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2024/05/07 02:49 |
第113回 「実業之日本」「婦人世界」を作った男(増田義一) 文学に関するコラム・たまたま本の話
PDF版はこちらから
増田義一という名前をご存じの方は、出版界の歴史に相当、詳しい方だと思う。読売新聞の記者から実業之日本社の創業者となって、後に衆議院議員も歴任した。インターネット資料には、こんなプロフィールが記されている。
1869年、越後国(現・新潟県上越市板倉区)出身。東京専門学校(現・早稲田大学)卒。読売新聞社に入社。1895年、学友の光岡威一郎が創刊した「実業之日本」(大日本実業学会)の編集に参画するが、光岡が病気のため、編集、発行権を譲られる。1900年、読売を退社して実業之日本社を創立、社長となる。1906年、「婦人世界」、「日本少年」、1908年、「少女の友」を創刊、1937年にも「新女苑」を創刊するなど、多くの雑誌を刊行した。大日本印刷などの創立に参加、日本雑誌協会会長。1912年、衆議院議員となり、当選8回、1931年、衆議院副議長。1949年、享年79歳で死去。
新聞界、出版界、印刷界、政界でこれほどの業績をなし得た人物も稀だろうが、増田は経営者として雑誌作りの姿勢にも確固たる信念を打ち出した。かつて知人からアドバイスされた「雑誌を始めるなら、人を褒める雑誌を作れ」の教えを基に、雑誌を成功させる秘訣について、あるところでこんなことを語っている。「実業之日本」の部数が急成長していた明治期終盤の頃である。
「人が集まるとまず話すことは何かというと、景色のことなどはあまり話し合うものではない。必ず人間の噂をするものである。そこでこの心理によって、記事の中には必ず人間の名を織り込まなくてはいけない。人の名を誌上に出せば、君のことが『実業之日本』に出ていたよ、とか、彼のことを『実業之日本』で読んだぜとかいうことになる。新聞雑誌の読者拡張の秘訣はこれだよ」
いまの週刊誌のように、人を攻撃したり悪事を暴露したりするわけではない。人を取り上げても、弱点を隠して美点を挙げる。短所に触れず長所を目立たせる。「雑誌や図書は、どれだけ社会や世間の役に立つかが価値の尺度である」と、増田は考えていたようだ。
あるときは、自ら編集の極意も執筆者にアドバイスした。翻訳者が長い翻訳文をそのまま送ると、増田は丹念に小見出しをつけ、途中の大事な部分はゴチックにして目立たせた。
「ああ長いものをそのまま組んだ日には、読者はうんざりしてしまう。そこで意味が段落になろうとなるまいと、1ページに3つぐらいゴチの小見出しが出るようにすると、見た目にも感じが良いし、見出しの文句を上手につけると、いかにも中身が面白そうに見えて、つい読む気になる。だから小見出しを上手につけることが本文よりも大切なくらいだ」
新聞記者、雑誌編集者としての豊富な経験なくして、こうしたアドバイスはできない。いや、経験以上に天性のジャーナリスト的嗅覚が備わっていたというべきだろう。こんなエピソードもある。
ある執筆者が、有名人の伝記を担当した。「あんな有名な人にいまさら紹介記事を書くのは……」と、執筆者が冒頭に紹介記事をつけずにいきなり本文に入っていったので、増田は修正して冒頭に紹介文のリードをつけて掲載した。なぜか。
「書くこちらの方は自分で研究するから相手のことをよく知っている。自分が知っていると、誰もが知っているように思うものだ。ところが、読者というものは案外知らんものだ。特に数字などはまるで知らない。それに対して、はっきりした数字を挙げてかかると、こちらの言うことに権威がつき興味も起こって、人も読む気になる。だから、どんなによく知られた人でも油断せずに、必ずエッセンスを始めに出すことだ」
ソロバンを弾く経営者であるとともに、たぐいまれなセンスを持った編集者、増田義一。その真骨頂が発揮されたのが、1906年1月、雑誌「婦人世界」の創刊である。
高等女学校の増加による女子教育の普及、また農村から都会に移り住んで家庭を築く婦人層が多くなっていることに目をつけた増田は、彼女たちに必要な生活情報を伝える女性雑誌を作ろうとする。「食道楽」などのベストセラーで知られる作家、村井弦斎を編集顧問に迎え、「婦人世界」は斬新な企画を連発した。
が、何といっても「婦人世界」の部数増に貢献したのは本邦初の「委託返品制度」の導入であろう。小売店の買い切りが普通だった雑誌販売を、増田は1909年の「婦人世界」新年号から「オール委託、返品無制限自由制度」に変えた。今に至る出版業界の「委託販売制度」のルーツである(異説もある)。小売店は、自己負担の危惧なしで多く仕入れられる利点を活用して、実業之日本社の雑誌を売りまくった。
その結果、どうなったかと言えば、実業之日本社の雑誌の部数が急激に増えた一方で、買い切りにこだわり返品不可を取り引きの基本としていた明治期の出版界の雄、博文館の雑誌の退潮が顕著になった。増田の先見性とソロバンによって、実業之日本社は大正期に飛躍的発展を遂げる。雑誌「実業之日本」はその後、2000年の休刊まで100年以上、発行される長寿雑誌となった。
*本稿は「一代の出版人・増田義一伝」(藤井茂著、2019年10月、実業之日本社)を参照した。(こや)
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2021/01/12 14:45 |
コラム「たまたま本の話」

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