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江戸川乱歩が書いたジュニアミステリー「少年探偵シリーズ」は、かつて1億人のベストセラーと呼ばれた。1964年、ポプラ社から刊行が始まった同シリーズはロングセラーとなり、世代を超えて、多くの子供たちが心躍らせながら読みふけったものである。
例えば第1作の「怪人二十面相」。まさに手に汗にぎる、次のようなシーンを鮮明に覚えている。引用は、ポプラ社版を文庫化したポプラ文庫クラシック版「怪人二十面相」(2008年11月刊)から。
「先生はいま、ある重大な事件のために、外国へ出張中ですから、いつお帰りともわかりません。しかし、先生の代理をつとめている小林という助手がおりますから、その人でよければ、すぐおうかがいいたします」(怪人二十面相から脅迫状を受け取った資産家が、明智小五郎探偵に電話で警護を依頼する場面。助手の小林芳雄少年が応対する)
「探偵の仕事には、通信機関が何よりもたいせつです。そのためには、警察にはラジオをそなえた自動車がありますけれど、ざんねんながら私立探偵にはそういうものがないのです。もし洋服の下へかくせるような小型ラジオ発信器があればいちばんいいのですが、そんなものは手に入らないものですから、小林少年は伝書バトという、おもしろい手段を考えついたのでした」
「窓の外、広っぱのはるか向こうに、東京にたった一ヵ所しかない、きわだって特徴のある建物が見えたのです。東京の読者諸君は、戸山ヶ原にある、大人国のかまぼこをいくつもならべたような、コンクリートの大きな建物をごぞんじでしょう」(ともに、地下室に捕らえられた小林少年が脱出のために策を練る場面)
明智探偵と怪人二十面相の知恵比べもスリリングであるが、読むこちら側が当時は少年だったから、とくに小林少年の活躍には素直に感情移入できた。
その「怪人二十面相」がこのたび岩波文庫に入った。懐かしさに駆られ、一読してみて驚いた。ポプラ文庫クラシック版と細部が違うのである。前記の部分が、岩波文庫版ではこうなっている。以下、「怪人二十面相・青銅の魔人」(2017年9月刊)からそれぞれ引用する。
「先生は今、満洲国政府の依頼を受けて、新京へ出張中ですから、いつお帰りとも分かりません」
「探偵の仕事には、戦争と同じように、通信機関が何よりも大切です。軍隊には無線電信隊がありますし、警察にはラジオ自動車がありますけれど、私立探偵にはそういうものがないのです」
「窓の外、広っぱの遥か向こうに、東京にたった一箇所しかない、際立って特徴のある建物が見えたのです。東京の読者諸君は、戸山ケ原にある、陸軍の射撃場を御存じでしょう。あの大人国の蒲鉾を並べたような、コンクリートの大射撃場です」
今回、岩波文庫版が底本としたのは、大日本雄弁会講談社版の「怪人二十面相」である。解説で吉田司雄がこう書いている――「『怪人二十面相』は江戸川乱歩が少年向けに書いた長編小説の第1作で、大日本雄弁会講談社発行の月刊誌『少年倶楽部』に昭和11年(1936)1月号から12月号まで掲載(7月号休載)ののち、加筆修正が行われ同年12月に大日本雄弁会講談社より刊行された」。
これに対して、ポプラ社版が底本としていたのは、戦後に光文社「痛快文庫」の1冊として刊行された「怪人二十面相」である。これは昭和22年(1947)6月に出版されている。その後、少年探偵団シリーズは光文社の雑誌「少年」で連載が再開され、旧作、新作含めて同社から順次、刊行されていくことになる。つまりポプラ社版のシリーズは光文社版を踏襲している。
1936年の大日本雄弁会講談社版(岩波文庫版)にあって、1947年の光文社版(ポプラ社版)から消えている言葉を拾い出してみよう。「満洲国政府」「新京」「戦争」「軍隊」「無線電信隊」「陸軍」「大射撃場」など。戦前、戦中の日本にはあって、敗戦後はきれいになくなった言葉ばかりだ。言葉が消えれば、言葉の持つ本来の意味も消える。つまり戦前版の「怪人二十面相」に流れていた軍国主義の空気が、戦後版では見事に排除されたということである。
昭和11年の日本において、怪人二十面相なる大敵と戦う明智という構図は何を意味していたか。言うまでもなく、欧米列強の連合軍と戦う日本の象徴であろう。怪人二十面相が奪おうとする宝石や美術品は、大東亜共栄圏を意味していると考えられる。とすれば、明智の助手の小林少年は少国民ではなかったか。
少国民とは銃後に位置する子供を指した語で、年少の皇国民のことである。重苦しい時代の雰囲気に満ちた小説であり、しかもこれが少年向けに書かれていることは今から思えばかなり危ない。ジュニアミステリーの衣をまとってはいても、小林少年にあこがれた子供たちが、将来は兵隊さんになってお国の役に立つ――そのことの素晴らしさをうたっているのだから。
戦後の改変が乱歩自身によるものなのか、出版社が乱歩の許可を得て行ったものなのかは判然としない。しかし昭和22年という戦後民主主義到来の時代を考えれば当然の処置であっただろう。今は平成29年。かつて少年の頃、ポプラ社版で少年探偵団シリーズに出会ったという人たちも50歳代から60歳代になっている。歳月の流れを感じざるを得ない。(こや)
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ロード・ダンセイニもしくはダンセイニ卿(Lord Dunsany、1878年7月24日 - 1957年10月25日)については、以前もこのコラムで書いたことがある(2013年5月)。そのとき取り上げた「2壜の調味料」について今回、再び書く。作品の内容に触れるので未読の方はご注意を。
物語は周知のように、イングランド南西部にあるノース・ダウンズの家で、スティーガーという男と同棲していた娘が失踪する。スコットランド・ヤードがずっと男の家の周囲を監視しているが、失踪した娘の行方は全く分からない。「スティーガーは娘の遺体を焼いていない」「庭に埋めてもいない」「娘が失踪してから一歩も庭の外に出ていない」「肉料理だけに使用する調味料ナムヌモを2壜、購入した」「庭に植わっている10本のカラマツの木を1本ずつ切り倒して薪にしていった」などの状況証拠をつかむが、肝心の娘の消息は謎のままである。殺人の証拠が見つからず、頭を悩ませるスコットランド・ヤードに対して、素人探偵のリンリーが突きつけた結論は次のようなものだった――「スティーガーが、殺した娘に調味料ナムヌモをかけて食べてしまった」。
ただし本文にはっきり書かれているわけではない。殺人の描写もなければ、人肉を食べる描写もないので、実を言えば真相は藪の中である。リンリーの結論は単に推測の域を出ない。にもかかわらず、この作品が名作とされるのは、結末の一節があまりにも見事だからである。「しかしなぜあの男は木を切り倒したのでしょうか」と首をひねるスコットランド・ヤードの警部に、リンリーはこう答えるのだ――「ひとえに食欲をつけるためです」。この一言が効いているがゆえに、ふと頭をよぎったはずの疑問もすべて忘れ去られてしまう。
疑問とは他でもない。娘の骨は一体どうしたのか?――ということである。人肉は食べても、さすがに骨までは食べないだろう。排水管から遺体の痕跡が発見されず、家の煙突から遺体を焼いた匂いが確認されなかったのだから、娘の骨は家の中に隠してあるのか? しかし警察が踏み込めば、骨はたやすく発見される。そうすれば逮捕は免れない。それでも男は、殺人の証拠を隠そうとして、娘の肉を必死に食べるだろうか。ミステリの証拠隠滅としては、いささか常軌を逸している。ということは「2壜の調味料」の遺体を食べる行為は、あくまで証拠隠滅のトリックではあるが、同時に何か他のものの象徴になっているのではないか。
ダンセイニという作家はどんな人物だったのか。アイルランドの小説家、劇作家であり、軍人でもあったが、デンマーク系旧家の貴族の出身である。だから名前に「卿」(ロード)がつく。作家としては、主に「影の谷物語」「エルフランドの王女」「魔法使いの弟子」などファンタジーの分野で大きな足跡を残した。つまりは幻想文学の書き手なのである。何しろ彼の代表作「ベガーナの神々」は、ケルト神話に基づいた多神教の物語なのだから。ミステリの執筆などは余技も余技であった。
ベガーナは「Pagan」からの造語。Paganには異教徒の意味があるが、これは一神教のキリスト教から見て多神教は異教徒ということだ。ダンセイニの生まれたアイルランドは、現在でこそローマ・カトリックが主流を占めるが、もともとはケルトという多神教が優勢だった土地である。その土地でダンセイニは、いわば多神教の創世記である「ベガーナの神々」を書いた。一神教と多神教の考察こそが彼のテーマだったのだろう。とすれば、ミステリとして書かれた「2壜の調味料」にも、その宗教理念が流れているのではないか。
人間が人間の肉を食べることをカニバリズム(食人嗜好)という。スティーガーが「娘はどこに行ったか」と聞かれて、「南アメリカ」と答えている(後に「南アフリカ」と言い直した)ことは興味深い。なぜならカニバリズムはスペイン語の「Canibal(カニバル)」に由来する言葉で、「Canib-」はカリブ族のことを指している。16世紀のスペイン人航海士たちの間では、西インド諸島(つまり南北アメリカの間)に住むカリブ族が人肉を食べると信じられていた。そのためカニバリズムという言葉には「西洋キリスト教の倫理観から外れた、蛮族による食人の風習」の意味合いが強い。
ここで南アメリカを持ち出してくるスティーガーを、20世紀イングランドのノース・ダウンズに現れたカニバリストだとすれば、彼は西洋のキリスト教的倫理観に挑戦状を突き付けた蛮族となるだろう。しかしながら、聖餐という概念がキリスト教にあることを忘れてはならない。イエス=キリストは、最後の晩餐でパンとぶどう酒を弟子たちに与えて「パンは私の肉であり、ぶどう酒は私の血である」と語ったという。それにちなんでパンとぶどう酒を会衆に分け与えるキリスト教の儀式――それを聖餐と呼ぶ。聖餐はかつてカニバリズムと結びついていて、生け贄になる者は神の化身として殺されるばかりでなく、その肉を食べられ、血を飲まれることによって、自分を食べた者と同一化する。それは食べた者も食べられた者も神のからだになることであり、神の聖なるからだが再生するときに、共に復活することができる。
「2壜の調味料」が聖餐の物語だとすれば、食べられてしまった娘は、スティーガーの中で同一化し、やがて神のからだとなって再生するであろう。キリストの言葉が自分の肉と血にしか言及していないのに倣うかのように、骨は除外されている。スティーガーはパンのつもりで娘の肉を食べ、ぶどう酒のつもりで娘の血とナムヌモを飲んだのである。「2壜の調味料」は、ミステリの意匠をこらした死と復活の物語なのではないか。(こや)
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きわめて奇妙な話を読んだので紹介したい。長い年月にわたり、判で押したようにオフィスを出ては同じ道を通って家に帰って行った男(わたし)が、ある日どういう体験をしたかという物語である。
「40年にわたり、わたしは判で押したように右手に雨傘、左手にかばんを持って、レドンホール・ストリートにあるオフィスを午後5時半に出ました。40年と2か月と4日にわたり、横手のドアから出て、街路の左側を歩き、最初の角を左へ曲がり、3番目の角を右に曲がり、ここで夕刊を買ってから、道路の右側を道なりに進み、ゆるやかな曲がり角をふたつまわりこむと、メトロポリタンの駅のすぐ外側に出ますから、ここで帰りの汽車に乗りました。40年と2か月と4日にわたり、この順路を歩くのが、長年の習慣になっていました」
しかし40年と2か月と5日目を迎えたとき、「わたし」の身に異変が起きる。歩き慣れたはずの街路を歩いていると、なぜか息が切れて疲れて来たのだ。最初は体調不良かと思ったが、そうではなかった。いつもより道路の傾斜が急激になっていたのである。街路はいまや険しい斜面となって「わたし」の前にそそり立っていた。
この奇妙な話を書いたのは、誰あろうギルバート・キース・チェスタトン。「ブラウン神父」シリーズで有名な論客である。この春、出版されたアンソロジー「12の奇妙な物語 夜の夢見の川」(シオドア・スタージョン、G・K・チェスタトン他、中村融編、2017年4月、創元推理文庫刊)に、編者・中村の新訳で収められている。タイトルは「怒りの歩道――悪夢」。引用は同書に依った。作品の内容に触れるので未読の方はご注意を。
話は続く。「わたし」は街路で1人の男に出会う。男は「この街路は普段あなたが通っている街路だが、今このときは天国へ通じている」「野のけものや、馬や、犬は、自分の仕事以上のことをさせられ、それでいて、それにふさわしい名誉にあずからなかったら長くは耐えられません」などと不思議なことを語る。「道路だって同じことです。あなたはこの街路を死ぬまで働かせた。それなのに、それが存在することを記憶していなかった。もし健全な民主主義の持ち主であれば、たとえ異教のものであっても、この街路に花綵(はなづな)を垂らし、神さまの名前をつけたことでしょう。そうすれば、この街路はおだやかに世を去ったでしょう。しかし、この街路はあなたの不断の横暴にとうとう愛想をつかしたのです。そして跳ねあがり、天国に向けて頭を起こしているのです」と。
街路がレジスタンスを起こして斜面になってしまう――という展開には驚くが、それに続く結論にはさらに驚かされる。「街路というものは、行かなければならない場所へ行くものです」「来る日も来る日も、来る年も来る年も、それはオールドゲイト駅へ通じていました」と、当然のように反論する「わたし」に対して、男はこう諭すのだ。「道路があなたのことをどう考えていると思うんです? 道路はあなたを生きものだと考えるでしょうか? あなたは生きていますか? 来る日も来る日も、来る年も来る年も、オールドゲイト駅へ行き……」。その日以来、「わたし」は無生物というものに敬意を払うようになった。物語はここで幕を閉じる。
さて――この奇妙な話の教訓は何か? 無生物と生物には垣根がないという警句か。判で押したような日常を送る人間と街路とは何ら変わらないという逆説か。チェスタトンという作家の持っている資質から考えると、単に「無生物をけなげに扱ってはいけません」という教訓話を書いたとは思えないのだ。いろいろな見解があるだろうが、ひとつの見方を示したい。
1874年、ロンドン西部ケンジントンの不動産業、土地測量業者の家に生まれたチェスタトンは、やがてイングランド国教会の教義に引かれていく。イングランド国教会は、反カトリックのプロテスタントに見なされることが多い(異論もある)。そもそもカトリックから分派したプロテスタントには、その名前に「カトリックに抗議する」意味も込められている。ところが、かのチェスタトンは1922年、信頼できる神父の手によってイングランド国教会からカトリックに改宗してしまうのである。インターネット資料にはそう書かれている。
彼が「怒りの歩道――悪夢」をデイリー・ニュースに書いたのは1908年だから、まだ「ブラウン神父」シリーズも書かれていない時期である(第1短編集「ブラウン神父の童心」は1911年に刊行)。この頃からチェスタトンは、カトリックとプロテスタントの教義の間で、自らがどちらの道を歩むべきか、揺れ動いていたのではないか。
よく言われることだが、カトリックによる権威の順は神・教会・聖書・信者というもの。教会こそが神の恵みを取り次ぐ者であるから、聖書の上位に来る。それに対してプロテスタントは神・聖書・教会(信者の集まり)の順になる。聖書は神の言葉だから権威があり、それに基づいて教会が形成されるという考え方である。
チェスタトンの「怒りの歩道――悪夢」に通じるものがあるではないか。つまりカトリックとプロテスタントの「上位に来るのは教会なのか聖書なのか」という教義の違い。この奇妙な話に登場する謎の男が神であるとすれば、神の恵みを取り次ぐべき者は、果たして生物である「わたし」なのか、無生物である歩道なのか。いま私がいるこの歩道は正しい教義の道なのか。歩道が正しいとしたら、間違っているのは私ではないのか。チェスタトンは自らにそう問いかけているようにも読める。(こや)
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シャーリイ・ジャクスン(1916-1965)の短編集「くじ」が2016年10月、ハヤカワ・ミステリ文庫に収録された。今回、読み返していて気づいたことがある。22編が羅列的に並べられた短編集とばかり思っていたが、全体がⅠからⅤの5つの章に分かれている(Ⅴはエピローグで、これについては割愛する)。ⅠからⅣまでの章に短編が数編ずつ配置されているのだが、それぞれの章の巻頭には、ジョーゼフ・グランヴィルの著作「勝ち誇るサドカイ人」からの引用文が置かれている。この「勝ち誇るサドカイ人」というのは、この「くじ」を訳した深町眞理子が付けたタイトルであって、通常は「現代のサドカイ教に打ち勝つ」とされている。
ジョーゼフ・グランヴィル(Glanvill,Joseph、1636―1680)とは誰か? ネットで検索すると、いろいろと情報が出てくる。以下にまとめてみよう。17世紀英国の哲学者、聖職者、心霊術研究家。デヴォン州プリマス生まれ。1658年にオクスフォード大学で修士号を取得した後、フロームの教区牧師(1662)、バースのアビー・チャーチの教区牧師(1666)、ウースターの聖堂参事会員(1678)を務めた。「教条主義の空しさ」(1661)で知られ、その中でスコラ哲学を批判しながら経験哲学を支持し、思想の自由を訴えている。1664年にはロイヤル・ソサエティーの特別会員となる。幽霊や魔女の存在、その他の霊的現象を否定するような合理的懐疑主義を攻撃し、「現代のサドカイ教に打ち勝つ」を書いて、当時のベストセラーになった。
重要なのは最後の部分であろう。17世紀当時、魔女や幽霊の存在は迷信であるとの見解が世に広まりつつあった。グランヴィルはこれをサドカイ教(すなわち無神論)台頭の兆しと見て、大いに反発した。彼の主張によれば、魔女や幽霊を認めないのは消極的な無神論である。魔女も幽霊も実在するのであって、それは科学的に証明できる。グランヴィルはこの信念のもとに調査を開始し、英国史上初の心霊現象調査レポート「現代のサドカイ教に打ち勝つ」を発表した。分かりやすく言えば、ポルターガイスト研究の嚆矢となるものである。
彼の本に収録された心霊現象事例は26件にも及ぶ。有名なのは1661年、イギリスのテッドワースで地方判事をしていたジョン・モンペッソン宅で起きたドラム楽器の騒音事件である。実際にグランヴィルはモンペッソン宅に乗り込み、誰も叩いていないのにドラムが音を立てたり、家具やイスがひとりでに動いたりするところを目撃したという。グランヴィルはなるべく客観的かつ懐疑的な研究姿勢を保とうと努めており、ゆえに「心霊現象調査の父」という称号を与えられることになった。
ジャクスンの「くじ」は、この「現代のサドカイ教に打ち勝つ」を各章の冒頭に散りばめている。つまりはグランヴィルの無神論批判に共鳴し、その思想に捧げた1冊だと考えていいだろう。その観点から読むと、ジャクスンの作品は全く別の様相を見せ始める。例えば傑作「チャールズ」。息子ローリーが幼稚園に上がる。ローリーは毎日、幼稚園から帰ってくると、教室での生活ぶりを両親に伝えるが、とりわけ熱心に語るのはクラスの問題児チャールズのこと。このチャールズ、授業中に床を足で踏み鳴らしたり、女の子に汚い言葉を言わせたり、チョークを投げたりして先生からお仕置きを受ける。一時的に先生の言うことを聞く良い子に変身するが、すぐに元の問題児に戻ってしまう。やがてPTAの会合があって、ローリーの母親が出席する。ローリーの受け持ちの先生に「さぞかしチャールズのことではてんてこ舞いなさっているのでは」と尋ねると、意外な言葉が返ってくる。「チャールズ、ですか? うちの園には、チャールズという子はひとりもおりませんけれど」。
この物語は次のように読める。チャールズは、ローリーが空想の中で作り上げた架空の存在だった。両親に話したチャールズの問題行動は、すべてローリー自身が起こしたものだったのだ。先生は皮肉を込めて言う――「わたしども、みんなローリーにはとくに関心を持っております」と。両親や先生や生徒はローリーに翻弄される一方であり、まさに罪深きはローリーであった。ジャン・コクトーの「恐るべき子供たち」やトルーマン・カポーティの「ミリアム」、サキの「開いた窓」のように、子供の無邪気さや早熟さや残忍さによって大人たちが恐れ、悩み、破滅していく、アンファンテリブルの物語。
ところが作者ジャクスンがグランヴィル思想の信奉者だったとすると、これは単に嘘つきの子供の話というだけに留まらなくなってくる。チャールズはローリーにだけ感知できる騒がしい幽霊(つまりポルターガイスト)だったのではないか。周囲には暴れているのがローリーに見えても、実は彼に取り憑いた(つまり憑依霊)チャールズ仕業だったのではないか。とすればローリーは、まぎれもなく魔女や幽霊は存在するというグランヴィルの思想を体現していたのである。加害者ローリーはむしろ被害者だったかもしれない。
グランヴィル思想が説くように、まずはこの世に神ありき。そのことを信じようではないか。ジャクスンはそう主張しているように思う。「チャーリー」から読み取れることは、さらに無神論がはびこるようになった20世紀に対する痛烈な批判である。最近、これまで未訳だった著作が日本語でも読めるようになってきたが、シャーリイ・ジャクスンという作家の全貌はまだとらえられていない。この世には魔女も幽霊も存在する――それを前提として受け入れることが、ジャクスン文学理解への突破口を開く。(こや)
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喜劇王チャールズ・チャップリンがこの世を去ったのは1977年。没後40年の節目に当たる今年、チャップリン関連本が日本でも続々と出版されている。新潮社は自社のロングセラー「チャップリン自伝」(原著1964年刊)の新訳を企画。チャップリンが自らの前半生を振り返る「若き日々」(2分冊の前編)が新潮文庫で刊行された(2017年4月)。中野好夫の定評ある名訳を引き継いだのは1955年生まれの翻訳家、中里京子。こんな一節がある。
「セネットはわたしを脇(わき)に呼んで、映画の制作手法を説明した。『シナリオなんてものはない――アイデアがひらめいたら、自然な出来事の流れに従うだけさ。追っかけが始まるまでね。それが我々のコメディーの本質なんだ』」
セネットとは映画監督でプロデューサーのマック・セネットのこと。キーストン映画社を率いて一躍、アメリカ映画界の寵児となった。間抜けな警官が登場し、右に左に追いかけっこをするサイレント喜劇「キーストン・コップス」シリーズを矢継ぎ早に制作した。イギリスのカーノー劇団の一員としてミュージックホールの舞台に出ていた演劇人チャップリンを見出したのは、このセネットである。1913年、契約を取り交わしてアメリカに渡ったチャップリンは、翌1914年にキーストンから映画俳優としてデビューする。記念すべき第1作は、ドタバタ喜劇「成功争い」であった。
チャップリンはセネットの手法を認めながらも、全て信頼していたわけではなかった。キーストン喜劇の「手法は目新しかったが、個人的に言って、追っかけは嫌いだった。それは俳優の個性を消し去ってしまう。映画についてはほとんど知らなかったものの、個性に勝るものがないことだけはわかっていた」「粗野なドタバタ喜劇のごちゃまぜにすぎないと感じた」と自伝で書いている。自分はイギリスの舞台で鍛えた演劇人で、キーストン流の十把一絡げの喜劇俳優とは違う――という矜持があったのだろう。
その矜持が実を結ぶ機会は、意外に早くやってきた。キーストン2作目(公開順は3作目)の「メイベルのおかしな災難」を撮影していたときのこと。日本チャップリン協会会長・大野裕之が、新著「チャップリン 作品とその生涯」(2017年4月、中公文庫刊)で書いている。「その歴史的な瞬間とは、1914年1月6日――雨の日の午後のことだった。チャップリンは、ホテルのロビーのセットの前にいた。セネットは葉巻をくわえたまま、『なんかここでギャグの欲しいところだな』と言って、チャップリンの方を振り向いて、『おい、なんでもいいから、なにか喜劇の扮装をしてこい』と言った。『とっさにそんな扮装など思いつくわけもなかった』が、『衣裳部屋に行く途中、わたしはふとだぶだぶのズボン、大きなドタ靴、それにステッキと山高帽という組み合わせを思いついた。だぶだぶのズボンにきつすぎるほどの上着、小さな帽子に大きすぎる靴という、とにかくすべてにチグハグな対照というのが狙いだった』。そして、セネットに若いと言われたことを思い出し、小さな口髭をつけた」
「放浪紳士チャーリー」が誕生した瞬間だった。従来のキーストン喜劇とは異なるこのキャラクターは、それゆえに現場の監督たちとしばしば衝突したが、ニューヨーク本社からの1通の電報で状況は一変した。電報には「チャップリン映画が大当たりしているから、至急もっと彼の作品をよこせ」とあった。「大衆は、それまで見たことのなかったチャーリーの個性に魅了され、彼は瞬く(またた)間にスター・コメディアンとなったのだ」と大野は書いている。
以来、半世紀以上にわたって、チャップリン喜劇は世界中を席巻する。その様子は、多くの研究書に詳しく書かれているから割愛する。今回、チャップリン没後40年に改めて思うことは、日本および日本人はごく初期のころから喜劇王チャップリンの最大の理解者だった――という事実である。大野の前掲書がそのことを教えてくれる。
「1914年2月2日に映画デビューを果たしたチャップリンは、早くもその5か月後には、日本で初めて雑誌に登場した。日本初の映画評論雑誌『キネマ・レコード』の、1914年7月号に、変(へん)凹(ぺこ)君(くん)と名付けられ」紹介されたという。このときはまだ新人だから、記事にチャップリンの名前はない。「だが、特異な扮装と滑稽な歩き方から『変凹君』と名付けられたことをみても、日本でもまずその個性的な演技が注目されたことが分かる」
さらに「デビュー2年目の1915年になると、ますます他のコメディアンとは違うチャップリンのユニークさが意識され始めた。大勢が入り乱れて追いかけっこをする従来のドタバタ喜劇に対して、チャップリンは個性をじっくり見せる特異な喜劇役者であることに観客は気づいたのだ。このあたりから日本でもチャップリン人気はうなぎ上りとなっていき、酔っぱらい演技の巧みさと独特の歩き方から『アルコール先生』というあだ名が定着した」。日本公開タイトルも「チャップリンの拳闘」「アルコール先生公園の巻」という調子になっていく。映画のチラシでは、チャップリン映画を「グニャグニャ喜劇」と呼ぶケースもあった。一度見たら忘れられない、よほど強烈な個性だったのだろう。
共通するのは「変凹君」も「アルコール先生」も「グニャグニャ」も、チャップリンの容貌や演技の独自性に対して与えられた呼称だということだ。つまり彼は、はなから追っかけ喜劇の一登場人物ではなかったのである。アルコール先生は、その個性を貫いたまま、「黄金狂時代」「サーカス」「街の灯」「モダン・タイムス」などの傑作を世に問い、世界の喜劇王として88年の生涯を閉じた。(こや)
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