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2024/04/29 16:07 |
第117回 犬は自分の名前が分かるか?(馳星周) 文学に関するコラム・たまたま本の話
PDF版はこちらから
第163回直木賞受賞作「少年と犬」。この本がいま売れに売れている。文藝春秋から2020年5月に刊行され、直木賞受賞やNHK総合テレビの番組で紹介されたことも相まって、25万部を突破した。
作者はノワール小説のベテラン、馳星周。デビュー作「不夜城」から四半世紀近く、新宿・歌舞伎町など暗黒社会を舞台に、人間の心の奥の闇をのぞくノワール小説を数多く発表してきた。その馳がここ最近、犬についての小説をずいぶん書いている。なぜか。受賞後のあるインタビューで語っている筆者の言葉が興味深い。
最初に犬のことを書こうと思ったきっかけについて聞かれ、馳はこう答えている。「ペットブームでものすごい数の犬が日本でも飼われるようになったけれど、どうもろくな飼い主がいないと感じた。途中で飽きちゃったから捨てるとかいう人たちもいっぱいいる。街中でキャンキャン吠えている犬がいるけれど、あれは犬が悪いんじゃなくて、飼い主が悪い。正しく犬と暮らすにはどうしたらいいのかというのを伝えていきたいというのがあった」。そして「しつけ教室っていうのは、犬じゃなくて人間が行くべきだと思っている。人間が、犬にはこうやって接すると学ぶべきだと思う」。
「少年と犬」は、1匹の犬が日本各地でさまざまな人々に出会い、人間たちを救っていく物語である。「東日本大震災で飼い主と離れ離れになった犬が、最後に熊本まで行って大地震に遭うというイメージがあって、そこから物語を作り上げていった」と、馳は作品の着想について述べる。
冒頭の短編「男と犬」の舞台は、東日本大震災から半年が経った仙台。震災で仕事を失った男性が新しく得た配達の仕事の途中、やせ細った犬を見つけ、家に連れて帰るところから始まる。この連作短編集は震災が重要なモチーフになっているが、それは何故か。「いくつかの作品で東日本大震災のことは書いているが、あの災害は日本人の愚かさが起こしたと思っている、原発事故を含めて。もうすぐ10年が経つが、日本人の中で風化している思いがある。忘れちゃいけない、風化させてはいけないという思いは常にあって、折に触れて東日本大震災をテーマにした小説は書いていきたい」。
次は「泥棒と犬」という短編。犬はある事件のあと、ミゲルという震災泥棒をしている外国人と行動を共にするようになる。ミゲルは仙台を後にして、福島、新潟へ行き、国外逃亡を図る。その道すがら、この犬を「誇り高い犬」と形容する。この「誇り高い」という表現の意図について、馳は言う。「犬は最終的に九州まで旅するが、僕の中にあったイメージは昔の西部劇。苦しんでいる人のところに風来坊のようなガンマンがやって来て、悪党をやっつけてまた去っていく。昔の西部劇はそういうストーリーが多かった。何となく犬を“さすらいのガンマン”に重ね合わせているところがあるので、役者としてはクリント・イーストウッドのような誇り高いイメージで書いた」。
その後、「夫婦と犬」「娼婦と犬」「老人と犬」と題された短編が続き、犬は富山、滋賀、島根へと移動する。様々な人間に飼われていくが、登場人物たちが犬に対して発する「人という愚かな種のために、神様だか仏様だかが遣わしてくれる生き物なのだ」といった言葉が印象的だ。馳も語っている。「犬というのは基本的に、無償の愛の具現者だと思っている。人間っていうのは、打算が生じる。こうだから好きだ、こうだから愛してるっていうのが人間。犬や動物はそういう見返りなしに無条件に愛してくれる存在。どっちが僕にとって尊いかっていったら無条件の愛のほうなので、それを持てない人間っていうのは愚かな種なんだろうなという思いが常にあった」。
最後の短編は表題作の「少年と犬」。犬は5年の時をかけて熊本にたどり着いて、東日本大震災で家や仕事を失い、熊本に移住してきた3人家族と出会う。震災以来、言葉を発することができなくなっていた8歳の少年、光(ひかる)に奇跡が起こるが、この部分を描く上で注意したこと。その問いに、「犬を擬人化して書かない、人に例えて書かない」と、馳は答えている。
「登場人物である人間の目から見た犬の姿を通して物語を作っていくことを常に意識した。ここで泣かせてやろうとか、ここで○○してやろうと思って書くと、作者の意図が見えすいちゃう。僕も25年以上、犬と一緒に暮らしているが、犬が本当のところ何を考えているのかは分からない。人間には絶対分からないと思う。結局僕たちは、犬が今どんな気持ちでいるのかとか、何を欲しがっているのかとか、彼らの行動や表情から類推することしかできない。分からないものに対して分かったふうに書くっていうのは絶対やっちゃいけないことだと思っているので、結局すべて淡々と書くというのが、一番正解じゃないかな」。
以上が受賞後インタビューの要約だが、この感動的な物語を読み終えて、気になったことがある。登場人物たちは、この犬にそれぞれ別の名前をつけて呼ぶ。多聞(たもん)であったり、レオであったり、ノリツネであったり。お互いに前の飼い主のことは知らないわけだから、自分の気に入った名前をつけて当然である。仲が悪くなった夫婦などは、夫がトンバ、妻がクリントと、犬に別々に名前をつける。どちらの名前で呼ばれても、犬は夫にも妻にもちゃんとついていく。作品には訳ありの人物ばかり登場するが、共通するのは、犬に対してだけは優しい。
そこで疑問。私たちは愛犬に気に入った名前をつけるが、実際のところ、愛犬自身はそれを「自分の名前」として自覚しているのだろうか?
こんな説明がインターネットにあった。「犬は自分が呼ばれていることは理解しているようだ。しかし、自分に付けられている名前として理解しているのではなく、飼い主とのコミュニケーションが始まる合図として理解しているようである」。したがって、自分の名前が多聞であるという認識とはちょっと違う。犬にとって名前は、この言葉が発せられると何か良いことが起こる、飼い主が自分に構ってくれるという感覚なのかもしれない。
そういえば小説の作者の馳自身も、大変な愛犬家である。犬を飼い始めて25年。その馳の今の愛犬がバーニーズマウンテンドッグ2匹だというのは、住んでいる軽井沢界隈では有名な話だ。バーニーズマウンテンドッグはスイス原産の、飼い主との絆を大切にする犬種で、人と触れ合うことに喜びを感じる。ただし寿命は大型犬としては短く、スイスにはこんな言葉があるそうだ。「生後3年で若犬、3年経ったら良犬、その後3年で老犬になり、それから先は神からの贈り物」と。今回の直木賞受賞は、まさに神からの贈り物だったのかもしれない。(こや)
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2021/01/12 15:06 |
コラム「たまたま本の話」

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