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2024/05/07 02:53 |
第116回 「藪の中」に「羅生門」を繋ぐ(黒澤明と橋本忍) 文学に関するコラム・たまたま本の話
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橋本忍(1918~2018)といえば、戦後の日本映画界を代表する脚本家である。黒澤明作品の共同脚本などで知られる。この橋本が2006年6月に書いた自伝「複眼の映像 私と黒澤明」(文芸春秋刊)が面白い。中でも脚本家デビュー作「羅生門」についてのエピソードが貴重なので、紹介したい。
映画「羅生門」の原作は芥川龍之介。「夏目漱石の作品は映画になっている。森鷗外も映画になっている。しかし、芥川龍之介のものは1本も映画になっていない。明治以来の3大文豪はあまりにも有名なのに、なぜだろう?」という橋本の疑問からすべては始まる。芥川文学についてよく言われるのが、学生から直接、作家生活に入ったので、実社会の経験がなく、才能だけで書かれた軽さが作品に感じられるという指摘。しかしそれは違うだろうと考えた橋本は、「芥川龍之介全集」を買ってきて、「藪の中」のシナリオをわずか3日間で書き上げた。1947年のことだった。
草稿を半ペラ(200字詰め原稿用紙)に清書すると93枚である。これは映画にすれば40分から45分程度の長さに過ぎない。題名を「雌雄」とつけた。このシナリオが黒澤明の目に留まる。「醜聞(スキャンダル)」の次回作として映画化されることになって、黒澤との打ち合わせの席に向かう。橋本がそこで黒澤に言われた言葉が、「あんたの書いた『雌雄』だけど、これ、ちょっと短いんだよな」であった。
そこで橋本はとっさに言ってしまうのだ――「じゃ、『羅生門』を入れたら、どうでしょう?」。何か思惑があったわけではない。しかし黒澤はうなずき、橋本はこのシナリオに「羅生門」を入れて書き直すことになった。橋本は悪戦苦闘の末、「羅生門」の下人が「藪の中」の多襄丸の前身であった、というアイデアを思いつく。自伝によればこうだ。
「多襄丸――彼は盗賊だから羅生門に住みついていたとしてもおかしくはない。だが羅生門が棲家だったとしても、『羅生門』と『藪の中』が繋がる訳ではない。多襄丸の前身が下人で、悪への発端を『羅生門』とするのなら、不条理が次の不条理を生むことで『藪の中』にも繋がる」。しかしその場合は、「藪の中」とは異なる別の事件を前段に組み込まなければならない。
橋本は、「実直な下人が公家の屋敷で解雇を申し渡される」というストーリーを考え付く。その下人がやがて多襄丸になって堕ちていくわけだ。前段が書き加えられた映画脚本「羅生門物語」は1か月ほどで完成した。
しかしこれは大失敗と橋本自身が自覚するほどの不出来に終わった。「多襄丸が最初から登場するため、決定的な主役の印象が強くなるが、それが『藪の中』で自分の芝居を終えると、途中でいなくなってしまうので、以後がひどく白々しく妙なことになってしまう」と橋本は自己分析する。無理がたたったのか、橋本は体調不良でリタイアし、決定稿は結局、黒澤が仕上げることになった。
黒澤が書き直したシナリオには、「羅生門」とタイトルがつけられていた。出だしはおおむね次の通り。検非違使の庁からの帰りに、死体発見者の木こりと、途中の道で金沢武弘と真砂に会った証言者の旅僧の2人が、にわか雨に遭って羅生門で雨宿りをしている。そこへならず者のような下人が飛び込んでくる。木こりがポツンと「おかしな話だな」と言い、旅僧が「信じられん」と受ける。下人が聞きとがめ、「どんな話だ、聞こうじゃねぇか」と乗り出し、木こりと旅僧が経験し、検非違使の庁でも目撃した奇妙な事件、「藪の中」の話になる――。
これを読んだ橋本は、思わずうなってしまう。「この話の組み立てなら、『藪の中』が丸ごと入る」と。自伝では黒澤の決定稿をこう褒めたたたえている。「私は『藪の中』に『羅生門』を入れようと苦心惨憺し、『藪の中』から定規を『羅生門』に当てて線を引く。ファーストシーンは『羅生門』でも、定規の線は『藪の中』からだ。ところが黒澤さんはその定規を逆に使い、『羅生門』から『藪の中』へ線を引く。こうすれば『羅生門』に『藪の中』がそのまま自然に入り込む――作品の数をある程度はこなさないと身につかない見事な手練の逆業である」。
さらに、原作にも橋本の脚本にもなかったエピソードが挿入される。木こりが自分の目で見たこの事件の真相(多襄丸、真砂、武弘のいずれの話も虚偽)が語られることだ。その木こりの話にも虚偽があって、それを下人に見透かされるというオマケまでつく。話が終わり、下人は羅生門に捨てられた赤子の着物をはぎとって去っていく。残された木こりが捨て子をわが子として育てようとするラストシーンに対して、橋本は「芝居が浮いている」と疑問を呈しているが、結果的に映画「羅生門」は、黒澤のこの決定稿通りに制作された。
1950年に日本で公開され、翌1951年にはヴェネツィア国際映画祭でグランプリを受賞。日本映画が世界に認知される契機となった。まさに黒澤の貫録勝ちだが、「藪の中」に「羅生門」を入れるというヒントを与えたのは、まぎれもなく橋本であったといえる。
しかし橋本の自伝には、ある監督から言われたという気になる言葉も記されている。「黒澤さんにとって、橋本忍は会ってはいけない男だったんです」「そんな男に会い、『羅生門』なんて映画を撮り、外国でそれが戦後初めての賞などを取ったりしたから……映画にとって無縁な、思想とか哲学、社会性まで作品へ持ち込むことになり、どれもこれも妙に構え、重い、しんどいものになってしまったんです」。発言の主は名匠、野村芳太郎監督である。(こや)
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2021/01/12 15:02 |
コラム「たまたま本の話」

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