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2024/05/07 01:20 |
第115回 「蜘蛛の糸」が絡む話(芥川龍之介・小松左京・つげ義春) 文学に関するコラム・たまたま本の話
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つげ義春が書いた「リアリズムの宿」(1973年11月、「漫画ストーリー」掲載)は、早とちりして別の宿屋に泊まって、「あちらの宿屋に泊まっておけば」と主人公が悔やむという話だ。ペーソス漂う傑作である。
この漫画のラストに、宿屋の子供が夜、本を朗読するシーンがある。隣の部屋から主人公の耳に、子供の声が聞こえてくる。「お釈迦様は極楽の蓮池のふちに立って、この一部始終をじっと見ていらっしゃいました」「自分ばかり地獄から抜け出そうとする、犍陀多(カンダタ)の無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて」……。言うまでもなく、これは芥川龍之介の「蜘蛛の糸」(1918年5月、「赤い鳥」掲載)の一節である。
この場面になぜ「蜘蛛の糸」が出てくるのか、以前からよく分からなかった。他人に対して慈悲の心を持たない者は罰せられる――。芥川の著名な童話の教訓が、この場面に相応しいのかどうか。主人公はカンダタのような罪人ではない。宿屋の家族も蜘蛛の糸にぶら下がる地獄の亡者たちではない。
実は芥川の「蜘蛛の糸」には原典があることを最近、知った。ドイツ生まれのアメリカ作家で、宗教学者でもあるポール・ケーラスが1894年に書いた仏教説話集「カルマ」がそれである。日本の仏教学者の鈴木大拙が、1898年に「因果の小車」というタイトルで日本語に訳しているから、芥川がこれを読んでいたことは確実だろう。そして大正でいえば7年に「蜘蛛の糸」を書いたとき、この説話を換骨奪胎したのである。
ポール・ケーラスの原作にあって、芥川が削除した部分がある。それをざっと要約してみる。慈悲深い僧侶が、極悪人に諭すときの例え話として、カンダタの例を持ち出す。カンダタが地獄に落ちて行った後、僧侶はこう話を続けるのだ。「カンダタの心には個人としての自我のイリュージョンがまだあった。彼は、人間が向上して正義の尊い道に入ろうとする、まじめな願いの奇跡的な力を知らなかった。それは蜘蛛の糸のように細いけれども、数百万の人々を運ぶことができる。そしてその糸をよじのぼる人々が多ければ多いほど、その人々の努力は楽になる。しかしいったん人間の心に『これは私のものだ。正義の幸福をひとりじめにして、誰にも分けてやるまい』という考えが起こるや否や、糸は切れて、人はもとの個々別々の状態に落ちてしまう」。そしてこう結ぶ。利己主義とは呪いであり、真理は祝福である。地獄とはエゴイズムに外ならず、極楽は公正な生のことなのだ――と。
「蜘蛛の糸」は芥川が最初に書いた童話である。子供にはさすがに難しいと思ったのだろう。上記の部分をすっかりカットしてしまった。その結果、どうなったかといえば、「他人に対して慈悲の心を持たない者は罰せられる」という教訓の部分が残った。これは子供にも大人にも分かりやすい。だからこそ、今も残る日本近代文学史上の傑作になったとは言えないだろうか。
この教訓が、説教臭くて気に入らない、と反論した作家がいる。「日本沈没」などで知られるSF作家の小松左京である。小松は「カンダタが下に続く者に、糸を放せと言ったのは当然」と言う。なぜなら、これは自分の前に垂れてきた糸なのだから。当然、カンダタだけに権利がある。よほど腹に据えかねたのだろう。小松は同じ「蜘蛛の糸」という題名のショートショートを書いてしまった。いわばパロディー版である。
そこでは、カンダタは蜘蛛の糸を下ろされ、それを伝って上がり、ふと下を見ると、他の者も上がってくるのを見る。そこまでは同じだ。しかし、カンダタは彼らを追い落とすより、急いで伝い上がることを優先するのである。これは当然だろう、と小松は書く。いつ切れるか分からない糸なのだから、立ち止まって下に向かってわめいていたら、それがきっかけでプツンと来るかもしれない。だから早く登っちゃおうと、急ぐほうが自然である。そしてカンダタはしっかり極楽に上がる。驚いたのはお釈迦様で、それに続く他の亡者たちを阻止しようとして失敗、代わりにお釈迦様のほうがバランスを崩して地獄に落ちてしまった。カンダタと亡者たちは全員、無事に極楽へ。
しばらくたった後、カンダタが地獄をのぞくと、お釈迦様が血の池で苦しんでいる。カンダタは性格もすっかり温和になり、以前のことを思い出して、蜘蛛の糸を垂らす。お釈迦様がそれに気がついて登り始めるが、ふと下を見ると、地獄の鬼や閻魔様まで登ってくる。「お前たち、それは駄目だ」というと、蜘蛛の糸はプツンと切れ、お釈迦様は地獄へ真っ逆さまに落ちてしまった……。
この小松の言い分にも一理あるのではないかと思う。カンダタと亡者たちが、糸が切れることなく皆で極楽に登るあたり、まるでポール・ケーラス「因果の小車」の本質を見抜いていたかのようではないか。芥川が子供向けの教訓話にしてしまったものを、小松はもう一度、皆で努力して極楽で幸せになろう、という説話の原典に立ち返らせているように思う。少なくとも物語の前半部分までは。
ここでつげ義春の「リアリズムの宿」に話を戻せば、「あちらの宿屋に泊まっていれば」という主人公の後悔は、結局、自分の身の内にきざしたエゴイズムだということになるのではないか。エゴイズムを通せば、やがて糸は切れる。糸が切れれば皆の幸福への道が閉ざされる。お前さんのなすべきことは、宿屋の家族とともに幸せに向けて蜘蛛の糸を伝い上がることだろう? 作者は主人公にそう戒めるために、あえて「蜘蛛の糸」の一節を持ってきているようにも読める。つげ漫画もなかなか深い。(こや)
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2021/01/12 14:57 |
コラム「たまたま本の話」

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