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2024/03/19 18:53 |
第121回 「映画=自惚れ鏡」説のゆくえ(佐藤忠男) 文学に関するコラム・たまたま本の話
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今から45年前の話だ。映画評論家の佐藤忠男が「映画=自惚れ鏡」という説を提唱したことがある。1976年11月に刊行された「映画をどう見るか」(講談社現代新書)の中にある。長くなるが引用しつつ紹介しよう。
映画とは、いうなれば「自惚れ鏡、あるいは、ナルシスが自分の顔を写して見た川の水、というふうにもいえると思う。その鏡で見ると、自分という人間が実物よりずっと素晴らしく見える鏡である。または、神話のナルシスが、川の水に写った自分自身に恋いこがれてその川に飛び込んだという、その川の水である。映画のなかでいい恰好を見せるヒーローやヒロインは、ファンの憧れの化身であり、ファンはそのスクリーンの中にみずからとけ込んでしまいたいと願う。つまりは、ファンは、スクリーンのなかに理想化された自分自身を見て、それに惚れるのである」。つまり映画は現実をそのまま映す鏡ではなく、観客に都合の良いように現実を信じさせる鏡なのである、と佐藤は言うのだ。
個人個人の映画ファンの心理についてもそれは言えるが、民族的、国家的な規模においてもそれは指摘できる。すべての民族や国家はナルシスト的な性格を持っており、映画という表現手段を手にすれば、それを表現しないではいられない。つまり「映画は民族や国家の自惚れ鏡である」。
戦後イタリアに、なぜネオレアリズモの映画が登場したか。戦時中、けなげにファシズムと戦ったイタリア人というイメージを世界に植え付けたかったからである。フランスでも戦時中の対独協力の事実を信じたくない人たちがいて、ドイツ軍に抵抗した人々を英雄として描いた映画がしきりに作られた。ソビエトしかり、東欧しかり、ポーランドしかり、他ならぬドイツしかり。そしてわが日本でも、善良な日本人はおおむね戦争の犠牲者に過ぎなかった、という映画作りに情熱を注ぐようになった。
その具体例に挙げるのが、1954年の木下惠介監督の「二十四の瞳」である。周知のように、この映画は瀬戸内海の小豆島の眺望を背景に、心の美しい女性教師と質朴そのもののような教え子たちとの、昭和の初めから敗戦直後に至る20余年の美しい心の交流を描いている。日本映画史上、屈指の名作である。
中でも観客を泣かせたのは、戦後、この女性教師が墓地に行って、戦死した教え子たちの墓の一つ一つに呼びかける場面であろう、と佐藤は書く。かつて彼らが可愛らしい小学生だったときの印象的なエピソードを、女性教師は涙ながらに語る。それを聞きながら、われわれ観客は、あの可愛らしい少年たちがこうして戦争で死んでしまったのだと感じて、とめどなく涙にくれてしまう。
「しかし、これはじつに巧妙な錯覚であるといわねばならない」と、佐藤は言う。「なぜなら、この墓に眠っている教え子たちは、けっしてあの可愛らしい子どもとして死んだのではなく、大日本帝国の軍人として、もしかしたら残虐な人殺しとして死んだのである。ただこの映画では、兵隊になってからの彼らの姿がいっさい省略され、可愛らしい子どものときの姿から、出征のときの涙ぐましい見送りの情景を一シーンはさんだだけで、一挙にこの墓参りのシーンにとぶので、殺人や放火や強姦すらやったかもしれない兵士としての彼らのことが、ぜんぜん想像できないだけのことなのである」。
つまり佐藤は、あの子供たちが善良なまま死んだとすることは日本人の自己欺瞞である、と言っているのである。そしてその自己欺瞞を信じさせてしまうものが、自惚れ鏡としての映画なのだ、と。
かなり刺激的な書き方ではあるが、映画というメディアの本質をこれほど鋭く突いた言葉を知らない。佐藤の提唱した「映画=自惚れ鏡」説は、やがてアメリカ映画が世界市場で圧倒的優位にあるのはなぜか、という問題につながっていく。なぜなら、それは単にアメリカ人にとっての自惚れ鏡だけでなく、世界の警察として、ほとんど人類全体の自惚れ鏡という性格を持って作られているからである――。
それから45年が経つ。ここのところ、「映画=自惚れ鏡」説はすっかり影を潜めてしまった。なぜだろうか。2つの理由が考えられるだろう。
1つには、戦争というものが遠い存在になってしまったこと。総務省の人口推計によると、2019年10月1日現在、戦後生まれの人口は1億655万人で、全体の84.5%を占める。一方、戦前生まれは1962万人。現在と同じ形式で人口推計が始まった1947年の7384万人から70年余りで4分の1に減少した。
注目すべきは、戦後生まれの人口が戦前生まれの人口を上回ったのは1976年であること。まさに佐藤忠男の「映画をどう見るか」が刊行された年である。1976年には多くの日本人の脳裏にあった戦争の記憶が、それ以降、どんどん薄れていけば、当然、「映画は民族や国家の自惚れ鏡である」という考えも薄れていくだろう。
もう1つは、映画を見る人々の理想とする生き方や人生観が多様化していること。映画の中でいい恰好を見せるスターたちが、多くの人々の理想と必ずしも合致しなくなってきた。つまり自惚れ鏡が自惚れ鏡としての効果を発揮しなくなってきた。いまや一人一人が、それぞれ独自の自惚れ鏡を持っている時代である。21世紀のナルシスは、どの川に飛び込めばいいのだろうか。
(こや)
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2021/03/02 13:38 |
コラム「たまたま本の話」
第120回 かくて本屋は消えていく(山田淳夫) 文学に関するコラム・たまたま本の話
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1996年だから、もう四半世紀も前になる。ある1冊の本がひっそりと出版された。書店で平積みになるような人気作家の本ではない。版元も大出版社ではなかったが、口コミでじわじわと売れ始めた。何よりもタイトルが良かったのかもしれない。その本――「消える本屋 出版流通に何が起きているか」(山田淳夫著、1996年7月、アルメディア刊)は、やがて出版流通を考えるときの必読書となった。
筆者の山田は、朝日新聞出版局に勤務(当時)。雑誌記者、新聞記者を経て、調査研究室の主任研究員を歴任している。「再販と本の流通」と題してまとめた社内報告用リポートが、アルメディアの目に留まり、出版の運びとなった。アルメディアという出版社は、「菊地君の本屋―ヴィレッジヴァンガード物語」など、出版や書店などに関する本を多く刊行している。まさにこの本は出されるべくして出された一冊だった。
本の出た1996年当時、筆者の山田は東京の都心から電車で40分ほどの住宅地に住んでいた。20年前(というから1970年代半ば)に越して来たとき、駅に近い自宅周辺には7軒の本屋があった。10年前(1980年代半ば)、駅前に郊外型デパートができて、1階に大手書店の大型店舗が入店した。それからわずか1年、7軒の本屋のうち6軒が閉店してしまった。残った1軒も実用書と雑誌主体の品ぞろえに変わった。近くに24時間営業のコンビニエンスストアができたことも大きかった。
筆者はここから本の流通の変化について調べていくが、何よりも本屋の強敵、コンビニエンスストアの急成長についてページを割く。それが本屋の衰退に密接にかかわっているからだ。該当部分を要約しておこう。データやシステムなどはいずれも1996年時点のもの。
スーパーマーケットは終戦直後の1947~49年生まれの団塊の世代とともに成長してきた。それと全く同様にコンビニエンスストアは団塊ジュニア世代とともに成長してきた。コンビニエンスストアの登場は1969年、大阪・豊中市の「マミー」が最初。73年にファミリーマート、74年にセブン-イレブン、75年にローソンが第1号店を開設した。
団塊ジュニア世代は1971~74年生まれで、大学生か社会人のホヤホヤ。コンビニエンスストアの成長とぴったり重なる。団塊の世代の人々が同じ価値観のもとに激しい競争を強いられてきたのに対して、彼らの子供たちに当たる団塊ジュニア世代は、「価値観の多様化」と「競争回避」が特徴。合計810万人に上り、市場にとって最後のボリュームゾーンである。
コンビニエンスストアの目覚ましい成長の理由は、情報を駆使した売れ筋商品への徹底的な販売集中と、死に筋商品の排除にある。そこで威力を発揮するのがPOS(Point of Sales scanning、販売時点情報管理)システム。売れた商品の①商品名②数量③販売時間④客層がたちどころに本部に伝えられる。レジスターには通常の「現計」キーの代わりに「客層」キーがある。
例えばセブン-イレブンのレジには「12」「18」「29」「49」「50」の数字がついたブルーとピンクの2列のキーが並んでいる。それぞれ12歳以下(小学生)、18歳以下(中高校生)、29歳以下(若者)、49歳以下(壮年)、50歳代以上(熟年)、ブルーは男性、ピンクは女性。これはレジ係の見た目の判断による。こうして全国6300店、1日630万人の客が何時何分にどの商品をどれだけ買ったかという膨大な集積データが、年代性別とクロスされてたちどころに集計される。
――と、ここまで引用すればお分かりだろう。雑誌などの出版物をコンビニエンスストアで買う客も、同様にPOSシステムでデータ集積されているのである。
同書には「1992年度小売書店の売上高ランキング」というデータが載っている。出版物の売上額の1位は何とセブン-イレブンで1016億円。2位の紀伊國屋書店の896億円を大きく引き離す。確かに紀伊國屋書店の32店舗に比べてセブン-イレブンは約5300店舗(1992年当時)と、けた違いに多い。が、ベスト20社中、9社をコンビニエンスストア・チェーンが占めている。書籍は一切扱わず、雑誌とコミックス、新刊の文庫本に絞っているにもかかわらず、である。POSシステムを駆使して売れ筋だけを販売するコンビニエンスストアに、何もしていない書店はとてもかなわないことが突き付けられた形である。
POSシステムはさらに驚くべき読者像を伝えてくれる、と同書は指摘する。男性向けファッション誌「MEN’S NON-NO」購入者の4割が女性なこと。女性誌は朝、売れる傾向にあるが、「MORE」は夕方から夜にかけてよく売れる。なぜかと言えば、グラビア主体で重いため、持ち歩かないで済むように帰宅途中に自宅近くのコンビニエンスストアで購入する傾向にあるらしいこと。あるとき「週刊少年ジャンプ」の返本率が上がってきたので調べると、「29」のキーの売り上げだけが落ちている。ちょうどその時期にある連載漫画が終わっている。その漫画のファンが19歳から29歳の年代だったことが推定できた。
以上は1996年当時の話である。すでに四半世紀前に、ここまでの分析をしていた「消える本屋」には驚かされる。
時はめぐって2021年。消費の中心は、団塊の世代、団塊ジュニア世代から、その孫であり子供である若い世代に移ってきている。いわば団塊ジュニアジュニア世代である。この世代もコンビニエンスストアの日常的利用は多いが、四半世紀前にはなかったインターネットというシステムを当たり前のように使いこなし、商品購入に活用する点が特徴的である。本屋にとっては、アマゾンなど、さらなる強敵が出現している。2021年、新たな「消える本屋」が書かれねばならない。(こや)

2021/02/02 05:38 |
コラム「たまたま本の話」
第119回 出す当てのない小説を書く(矢樹純) 文学に関するコラム・たまたま本の話
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矢樹純(やぎ・じゅん)と聞いて、急いでネット検索をかけた方がいるかもしれない。これまでに刊行された小説は、実質的にわずか4冊という寡作のミステリー作家である。
ただし実力は折り紙付きで、2012年8月、デビュー作の長編「Sのための覚え書き かごめ荘連続殺人事件」が、第10回「このミステリーがすごい!」大賞の「隠し玉受賞」して注目される。そして2020年7月、前年に出した第1短編集の表題作「夫の骨」が、第73回日本推理作家協会賞(短編部門)を受賞する。
日本推理作家協会賞というのは、過去に同賞を受賞した作家や評論家が選考委員を務めている。いわばプロがプロを審査する賞であって、厳しい批評の目にかなった作品しか受賞に至らない。7月10日に行われたリモート記者会見では、京極夏彦代表理事(代読・北村薫立会理事)から「最初から高得点だった。文章に無駄がなく読みやすい、展開に無理がない、などの賛辞が寄せられた」と、「夫の骨」の受賞が報告された。
「夫の骨」は矢樹純の処女短編集である。そんな実力派がなぜ、これまでなかなか本を出せなかったのか。受賞に際して、筆者は自身のブログ「取り返しがつかない」2020年7月11日号で、次のように書いている。「自分はデビュー作が売れなかったために最初の版元では次作を出すことができず、その後、数年は野良作家として、出す当てのない状態で小説を書いていました」。
そこでKindleの電子書籍で小説を発表していくが、なかなか買い手(出版社)がつかない。「初めに長編を書き上げて、ある出版社の方に読んでもらったのですが、うちでは出せないというお返事で、そのときに『短編を書いて力をつけた方がいい』というアドバイスをいただき、短編を書き始めました」。
「出す当てのない状態で小説を書くというのは、一度、作家としてデビューしている身としては、結構つらかったです。『何でこんなことになったのか』と、デビュー作が売れなかったことや、その他、諸々の運命を呪いました」と、筆者はブログで心情を綴っている。確かに、出版する当てのない作品を書き続けるほど辛いことはないだろう。不遇の時代が何年も続いたわけである。
ただし、自分が書く小説には手ごたえを感じていたようで、「本当に書くほどに力がついていくことと、自分の書く作品が面白いと思えたことだけが救いでした。これはいつか、絶対に形になる、世に出せると信じて書き続けました」。やがてそれが実を結ぶ。月に1本書くと決めて約1年間、書き続けた短編が13本ほどになったところで、エージェントを通じて、「これらをまとめて短編集を出しましょう」という出版社が現れた。祥伝社である。
こうして2019年4月に祥伝社文庫から刊行された第1短編集「夫の骨」には、表題作など粒よりの9編が収められることになった。同書は書店員や読者の口コミでじわじわと売れ行きを伸ばし、版を重ねているという。では「夫の骨」はどういう小説なのか。本のカバーには、こんなあらすじが書かれている。
「昨年、夫の孝之が事故死した。まるで2年前に他界した義母(注・孝之の父の後妻)佳子の魂の緒に搦め捕られたように。血縁のない母を『佳子さん』と呼び、他人行儀な態度を崩さなかった夫。その遺品を整理するうち、私は小さな桐箱の中に乳児の骨を見つける。夫の死は本当に事故だったのか、その骨は誰の子のものなのか。猜疑心に囚われた私は……」。
ミステリーなのでこれ以上の説明は避けるが、著者のブログによると、短編集のコンセプトは「家族の歪み」と「どんでん返し」とある。なるほど、最後の最後まで展開が読めない意外な結末が、「夫の骨」だけでなくどの物語にも用意されている。これらの「どんでん返し」は見事な出来栄えで、日本推理作家協会賞(短編部門)受賞も十分に納得できる。
けれども、読後感はスッキリしない。本格ミステリーだから、もちろん謎は解かれるが、後味が悪い。9編ともに、すべてが明らかになって「ああ良かった」とカタルシスを得られる物語ではない。こういうのを「イヤミス」と呼ぶのだろうか。
イヤミスについて、ネットにはこういった説明が書いてある。殺人などの事件が起きても、最後には事件解決! 読者がスッキリと満足感を得るのが、今までのミステリー小説に多かった傾向である。しかしイヤミス小説は、事件だけでなく人間の奥に潜む心理などを描写し、見たくないと思いながらも読み進めてしまう、嫌な汗がたっぷりと出るような後味の悪い小説のことを指す――と。「夫の骨」もそれに当てはまる。
この後味の悪さは、筆者の言うもう1つのコンセプト、「家族の歪み」に起因するものだろう。人もうらやむ理想の家族であっても、何かしらの問題を抱えている。家庭内の問題だから、他人にはなかなか相談しにくい。親と子だからすべて腹蔵なく話せるかというと、そういうわけでもない。したがって家族の問題は、根が深く複雑化することが多い。そんな家族関係の領域にメスを入れるミステリーなのだから、イヤミスになるのも当然だろう。「夫の骨」以外の短編も、家庭や家族を描いた小説を読んでいるつもりが、いつの間にか暗い過去が掘り起こされてきて、驚かされることが多い。
矢樹純のプロフィールを見ると、「1976年、青森県生まれ、弘前大学卒業。結婚・退職を機に、作画担当の妹・加藤缶とコンビを組み、自身は原作を担当して、2002年に加藤山羊の共同ペンネームで漫画家としてデビューした」とある。実生活では3人の子供を持つ母親でもある。漫画家と母親としての長いキャリアが、本格ミステリーにしてイヤミスの傑作を生む原動力になっているに違いない。(こや)

2021/01/12 15:18 |
コラム「たまたま本の話」
第118回 ショートショートの神様(都筑道夫) 文学に関するコラム・たまたま本の話
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生涯に1000編を超える作品を残した星新一は、「ショートショートの神様」と呼ばれた。ご存じのように、星の父は星薬科大学の創立者で星製薬の創業者、星一。森鷗外が母方の大伯父に当たるというから、大変な家系である。短期間だが、父の死後、星製薬の社長を務めたこともある。
星新一に次ぐのが阿刀田高で、現在までに約800編のショートショートを書いている。阿刀田は若いころ結核を病んで療養生活を送り、大学卒業後は国立国会図書館に司書として勤務していた。その後、「ブラック・ユーモア入門 恐怖と笑いのカクテル 皮肉と毒舌に強くなる」(KKベストセラーズ刊)などを書き、コラムニストとして評判になった。やがてショートショート作家に転じて直木賞を受賞する。
つまり日本のショートショートは、会社社長出身と図書館司書出身の2人の作家が牽引してきた。けれどもここで忘れてはならない3人目がいる。都筑道夫である。都筑の書いたショートショートが何編あるか、正確には分からない。まずはインターネットで都筑の略歴を見てみよう。
1929年、東京市小石川区関口水道町(現在の東京都文京区関口)生まれ。生家は漢方薬局と的屋を兼ねていた。1945年、学費未納で早稲田実業学校を中退。正岡容や大坪砂男に師事し、学生時代から時代小説などを発表。1947年頃から約2年間、正岡の世話で新月書房に勤務し、カストリ雑誌を編集。1949年、初めて都筑道夫の名で原稿を発表。他にも淡路瑛一など、多数のペンネームを使う。1952年頃、オペラ口紅宣伝部にコピーライターとして勤務。1955年、室町書房にて日本初の海外SF紹介叢書である「世界空想科学小説全集」を平井イサクとともに企画したが、刊行は2冊で中断。
そして1956年、早川書房に入社する。「エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン」の編集長を務めたほか、ハヤカワ・ミステリで英米の新作を紹介した。1957年には、福島正実とともに「ハヤカワ・ファンタジー」(後に「ハヤカワSFシリーズ」)を立ち上げる。また、1958年に福島とともに講談社で「S・Fシリーズ」の企画にあたったが、シリーズは6冊で終了となった。1959年に退社し、本格的に推理小説の執筆活動に入った。
SF雑誌を作ったりつぶしたりと忙しいが、当時はまだSFが世間に認知されていなかった時代だから致し方ない。この略歴から分かることは、都筑は編集と執筆をずっと並行させてきた作家であるということだ。とすれば、彼には編集者としての立場からのショートショート観といったものがあるのではないか。会社社長や司書出身の作家とはまた違った、独自のものが。
都筑が日本を代表するショートショート作家と周知されたのは、1973年に桃源社から刊行された「都筑道夫ショート・ショート集成」全3巻の刊行からだった。ここには、それまでほぼ単行本未収録だった321編のショートショートが収録されている。主として推理小説家、翻訳者として知られていた都筑の別の側面を見せられた当時の読者は驚いた。
その「集成」の第2巻「悪意辞典」のあとがきに、都筑はこんなことを書いている。ショートショートとは何か? 単にオチのある短い短編小説のことではない。それは「アメリカの雑誌ジャーナリズムが、ある種の小説にあたえた呼称」である、と。「ある種の小説」とは何か。都筑の説明を要約すると、以下のようになる。
アメリカの大型雑誌は、カラーの写真やイラストの部分が前半に集まっている。小説でも実用記事でもそうで、冒頭の2ページだけが最初に来て、Continued on page○○○(○○○ページに続く)と書いてある。つまりは話がここでいったんちょん切れて、続きの部分は雑誌の後半にずらずらと並んでいる。
ちょっと前の話だが、1975年に日本で創刊された「月刊PLAYBOY」の日本語版がそうなっていた。それまでの日本の雑誌では一本の作品は中断なく一挙に載せられていたから、日本の読者はこれに驚いたが、アメリカの雑誌でははるか昔、19世紀の頃からずっと当たり前の掲載方法だったという。もしかするとアメリカの雑誌に多い中綴じ製本などでは、それが適しているのかもしれない。
しかし、そんな掲載方法はスピード時代の20世紀には合わないのではないか。そこでこんなことを考えた編集者がいた。Continued on page○○○(○○○ページに続く)が入らないようにするには、見開き2ページか、せいぜい3ページで終わる小説や実用記事を載せればいい。見開き2~3ページを日本の原稿用紙に換算すると、5~6枚、長くても20枚程度のごく短い作品となる。これを最初に考えたのは、アメリカの雑誌「コスモポリタン」の編集者らしい。この思い付きを面白がって、読み切り連載を引き受けたのがイギリスの作家サマセット・モームで、1920年代に同誌に掲載した短編を、後に「コスモポリタンズ」として一冊にまとめている。
つまりは掲載方法の工夫が先にあって、その必要から生まれたジャンルがショートショートだったのだ、と都筑は言っているのである。自ら書いたショートショートの数々を、前述の3巻本の企画が出るまで、書きっぱなしで掲載誌のまま積み上げておいたのも、都筑のショートショート観と無関係とは思えない。彼にとっては推理小説のほうが優先だったのだ。
都筑はこんなことも書いている。長編小説を1本の棒に例えれば、その一部分を任意に切り取って、読者の前に差し出したのが短編小説。その一部分や棒全体を読者の眼前に差し出して、小口をのぞかせたのがショートショート。小口は小さな丸にしか見えなくとも、後ろには棒の長さが伸びている、と。ショートショートの本質を、これほど言い当てた言葉はない。彼はしっかり見抜いていたのだ。
付け加えておけば、日本でショートショートという名称を最初に紹介したのは、他ならぬ都筑である。「エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン」の編集長だった1958年のことだった。せいぜい「雑誌のアクセサリーには絶好」という気持ちで同誌のフレドリック・ブラウンの作品解説に書いたというが、その呼称は、星新一らの活躍によって、見る見るうちに日本中に浸透することになる。すべての始まりは都筑だったのだ。「ショートショートの神様」という称号は、都筑にこそふさわしいように思えてきた。(こや)

2021/01/12 15:13 |
コラム「たまたま本の話」
第117回 犬は自分の名前が分かるか?(馳星周) 文学に関するコラム・たまたま本の話
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第163回直木賞受賞作「少年と犬」。この本がいま売れに売れている。文藝春秋から2020年5月に刊行され、直木賞受賞やNHK総合テレビの番組で紹介されたことも相まって、25万部を突破した。
作者はノワール小説のベテラン、馳星周。デビュー作「不夜城」から四半世紀近く、新宿・歌舞伎町など暗黒社会を舞台に、人間の心の奥の闇をのぞくノワール小説を数多く発表してきた。その馳がここ最近、犬についての小説をずいぶん書いている。なぜか。受賞後のあるインタビューで語っている筆者の言葉が興味深い。
最初に犬のことを書こうと思ったきっかけについて聞かれ、馳はこう答えている。「ペットブームでものすごい数の犬が日本でも飼われるようになったけれど、どうもろくな飼い主がいないと感じた。途中で飽きちゃったから捨てるとかいう人たちもいっぱいいる。街中でキャンキャン吠えている犬がいるけれど、あれは犬が悪いんじゃなくて、飼い主が悪い。正しく犬と暮らすにはどうしたらいいのかというのを伝えていきたいというのがあった」。そして「しつけ教室っていうのは、犬じゃなくて人間が行くべきだと思っている。人間が、犬にはこうやって接すると学ぶべきだと思う」。
「少年と犬」は、1匹の犬が日本各地でさまざまな人々に出会い、人間たちを救っていく物語である。「東日本大震災で飼い主と離れ離れになった犬が、最後に熊本まで行って大地震に遭うというイメージがあって、そこから物語を作り上げていった」と、馳は作品の着想について述べる。
冒頭の短編「男と犬」の舞台は、東日本大震災から半年が経った仙台。震災で仕事を失った男性が新しく得た配達の仕事の途中、やせ細った犬を見つけ、家に連れて帰るところから始まる。この連作短編集は震災が重要なモチーフになっているが、それは何故か。「いくつかの作品で東日本大震災のことは書いているが、あの災害は日本人の愚かさが起こしたと思っている、原発事故を含めて。もうすぐ10年が経つが、日本人の中で風化している思いがある。忘れちゃいけない、風化させてはいけないという思いは常にあって、折に触れて東日本大震災をテーマにした小説は書いていきたい」。
次は「泥棒と犬」という短編。犬はある事件のあと、ミゲルという震災泥棒をしている外国人と行動を共にするようになる。ミゲルは仙台を後にして、福島、新潟へ行き、国外逃亡を図る。その道すがら、この犬を「誇り高い犬」と形容する。この「誇り高い」という表現の意図について、馳は言う。「犬は最終的に九州まで旅するが、僕の中にあったイメージは昔の西部劇。苦しんでいる人のところに風来坊のようなガンマンがやって来て、悪党をやっつけてまた去っていく。昔の西部劇はそういうストーリーが多かった。何となく犬を“さすらいのガンマン”に重ね合わせているところがあるので、役者としてはクリント・イーストウッドのような誇り高いイメージで書いた」。
その後、「夫婦と犬」「娼婦と犬」「老人と犬」と題された短編が続き、犬は富山、滋賀、島根へと移動する。様々な人間に飼われていくが、登場人物たちが犬に対して発する「人という愚かな種のために、神様だか仏様だかが遣わしてくれる生き物なのだ」といった言葉が印象的だ。馳も語っている。「犬というのは基本的に、無償の愛の具現者だと思っている。人間っていうのは、打算が生じる。こうだから好きだ、こうだから愛してるっていうのが人間。犬や動物はそういう見返りなしに無条件に愛してくれる存在。どっちが僕にとって尊いかっていったら無条件の愛のほうなので、それを持てない人間っていうのは愚かな種なんだろうなという思いが常にあった」。
最後の短編は表題作の「少年と犬」。犬は5年の時をかけて熊本にたどり着いて、東日本大震災で家や仕事を失い、熊本に移住してきた3人家族と出会う。震災以来、言葉を発することができなくなっていた8歳の少年、光(ひかる)に奇跡が起こるが、この部分を描く上で注意したこと。その問いに、「犬を擬人化して書かない、人に例えて書かない」と、馳は答えている。
「登場人物である人間の目から見た犬の姿を通して物語を作っていくことを常に意識した。ここで泣かせてやろうとか、ここで○○してやろうと思って書くと、作者の意図が見えすいちゃう。僕も25年以上、犬と一緒に暮らしているが、犬が本当のところ何を考えているのかは分からない。人間には絶対分からないと思う。結局僕たちは、犬が今どんな気持ちでいるのかとか、何を欲しがっているのかとか、彼らの行動や表情から類推することしかできない。分からないものに対して分かったふうに書くっていうのは絶対やっちゃいけないことだと思っているので、結局すべて淡々と書くというのが、一番正解じゃないかな」。
以上が受賞後インタビューの要約だが、この感動的な物語を読み終えて、気になったことがある。登場人物たちは、この犬にそれぞれ別の名前をつけて呼ぶ。多聞(たもん)であったり、レオであったり、ノリツネであったり。お互いに前の飼い主のことは知らないわけだから、自分の気に入った名前をつけて当然である。仲が悪くなった夫婦などは、夫がトンバ、妻がクリントと、犬に別々に名前をつける。どちらの名前で呼ばれても、犬は夫にも妻にもちゃんとついていく。作品には訳ありの人物ばかり登場するが、共通するのは、犬に対してだけは優しい。
そこで疑問。私たちは愛犬に気に入った名前をつけるが、実際のところ、愛犬自身はそれを「自分の名前」として自覚しているのだろうか?
こんな説明がインターネットにあった。「犬は自分が呼ばれていることは理解しているようだ。しかし、自分に付けられている名前として理解しているのではなく、飼い主とのコミュニケーションが始まる合図として理解しているようである」。したがって、自分の名前が多聞であるという認識とはちょっと違う。犬にとって名前は、この言葉が発せられると何か良いことが起こる、飼い主が自分に構ってくれるという感覚なのかもしれない。
そういえば小説の作者の馳自身も、大変な愛犬家である。犬を飼い始めて25年。その馳の今の愛犬がバーニーズマウンテンドッグ2匹だというのは、住んでいる軽井沢界隈では有名な話だ。バーニーズマウンテンドッグはスイス原産の、飼い主との絆を大切にする犬種で、人と触れ合うことに喜びを感じる。ただし寿命は大型犬としては短く、スイスにはこんな言葉があるそうだ。「生後3年で若犬、3年経ったら良犬、その後3年で老犬になり、それから先は神からの贈り物」と。今回の直木賞受賞は、まさに神からの贈り物だったのかもしれない。(こや)

2021/01/12 15:06 |
コラム「たまたま本の話」

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