第89回われ隣人を見送る人生(田中小実昌)文学に関するコラム・たまたま本の話
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田中小実昌の名前は、直木賞、谷崎潤一郎賞受賞作家として、日本文学史にさん然と輝いている。しかし作家というイメージからどことなくかけ離れているのは、そのユニークな風貌や経歴によるものだろう。インターネット資料からプロフィールをまとめてみる。
田中小実昌(たなか・こみまさ)は1925年(大正14年)、東京市千駄ヶ谷生まれ。父・田中種助はバプテストの神学校を出た牧師であった。父の転勤で4歳から広島県呉市東三津田町で育つ。1944年、19歳で出征し、山口県の連隊に入営。中国の湖北省と湖南省の境で、鉄道警備部隊に編入され、苦しい行軍中にアメーバ赤痢、マラリア、コレラに罹る。特徴的なツルツル頭はその後遺症ともいわれる――と資料にはあった。野戦病院に移され、終戦を迎える。呉市に戻り、英語が堪能だったので米軍基地の兵舎のストーブマンなどを務めたあと、1947年、東京大学文学部哲学科に無試験入学するもほとんど出席せず、除籍となる。
ユニークなのはここからで、在学中からストリップ劇場「東京フォーリーズ」での演出助手(後にコメディアンとして出演)や、バーテンダー、啖呵売、易者などの職を渡り歩き、その経験を元に踊り子や客たちとの交流を描いたエッセイを書いて注目された。1950年に進駐軍横田基地で職を得る。1954年より米軍の医学研究所で化学実験の仕事をし、その傍ら、翻訳家として、主にハードボイルド小説を多数、翻訳する。早川書房のカーター・ブラウン作品などはほとんど訳している。文筆活動の出発点が翻訳だったことは押さえておいていい。
小説家としてのキャリアは、1952年「新潮」に「上陸」を発表、1966年に「どうでもいいこと」を「文學界」に発表しているが、本格的に作家活動に入ったのは1967年以降、「オール讀物」「小説現代」などに大衆小説を発表し始めてからである。1971年、「自動巻時計の一日」で直木賞候補。1979年、「ミミのこと」「浪曲師朝日丸の話」の2作品で直木賞を受賞した。
今回、資料で知ったことだが、その2作を雑誌に発表したのは、実は1971年だったという。それが8年後に単行本「香具師の旅」に収録されため、直木賞候補になって受賞に至ったもので、きわめて異例である。同年、戦争体験や父の姿に題材を取った短編集「ポロポロ」(これも表題作は1977年発表)で谷崎潤一郎賞も受賞する。
受賞後も直木賞、谷崎賞作家らしくないユニークな活動ぶりで知られた。「コミさん」の愛称で親しまれ、往年の深夜番組「11PM」を始めとしてテレビドラマ、映画、CMに出演。ピンク映画でカラミを演じたこともある。毛糸で編んだ帽子がトレードマーク。新宿ゴールデン街の常連としても鳴らした。午前中に原稿を書き、午後は映画会社の試写室で映画を見て、夜は家か飲み屋で飲む。週末には、目的もなくバスに乗っていたという。2000年2月、滞在先のアメリカ・ロサンゼルスで肺炎のため客死した。74歳。
牧師の息子で英語が堪能、翻訳や文筆活動の傍ら、大酒を飲み、ストリップ劇場やピンク映画にも出演する。こうしたコミさんの多面的な活動の原動力はどこから来るのだろう。このほど刊行された「田中小実昌ベスト・エッセイ」(大庭萱朗編、2017年12月、ちくま文庫刊)を読むと、その人生哲学の一端が垣間見える。例えばこんな描写がある。戦争末期、行軍中にコミさんの赤痢とマラリアがひどくなり、同じく病気にかかった戦友とともに旅団本部に送り返されるくだりだ(「昭和19年…(抄)」より)。
「新入りの患者のほうが病状はひどくて、ほとんどが板の上に寝かされたまま、息をひきとった。このときぼくの中隊からは、乙幹の軍曹と4年兵の上等兵とぼくの3人がおくられてきたのだが、乙幹の軍曹はついたあくる日に死んだ。死んだ顔は歯をむきだすようにし、そっ歯に、デコレーション・ケーキにつかうフィップ・クリームのようなものがべったりついていた」
戦地だから当然と言えば当然だが、まさに死が周辺にごろごろと転がっている日常。凄まじい描写がさらに続く。
「4年兵の上等兵は、しずかな口をきく、オジさんみたいなひとで(召集兵だったんだろう)これも1週間ほどで死んだ。このひとは栄養失調で顔がだんだん茶っぽいような色になり、死んだときはほんとにほうじ茶みたいな色をしていた。ぼくのとなりにいた初年兵も栄養失調で、便所にいったら、赤い血がすとーんと出ました、なんて軍医に言い、軍医は、へえ、赤い血がすとーんとねえ、とわらっていたが、ある晩、『寒(さぶ)い、寒い……』とほそい悲鳴みたいな声をだすので、せめてぼくの体温であたためてやろうと、抱いて寝たが、朝、目がさめたら、死んでいた。衛生兵がカンフル注射を打ちにきたら、死んでたので、衛生兵は『おい、タナカ、かわりにおまえに打ってやろう』とぼくにカンフル注射を打ってくれた」
死者を見送るコミさん自身も、重いマラリアで苦しんでいるのだから、軍曹や上等兵や初年兵の運命は、まさに明日の自分を見るようであっただろう。この本には戦後の一時代を築いたストリッパーの追悼文も収められている(「ジプシー・ローズをしのぶ」)。初年兵に打つはずだったカンフル注射を打ってもらったことに象徴されるように、自分の人生は無念にも倒れていった死屍累々の隣人たちによって生かされている、という思いがコミさんにはあるのだと思う。文筆活動もストリップとのかかわりも、そのすべてが彼らへの深い鎮魂に満ちている。(こや)
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2018/01/05 13:29 | コラム「たまたま本の話」
第88回スマホなき時代のミステリ(結城昌治)文学に関するコラム・たまたま本の話
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年が明ければ平成も30年。新聞によれば、天皇陛下が2019年4月30日に退位、5月1日に皇太子が即位、同時に改元という方向で調整に入っている。平成という時代も風前の灯なのだ。もはや「昭和は遠くなりにけり」である。
そんな折、往年の名作ミステリが復刊されたので取り上げたい。「あるフィルムの背景 ミステリ短篇傑作選」(2017年11月、ちくま文庫刊)。著者は結城昌治(1927-1996)。新刊の帯には「昭和に書かれていた極上イヤミス見つけちゃいました」という惹句が書かれている。ミステリ評論家の日下三蔵の編集による1冊だが、これがとてつもなく面白い。スマートフォンもGPS機能もなかった昭和という時代を考えるためには、最良のテキストといえる。
1972(昭和47)年6月に角川文庫から結城昌治の短編集が刊行された。著者自らが選んだサスペンス系列の短編8編を収めた「あるフィルムの背景」である。刊行当時、質の高さで話題になったものだが、今回のちくま文庫版はその短編集を丸ごと収録している。それだけではない。ブラックユーモア系列の短編5編が増補され、合わせて13編を収めた垂涎の1冊に仕上がっている。これはまぎれもなくザ・ベスト・オブ結城昌治であろう。
タイトルと執筆時期を見てみよう。掲載誌名は省くが、サスペンス系列8編が「惨事」1963年12月、「蝮の家」1961年4月、「孤独なカラス」1964年2月、「老後」1966年1月、「私に触らないで」1964年9月、「みにくいアヒル」1965年3月、「女の檻」1966年10月、「あるフィルムの背景」1963年2月。ブラックユーモア系列5編が「絶対反対」1962年1月、「うまい話」1960年8月、「雪山讃歌」1962年1月、「葬式紳士」1961年9月、「温情判事」1960年11月。
見事なまでに、1960年代の前半から中盤(昭和35~41年)にかけて書かれた作品ばかりである。当時がどんな時代だったかといえば、1960年の安保闘争と1964年の東京オリンピックを経て、1970年の大阪万国博覧会を見据えた時期に当たる。日本の高度経済成長期は、1956年に経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言したことに始まる。1955年から1973年の18年間は、年平均10%以上の経済成長を達成した。結城がこれらの秀作短編を矢継ぎ早に発表した時期は、まさに日本が高度経済成長と国際化の波に乗っていた時代だったのである。
その時代にミステリ短編を書くとはどういうことを意味するか。高度経済成長の波に乗って順調に人生を送っている人物を描くのではドラマにならない。当然、登場するのは社会から弾き飛ばされた人間ばかりだ。以下、作品の内容に触れるので未読の方はご注意を。
「惨事」では、定時制高校に通いながら地元の信用金庫に勤めている少女が、花火大会で強姦されたことによって人生が変転していくさまが描かれている。やがてバスガイドとなった彼女は、乗客の中に自分を強姦した男がいるのを知って、バスを谷底に転落させてしまう。いかに多くの中卒就労者が、高度経済成長を陰で支えていたかを暗示させる物悲しい話である。「孤独なカラス」は、「カラス」と呼ばれ友だちもいない少年の周囲で起きる変死事件の話。統合失調症や多重人格を取り上げたごく初期の小説という趣きもあり、かつて筒井康隆が編んだ伝説の恐怖小説アンソロジー「異形の白昼」(1969年11月、立風書房刊)にも収録された。「みにくいアヒル」は、幼いころから容姿をからかわれてきた女性が、男に襲われそうになって相手を殺してしまう。しかし自分を襲おうとした男がいたことで皮肉にも積年のコンプレックスが解消されるという話である。歯科医(「私に触らないで」)や医大講師夫人(「蝮の家」)、検事(「あるフィルムの背景」)や判事(「温情判事」)といったエリート街道を歩んでいる人物が登場する作品であっても、彼らはちょっとした金に目がくらんだために、あるいは妻を殺された復讐のために、ふとしたはずみで人生を踏み外す。
結城昌治は1927年に東京の品川に生まれている。旧制高等学校受験に失敗したのを機に、海軍特別幹部練習生を志願。終戦直前の1945年5月に武山海兵団に入団するも、身体再検査の結果、すぐに帰郷を命ぜられる。帰宅の晩に空襲で自宅が焼失したため、敗戦まで栃木県那須に疎開したという。戦後の1946年、早稲田専門学校法律科に入学。1948年に東京地方検察庁に事務官として就職するが、就職後1年足らずで肺結核になり、国立東京療養所に入院、1951年まで療養生活を送った。その後も1959年には胃から吐血し、1か月ほど虎の門病院に入院している。つまり戦中、戦後それぞれの局面でエリート街道を歩み出したとたんに、病気や空襲によってつまずくという憂き目にあっている。使い古された言葉だが「人生は一寸先が闇」という言葉を、結城はまさしく自分の生き方において実感したのではないか。
しかし運命は分からない。肺結核で入院中に知り合った作家の福永武彦に薦められ、海外の推理小説を読み始めたのがきっかけとなって、1959年の作家デビューにつながっていく。デビュー作は「エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン」日本版の第1回短編コンテストに応募した「寒中水泳」で、同誌の7月号に掲載された。1960年には東京地方検察庁を退職して作家専業となる。その後の活躍はご存じの通り。作品のジャンルはミステリだけでなく多岐にわたり、1970年には戦時中の軍部の裏面を描いた「軍旗はためく下に」で第63回直木賞を受賞している。人生は一寸先に光もあった。(こや)

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2017/12/11 11:49 | コラム「たまたま本の話」
第87回 ノーベル賞作家をめぐる3つの記事(カズオ・イシグロ)文学に関するコラム・たまたま本の話
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周知のように、2017年のノーベル文学賞はカズオ・イシグロが受賞した。彼は1954年、日本の長崎市に生まれ、5歳の時に父親がイギリスの研究所に赴任するのに伴い、渡英した。1983年には英国籍を取得しているから、今回の賞はイギリス在住の英国人が受けたということになる。
しかしながら新聞やテレビなどのメディアは、あたかも日本人が受賞したかのように報じた。イシグロは受賞後にロンドンで受けたインタビューで、川端康成、大江健三郎に続く3人目の日本出身作家としての受賞について聞かれ、「同じ歩みの中にいられることに感謝したい」と語った。となれば当然、日本の新聞は「川端、大江に続き」といった見出しで記事を載せる。そんな報道が続く中、ちょっと注目すべき3つの記事があったので紹介したい。
1つ目は、「イシグロさんが石黒さんではない不幸」という記事。夕刊紙の日刊ゲンダイ10月12日号(11日発行)に掲載された。記事は、イシグロは「国籍上は日本人ではない」と指摘するところから始まる。「日本の国籍法は、11条で『日本国民は、自己の志望によって外国の国籍を取得した時点で日本の国籍を失う』と定めている。イシグロさんは、英国の国籍を取得した時点で石黒さんではなくなったのだ。もしも日本が二重国籍を認めていれば、イシグロさんは石黒さんでもあった。だれにはばかることなく“日本人として3人目の快挙”となったし、今以上に盛り上がったのではないか」と述べている。
出版の面でいえば、十分に盛り上がっている。イシグロの著作8作品の邦訳版を出版する早川書房では、今回の受賞が決まってから、8作合わせて105万5000部を増刷した。レジ脇に「カズオ・イシグロ著作コーナー」を特設した大手書店もある。10月30日付のオリコン週間“本”ランキング文庫部門では、第1位「日の名残り」(2001年5月刊)、第2位「わたしを離さないで」(2008年8月刊)、第3位「忘れられた巨人」(2017年10月刊)と売れ行きトップ3をイシグロ作品が独占。「遠い山なみの光」も第6位に入る快挙を見せている。ノーベル賞を受賞した海外作家の本が、例年こんなに売れることはない。極めて異例なこの現象は、明らかに「日本出身作家がノーベル文学賞」というトーンの報道に、多くの人が興味を引かれたからだろう。
注目記事の2つ目は、「ノーベル文学賞 カズオ・イシグロ氏 文化勲章に選ばれなかったわけ」というもので、やはり日刊ゲンダイ2017年10月27日号(26日発行)に掲載された。ノーベル賞の受賞が決定した日本人はだいたいその年に文化勲章を贈られるが、イシグロは今回、選ばれなかった。それは過去に故・佐藤栄作元首相(1974年平和賞)と作家の大江健三郎(1994年文学賞)の2例しかない(大江は受章辞退)という。
ちなみに文化勲章は日本国籍でなくとも受章できる。「米NY生まれの日本文学研究者ドナルド・キーン氏は、日本国籍を取得する前の2008年度に受章」しているし、「キーン氏のほかにも、ノーベル賞受賞者でいえば、米国籍の故・南部陽一郎氏(2008年物理学賞)や、中村修二氏(2014年物理学賞)が文化勲章を受章しているから、イシグロ氏が受章したって、おかしいというわけでもなさそうだ」と日刊ゲンダイは書いている。ただし、記事の結論は文科省の番記者のこんな談話で締められている――「文化勲章は日本人、もしくはキーン氏のように外国籍でも日本における功績があった人に贈られるものです。5歳で渡英し、英語で書いているイシグロ氏は、いずれにも当てはまらない。それだけのことでしょう」。
しかし、イシグロの処女長編「遠い山なみの光」(1982年、英国王立文学協会賞受賞)は英国に住む日本人女性が主人公だし、2作目の「浮世の画家」(1986年)は戦後すぐの日本が舞台となっている。日本についての著作で作家としてのスタートを切ったイシグロに、「日本における功績」がなかったと言えるだろうか。そんな疑問に対してヒントを与えてくれたのが、注目記事の3つ目、「英語圏育ちのイシグロ氏」という読売新聞2017年10月29日付首都圏版朝刊のコラムだった。日本文学研究者のマイケル・エメリックが、同紙に連載しているコラム「カリフォルニアで日本文学を読む」の中で、「浮世の画家」を読んで複雑な気持ちを抱いたと書いている。
「この小説は1948年の日本が舞台だが、作者が日本のことをあまり知らず、また知ろうとしていない感を受けた。例えば、町の公園には大正天皇の像が立っているとある。日本には近代の象徴としての明治天皇の銅像しか存在しない」「登場人物のしゃべり方も当時の英語圏のテレビや映画などで日本人がしゃべる、奇妙な翻訳調の言葉を想起させる」と指摘したエメリックは、「つまり『浮世の画家』は海外の人間が描いたエキゾチックなファンタジー小説として読まれるべきなのだ」「日本がイシグロ氏の想像の外に存在してきたように、イシグロ氏も日本の外、英語文学の土壌で育った作家であるのだから」と結論づける。そして「イシグロ氏にどこか日本のルーツを想像し、作品を読む」のは誤読につながる危険がある――と警鐘を鳴らす。
今回、イシグロがノーベル文学賞を受賞したのは、もちろん英語圏の作家や批評家が評価したからであるが、その肝心の英語圏やフランス、ドイツの新聞は、彼を単に「英国作家」として紹介していたという。イシグロをやたらに日本や長崎に引き付けて報道していた日本の新聞とは、明らかにトーンが違っていたことを付記しておきたい。(こや)

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2017/11/02 10:10 | コラム「たまたま本の話」
第86回 岩波文庫で読む「怪人二十面相」(江戸川乱歩)文学に関するコラム・たまたま本の話

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江戸川乱歩が書いたジュニアミステリー「少年探偵シリーズ」は、かつて1億人のベストセラーと呼ばれた。1964年、ポプラ社から刊行が始まった同シリーズはロングセラーとなり、世代を超えて、多くの子供たちが心躍らせながら読みふけったものである。
例えば第1作の「怪人二十面相」。まさに手に汗にぎる、次のようなシーンを鮮明に覚えている。引用は、ポプラ社版を文庫化したポプラ文庫クラシック版「怪人二十面相」(2008年11月刊)から。
「先生はいま、ある重大な事件のために、外国へ出張中ですから、いつお帰りともわかりません。しかし、先生の代理をつとめている小林という助手がおりますから、その人でよければ、すぐおうかがいいたします」(怪人二十面相から脅迫状を受け取った資産家が、明智小五郎探偵に電話で警護を依頼する場面。助手の小林芳雄少年が応対する)
「探偵の仕事には、通信機関が何よりもたいせつです。そのためには、警察にはラジオをそなえた自動車がありますけれど、ざんねんながら私立探偵にはそういうものがないのです。もし洋服の下へかくせるような小型ラジオ発信器があればいちばんいいのですが、そんなものは手に入らないものですから、小林少年は伝書バトという、おもしろい手段を考えついたのでした」
「窓の外、広っぱのはるか向こうに、東京にたった一ヵ所しかない、きわだって特徴のある建物が見えたのです。東京の読者諸君は、戸山ヶ原にある、大人国のかまぼこをいくつもならべたような、コンクリートの大きな建物をごぞんじでしょう」(ともに、地下室に捕らえられた小林少年が脱出のために策を練る場面)
明智探偵と怪人二十面相の知恵比べもスリリングであるが、読むこちら側が当時は少年だったから、とくに小林少年の活躍には素直に感情移入できた。
その「怪人二十面相」がこのたび岩波文庫に入った。懐かしさに駆られ、一読してみて驚いた。ポプラ文庫クラシック版と細部が違うのである。前記の部分が、岩波文庫版ではこうなっている。以下、「怪人二十面相・青銅の魔人」(2017年9月刊)からそれぞれ引用する。
「先生は今、満洲国政府の依頼を受けて、新京へ出張中ですから、いつお帰りとも分かりません」
「探偵の仕事には、戦争と同じように、通信機関が何よりも大切です。軍隊には無線電信隊がありますし、警察にはラジオ自動車がありますけれど、私立探偵にはそういうものがないのです」
「窓の外、広っぱの遥か向こうに、東京にたった一箇所しかない、際立って特徴のある建物が見えたのです。東京の読者諸君は、戸山ケ原にある、陸軍の射撃場を御存じでしょう。あの大人国の蒲鉾を並べたような、コンクリートの大射撃場です」
今回、岩波文庫版が底本としたのは、大日本雄弁会講談社版の「怪人二十面相」である。解説で吉田司雄がこう書いている――「『怪人二十面相』は江戸川乱歩が少年向けに書いた長編小説の第1作で、大日本雄弁会講談社発行の月刊誌『少年倶楽部』に昭和11年(1936)1月号から12月号まで掲載(7月号休載)ののち、加筆修正が行われ同年12月に大日本雄弁会講談社より刊行された」。
これに対して、ポプラ社版が底本としていたのは、戦後に光文社「痛快文庫」の1冊として刊行された「怪人二十面相」である。これは昭和22年(1947)6月に出版されている。その後、少年探偵団シリーズは光文社の雑誌「少年」で連載が再開され、旧作、新作含めて同社から順次、刊行されていくことになる。つまりポプラ社版のシリーズは光文社版を踏襲している。
1936年の大日本雄弁会講談社版(岩波文庫版)にあって、1947年の光文社版(ポプラ社版)から消えている言葉を拾い出してみよう。「満洲国政府」「新京」「戦争」「軍隊」「無線電信隊」「陸軍」「大射撃場」など。戦前、戦中の日本にはあって、敗戦後はきれいになくなった言葉ばかりだ。言葉が消えれば、言葉の持つ本来の意味も消える。つまり戦前版の「怪人二十面相」に流れていた軍国主義の空気が、戦後版では見事に排除されたということである。
昭和11年の日本において、怪人二十面相なる大敵と戦う明智という構図は何を意味していたか。言うまでもなく、欧米列強の連合軍と戦う日本の象徴であろう。怪人二十面相が奪おうとする宝石や美術品は、大東亜共栄圏を意味していると考えられる。とすれば、明智の助手の小林少年は少国民ではなかったか。
少国民とは銃後に位置する子供を指した語で、年少の皇国民のことである。重苦しい時代の雰囲気に満ちた小説であり、しかもこれが少年向けに書かれていることは今から思えばかなり危ない。ジュニアミステリーの衣をまとってはいても、小林少年にあこがれた子供たちが、将来は兵隊さんになってお国の役に立つ――そのことの素晴らしさをうたっているのだから。
戦後の改変が乱歩自身によるものなのか、出版社が乱歩の許可を得て行ったものなのかは判然としない。しかし昭和22年という戦後民主主義到来の時代を考えれば当然の処置であっただろう。今は平成29年。かつて少年の頃、ポプラ社版で少年探偵団シリーズに出会ったという人たちも50歳代から60歳代になっている。歳月の流れを感じざるを得ない。(こや)


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2017/10/10 13:34 | コラム「たまたま本の話」
第85回「2壜の調味料」ななめ斬り(ロード・ダンセイニ)文学に関するコラム・たまたま本の話

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ロード・ダンセイニもしくはダンセイニ卿(Lord  Dunsany、1878年7月24日 - 1957年10月25日)については、以前もこのコラムで書いたことがある(2013年5月)。そのとき取り上げた「2壜の調味料」について今回、再び書く。作品の内容に触れるので未読の方はご注意を。
物語は周知のように、イングランド南西部にあるノース・ダウンズの家で、スティーガーという男と同棲していた娘が失踪する。スコットランド・ヤードがずっと男の家の周囲を監視しているが、失踪した娘の行方は全く分からない。「スティーガーは娘の遺体を焼いていない」「庭に埋めてもいない」「娘が失踪してから一歩も庭の外に出ていない」「肉料理だけに使用する調味料ナムヌモを2壜、購入した」「庭に植わっている10本のカラマツの木を1本ずつ切り倒して薪にしていった」などの状況証拠をつかむが、肝心の娘の消息は謎のままである。殺人の証拠が見つからず、頭を悩ませるスコットランド・ヤードに対して、素人探偵のリンリーが突きつけた結論は次のようなものだった――「スティーガーが、殺した娘に調味料ナムヌモをかけて食べてしまった」。
ただし本文にはっきり書かれているわけではない。殺人の描写もなければ、人肉を食べる描写もないので、実を言えば真相は藪の中である。リンリーの結論は単に推測の域を出ない。にもかかわらず、この作品が名作とされるのは、結末の一節があまりにも見事だからである。「しかしなぜあの男は木を切り倒したのでしょうか」と首をひねるスコットランド・ヤードの警部に、リンリーはこう答えるのだ――「ひとえに食欲をつけるためです」。この一言が効いているがゆえに、ふと頭をよぎったはずの疑問もすべて忘れ去られてしまう。
疑問とは他でもない。娘の骨は一体どうしたのか?――ということである。人肉は食べても、さすがに骨までは食べないだろう。排水管から遺体の痕跡が発見されず、家の煙突から遺体を焼いた匂いが確認されなかったのだから、娘の骨は家の中に隠してあるのか? しかし警察が踏み込めば、骨はたやすく発見される。そうすれば逮捕は免れない。それでも男は、殺人の証拠を隠そうとして、娘の肉を必死に食べるだろうか。ミステリの証拠隠滅としては、いささか常軌を逸している。ということは「2壜の調味料」の遺体を食べる行為は、あくまで証拠隠滅のトリックではあるが、同時に何か他のものの象徴になっているのではないか。
ダンセイニという作家はどんな人物だったのか。アイルランドの小説家、劇作家であり、軍人でもあったが、デンマーク系旧家の貴族の出身である。だから名前に「卿」(ロード)がつく。作家としては、主に「影の谷物語」「エルフランドの王女」「魔法使いの弟子」などファンタジーの分野で大きな足跡を残した。つまりは幻想文学の書き手なのである。何しろ彼の代表作「ベガーナの神々」は、ケルト神話に基づいた多神教の物語なのだから。ミステリの執筆などは余技も余技であった。
ベガーナは「Pagan」からの造語。Paganには異教徒の意味があるが、これは一神教のキリスト教から見て多神教は異教徒ということだ。ダンセイニの生まれたアイルランドは、現在でこそローマ・カトリックが主流を占めるが、もともとはケルトという多神教が優勢だった土地である。その土地でダンセイニは、いわば多神教の創世記である「ベガーナの神々」を書いた。一神教と多神教の考察こそが彼のテーマだったのだろう。とすれば、ミステリとして書かれた「2壜の調味料」にも、その宗教理念が流れているのではないか。
人間が人間の肉を食べることをカニバリズム(食人嗜好)という。スティーガーが「娘はどこに行ったか」と聞かれて、「南アメリカ」と答えている(後に「南アフリカ」と言い直した)ことは興味深い。なぜならカニバリズムはスペイン語の「Canibal(カニバル)」に由来する言葉で、「Canib-」はカリブ族のことを指している。16世紀のスペイン人航海士たちの間では、西インド諸島(つまり南北アメリカの間)に住むカリブ族が人肉を食べると信じられていた。そのためカニバリズムという言葉には「西洋キリスト教の倫理観から外れた、蛮族による食人の風習」の意味合いが強い。
ここで南アメリカを持ち出してくるスティーガーを、20世紀イングランドのノース・ダウンズに現れたカニバリストだとすれば、彼は西洋のキリスト教的倫理観に挑戦状を突き付けた蛮族となるだろう。しかしながら、聖餐という概念がキリスト教にあることを忘れてはならない。イエス=キリストは、最後の晩餐でパンとぶどう酒を弟子たちに与えて「パンは私の肉であり、ぶどう酒は私の血である」と語ったという。それにちなんでパンとぶどう酒を会衆に分け与えるキリスト教の儀式――それを聖餐と呼ぶ。聖餐はかつてカニバリズムと結びついていて、生け贄になる者は神の化身として殺されるばかりでなく、その肉を食べられ、血を飲まれることによって、自分を食べた者と同一化する。それは食べた者も食べられた者も神のからだになることであり、神の聖なるからだが再生するときに、共に復活することができる。
「2壜の調味料」が聖餐の物語だとすれば、食べられてしまった娘は、スティーガーの中で同一化し、やがて神のからだとなって再生するであろう。キリストの言葉が自分の肉と血にしか言及していないのに倣うかのように、骨は除外されている。スティーガーはパンのつもりで娘の肉を食べ、ぶどう酒のつもりで娘の血とナムヌモを飲んだのである。「2壜の調味料」は、ミステリの意匠をこらした死と復活の物語なのではないか。(こや)


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2017/09/06 13:15 | コラム「たまたま本の話」

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