗客の中に自分を強姦した男がいるのを知って、バスを谷底に転落させてしまう。いかに多くの中卒就労者が、高度経済成長を陰で支えていたかを暗示させる物悲しい話である。「孤独なカラス」は、「カラス」と呼ばれ友だちもいない少年の周囲で起きる変死事件の話。統合失調症や多重人格を取り上げたごく初期の小説という趣きもあり、かつて筒井康隆が編んだ伝説の恐怖小説アンソロジー「異形の白昼」(1969年11月、立風書房刊)にも収録された。「みにくいアヒル」は、幼いころから容姿をからかわれてきた女性が、男に襲われそうになって相手を殺してしまう。しかし自分を襲おうとした男がいたことで皮肉にも積年のコンプレックスが解消されるという話である。歯科医(「私に触らないで」)や医大講師夫人(「蝮の家」)、検事(「あるフィルムの背景」)や判事(「温情判事」)といったエリート街道を歩んでいる人物が登場する作品であっても、彼らはちょっとした金に目がくらんだために、あるいは妻を殺された復讐のために、ふとしたはずみで人生を踏み外す。
結城昌治は1927年に東京の品川に生まれている。旧制高等学校受験に失敗したのを機に、海軍特別幹部練習生を志願。終戦直前の1945年5月に武山海兵団に入団するも、身体再検査の結果、すぐに帰郷を命ぜられる。帰宅の晩に空襲で自宅が焼失したため、敗戦まで栃木県那須に疎開したという。戦後の1946年、早稲田専門学校法律科に入学。1948年に東京地方検察庁に事務官として就職するが、就職後1年足らずで肺結核になり、国立東京療養所に入院、1951年まで療養生活を送った。その後も1959年には胃から吐血し、1か月ほど虎の門病院に入院している。つまり戦中、戦後それぞれの局面でエリート街道を歩み出したとたんに、病気や空襲によってつまずくという憂き目にあっている。使い古された言葉だが「人生は一寸先が闇」という言葉を、結城はまさしく自分の生き方において実感したのではないか。
しかし運命は分からない。肺結核で入院中に知り合った作家の福永武彦に薦められ、海外の推理小説を読み始めたのがきっかけとなって、1959年の作家デビューにつながっていく。デビュー作は「エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン」日本版の第1回短編コンテストに応募した「寒中水泳」で、同誌の7月号に掲載された。1960年には東京地方検察庁を退職して作家専業となる。その後の活躍はご存じの通り。作品のジャンルはミステリだけでなく多岐にわたり、1970年には戦時中の軍部の裏面を描いた「軍旗はためく下に」で第63回直木賞を受賞している。人生は一寸先に光もあった。(こや)
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そんな折、往年の名作ミステリが復刊されたので取り上げたい。「あるフィルムの背景 ミステリ短篇傑作選」(2017年11月、ちくま文庫刊)。著者は結城昌治(1927-1996)。新刊の帯には「昭和に書かれていた極上イヤミス見つけちゃいました」という惹句が書かれている。ミステリ評論家の日下三蔵の編集による1冊だが、これがとてつもなく面白い。スマートフォンもGPS機能もなかった昭和という時代を考えるためには、最良のテキストといえる。
1972(昭和47)年6月に角川文庫から結城昌治の短編集が刊行された。著者自らが選んだサスペンス系列の短編8編を収めた「あるフィルムの背景」である。刊行当時、質の高さで話題になったものだが、今回のちくま文庫版はその短編集を丸ごと収録している。それだけではない。ブラックユーモア系列の短編5編が増補され、合わせて13編を収めた垂涎の1冊に仕上がっている。これはまぎれもなくザ・ベスト・オブ結城昌治であろう。
タイトルと執筆時期を見てみよう。掲載誌名は省くが、サスペンス系列8編が「惨事」1963年12月、「蝮の家」1961年4月、「孤独なカラス」1964年2月、「老後」1966年1月、「私に触らないで」1964年9月、「みにくいアヒル」1965年3月、「女の檻」1966年10月、「あるフィルムの背景」1963年2月。ブラックユーモア系列5編が「絶対反対」1962年1月、「うまい話」1960年8月、「雪山讃歌」1962年1月、「葬式紳士」1961年9月、「温情判事」1960年11月。
見事なまでに、1960年代の前半から中盤(昭和35~41年)にかけて書かれた作品ばかりである。当時がどんな時代だったかといえば、1960年の安保闘争と1964年の東京オリンピックを経て、1970年の大阪万国博覧会を見据えた時期に当たる。日本の高度経済成長期は、1956年に経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言したことに始まる。1955年から1973年の18年間は、年平均10%以上の経済成長を達成した。結城がこれらの秀作短編を矢継ぎ早に発表した時期は、まさに日本が高度経済成長と国際化の波に乗っていた時代だったのである。
その時代にミステリ短編を書くとはどういうことを意味するか。高度経済成長の波に乗って順調に人生を送っている人物を描くのではドラマにならない。当然、登場するのは社会から弾き飛ばされた人間ばかりだ。以下、作品の内容に触れるので未読の方はご注意を。
「惨事」では、定時制高校に通いながら地元の信用金庫に勤めている少女が、花火大会で強姦されたことによって人生が変転していくさまが描かれている。やがてバスガイドとなった彼女は、乗客の中に自分を強姦した男がいるのを知って、バスを谷底に転落させてしまう。いかに多くの中卒就労者が、高度経済成長を陰で支えていたかを暗示させる物悲しい話である。「孤独なカラス」は、「カラス」と呼ばれ友だちもいない少年の周囲で起きる変死事件の話。統合失調症や多重人格を取り上げたごく初期の小説という趣きもあり、かつて筒井康隆が編んだ伝説の恐怖小説アンソロジー「異形の白昼」(1969年11月、立風書房刊)にも収録された。「みにくいアヒル」は、幼いころから容姿をからかわれてきた女性が、男に襲われそうになって相手を殺してしまう。しかし自分を襲おうとした男がいたことで皮肉にも積年のコンプレックスが解消されるという話である。歯科医(「私に触らないで」)や医大講師夫人(「蝮の家」)、検事(「あるフィルムの背景」)や判事(「温情判事」)といったエリート街道を歩んでいる人物が登場する作品であっても、彼らはちょっとした金に目がくらんだために、あるいは妻を殺された復讐のために、ふとしたはずみで人生を踏み外す。
結城昌治は1927年に東京の品川に生まれている。旧制高等学校受験に失敗したのを機に、海軍特別幹部練習生を志願。終戦直前の1945年5月に武山海兵団に入団するも、身体再検査の結果、すぐに帰郷を命ぜられる。帰宅の晩に空襲で自宅が焼失したため、敗戦まで栃木県那須に疎開したという。戦後の1946年、早稲田専門学校法律科に入学。1948年に東京地方検察庁に事務官として就職するが、就職後1年足らずで肺結核になり、国立東京療養所に入院、1951年まで療養生活を送った。その後も1959年には胃から吐血し、1か月ほど虎の門病院に入院している。つまり戦中、戦後それぞれの局面でエリート街道を歩み出したとたんに、病気や空襲によってつまずくという憂き目にあっている。使い古された言葉だが「人生は一寸先が闇」という言葉を、結城はまさしく自分の生き方において実感したのではないか。
しかし運命は分からない。肺結核で入院中に知り合った作家の福永武彦に薦められ、海外の推理小説を読み始めたのがきっかけとなって、1959年の作家デビューにつながっていく。デビュー作は「エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン」日本版の第1回短編コンテストに応募した「寒中水泳」で、同誌の7月号に掲載された。1960年には東京地方検察庁を退職して作家専業となる。その後の活躍はご存じの通り。作品のジャンルはミステリだけでなく多岐にわたり、1970年には戦時中の軍部の裏面を描いた「軍旗はためく下に」で第63回直木賞を受賞している。人生は一寸先に光もあった。(こや)
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周知のように、2017年のノーベル文学賞はカズオ・イシグロが受賞した。彼は1954年、日本の長崎市に生まれ、5歳の時に父親がイギリスの研究所に赴任するのに伴い、渡英した。1983年には英国籍を取得しているから、今回の賞はイギリス在住の英国人が受けたということになる。
しかしながら新聞やテレビなどのメディアは、あたかも日本人が受賞したかのように報じた。イシグロは受賞後にロンドンで受けたインタビューで、川端康成、大江健三郎に続く3人目の日本出身作家としての受賞について聞かれ、「同じ歩みの中にいられることに感謝したい」と語った。となれば当然、日本の新聞は「川端、大江に続き」といった見出しで記事を載せる。そんな報道が続く中、ちょっと注目すべき3つの記事があったので紹介したい。
1つ目は、「イシグロさんが石黒さんではない不幸」という記事。夕刊紙の日刊ゲンダイ10月12日号(11日発行)に掲載された。記事は、イシグロは「国籍上は日本人ではない」と指摘するところから始まる。「日本の国籍法は、11条で『日本国民は、自己の志望によって外国の国籍を取得した時点で日本の国籍を失う』と定めている。イシグロさんは、英国の国籍を取得した時点で石黒さんではなくなったのだ。もしも日本が二重国籍を認めていれば、イシグロさんは石黒さんでもあった。だれにはばかることなく“日本人として3人目の快挙”となったし、今以上に盛り上がったのではないか」と述べている。
出版の面でいえば、十分に盛り上がっている。イシグロの著作8作品の邦訳版を出版する早川書房では、今回の受賞が決まってから、8作合わせて105万5000部を増刷した。レジ脇に「カズオ・イシグロ著作コーナー」を特設した大手書店もある。10月30日付のオリコン週間“本”ランキング文庫部門では、第1位「日の名残り」(2001年5月刊)、第2位「わたしを離さないで」(2008年8月刊)、第3位「忘れられた巨人」(2017年10月刊)と売れ行きトップ3をイシグロ作品が独占。「遠い山なみの光」も第6位に入る快挙を見せている。ノーベル賞を受賞した海外作家の本が、例年こんなに売れることはない。極めて異例なこの現象は、明らかに「日本出身作家がノーベル文学賞」というトーンの報道に、多くの人が興味を引かれたからだろう。
注目記事の2つ目は、「ノーベル文学賞 カズオ・イシグロ氏 文化勲章に選ばれなかったわけ」というもので、やはり日刊ゲンダイ2017年10月27日号(26日発行)に掲載された。ノーベル賞の受賞が決定した日本人はだいたいその年に文化勲章を贈られるが、イシグロは今回、選ばれなかった。それは過去に故・佐藤栄作元首相(1974年平和賞)と作家の大江健三郎(1994年文学賞)の2例しかない(大江は受章辞退)という。
ちなみに文化勲章は日本国籍でなくとも受章できる。「米NY生まれの日本文学研究者ドナルド・キーン氏は、日本国籍を取得する前の2008年度に受章」しているし、「キーン氏のほかにも、ノーベル賞受賞者でいえば、米国籍の故・南部陽一郎氏(2008年物理学賞)や、中村修二氏(2014年物理学賞)が文化勲章を受章しているから、イシグロ氏が受章したって、おかしいというわけでもなさそうだ」と日刊ゲンダイは書いている。ただし、記事の結論は文科省の番記者のこんな談話で締められている――「文化勲章は日本人、もしくはキーン氏のように外国籍でも日本における功績があった人に贈られるものです。5歳で渡英し、英語で書いているイシグロ氏は、いずれにも当てはまらない。それだけのことでしょう」。
しかし、イシグロの処女長編「遠い山なみの光」(1982年、英国王立文学協会賞受賞)は英国に住む日本人女性が主人公だし、2作目の「浮世の画家」(1986年)は戦後すぐの日本が舞台となっている。日本についての著作で作家としてのスタートを切ったイシグロに、「日本における功績」がなかったと言えるだろうか。そんな疑問に対してヒントを与えてくれたのが、注目記事の3つ目、「英語圏育ちのイシグロ氏」という読売新聞2017年10月29日付首都圏版朝刊のコラムだった。日本文学研究者のマイケル・エメリックが、同紙に連載しているコラム「カリフォルニアで日本文学を読む」の中で、「浮世の画家」を読んで複雑な気持ちを抱いたと書いている。
「この小説は1948年の日本が舞台だが、作者が日本のことをあまり知らず、また知ろうとしていない感を受けた。例えば、町の公園には大正天皇の像が立っているとある。日本には近代の象徴としての明治天皇の銅像しか存在しない」「登場人物のしゃべり方も当時の英語圏のテレビや映画などで日本人がしゃべる、奇妙な翻訳調の言葉を想起させる」と指摘したエメリックは、「つまり『浮世の画家』は海外の人間が描いたエキゾチックなファンタジー小説として読まれるべきなのだ」「日本がイシグロ氏の想像の外に存在してきたように、イシグロ氏も日本の外、英語文学の土壌で育った作家であるのだから」と結論づける。そして「イシグロ氏にどこか日本のルーツを想像し、作品を読む」のは誤読につながる危険がある――と警鐘を鳴らす。
今回、イシグロがノーベル文学賞を受賞したのは、もちろん英語圏の作家や批評家が評価したからであるが、その肝心の英語圏やフランス、ドイツの新聞は、彼を単に「英国作家」として紹介していたという。イシグロをやたらに日本や長崎に引き付けて報道していた日本の新聞とは、明らかにトーンが違っていたことを付記しておきたい。(こや)
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周知のように、2017年のノーベル文学賞はカズオ・イシグロが受賞した。彼は1954年、日本の長崎市に生まれ、5歳の時に父親がイギリスの研究所に赴任するのに伴い、渡英した。1983年には英国籍を取得しているから、今回の賞はイギリス在住の英国人が受けたということになる。
しかしながら新聞やテレビなどのメディアは、あたかも日本人が受賞したかのように報じた。イシグロは受賞後にロンドンで受けたインタビューで、川端康成、大江健三郎に続く3人目の日本出身作家としての受賞について聞かれ、「同じ歩みの中にいられることに感謝したい」と語った。となれば当然、日本の新聞は「川端、大江に続き」といった見出しで記事を載せる。そんな報道が続く中、ちょっと注目すべき3つの記事があったので紹介したい。
1つ目は、「イシグロさんが石黒さんではない不幸」という記事。夕刊紙の日刊ゲンダイ10月12日号(11日発行)に掲載された。記事は、イシグロは「国籍上は日本人ではない」と指摘するところから始まる。「日本の国籍法は、11条で『日本国民は、自己の志望によって外国の国籍を取得した時点で日本の国籍を失う』と定めている。イシグロさんは、英国の国籍を取得した時点で石黒さんではなくなったのだ。もしも日本が二重国籍を認めていれば、イシグロさんは石黒さんでもあった。だれにはばかることなく“日本人として3人目の快挙”となったし、今以上に盛り上がったのではないか」と述べている。
出版の面でいえば、十分に盛り上がっている。イシグロの著作8作品の邦訳版を出版する早川書房では、今回の受賞が決まってから、8作合わせて105万5000部を増刷した。レジ脇に「カズオ・イシグロ著作コーナー」を特設した大手書店もある。10月30日付のオリコン週間“本”ランキング文庫部門では、第1位「日の名残り」(2001年5月刊)、第2位「わたしを離さないで」(2008年8月刊)、第3位「忘れられた巨人」(2017年10月刊)と売れ行きトップ3をイシグロ作品が独占。「遠い山なみの光」も第6位に入る快挙を見せている。ノーベル賞を受賞した海外作家の本が、例年こんなに売れることはない。極めて異例なこの現象は、明らかに「日本出身作家がノーベル文学賞」というトーンの報道に、多くの人が興味を引かれたからだろう。
注目記事の2つ目は、「ノーベル文学賞 カズオ・イシグロ氏 文化勲章に選ばれなかったわけ」というもので、やはり日刊ゲンダイ2017年10月27日号(26日発行)に掲載された。ノーベル賞の受賞が決定した日本人はだいたいその年に文化勲章を贈られるが、イシグロは今回、選ばれなかった。それは過去に故・佐藤栄作元首相(1974年平和賞)と作家の大江健三郎(1994年文学賞)の2例しかない(大江は受章辞退)という。
ちなみに文化勲章は日本国籍でなくとも受章できる。「米NY生まれの日本文学研究者ドナルド・キーン氏は、日本国籍を取得する前の2008年度に受章」しているし、「キーン氏のほかにも、ノーベル賞受賞者でいえば、米国籍の故・南部陽一郎氏(2008年物理学賞)や、中村修二氏(2014年物理学賞)が文化勲章を受章しているから、イシグロ氏が受章したって、おかしいというわけでもなさそうだ」と日刊ゲンダイは書いている。ただし、記事の結論は文科省の番記者のこんな談話で締められている――「文化勲章は日本人、もしくはキーン氏のように外国籍でも日本における功績があった人に贈られるものです。5歳で渡英し、英語で書いているイシグロ氏は、いずれにも当てはまらない。それだけのことでしょう」。
しかし、イシグロの処女長編「遠い山なみの光」(1982年、英国王立文学協会賞受賞)は英国に住む日本人女性が主人公だし、2作目の「浮世の画家」(1986年)は戦後すぐの日本が舞台となっている。日本についての著作で作家としてのスタートを切ったイシグロに、「日本における功績」がなかったと言えるだろうか。そんな疑問に対してヒントを与えてくれたのが、注目記事の3つ目、「英語圏育ちのイシグロ氏」という読売新聞2017年10月29日付首都圏版朝刊のコラムだった。日本文学研究者のマイケル・エメリックが、同紙に連載しているコラム「カリフォルニアで日本文学を読む」の中で、「浮世の画家」を読んで複雑な気持ちを抱いたと書いている。
「この小説は1948年の日本が舞台だが、作者が日本のことをあまり知らず、また知ろうとしていない感を受けた。例えば、町の公園には大正天皇の像が立っているとある。日本には近代の象徴としての明治天皇の銅像しか存在しない」「登場人物のしゃべり方も当時の英語圏のテレビや映画などで日本人がしゃべる、奇妙な翻訳調の言葉を想起させる」と指摘したエメリックは、「つまり『浮世の画家』は海外の人間が描いたエキゾチックなファンタジー小説として読まれるべきなのだ」「日本がイシグロ氏の想像の外に存在してきたように、イシグロ氏も日本の外、英語文学の土壌で育った作家であるのだから」と結論づける。そして「イシグロ氏にどこか日本のルーツを想像し、作品を読む」のは誤読につながる危険がある――と警鐘を鳴らす。
今回、イシグロがノーベル文学賞を受賞したのは、もちろん英語圏の作家や批評家が評価したからであるが、その肝心の英語圏やフランス、ドイツの新聞は、彼を単に「英国作家」として紹介していたという。イシグロをやたらに日本や長崎に引き付けて報道していた日本の新聞とは、明らかにトーンが違っていたことを付記しておきたい。(こや)
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