第92回 独断と偏見で10本を選ぶ 外国映画オールタイムベストテン(コッポラ他)文学に関するコラム・たまたま本の話
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今回は映画の話。独断と偏見で外国映画オールタイムベストテンを選んでみたので、ご笑覧を。(順不同)
① 地獄の黙示録
監督:フランシス・フォード・コッポラ 製作:1979年、アメリカ
ベトナム戦争映画を作るとハリウッドに宣言して、ジョゼフ・コンラッドやトマス・エリオット、ジョージ・フレイザーなどを換骨奪胎させた個人的な映像文学をコッポラは作ってしまった。特に2002年に編集された特別完全版をお勧めしたい。新たに加わったフレンチ・プランテーションの場面、ベトナムに介入したアメリカとフランスの食卓で交わされる議論は、そのまま戦争論として読める。
② 夜明けの舗道
監督:ジョン・ニューランド 製作:1970年、イギリス
ロミー・シュナイダー演ずる母親の、息子へのゆがんだ愛情がサスペンスを生む隠れた傑作。精神分析学的映画として、アルフレッド・ヒッチコックの「サイコ」や「めまい」を凌ぐのでは?
③ 或る夜の出来事
監督:フランク・キャプラ 製作:1934年、アメリカ
④ スミス都へ行く
監督:フランク・キャプラ 製作:1939年、アメリカ
キャプラ映画を2本。実はキャプラ・タッチというよりも、当時ハリウッドで全盛のスクリューボール・コメディーを撮ったら、まさにキャプラ映画になってしまったのが「或る夜……」。それに対して、まぎれもなくキャプラ・タッチで撮ろうとして撮ったのが「スミス……」。そのどちらもが傑作で、どこを切ってもキャプラなのだからすごいの一語に尽きる。
⑤ ある戦慄
監督:ラリー・ピアース 製作:1967年、アメリカ
映画は大きく2通りに分かれる。グランドホテル・システムとロードムーヴィーだが、両要素の幸福な結実がジョン・フォードの「駅馬車」だとすれば、こちらはホテルを地下鉄に置き換えて、さらに人種問題などを加味して練り上げられている。凡百のニューシネマとは一線を画する。
⑥ ローマの休日
監督:ウィリアム・ワイラー 製作:1953年、アメリカ
あまりに傑作なので、タイトルに隠された意味にまで考えが及ばない。「ホリデー・イン・ローマ」でなく「ローマン・ホリデー」なのだ。つまり「ローマの休日」ならぬ「ローマ人の休日」。古代ローマ人が休日に兵士どうしの殺し合いをコロシアムで観戦して楽しんだように、グレゴリー・ペックとオードリー・ヘップバーンの成就しない恋を、観客の皆さんは存分に楽しんでください、という意味がこめられた恐るべき映画。
⑦ コンバット 恐怖の人間狩り
(日本未公開、テレビ放映、VHS発売)
監督:ハーヴェイ・ハート 製作:1976年、カナダ
ダグラス・フェアベアン「銃撃!」が原作の低予算映画。アクション映画かと思いきや、途中からフランツ・カフカ的迷宮に吸い込まれていくのに驚かされる。ラストシーンには、銃社会アメリカの抱える問題と米ソ冷戦時代の緊張感がメタファーとして漂っているように感じる。
⑧ マリア・ブラウンの結婚
監督:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー 製作:1979年、西ドイツ
西ドイツという国も、1989年のベルリンの壁崩壊と東西ドイツ統一で消えてしまった。戦後世代のトップランナーであるファスビンダーが戦後のドイツ社会を1人の女性の運命に託して描き切った、いわばドイツ版「浮雲」。ハンナ・シグラは高峰秀子を超えたか?
⑨ 暗殺のオペラ
監督:ベルナルド・ベルトルッチ 製作:1970年、イタリア
「ルナ」「ラスト・エンペラー」「リトル・ブッダ」と連なる、ベルトルッチの輪廻転生テーマのルーツは、この1970年のホルヘ・ルイス・ボルヘス原作の小品にあったことに納得。考えてみればフョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーの「分身」を映画にしたのもベルトルッチだった。
⑩ 生きていた男
監督:マイケル・アンダーソン 製作:1958年、アメリカ
どんでん返しのある映画は、どんでん返しがあるということさえ、本来うたってはいけない。しかしあっと驚く意外な結末ベスト5といった企画に、「サイコ」やアンリ・ジョルジュ・クルーゾー「悪魔のような女」とともに顔を出す常連作品なので、お許しを。緻密な構成は映画作りのお手本のようだ。(こや)

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2018/07/05 13:44 | コラム「たまたま本の話」
2018.05.07 文学の古本18件を登録しました。
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カルメン、コロンバ (カルメン・コロンバ) Carmen/Colomba
プロスペル・メリメ/平岡篤頼・訳、解説、年譜
講談社文芸文庫

わが切抜帖より、昔の東京 現代日本のエッセイ (わが切抜帖より・昔の東京)
永井龍男/中野孝次・人と作品、森本昭三郎・年譜
講談社文芸文庫

東京の横丁
永井龍男/友野朝子・あとがきに代えて、川本三郎・解説
講談社文芸文庫

遠藤周作短篇名作選 パロディ、イヤな奴、あまりに碧い空、その前日、四十歳の男、影法師、母なるもの、巡礼他
遠藤周作/加藤宗哉・解説、年譜
講談社文芸文庫

昭和戦前傑作落語選集 伝説の名人編
講談社文芸文庫・編
講談社文芸文庫

大東京繁盛記 下町篇 本所両国、深川浅景、大川風景、大川端、雷門以北、日本橋付近、新古細句銀座通
講談社文芸文庫・編(芥川龍之介、泉鏡花、北原白秋、吉井勇、久保田万太郎、田山花袋、岸田劉生)、川本三郎・解説
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私の長崎地図
佐多稲子/長谷川啓・解説、佐多稲子研究会・年譜、著者目録
講談社文芸文庫

春の華客、旅恋い 山川方夫名作選 (春の華客・旅恋い)
山川方夫/川本三郎・解説、坂上弘・年譜、著者目録
講談社文芸文庫

寺田寅彦セレクション2
寺田寅彦/千葉俊二、細川光洋・選
講談社文芸文庫

袋小路の休日
小林信彦/坪内祐三・解説他
講談社文芸文庫

半日半夜 杉本秀太郎エッセイ集
杉本秀太郎/阿部愼蔵・解説
講談社文芸文庫

飛魂
多和田葉子/沼野充義・解説、谷口幸代・年譜
講談社文芸文庫

地獄変相奏鳴曲 第一楽章、第二楽章、第三楽章、第四楽章 (全2冊) 白日の序曲、伝説の黄昏、犠牲の座標、閉幕の思想
大西巨人/阿部和重・解説、齋藤秀昭・年譜
講談社文芸文庫

志賀直哉・天皇・中野重治
藤枝静男/朝吹真理子・解説、津久井隆・年譜
講談社文芸文庫

藤枝静男随筆集
藤枝静男/堀江敏幸・解説、津久井隆・年譜
講談社文芸文庫

悪酒の時代、猫のことなど 梅崎春生随筆集 (悪酒の時代、猫の事など)
梅崎春生/外岡秀俊・解説、根本一郎・参考資料、古林尚・著者目録
講談社文芸文庫

酔いざめ日記 (酔い覚め日記)
木山捷平/木山みさを・著者に代わって読者へ
講談社文芸文庫

プリューターク英雄伝
澤田謙
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2018/05/07 13:01 | 新着情報
第91回 「ねじ式」に登場するアイヌ人(つげ義春)文学に関するコラム・たまたま本の話
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これは、従来のつげ義春研究に一石を投じる労作ではないか。元読売新聞記者の矢崎秀行が書いた「つげ義春『ねじ式』のヒミツ」(2018年1月、響文社刊)である。矢崎は「ねじ式」の初めのほうの5ページ目、「背広姿の黒縁メガネの男性がスパナを持って胡坐(あぐら)をかいている不思議なコマ」を取り上げて、これは「木村伊兵衛(1901~74)の写真『知里高央(たかなか)氏』(1965年)からの引用」だと指摘する。写真と漫画を見比べてみると、確かに構図から何からそっくりだ。スパナは持っていないが、この絵が知里高央(ちり・たかなか、1907~65)をモデルにしていることは疑いない。
知里高央とは誰か。北海道・幌別のアイヌ名門の家柄の教育者である。インターネット資料によれば、「明治40年4月15日生まれ。知里ナミの長男。知里幸恵(ゆきえ)の弟。知里真志保(ましほ)の兄。イギリス人宣教師バチェラー家の家庭教師,幌別中学などの教師をつとめ、またアイヌ語の語彙研究に従事した。昭和40年8月25日死去。58歳。北海道出身。小樽高商(現小樽商大)卒」とある。
矢崎の指摘は続く。「知里はこの写真が撮られてすぐ、同じ年、1965年に58歳で亡くなっている。その意味ではこの絵の元になった彼の写真は遺影ポートレートとも言えるものだ」「写真が収録された『定本 木村伊兵衛』(朝日新聞社)はずっと後、2002年の発行なので、おそらくつげはこれが発表された『アサヒカメラ1965年7月号』で見ている可能性が高い。彼は自ら写真を撮る漫画家で、一時は中古カメラ屋を開いたほどの写真カメラ愛好家である。写真雑誌には日常的に親しんでいた」。
「ねじ式」は「ガロ」1968年6月臨時増刊号に発表されている。つまり「ねじ式」発表の時点で知里高央はすでに故人であった。とすれば、メメクラゲに噛まれて静脈が切断され、切迫した死への恐怖におののく主人公の前にスパナを持って現れる彼は、生の担い手ではなく死の導き手であったということになる。こんな重要な点が50年間も見逃されてきたことに驚くが、インターネット上では数年前から「この絵の元ネタは知里のポートレートではないか」と話題になっていたらしい。しかし「何故いきなりアイヌの名門家系の末裔が脈略もなく突然登場するのだろうか。それも左手に両口スパナを持って」。矢崎の疑問ももっともである。
以下はあくまでも私見である。「ねじ式」は、先行する同じつげ義春の傑作「山椒魚」(「ガロ」1967年5月号)との関連性でとらえられるべき作品ではないか。「山椒魚」を振り返ってみよう。山椒魚は「悪臭と汚物によどんだ穴の中」、つまり下水道に棲んでいる。最後に人間の胎児の屍骸が流れてくるシーンがある。これは不幸にも産み捨てられ、下水道に流されて来てしまった胎児なのだろう。山椒魚と胎児は、単なる行きずりの関係なのだろうか。山椒魚は人間の生まれ変わりなのではないか。胎児は山椒魚の前世の姿なのではないか。そんな思いを強く感じさせる。前世と現世がなぜこの下水道で出会うのか。
今回、この下水道をニライカナイと考えたらどうか、と思い至った。ニライカナイとは遥か遠い東(辰巳の方角)の海の彼方、または海の底、地の底にあるとされる異界のこと。豊穣や生命の源であり、神界でもある。年初にはニライカナイから神がやってきて豊穣をもたらし、年末にはまた帰るとされている。また、生者の魂もニライカナイから来て、死者の魂はニライカナイに去ると考えられている。ニライカナイ信仰は、沖縄県や鹿児島県奄美群島の各地において伝統的な民間信仰である。
「山椒魚」において、胎児は下水道にやってきた。つまりニライカナイに来た死者の魂である。その胎児と遭遇した山椒魚は、ニライカナイで生まれ変わった生者の魂であろう。最後、背を向けて泳いでいく山椒魚の姿は象徴的である。そう考えると、この下水道は決して不吉な空間でなく、神と輪廻と転生の神界であるということが分かる。そしてそこには永遠の時間が流れている。
この神界ニライカナイのイメージが、聖地アフンルパルに転換したのが「ねじ式」という作品だったのではないか、と思うのだ。アフンルパルとは何か。沖縄とアイヌは民族的に同じルーツを持つとされる。ニライカナイに似た概念として、アフンルパルと呼ばれる聖地が沖縄にもある。アフンルパルは「“入る道の口”の義。あの世への入口。多くは海岸または河岸の洞穴であるが、波打際近くの海中にあって干潮の際に現れる岩穴であることもあり、また地上に深く掘った人口の竪穴であることもある」。この解説を「地名アイヌ語小辞典」で書いているのは、他ならぬ知里高央の実弟で、アイヌ初の北海道大学教授になった知里真志保である。そして形状的にアフンルパルは、窪地状でありねじ溝状であるケースが多い。まさに「ねじ式」聖地だ。これは詩人の吉増剛造も指摘しているという。
「ねじ式」では、最初のコマから、主人公はメメクラゲに左腕を噛まれて静脈が切断されている。つまり下水道でゆったりと泳ぐ山椒魚と違って、切迫する死への恐怖の中で、少年は医者を探すことを必然づけられている。「山椒魚」では永遠であったはずの時間が、「ねじ式」では限定された時間に転化している。山椒魚が背を向けて去っていったのとは対照的に、少年は海からこちらに顔を向けてやってくる。「ねじ式」における彼は、あの世への入口に足を踏み入れたのだ。だから死からの生還をねじに委ねざるを得なかった。そうは考えられないだろうか。(こや)

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2018/04/14 16:03 | コラム「たまたま本の話」
第90回 文豪・文士、映画を語る(司馬遼太郎、松本清張ほか)文学に関するコラム・たまたま本の話
電子書籍「文学コラム・いいたま」を公開しました

斜陽の映画業界を、あなただったらどう改善しますか――と問われ、ある作家はこう答えている。
「ぼくは簡単なことだと思うんだ。お客さんがイージーに見にゆけんようにしたらいい。まず、田舎の映画館を整理することですね。都会でも場末の館は転業させて、一流の映画館だけ残す。そして、観客がフロアに入ってきたときから『これはゴージャスなもんや』と驚くような――いわばホテル・ニュー・オータニ式の雰囲気(笑)を盛り込む。場内では必ずオーヴァーはぬがし、ちゃんとした姿勢で見させる。ちょうど、18世紀の芝居見物と同じようなマナーを要求するわけです」
映画の観客を外食券食堂に並ばせるのでなく、金屏風の前に座らせなくてはならない。そう主張する作家は誰あろう、司馬遼太郎(1923年生まれ)である。「キネマ旬報」1965年3月上旬号の「『映画革命』に関する対話」で、時事通信記者・岡本太郎のインタビューに答えている。小さな町にも1つはあった映画館がなくなり、環境設備の整った都心のシネマコンプレックスで特別料金を払って3D、4D映画を楽しむ。そんな現在の映画鑑賞の姿を、さながら予見しているかのようだ。
1958年に戦後最高の11億2,745万人あった映画観客動員数は、テレビの普及などによって翌年から急激に減り始めた。その7年後、司馬発言のあった1965年は、映画産業の不況が深刻な社会問題となった年である。映画館数で見ると、1960年の7,457館から、1965年は約4割減の4,649館にまで落ち込んでいる。娯楽の王者が衰退していくのを、指をくわえながらただ眺めているだけ。おそらく司馬はそんな状況に我慢できなかったのだろう。
埋もれていたこの対談記事を発掘してくれたのは、先日、刊行された「文豪文士が愛した映画たち 昭和の作家映画論コレクション」(根本隆一郎編、2018年1月、ちくま文庫刊)である。明治時代に産声を上げて、大正時代に花開き、昭和時代に全盛を迎えた映画というメディアについて、かつて文豪や文士がどんなことを書いていたか。「モンローを川端が語り ヒッチコックを乱歩が論じる シネマに魅せられ、熱く語った作家たち」(帯のコピー)の貴重な記録が51編、収められている。
一読して興味深いのは、映画というメディアに対するスタンスの違いである。これは世代によってかなり変わってきている。極端に言えば、昭和初期までの文豪にとっては、映画などという娯楽は芸術でないのだから、たしなみ程度に書いておけばいいという認識があったように思う。
「しかし映画というものは記憶しないものだ。きょうのだって誰の次に誰が出たという場所はもう記憶していない。映画ってどうして芝居やなんかと違って忘れてしまうのだろうね。細かいところをみんな忘れてしまいましたよ。早いからでしょうね」(1955年)。これは「女優ナナ」(クリスチャン・ジャック監督、1955年、フランス)を見た、1879年生まれの永井荷風の言葉。
「大衆に金を払わせるものは、『芸術』であってはならない。『娯楽』でなければならない。『芸術』というものは、本質は、全く面白くないものである。もし、それがすこしでも面白かったら、それは『芸術』の枠から、はみ出してしまっているのである。『芸術』には、一般大衆に理解させようとする努力が払われる必要はない。それが判る人だけに、提供されるべきものである。映画が、どう考えても『芸術』として成立つわけがない。それをどうして映画人たちは『映画芸術を』とうそぶくのか。阿呆らしい話である」(1966年)。この批判の主は1917年生まれのシバレンこと柴田錬三郎。自作の「眠狂四郎」はずいぶん映画化されているが。
他にも、内田百閒(1889年生まれ)や佐藤春夫(1892年生まれ)は、「映画を見ない、好きではない」とエッセーで公言している。多くの文士たちにとっては「たかが映画」に過ぎなかったのである。ただし、そうではない文豪もいる。谷崎潤一郎(1886年生まれ)は、すでに1921年の日本公開時に「カリガリ博士」(ロベルト・ウィーネ監督、1919年、ドイツ)の芸術性を高く評価していた。
映画を芸術として認め、その表現手段が文学の脅威になると認識していたのは、松本清張(1909年生まれ)であろう。1974年に発表されたエッセー「スリラー映画」の中で、推理小説と映画の違いについてこう書いている。
「小説は何時間も何日間もかかって読むことが出来るが、映画は2時間くらいで終了せざるを得ない。この時間の拘束が、観客に考える余裕を与えない。謎解きを主とした推理小説は、読者が途中で速度をゆるめたり休んだりすることで、謎を考えることが出来るが、映画の観客は絶えず忙しく画面の流動に眼をさらされることを余儀なくされる」。そして「謎解きを主とした推理映画のむつかしさがここにある」と述べ、「それにくらべると、加害者の企みも見せ、被害者の危機も見せるスリラー映画は安心である。そこには思考の負担が少なくなり、行動だけでスリルを描くことが出来る」と、推理小説とは異なるスリラー映画の独自性に賛辞を送るのだ。
かつてサスペンス映画の名匠アルフレッド・ヒッチコックは「本格推理はサスペンスを生まない」という名言を残した。それと通底するものがある。松本清張の小説は数多く映画化、テレビドラマ化されていて、映像メディアとの相性の良さが指摘されるが、その理由の一端を垣間見た気がする。(こや)「たまたま本の話」は「miniたま」に毎号掲載しているコラムです。
「miniたま」は、インターネット古書店「ほんのたまご」とお客様を結ぶ架け橋として、
ご注文書籍とともにお送りしているミニコミ紙です。

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2018/02/10 13:59 | コラム「たまたま本の話」
2018.02.03 海外文学の古本20件を登録しました。
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ブレヒト没後五十年1
岩淵達治(ベルトルト・ブレヒト)
カモミール社

二人のキャプテン (2人のキャプテン)
ヴェニアミン・カヴェーリン/入谷郷・訳
郁朋社

一世紀より長い一日 (1世紀より長い1日)
チンギス・アイトマートフ/飯田規和・訳
講談社

裏窓の目撃者 海外SFミステリー傑作選12 (裏窓 Rear Window)
ウィリアム・アイリッシュ(コーネル・ウールリッチ)/内田庶・訳、各務三郎・解説、山本利一・表挿画
国土社

暴力のまち 海外SFみすてりー傑作選13 (Corkscrew)
ダシール・ハメット(D・ハメット)/内田庶・訳、各務三郎・解説、山本利一・表画、野崎猛・挿画
国土社

探偵奇譚 呉田博士 完全版 (ソーンダイク博士)
三津木春影/末國善己・編(オースティン・フリーマン)
作品社

ロンメル進軍 リチャード・ブローティガン詩集 ROMMEL DRIVES ON DEEP INTO EGYIPT
リチャード・ブローティガン/高橋源一郎、土橋とし子・表挿画
思潮社

ひらめ(上・下) 現代の世界文学 Der Butt
ギュンター・グラス/高木研一、宮原朗・訳
集英社

ペインティッド・バード 東欧の想像力7 The Painted Bird
イェジー・コシンスキ/西成彦・訳
松籟社

瞳孔の中 クルジジャノフスキイ作品集
シギズムンド・クルジジャノフスキイ/上田洋子、秋草俊一郎・訳
松籟社

東欧の想像力 現代東欧文学ガイド
奥彩子、西成彦、沼野充義・編
松籟社

オニチャ ONITSHA
ジャン・マリ・ギュスターヴ・ル・クレジオ/望月芳郎・訳
新潮社

狩猟期 AFFLICTION
ラッセル・バンクス/真野明裕・訳
早川書房

リュバルブの葉蔭に La rhubarbe (ルバーブの葉蔭に、リュバルブの葉陰に)
ルネ・ヴィクトール・ピール(ルネ‐ヴィクトール・ピール)/荒木亨・訳
筑摩書房

アガサ・クリスティーの大英帝国 名作ミステリと「観光」の時代 (アガサ・クリスティの大英帝国)
東秀紀
筑摩選書

川のアメリカ文学
岩山太次郎、別府恵子・編
南雲堂

シュガー 新しいイギリスの小説 Sugar and Other Stories
アントニア・スーザン・バイアット(A・S・バイアット)/池田栄一、篠目清美・訳
白水社

誰がドルンチナを連れ戻したか Qui a ramene Doruntine?
イスマイル・カダレ/平岡敦・訳
白水社

楽園ニュース PARADISE NEWS
ディヴィッド・ロッジ/高儀進・訳、東京工作クラブ・表画
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物の時代 小さなバイク Les choses、Quel petit velo a guiden chrome au fond de la cour?
ジョルジュ・ペレック/弓削三男・訳文遊社


「たまたま本の話」はミニコミ紙「miniたま」に毎号掲載しているコラムです。
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ご注文書籍とともにお送りしております。

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2018/02/03 15:08 | 新着情報

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