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2024/05/07 08:37 |
第114回 ミリオンセラー雑誌の誕生(講談社「キング」) 文学に関するコラム・たまたま本の話
PDF版はこちらから
日本に雑誌というメディアが生まれたのは、1867(慶応3)年10月のことである。洋学者の柳河春三が創刊した「西洋雑誌」がそれで、欧米諸国の学術記事を翻訳して掲載した。これが雑誌の嚆矢とされるのは、マガジンという言葉を「雑誌」と訳しているからである。「この雑誌出版の意は西洋諸国月々出版するマガセインのごとく……」と、創刊号の巻末に書かれている。
こうしてデビューした日本の雑誌は当初、機関誌型というべき発行形態を取った。思想や学術組織、文学集団、趣味の会など、いわゆる機関が主導して、会員の批評、主張、意見、さらに作品などを発表する場として刊行されていた。堕落した仏教界に禁酒、進徳をすすめる反省会の会員誌として生まれた「反省会雑誌」。古今東西の妖怪研究が目的で井上円了博士の下に集まった人たちの機関誌として創刊された「妖怪学雑誌」。不動貯金銀行創業者、牧野元次郎が提唱したニコニコ主義(ケンカや口論を排し、常に恩を忘れず、笑顔をたやさない)に賛同した人たちで作るニコニコ倶楽部の機関誌「ニコニコ」。これらはすべて機関誌型といえるだろう。
現在の雑誌は、言うなれば一般商業誌型である。つまり商売としての出版産業が生み出す雑誌。最初から基礎読者を得ている機関誌と違って、あくまで一般大衆という不特定多数の読者に向けて発行するだけに、広告と販売の2大戦略が何よりも必要となる。
明治の頃から一般商業誌型の雑誌は登場していたが、それを本格的に軌道に乗せた雑誌が「キング」であることに異論はないだろう。「キング」は、大日本雄弁会講談社(以下、講談社)が「面白くてためになる」をモットーに、「万人向きの百万部雑誌」を目標として掲げ、社運を賭けて創刊した大衆娯楽雑誌である。講談社の雑誌としては8番目になる。創刊号は1925(大正14)年1月号で、定価50銭だった。
当時、売れていた雑誌でも20数万部程度の時代に、「キング」創刊号は50万部を発行した。これを売るために、講談社はあらゆるメディアを使って大宣伝を展開した。地域の有力者に今でいうダイレクトメールを送付。書店の店頭には誌名が入ったのぼりを掲げてもらった。のぼりによる告知は「キング」が起源といわれている。新聞各紙への大々的な広告掲載はもちろん、チラシやポスターなど、新聞広告以外の宣伝文書も30種余りを作成、総計7000万部を全国へ配布した。さらにチンドン屋が街を練り歩き、コマーシャルソング(野口雨情作詞、水谷しきを作曲)も発売。歌も踊りも駆使しての一大PRとなった。
その結果、追加注文を含めて創刊号は62万部を突破し、驚異的なスタートを切った。以後も順調に発行部数を伸ばし、昭和に入った1927(昭和2)年新年号でついに100万部を突破した。これは日本初のミリオンセラー雑誌の誕生であり、出版史上の一大快挙であった。1927(昭和2)年11月号は何と140万部を数えている。特別付録に「明治大帝」という828ページに及ぶ上製本を付けた。140万という数字は、当時の日本の総人口の2%に当たる。つまり50人に1人が「キング」を読んでいたわけだ。
「キング」はなぜここまで大衆に広く受けたのだろうか。小説、講談、実用知識、説話、笑話など内容が多岐にわたり、安価でボリュームのあるページ数、豪華な付録、万人受けする娯楽的な編集方針などが、その成功の要因であったろう。大正から昭和にかけて、日本で大衆社会が形成されていったことが、大量宣伝、大量広告、大量出版を実現させた、初の事例としても特筆される。
勢いは止まらない。1928(昭和3)年11月増刊号で「キング」は150万部を記録。この頃がピークと言われている。1931(昭和6)年にスタートした講談社の音楽部門は、誌名にあやかって「キングレコード」と名付けられた。また「キング」の成功は、ライバル出版社を大いに刺激し、平凡社の「平凡」、博文館の「朝日」、新潮社の「日の出」など、大衆娯楽雑誌が次々に創刊された。
あまりに売れたたため、思わぬ横やりも入る。プロレタリア文学の徳永直は、1930年に書いた「『太陽のない街』は如何にして製作されたか」という文章の中で「三百万を超えるキング其他婦人雑誌を通じての敵陣に捕虜にされている労働者の読者大衆を闘いとれ」と主張した。「キング」が大衆文化の象徴としてとらえられていた証左であり、逆に言えば対極的立場をとるプロレタリア文学陣営からも注目されていたわけである。
しかし戦況が厳しくなった1943(昭和18)年、「キング」が敵性語であるという理由で「富士」に改題された(しばらくは「キング 改題 富士」と表記。キングレコードも同様に「富士音盤」と変更)。第二次世界大戦後は再び「キング」に戻すが、用紙統制の影響もあり、1952(昭和27)年、一時的に30万部まで持ち直した程度で、戦前のような売れ行きにはついに戻らなかった。
「キング」の終刊は1957(昭和32)年12月号。「キング」をリニューアルした新雑誌「日本」が同年に創刊されたが、1966(昭和41)年に月刊総合雑誌「現代」と入れ替わる形で廃刊となっている。
昭和30年代は価値観の多様化が顕著になり、雑誌の細分化や週刊誌の台頭があった時代だった。「一家に一冊」を目指した「キング」はその役割を終えた。しかし「キング」が日本の出版界と講談社に残した功績の大きさは忘れてはならない。なお、発行元の大日本雄弁会講談社は「キング」終刊の翌年、社名を講談社に変更している。*本稿は「雑誌100年の歩み」(塩澤実信著、1994年9月、グリーンアロー出版社刊)、インターネット資料などを参照した。
(こや)
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2021/01/12 14:52 |
コラム「たまたま本の話」

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