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2024/05/07 07:41 |
第112回 加害者と被害者の問題(ヴィットリオ・デ・シーカと黒澤明) 文学に関するコラム・たまたま本の話
PDF版はこちらから
新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、外出自粛の日々を送っている。時間が出来たので、かつて見たまま、その後40年も再見の機会がなかった映画を何本か見直していて、20歳のときには気づかなかったことに色々と気づいた。今回はそのことを書いてみたい。
「自転車泥棒」という映画がある。いわずと知れた戦後イタリアのネオレアリズモ映画の名作で、監督はヴィットリオ・デ・シーカ。1948年に制作された。2年間の失業状態から、ようやく役所のポスター貼りの仕事を得た労働者が、仕事を始めたとたん、必要な自転車を盗まれてしまい、息子とローマの街を歩き回って自転車を探す物語である。以下、作品の内容に触れるので、未見の方はご注意を。
結局、自転車は見つからず、最後、主人公は出来心から他人の自転車を盗んでしまう。群衆に取り押さえられ、「自分の息子が見ている前で、何て奴だ」と罵声を浴びながらも、自転車の持ち主の温情で解放される。ローマの街を歩いていく父子の後ろ姿が映し出されるラストシーンでは、涙が押さえきれなかったことを覚えている。自転車を盗まれた男が自転車を盗む側に回る。つまりは被害者が加害者に転じる物語。主人公の父をここまで追い込んだ自転車泥棒に対しては、怒りさえ覚えたものである。20歳当時は勧善懲悪の視点から、この映画を見ていたのだ。
しかし今回、映画を見直して、見方が変わった。主人公の自転車を盗んだ若い男について、その人物像が描かれていたことに気づいたからである。
この若い男は、決して裕福ではないアパートに家族と住んでいる。しかもどうやら病気持ちらしく、主人公に「俺の自転車を盗んだな」と、とっちめられると発作を起こし、泡を吹いて倒れてしまう。てんかんなのかもしれないが、あるいはついこの間までの戦争(「自転車泥棒」はイタリアの敗戦3年後に作られた映画だ)の従軍体験があって、それによってPTSD(心的外傷後ストレス障害)を患っているのかもしれない。つまりこの若い男も戦争の被害者なのである。だから近所の住人たちもハンデのある若い男の味方をする。そのことがしっかりと押さえられている。
あるいは、その若者とつながりのあるらしい老人の存在。主人公は老人も悪の一味としてつかまえようとするが、老人は貧しいものに施しを行う教会に入っていく。おそらくこの老人はホームレスで、その日暮らしで生きているのだろう。まぎれもなく、戦後イタリアが生んだ被害者なのである。
では、自転車の盗難を届け出たときに「こちらも探すが、自分で探せ」と突き放した警察は加害者なのか。警察は世情の混乱や頻発する事件に対処するために人手が足りず、自転車の盗難などにはかかずらってはいられない。これも被害者だ。占い師はどうか。「自転車はどこか」と尋ねると「すぐに見つかるか、永遠に出てこないかだ」という答えが返ってくる。あたかもイカサマ師の言葉のように思えるが、明日をも知れぬイタリアの運命を暗示しているのだと言えなくもない。
勧善懲悪どころではない。登場人物の誰もが加害者でなく、被害者ばかりの物語なのだ。あえて言えば、被害者がいつでも加害者になってしまうイタリア社会を生んだ戦争と国家、それこそが最大の加害者である。これが「自転車泥棒」という映画の本質なのだ。
ここで思い出したのは、日本の黒澤明監督の映画「静かなる決闘」である。1949年の作品だが、かつて見たときはこれも勧善懲悪の物語としてとらえていた。以下、未見の方はご注意を。
主人公の医師は戦時中、野戦病院で軍医として働いていた。そのとき緊急手術をした男が実は梅毒患者で、医師は誤って自らも梅毒に感染してしまう。復員後、父親の医院で働くが、梅毒の感染を隠したまま、婚約者とも距離を置いている。思えば医師はまぎれもなく被害者である。悪いのは梅毒を移した患者のほうだ。
ところがその梅毒患者が現れるのだ、主人公の医師の前に。何と彼は、復員後、梅毒を放置したまま結婚をし、近く子供が生まれるという。一見、この梅毒患者こそは加害者のように思える。しかし物語は悲劇的な結末を迎える。結局、梅毒患者の子供は重度の障害を負って生まれ、しかも死産であった。彼もまた、敗戦日本の戦後の混乱の中で、梅毒治療を満足に受けられなかった被害者なのだ。加害者は、そうした無数の犠牲者を生んだ戦争と日本社会ということになる。
伝えられるところによれば、当時、梅毒は簡単には治らない病気であって、その恐ろしさを前面に押し出したこの映画は、性病予防に力を入れていたGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)からは大いに歓迎されたという。
ヴィットリオ・デ・シーカと黒澤明が敗戦直後の映画で描いたことは、悪と善が単純に割り切れる世界などはあり得ない、という絶対的な事実である。物事には加害者と被害者がいて、と勧善懲悪で理解した方が、確かに物語は分かりやすい。しかし現実はそう簡単なものではない。目を転じて、コロナウイルス禍にある今の世界を見ると、いわれなき差別や非難が蔓延していることに気づく。コロナにかかった人が、そうでない人から「近づくな」と罵声を浴びせられている。加害者はコロナで、感染者も非感染者も共に被害者なのに。(こや)
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2021/01/12 14:38 |
コラム「たまたま本の話」

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