アガサ・クリスティーの代表作「オリエント急行殺人事件(原著1934年刊)」がこのたび新訳で出た(安原和見訳、2017年4月、光文社古典新訳文庫刊)。再読して、面白いことに気づいた。作品の内容に触れるので、ご注意を。
オリエント急行の車内で金持ちの老人ラチェットが殺される。ラチェットは偽名で、実は逃亡中の極悪非道の犯罪者であった。彼がアメリカのアームストロング大佐一家の愛児を誘拐し、殺害した事件は世間を震撼させた。ラチェットを殺したのは誰か?「オリエント急行殺人事件」は、列車に乗り合わせた乗客全員が犯人という奇抜なトリックで知られるが、名探偵エルキュール・ポアロが乗客たちを評する場面が終盤にある。
「ここに集まった人たちは興味深い、なぜなら多種多様だから――このように階級も国籍もさまざまだと、そういう趣旨の(知人)の言葉でした。わたしもそのとおりだと思いましたが、あとでこのときのことを思い出して、こんなに多種多様な人々が一堂に会する状況が、ほかにあるだろうかと想像してみたのです。それで得た答えはこうです――アメリカ以外にはない。アメリカなら、さまざまな国籍の人間がひとつ屋根の下に暮らすこともありえます。イタリア人の運転手、英国人の家庭教師、スウェーデン人の乳母、フランス人の子守などなど。(中略)つまり、アームストロング家という舞台で、だれにどの役を与えればいいか考えていったわけです。劇の演出家がやるように」(安原訳)
たとえ国籍や身分がバラバラでも、そうした人々が一堂に会することができるのがアメリカという国の特徴なのだ――とポアロは主張している。ボアロの主張はすなわちクリスティーの主張でもあろう。クリスティーはアメリカという国をどう思っていたのだろうか。
19世紀後半から20世紀前半にかけて、ヨーロッパからアメリカ大陸に移住する者の数は急速に進んだ。1870年代から第1次世界大戦までの約40年間で、ヨーロッパからの移民は約3000万人(うち2000万人がアメリカ合衆国。残りはカナダ、アルゼンチン、ブラジル、オセアニア)に達し、ピークを迎えた。アメリカ合衆国の帝国主義期を支えたのも、これらの移民であった。19世紀の移民はアイルランドや北欧が多かったが、20世紀に入ると南欧、東欧からの流れに重心が移った。それ以前の西欧、北欧系の移民を「旧移民」というのに対して、この南欧、東欧系移民は「新移民」といわれた。新移民はイタリア人などの南欧系、ポーランド人、ロシア人などの東欧系の人々、それにユダヤ人が多かった。まさに「オリエント急行殺人事件」的な状況が、アメリカという一国に到来していたのだ。
クリスティーが生きたのは19世紀末(1890年)から20世紀後半(1976年)のイギリスである。旧移民から新移民に主流が移る時期のアメリカには縁が薄いように思われるが、周知のようにクリスティーの父親はアメリカ人の実業家であった。行く道が開かれれば来る道も開かれる。ヨーロッパからアメリカに移住するのとは逆に、クリスティーの父親のような――成功したアメリカ人がヨーロッパに移住するというケースも、この時期どうやら多かったようなのである。
立教大学の磯崎京子は、論文「アガサ・クリスティーの見たアメリカ――伝記から探るアメリカ観の変容――」(2005年、立教大学「異文化コミュニケーション論集」vol.3所収)の中で興味深い指摘をしている。「19世紀末から20世紀初頭にかけては、成功したアメリカ人が憧れのヨーロッパに来ることが流行しており、一般のヨーロッパ人にとっては、ヨーロッパにいるアメリカ人というとすべてお金持ちという単純な図式、しかも好意的な図式が出来上がっていたのであろう。新興国アメリカからやって来る成功したアメリカ人を、自分達の弟分として寛容に受け入れるという、精神的なゆとりと自信が当時のヨーロッパ人にはあったのではなかろうか」
1931年、クリスティーはオリエント急行で中東への旅に出た。そのときに遭遇したエピソードが面白い。磯崎はクリスティーの伝記本から引用しているが、孫引きしておく。イスタンブール出発後、洪水で立ち往生したオリエント急行の車内には、各国の乗客が乗り合わせていたが、アメリカ人のミセスの言動が一番、印象に残ったという。「いかにもあの国の人らしく」とクリスティーは彼女のことを書いている。ミセスは「アメリカならすぐに対策を講じるのに、ここではどうして何も手を打たないのか」と言い、新しい列車がやってきて乗り移ったものの、食物や暖房がないのを知るや、泣き出してしまった。磯崎はこの部分から「1930年代のアメリカ上流婦人のもつ、アメリカの近代設備・機能性・機動力への信奉への揶揄」を読み取っている。
アメリカは第一次世界大戦に勝ったことで、覇権主義的な勢力を伸ばし始めた。「オリエント急行殺人事件」は、ちょうどそういう時代に書かれている。クリスティーが実際に遭遇したアメリカの上流婦人は「オリエント急行殺人事件」のおしゃべりなアメリカ婦人、ミセス・ハバードのモデルになったと推察される。作中のアームストロング愛児誘拐殺人事件は、明らかに1932年に起きたリンドバーグ愛児誘拐殺人事件を意識していよう。
アメリカはいつ何が起きてもおかしくない物騒な国になってしまった。かつてアメリカに抱いていたクリスティーの好意が、苛立ちに変わってきたのがこの時期なのではないか。ヨーロッパから見たアメリカ批判――それが「オリエント急行殺人事件」という小説に結実したと思われる。(こや)
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岡田睦(ぼく)という作家について、まずはプロフィールを紹介する。2017年3月に出た岡田の著作「明日なき身」(講談社文芸文庫刊)から引く。「岡田睦(1932・1・18~ )小説家。東京生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒。同人誌『作品・批評』の創刊に慶應の友人たちと携わる。1960年『夏休みの配当』で芥川賞候補。3度目の妻と離婚後、生活に困窮し生活保護を受けながら居所を転々とし、『群像』2010年3月号に『灯』を発表後、消息不明」。
消息不明――つまり今回の著作刊行に関しては、講談社側が著者本人と連絡を取ることができなかったことが理解できる。消息不明の作家の本を出すには、どういった手続きが必要か。著作権法第67条に「著作権者不明等の場合における著作物の利用」の項目がある。「公表された著作物又は相当期間にわたり公衆に提供され、若しくは提示されている事実が明らかである著作物は、著作権者の不明その他の理由により相当な努力を払つてもその著作権者と連絡することができない場合として政令で定める場合は、文化庁長官の裁定を受け、かつ、通常の使用料の額に相当するものとして文化庁長官が定める額の補償金を著作権者のために供託して、その裁定に係る利用方法により利用することができる」というものである。
「明日なき身」の親本――つまり単行本は2006年12月に講談社から出ている。当時、講談社はもちろん岡田と連絡が取れていた。2010年には短編の「灯」を自社の雑誌「群像」に掲載しているわけだから、当然その段階でも連絡は取れていただろう。その後、連絡が取れなくなった。2006年の単行本は「相当期間にわたり公衆に提供され、若しくは提示されている事実が明らかである著作物」に当たるだろうし、2010年の短編は「公表された著作物」に当たるだろう。これらをまとめて文芸文庫で出版したいと思った講談社が文化庁長官に裁定を諮り、岡田のための補償金を供託するという条件で、出版という「その裁定に係る利用方法」を申請した。そういう流れであったと推察される。
講談社は2017年2月1日に、著作権法第67条の2「裁定申請中の著作物の利用」第1項の規定に基づく申請を行い、同項の適用を受けて今回の刊行に踏み切ったという。それは、「前条(注・第67条)第一項の裁定(以下この条において単に「裁定」という。)の申請をした者は、当該申請に係る著作物の利用方法を勘案して文化庁長官が定める額の担保金を供託した場合には、裁定又は裁定をしない処分を受けるまでの間(裁定又は裁定をしない処分を受けるまでの間に著作権者と連絡をすることができるに至つたときは、当該連絡をすることができるに至つた時までの間)、当該申請に係る利用方法と同一の方法により、当該申請に係る著作物を利用することができる。ただし、当該著作物の著作者が当該著作物の出版その他の利用を廃絶しようとしていることが明らかであるときは、この限りでない」。
奔放に生きている私小説作家の著作が、奔放さから一番遠くにあるかのような著作権法に左右されるというのも皮肉な話だが、要するに次のようなことだと思う。作者・岡田と何らかの連絡が取れるか、出版停止の裁定が出るまで、講談社は自社の文芸文庫版においてのみ「明日なき身」の刊行を許される。岡田と連絡が取れたときは、本人が嫌だと言えば別だが、承諾が得られればそのまま出版を続けられる。書店で見かけるか、文庫化の話を伝え聞いた岡田本人からぜひ連絡をしてきてほしい――講談社の担当編集者のそんな思惑も込められていようか。
以上のような経緯で刊行に至った同書には、前述の2006年12月に講談社から出た「明日なき身」所収の4編(「ムスカリ」「ぼくの日常」「明日なき身」「火」)と、2010年3月に雑誌発表された現状の最新作「灯」が収められている。「ムスカリ」の主人公はセイホ――生活保護を受けている。「毎月、5日が“セイホ”の支給日。2、3日前になると、きまって金がなくなる。コインだけになり、セブン-イレブンのむすび、最低1個100円のを、1日ひとつ喰うことになる。それも買えなくなって、何も喰わずひたすら5日を待つときもある。原稿は遅々として捗るが、その間原稿料がはいるわけではない」と、生活の窮状が綴られている。5編すべてが。
さすがに大正や昭和の時代に書かれた、借金取りに追われて夜逃げをする私小説とは違うが、おむすび1つ買えなくなる平成の私小説も、悲惨さでは負けていない。あるいは岡田ほど極端でなくとも、本が売れない、生活が窮状に陥っているという作家は増えてきているのではないか。
しかし小説から目を上げて考えてみると、同じような話を別の本で読んだことを思い出した。「お金がなくて、病院に行くことをガマンしている」「年金暮らしなので、食事は1日1回。1食100円で切り詰めている」。テレビのドキュメンタリー番組「NHKスペシャル」取材班がまとめた「老後破産 長寿という悪夢」(2015年7月、新潮社刊)にそうある。
この本に登場する高齢者たちは、決して自由奔放に生きてきた私小説作家ではない。定年までサラリーマンとして仕事をしてきた人もいれば、職人や商店経営者として人生を送ってきた人もいる。正直に誠実に生きてきた普通の市民が、いま老後破産に陥っている。年金や生活保護を受給していても生活破綻が避けられない。それが21世紀の日本社会の現実なのである。
社会の私小説化と呼ぶべきか、私小説の社会化と呼ぶべきか。気がつけば、まさしく岡田文学の世界が身の回りに満ち満ちている。そんな時代になってしまった。(こや)
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作品が雑誌に発表された1899年は、まだ19世紀だった。いつの頃からか「20世紀最大の問題作」と呼ばれるようになった。ジョゼフ・コンラッド(1857~1924)の代表作「闇の奥」(原題:HEART OF DARKNESS)である。それを含む短編集「青春、その他2編の物語」がまとめられたのは1902年。すでに20世紀に入っていた。
日本では4つの翻訳が出ている。中野好夫訳(岩波文庫刊、1958年)、岩清水由美子訳(近代文藝社刊、2001年)、藤永茂訳(三交社刊、2006年)、そして最新版が黒原敏行訳(光文社古典新訳文庫刊、2009年9月)。「闇の奥」といえば長らく中野訳だけだった。21世紀に入ってから立て続けに新訳が刊行されるようになった。著作権が失効したからかもしれないが、発表後1世紀が経過して、ようやく「闇の奥」の本格的な研究が進んできた感がある。それだけ難物だったのである。以下、作品の内容に触れるので未読の方はご注意を。引用は最新の黒原訳による。
ある日の夕暮れ、船乗りのマーロウが、船上で仲間たちに自分の体験を語り始める。若きマーロウは各国を回った後、フランスの貿易会社に入社し、アフリカの出張所に着任した。そこでは、黒人が象牙を持ち込んで来ると、木綿屑やガラス玉などと交換していた。ここで奥地にいるクルツ(Kurtz、英語読みではカーツ)という代理人の噂を耳にする。クルツは、奥地から大量の象牙を送ってくる優秀な人物だった。マーロウは、到着した隊商とともに中央出張所まで行くが、そこの支配人から、上流にいるクルツが病気らしいと聞く。クルツは、象牙を乗せて奥地から中央出張所へ向かって来たが、荷物を助手に任せ、途中から1人だけ船で奥地に戻ってしまったという。マーロウは、本部の指示に背いて1人で奥地へ向かう孤独な白人の姿が目に浮かび、興味を抱いた。
マーロウは支配人、使用人4人、現地の船員とともにコンゴ川を遡行していった。クルツの居場所に近づいたとき、突然、矢が雨のように降り注いできた。銃で応戦していた舵手に向かって長い槍が飛んできて、腹を刺された舵手は死んだ。奥地の出張所に着くと、クルツの崇拝者である青年がいた。青年から、クルツが現地人から神のように慕われていたこと、手下を引き連れて象牙を略奪していたことなどを聞き出した。一行は、病気のクルツを担架で運び出し、船に乗せた。やがてクルツは、“The horror! The horror!”という言葉を残して息絶えた。この最期の言葉を、かつて中野は「地獄だ! 地獄だ!」と訳した。黒川訳では「怖ろしい! 怖ろしい!」とより直接的になっている。この言葉が「闇の奥」の核心であろう。物語は、クルツの婚約者にマーロウが遺品を届けに行くところで終わる。
さて――「闇の奥」を語るとなれば、どうしても映画「地獄の黙示録」について触れないわけにはいかない。監督のフランシス・コッポラが映画を作るに当たって、下敷きにしたのがコンラッドの「闇の奥」だということはよく知られている。コッポラは19世紀のコンゴの物語を、20世紀のベトナム戦争の世界に換骨奪胎した。立花隆が書いた名著「解読『地獄の黙示録』」(2002年3月、文藝春秋刊)を参考に、映画と小説とを比較してみよう。
コンラッドが小説で描いた槍で刺し殺される舵手や、クルツの崇拝者である青年といった存在は、コッポラの映画にも同じように登場する。立花が字幕スーパーの和訳にこだわる“unsound”という言葉があるが、これも出てくる。映画ではカーツ大佐殺害をウィラード大尉に命じた将校が「カーツは方法が不健全(unsound)だ」と語る。小説では支配人がマーロウにこう語る――「状況は危ういようだ――なぜこんなことになったかわかるかね。(クルツの)方法が不健全(unsound)だからだ」。そして“The horror! The horror!”は、映画でも小説でもカーツとクルツの最期の言葉として出てくる。
今回「闇の奥」を読み返してみて、むしろ「地獄の黙示録」との違いのほうが目についた。映画ではカーツを倒したウィラードはそのまま去っていくが、小説ではマーロウがクルツの婚約者に遺品を届けに行く。そのときマーロウは、彼女に向かってこんなことを言うのだ。「彼が最期に口にした言葉は――あなたのお名前でした」。
これは明らかに嘘である。クルツは「怖ろしい! 怖ろしい!」と口にして息を引き取ったのだから。しかし、それを聞いた彼女の反応のほうがはるかに異様で「怖ろしい」。マーロウはこう描写している――「小さな溜息が聴こえたと思うと、怖ろしいような響きの歓喜の声が、想像もできない勝利感と言いようのない苦悩の交じった声がほとばしって、俺(マーロウ)の心臓は止まりそうになった。『私にはわかっていました――きっとそうだと思っていました』」。
「闇の奥」のタイトルはアフリカ奥地の闇から来ている。文明と隔絶された未開の世界の怖ろしさを示しているが、真に怖ろしいのは西欧文明の闇ではないか。小説が発表された1999年当時、コンゴ川一帯はベルギー国王レオポルド2世の「私有地」だったという。コンゴ自由国と呼ばれ、1885年から1908年まで支配が続いた。現地民は象牙やゴムの採集を強制され、規定の量に到達できないと手足を切断する――などの刑罰が情け容赦なく科された。
西欧人クルツが現地民に対して行った残虐行為が、現実のものとしてそこにあったのである。そのクルツが最期に自分の名前を口にしたと喜ぶ婚約者も西欧文明の闇を抱えている――コンラッドはそう訴えている。(こや)
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唐突だがクイズを1つ。次の論文の筆者は誰か?
「建築業界及び建築関連事業における社会保険の状況」(1909年)
「自動車個人所有者における保険の現況」(1910年)
「製材用電動鉋の傷害防止策」(1910年)
ちょっとお堅いタイトルが並んでいる。これらはいずれも「ボヘミア王国労働者傷害保険協会プラハ局」の年報に掲載されたもの。同局のとある職員(第2書記官)が書いた。最初の2編は無署名、最後の1編には署名がある。誰か分からない? では次の作品の筆者は?――「判決」「変身」「審判」「城」「アメリカ」。いうまでもなくフランツ・カフカ(1883~1924年)である。
実は先の3つの論文の執筆者もカフカ。第2書記官としての仕事の一端だった。保険協会の職員カフカはとても有能だったのである。ドイツ文学者の池内紀は、カフカについてこんなことを書いている――「就職したときは『書記見習い』の肩書だった。すぐに正式の書記官になった。5年目で、わが国でいう係長になり、12年目に課長、14年目に部長に昇進。そんな経歴からもわかるとおり、有能な職員だった」「1919年にハプスブルク体制が崩壊してチェコ共和国が誕生したとき、オーストリア人幹部はいっせいに追い出されたが、カフカ課長は職にとどまった。欠くべからざる人だったからだろう。さらに部長に昇進する。能力とともに人柄を愛されていた」(引用はともに「となりのカフカ」池内紀著、2004年8月、光文社新書刊より)。
サラリーマンとしてのカフカについて、池内の著作を参考に少しおさらいしておく。彼の保険協会での勤務時間は、8時から14時までだった。これは当時のオーストリア帝国の官僚制がとっていた勤務システムで、シフトは早番と遅番に分かれていた。カフカは早番を希望した。朝が早く、昼休みはない。ぶっ続けに勤務するが、そのかわり午後早く終わるので、もう1つ仕事を兼業できる。
だから当時の役人たちは、ほかに内職や時間給の仕事を持っていたという。カフカの上司や同僚にも、ドクターの肩書を持つ者や、アマチュア歌人もいれば蝶の収集家もいた。「安い俸給の代償に考え出された制度だろう」と池内は結んでいる。公務員の兼業にうるさい現在の日本では、想像もつかない制度である。カフカの場合、勤め始めてしばらくは、仕事が引けてから父親の経営する「ヘルマン・カフカ商会」を手伝っていた。その手伝いを終えてから、夜中に小説やエッセイを書いていたのである。
カフカはこの保険協会に1908年から1922年まで勤めた。出世してからも、ずっと早番を通したという。創作の執筆の時間を確保するためであった。体調を崩さなければ、まだまだ勤めていたことだろう。1917年に吐血してからは療養生活を繰り返すことになり、しばらく休んでは職場に復帰し、仕事と執筆を並行するという日々が退職するまで続いた。
1916年、ずっと付き合っていた恋人のフェリーツェ・バウアーに、自作の短編が掲載された雑誌を送っている。同時に、自分が仕事でまとめた論文「1914年度保険支給業務報告」や「砕石機械における傷害防止策」が載っている保険協会の年報も送ったという。池内も指摘していたことだが、これはとても興味深い。文学者カフカは生涯、保険協会のサラリーマンとしての自分にも誇りを持ち続けた。だからカフカを論じる場合、文学者としての側面だけとらえていては本質を見誤ることになる。
代表作「変身」の冒頭を思い出してほしい。池内による新訳(2006年3月、白水uブックス刊)によれば――「ある朝、グレーゴル・ザムザが不安な夢から目を覚ましたところ、ベッドのなかで、自分が途方もない虫に変わっているのに気がついた」。衝撃的な出だしだが、読者ほど主人公は驚かない。自分の変身よりも、むしろ4時に鳴るはずの目覚まし時計が鳴らずに6時半になっていたことに驚き、セールスマンとしての出張の大変さについて嘆いたりする。そのことを池内は「となりのカフカ」の中でこう解説する――「ショッキングな出だしのせいで、カフカの『変身』は虫になった男の物語と思われがちだが、その変身自体は最初の1行で終わっている。むしろ主人公が日常からズレ落ちたとたんにはじまる、べつの変身が問題だ。時間の変身、家族の変身、親子や血のつながりの変身。すべてがみるまに変わっていく」。まさに慧眼であろう。
言うなれば「変身」という小説は、主人公だけでなく周囲が変身する物語なのではないか。カフカは19世紀末の1883年にチェコのプラハで生まれている。世紀が切り替わる激変期に少年時代を過ごし、20世紀になってからはサラリーマン兼業作家として生きた。毎日を保険協会の仕事に明け暮れ、交友関係も書類を扱う役人や工場経営者や経理係が多かったはずだ。その生活がいかにこれまでの作家とかけ離れていたかは、19世紀の文豪たちの名前をここで出さずとも明らかだろう。
つまりカフカは作家であると同時に、20世紀になって誕生した産業社会によって管理されているサラリーマンでもあったということである。サラリーマンのザムザは目覚まし時計が鳴れば起きられたが、作家の(つまり虫に変身した)彼は起きられない。一家を支えるサラリーマンには優しかった家族も、作家には攻撃的になる。ザムザの変身を通じて、20世紀になって新しくなった社会と作家の引き裂かれた関係が露呈する。「変身」はまぎれもなく20世紀の小説なのである。(こや)
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「自動車個人所有者における保険の現況」(1910年)
「製材用電動鉋の傷害防止策」(1910年)
ちょっとお堅いタイトルが並んでいる。これらはいずれも「ボヘミア王国労働者傷害保険協会プラハ局」の年報に掲載されたもの。同局のとある職員(第2書記官)が書いた。最初の2編は無署名、最後の1編には署名がある。誰か分からない? では次の作品の筆者は?――「判決」「変身」「審判」「城」「アメリカ」。いうまでもなくフランツ・カフカ(1883~1924年)である。
実は先の3つの論文の執筆者もカフカ。第2書記官としての仕事の一端だった。保険協会の職員カフカはとても有能だったのである。ドイツ文学者の池内紀は、カフカについてこんなことを書いている――「就職したときは『書記見習い』の肩書だった。すぐに正式の書記官になった。5年目で、わが国でいう係長になり、12年目に課長、14年目に部長に昇進。そんな経歴からもわかるとおり、有能な職員だった」「1919年にハプスブルク体制が崩壊してチェコ共和国が誕生したとき、オーストリア人幹部はいっせいに追い出されたが、カフカ課長は職にとどまった。欠くべからざる人だったからだろう。さらに部長に昇進する。能力とともに人柄を愛されていた」(引用はともに「となりのカフカ」池内紀著、2004年8月、光文社新書刊より)。
サラリーマンとしてのカフカについて、池内の著作を参考に少しおさらいしておく。彼の保険協会での勤務時間は、8時から14時までだった。これは当時のオーストリア帝国の官僚制がとっていた勤務システムで、シフトは早番と遅番に分かれていた。カフカは早番を希望した。朝が早く、昼休みはない。ぶっ続けに勤務するが、そのかわり午後早く終わるので、もう1つ仕事を兼業できる。
だから当時の役人たちは、ほかに内職や時間給の仕事を持っていたという。カフカの上司や同僚にも、ドクターの肩書を持つ者や、アマチュア歌人もいれば蝶の収集家もいた。「安い俸給の代償に考え出された制度だろう」と池内は結んでいる。公務員の兼業にうるさい現在の日本では、想像もつかない制度である。カフカの場合、勤め始めてしばらくは、仕事が引けてから父親の経営する「ヘルマン・カフカ商会」を手伝っていた。その手伝いを終えてから、夜中に小説やエッセイを書いていたのである。
カフカはこの保険協会に1908年から1922年まで勤めた。出世してからも、ずっと早番を通したという。創作の執筆の時間を確保するためであった。体調を崩さなければ、まだまだ勤めていたことだろう。1917年に吐血してからは療養生活を繰り返すことになり、しばらく休んでは職場に復帰し、仕事と執筆を並行するという日々が退職するまで続いた。
1916年、ずっと付き合っていた恋人のフェリーツェ・バウアーに、自作の短編が掲載された雑誌を送っている。同時に、自分が仕事でまとめた論文「1914年度保険支給業務報告」や「砕石機械における傷害防止策」が載っている保険協会の年報も送ったという。池内も指摘していたことだが、これはとても興味深い。文学者カフカは生涯、保険協会のサラリーマンとしての自分にも誇りを持ち続けた。だからカフカを論じる場合、文学者としての側面だけとらえていては本質を見誤ることになる。
代表作「変身」の冒頭を思い出してほしい。池内による新訳(2006年3月、白水uブックス刊)によれば――「ある朝、グレーゴル・ザムザが不安な夢から目を覚ましたところ、ベッドのなかで、自分が途方もない虫に変わっているのに気がついた」。衝撃的な出だしだが、読者ほど主人公は驚かない。自分の変身よりも、むしろ4時に鳴るはずの目覚まし時計が鳴らずに6時半になっていたことに驚き、セールスマンとしての出張の大変さについて嘆いたりする。そのことを池内は「となりのカフカ」の中でこう解説する――「ショッキングな出だしのせいで、カフカの『変身』は虫になった男の物語と思われがちだが、その変身自体は最初の1行で終わっている。むしろ主人公が日常からズレ落ちたとたんにはじまる、べつの変身が問題だ。時間の変身、家族の変身、親子や血のつながりの変身。すべてがみるまに変わっていく」。まさに慧眼であろう。
言うなれば「変身」という小説は、主人公だけでなく周囲が変身する物語なのではないか。カフカは19世紀末の1883年にチェコのプラハで生まれている。世紀が切り替わる激変期に少年時代を過ごし、20世紀になってからはサラリーマン兼業作家として生きた。毎日を保険協会の仕事に明け暮れ、交友関係も書類を扱う役人や工場経営者や経理係が多かったはずだ。その生活がいかにこれまでの作家とかけ離れていたかは、19世紀の文豪たちの名前をここで出さずとも明らかだろう。
つまりカフカは作家であると同時に、20世紀になって誕生した産業社会によって管理されているサラリーマンでもあったということである。サラリーマンのザムザは目覚まし時計が鳴れば起きられたが、作家の(つまり虫に変身した)彼は起きられない。一家を支えるサラリーマンには優しかった家族も、作家には攻撃的になる。ザムザの変身を通じて、20世紀になって新しくなった社会と作家の引き裂かれた関係が露呈する。「変身」はまぎれもなく20世紀の小説なのである。(こや)
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リドル・ストーリーというジャンルがある。直訳すると「謎物語」。物語の結末が作者によって明示されず、読者の想像に任せられる小説である。代表作とされるのは「女か虎か」(The Lady,or the Tiger?)であろう。作者のフランク・リチャード・ストックトンは、1834年にペンシルバニア州フィラデルフィアに生まれ、1902年に没した19世紀アメリカの作家。1880~90年代に活躍した(一時、彫刻技師でもあったらしい)。ユーモア小説を書き、怪奇小説も書き、冒険小説も書いたが、児童文学の著作が多い。
「女か虎か」は1882年に書かれている。もともとこの作品は「王の闘技場」(In the King's Arena)という題で、文学者のパーティ-における余興用の題材としてストックトンが用意したものだった。それがたいそう好評だったために、雑誌用(掲載誌は大衆向け雑誌「Century」)に書き直され、編集者によってタイトルが現在のものに付け替えられた。あまりにも有名な話だが、ウィキペディアを参考にしてストーリーを要約しておく。以下、未読の方はご注意を。
遠い昔のある国の話。身分の低い若者が王女と恋をした。それを怒った国王は、その国独自の処刑方法で若者を罰することにした。その方法とは公開闘技場に若者を連れ出し、2つの扉の1つを選ばせることである。1つの扉の向こうには餓えた虎がおり、彼が扉を開けばたちまちのうちに虎にむさぼり食われてしまう。もう1つの扉の向こうには美女がおり、そちらの扉を開けば罪は許されて彼女と結婚することが出来る。国王の考えを知った王女は、死に物狂いで2つの扉のどちらが女でどちらが虎かを探り出した。
しかし王女はそこで悩むことになった。恋人が虎に食われてしまうことには耐えられない。さりとて自分よりも美しくたおやかな女性が彼の元に寄り添うのもまた耐えられない。父に似た、誇り高く激しい感情の持ち主の王女は悩んだ末、若者に右の扉を指差して教える。若者は王女が示した扉を開く。中から出てきたのは、果たして――女か虎か?
ここで物語は終わる。王女がどちらを選んだのかは書かれていない。この小説は読者の好奇心を大いに刺激した。ストックトンは「正解」を求める人々に悩まされることになった。そこで彼は続編として「三日月刀の督励官」を書いた。が、後日談として書かれたこちらの話も、最後は「別の国の王子が選んだのは微笑んだ女か、それともしかめ面をした女か」で終わる人を食ったリドル・ストーリーになっている。ストックトンは生涯、扉から出てきたのが女だったか虎だったかの真相を明かさなかったという。
結局、明快な解答は存在していない。そのため後年の作家たちによって様々な説が唱えられたが、中でもジャック・モフィットの書いた小説「女と虎と」(1948年、The Lady and the Tiger?)は、もっともスマートな解答であるとされる。取り上げてみたい(引用は紀田順一郎編「謎の物語」2012年2月、ちくま文庫刊より。仁賀克雄訳)。
モフィットによれば、ストックトンの物語の王とはヘロデ・アンティパスだという。「ローマ総督ポンティウス・ピラトの監督下でユダヤを支配していた彼は、父親が作ったローマの闘技場に似た闘技場を持つ、唯一の東方君主であり、彼もまた娘――正確にいえば継娘――を持ち、彼女に常識を超えた過度の愛情を抱いていた」。そしてこの娘が王女サロメだったというのである。
その前提でモフィットは「女か虎か」の結末をこう読む。若者が明けた扉には虎が入っていた。虎を見るやいなや若者は退き、電光石火のごとくもう一方の扉も開けてしまう。そして自分は2つの扉の間の閉じられた楔形の小空間に入り込み、両腕で大きな樫扉を盾にして身を守った。闘技場には扉から出てきた虎と女が残された。そのあとどうなったかは、いうまでもない――と。
ストックトンの「女か虎か」の問いかけが、結局のところ女心による決断がどちらだったかの問題だとすれば、モフィットの見解は王女そのものにエキセントリックな一面があったのだという話になる。聖書によれば、サロメはヘロデ・アンティパスに、祝宴での舞踏の褒美として「好きなものを求めよ」と言われ、「洗礼者ヨハネの斬首」を求めたほど気性の荒い女である。実は若者をめぐって王女サロメと犠牲になった女は三角関係の間柄にあった。処刑の日の前日、サロメは女には「虎でなくお前を選ばせる」と伝えたが、実際には虎を選ばせたのである。虎を選ばせたから、女を選ばせる選択肢が消えたかといえば、そうではない。若者は結果的に「女と虎と」両方を選ばされたことになる。
さらに問題は、とっさの機転で命拾いした若者である。ストックトンの作品では若者の人物像がほとんど描き込まれていなかった。モフィットはこの若者に、王女サロメと若い女の間を渡り歩きながら権謀術数を張り巡らせ、サロメと結婚して国家を手中に収めようとする野心家の役割を与えている。結局、虎からは逃れられた彼だが、危険人物と見なされて死刑に処されてしまう。それにしても、シンプルな寓話である「女か虎か」の問題提起をここまでふくらませた作者モフィットの力量は大したものである。
ジャック・モフィット(1901~69年)の本業は、前述の「謎の物語」の改題によれば、ハリウッドの脚本家。ケーリー・グラント主演の「夜も昼も」などで知られているが、とくにミステリー映画と関係が深いというわけでもないらしい。名作の続編を考えるのが得意だったようで、ほかにアンリ・ルネ・アルベール・ギ・ド・モーパッサンの「首飾り」の続編なども手掛けているという。(こや)
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「女か虎か」は1882年に書かれている。もともとこの作品は「王の闘技場」(In the King's Arena)という題で、文学者のパーティ-における余興用の題材としてストックトンが用意したものだった。それがたいそう好評だったために、雑誌用(掲載誌は大衆向け雑誌「Century」)に書き直され、編集者によってタイトルが現在のものに付け替えられた。あまりにも有名な話だが、ウィキペディアを参考にしてストーリーを要約しておく。以下、未読の方はご注意を。
遠い昔のある国の話。身分の低い若者が王女と恋をした。それを怒った国王は、その国独自の処刑方法で若者を罰することにした。その方法とは公開闘技場に若者を連れ出し、2つの扉の1つを選ばせることである。1つの扉の向こうには餓えた虎がおり、彼が扉を開けばたちまちのうちに虎にむさぼり食われてしまう。もう1つの扉の向こうには美女がおり、そちらの扉を開けば罪は許されて彼女と結婚することが出来る。国王の考えを知った王女は、死に物狂いで2つの扉のどちらが女でどちらが虎かを探り出した。
しかし王女はそこで悩むことになった。恋人が虎に食われてしまうことには耐えられない。さりとて自分よりも美しくたおやかな女性が彼の元に寄り添うのもまた耐えられない。父に似た、誇り高く激しい感情の持ち主の王女は悩んだ末、若者に右の扉を指差して教える。若者は王女が示した扉を開く。中から出てきたのは、果たして――女か虎か?
ここで物語は終わる。王女がどちらを選んだのかは書かれていない。この小説は読者の好奇心を大いに刺激した。ストックトンは「正解」を求める人々に悩まされることになった。そこで彼は続編として「三日月刀の督励官」を書いた。が、後日談として書かれたこちらの話も、最後は「別の国の王子が選んだのは微笑んだ女か、それともしかめ面をした女か」で終わる人を食ったリドル・ストーリーになっている。ストックトンは生涯、扉から出てきたのが女だったか虎だったかの真相を明かさなかったという。
結局、明快な解答は存在していない。そのため後年の作家たちによって様々な説が唱えられたが、中でもジャック・モフィットの書いた小説「女と虎と」(1948年、The Lady and the Tiger?)は、もっともスマートな解答であるとされる。取り上げてみたい(引用は紀田順一郎編「謎の物語」2012年2月、ちくま文庫刊より。仁賀克雄訳)。
モフィットによれば、ストックトンの物語の王とはヘロデ・アンティパスだという。「ローマ総督ポンティウス・ピラトの監督下でユダヤを支配していた彼は、父親が作ったローマの闘技場に似た闘技場を持つ、唯一の東方君主であり、彼もまた娘――正確にいえば継娘――を持ち、彼女に常識を超えた過度の愛情を抱いていた」。そしてこの娘が王女サロメだったというのである。
その前提でモフィットは「女か虎か」の結末をこう読む。若者が明けた扉には虎が入っていた。虎を見るやいなや若者は退き、電光石火のごとくもう一方の扉も開けてしまう。そして自分は2つの扉の間の閉じられた楔形の小空間に入り込み、両腕で大きな樫扉を盾にして身を守った。闘技場には扉から出てきた虎と女が残された。そのあとどうなったかは、いうまでもない――と。
ストックトンの「女か虎か」の問いかけが、結局のところ女心による決断がどちらだったかの問題だとすれば、モフィットの見解は王女そのものにエキセントリックな一面があったのだという話になる。聖書によれば、サロメはヘロデ・アンティパスに、祝宴での舞踏の褒美として「好きなものを求めよ」と言われ、「洗礼者ヨハネの斬首」を求めたほど気性の荒い女である。実は若者をめぐって王女サロメと犠牲になった女は三角関係の間柄にあった。処刑の日の前日、サロメは女には「虎でなくお前を選ばせる」と伝えたが、実際には虎を選ばせたのである。虎を選ばせたから、女を選ばせる選択肢が消えたかといえば、そうではない。若者は結果的に「女と虎と」両方を選ばされたことになる。
さらに問題は、とっさの機転で命拾いした若者である。ストックトンの作品では若者の人物像がほとんど描き込まれていなかった。モフィットはこの若者に、王女サロメと若い女の間を渡り歩きながら権謀術数を張り巡らせ、サロメと結婚して国家を手中に収めようとする野心家の役割を与えている。結局、虎からは逃れられた彼だが、危険人物と見なされて死刑に処されてしまう。それにしても、シンプルな寓話である「女か虎か」の問題提起をここまでふくらませた作者モフィットの力量は大したものである。
ジャック・モフィット(1901~69年)の本業は、前述の「謎の物語」の改題によれば、ハリウッドの脚本家。ケーリー・グラント主演の「夜も昼も」などで知られているが、とくにミステリー映画と関係が深いというわけでもないらしい。名作の続編を考えるのが得意だったようで、ほかにアンリ・ルネ・アルベール・ギ・ド・モーパッサンの「首飾り」の続編なども手掛けているという。(こや)
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