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2024/04/26 21:15 |
第116回 「藪の中」に「羅生門」を繋ぐ(黒澤明と橋本忍) 文学に関するコラム・たまたま本の話
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橋本忍(1918~2018)といえば、戦後の日本映画界を代表する脚本家である。黒澤明作品の共同脚本などで知られる。この橋本が2006年6月に書いた自伝「複眼の映像 私と黒澤明」(文芸春秋刊)が面白い。中でも脚本家デビュー作「羅生門」についてのエピソードが貴重なので、紹介したい。
映画「羅生門」の原作は芥川龍之介。「夏目漱石の作品は映画になっている。森鷗外も映画になっている。しかし、芥川龍之介のものは1本も映画になっていない。明治以来の3大文豪はあまりにも有名なのに、なぜだろう?」という橋本の疑問からすべては始まる。芥川文学についてよく言われるのが、学生から直接、作家生活に入ったので、実社会の経験がなく、才能だけで書かれた軽さが作品に感じられるという指摘。しかしそれは違うだろうと考えた橋本は、「芥川龍之介全集」を買ってきて、「藪の中」のシナリオをわずか3日間で書き上げた。1947年のことだった。
草稿を半ペラ(200字詰め原稿用紙)に清書すると93枚である。これは映画にすれば40分から45分程度の長さに過ぎない。題名を「雌雄」とつけた。このシナリオが黒澤明の目に留まる。「醜聞(スキャンダル)」の次回作として映画化されることになって、黒澤との打ち合わせの席に向かう。橋本がそこで黒澤に言われた言葉が、「あんたの書いた『雌雄』だけど、これ、ちょっと短いんだよな」であった。
そこで橋本はとっさに言ってしまうのだ――「じゃ、『羅生門』を入れたら、どうでしょう?」。何か思惑があったわけではない。しかし黒澤はうなずき、橋本はこのシナリオに「羅生門」を入れて書き直すことになった。橋本は悪戦苦闘の末、「羅生門」の下人が「藪の中」の多襄丸の前身であった、というアイデアを思いつく。自伝によればこうだ。
「多襄丸――彼は盗賊だから羅生門に住みついていたとしてもおかしくはない。だが羅生門が棲家だったとしても、『羅生門』と『藪の中』が繋がる訳ではない。多襄丸の前身が下人で、悪への発端を『羅生門』とするのなら、不条理が次の不条理を生むことで『藪の中』にも繋がる」。しかしその場合は、「藪の中」とは異なる別の事件を前段に組み込まなければならない。
橋本は、「実直な下人が公家の屋敷で解雇を申し渡される」というストーリーを考え付く。その下人がやがて多襄丸になって堕ちていくわけだ。前段が書き加えられた映画脚本「羅生門物語」は1か月ほどで完成した。
しかしこれは大失敗と橋本自身が自覚するほどの不出来に終わった。「多襄丸が最初から登場するため、決定的な主役の印象が強くなるが、それが『藪の中』で自分の芝居を終えると、途中でいなくなってしまうので、以後がひどく白々しく妙なことになってしまう」と橋本は自己分析する。無理がたたったのか、橋本は体調不良でリタイアし、決定稿は結局、黒澤が仕上げることになった。
黒澤が書き直したシナリオには、「羅生門」とタイトルがつけられていた。出だしはおおむね次の通り。検非違使の庁からの帰りに、死体発見者の木こりと、途中の道で金沢武弘と真砂に会った証言者の旅僧の2人が、にわか雨に遭って羅生門で雨宿りをしている。そこへならず者のような下人が飛び込んでくる。木こりがポツンと「おかしな話だな」と言い、旅僧が「信じられん」と受ける。下人が聞きとがめ、「どんな話だ、聞こうじゃねぇか」と乗り出し、木こりと旅僧が経験し、検非違使の庁でも目撃した奇妙な事件、「藪の中」の話になる――。
これを読んだ橋本は、思わずうなってしまう。「この話の組み立てなら、『藪の中』が丸ごと入る」と。自伝では黒澤の決定稿をこう褒めたたたえている。「私は『藪の中』に『羅生門』を入れようと苦心惨憺し、『藪の中』から定規を『羅生門』に当てて線を引く。ファーストシーンは『羅生門』でも、定規の線は『藪の中』からだ。ところが黒澤さんはその定規を逆に使い、『羅生門』から『藪の中』へ線を引く。こうすれば『羅生門』に『藪の中』がそのまま自然に入り込む――作品の数をある程度はこなさないと身につかない見事な手練の逆業である」。
さらに、原作にも橋本の脚本にもなかったエピソードが挿入される。木こりが自分の目で見たこの事件の真相(多襄丸、真砂、武弘のいずれの話も虚偽)が語られることだ。その木こりの話にも虚偽があって、それを下人に見透かされるというオマケまでつく。話が終わり、下人は羅生門に捨てられた赤子の着物をはぎとって去っていく。残された木こりが捨て子をわが子として育てようとするラストシーンに対して、橋本は「芝居が浮いている」と疑問を呈しているが、結果的に映画「羅生門」は、黒澤のこの決定稿通りに制作された。
1950年に日本で公開され、翌1951年にはヴェネツィア国際映画祭でグランプリを受賞。日本映画が世界に認知される契機となった。まさに黒澤の貫録勝ちだが、「藪の中」に「羅生門」を入れるというヒントを与えたのは、まぎれもなく橋本であったといえる。
しかし橋本の自伝には、ある監督から言われたという気になる言葉も記されている。「黒澤さんにとって、橋本忍は会ってはいけない男だったんです」「そんな男に会い、『羅生門』なんて映画を撮り、外国でそれが戦後初めての賞などを取ったりしたから……映画にとって無縁な、思想とか哲学、社会性まで作品へ持ち込むことになり、どれもこれも妙に構え、重い、しんどいものになってしまったんです」。発言の主は名匠、野村芳太郎監督である。(こや)
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2021/01/12 15:02 |
コラム「たまたま本の話」
第115回 「蜘蛛の糸」が絡む話(芥川龍之介・小松左京・つげ義春) 文学に関するコラム・たまたま本の話
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つげ義春が書いた「リアリズムの宿」(1973年11月、「漫画ストーリー」掲載)は、早とちりして別の宿屋に泊まって、「あちらの宿屋に泊まっておけば」と主人公が悔やむという話だ。ペーソス漂う傑作である。
この漫画のラストに、宿屋の子供が夜、本を朗読するシーンがある。隣の部屋から主人公の耳に、子供の声が聞こえてくる。「お釈迦様は極楽の蓮池のふちに立って、この一部始終をじっと見ていらっしゃいました」「自分ばかり地獄から抜け出そうとする、犍陀多(カンダタ)の無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて」……。言うまでもなく、これは芥川龍之介の「蜘蛛の糸」(1918年5月、「赤い鳥」掲載)の一節である。
この場面になぜ「蜘蛛の糸」が出てくるのか、以前からよく分からなかった。他人に対して慈悲の心を持たない者は罰せられる――。芥川の著名な童話の教訓が、この場面に相応しいのかどうか。主人公はカンダタのような罪人ではない。宿屋の家族も蜘蛛の糸にぶら下がる地獄の亡者たちではない。
実は芥川の「蜘蛛の糸」には原典があることを最近、知った。ドイツ生まれのアメリカ作家で、宗教学者でもあるポール・ケーラスが1894年に書いた仏教説話集「カルマ」がそれである。日本の仏教学者の鈴木大拙が、1898年に「因果の小車」というタイトルで日本語に訳しているから、芥川がこれを読んでいたことは確実だろう。そして大正でいえば7年に「蜘蛛の糸」を書いたとき、この説話を換骨奪胎したのである。
ポール・ケーラスの原作にあって、芥川が削除した部分がある。それをざっと要約してみる。慈悲深い僧侶が、極悪人に諭すときの例え話として、カンダタの例を持ち出す。カンダタが地獄に落ちて行った後、僧侶はこう話を続けるのだ。「カンダタの心には個人としての自我のイリュージョンがまだあった。彼は、人間が向上して正義の尊い道に入ろうとする、まじめな願いの奇跡的な力を知らなかった。それは蜘蛛の糸のように細いけれども、数百万の人々を運ぶことができる。そしてその糸をよじのぼる人々が多ければ多いほど、その人々の努力は楽になる。しかしいったん人間の心に『これは私のものだ。正義の幸福をひとりじめにして、誰にも分けてやるまい』という考えが起こるや否や、糸は切れて、人はもとの個々別々の状態に落ちてしまう」。そしてこう結ぶ。利己主義とは呪いであり、真理は祝福である。地獄とはエゴイズムに外ならず、極楽は公正な生のことなのだ――と。
「蜘蛛の糸」は芥川が最初に書いた童話である。子供にはさすがに難しいと思ったのだろう。上記の部分をすっかりカットしてしまった。その結果、どうなったかといえば、「他人に対して慈悲の心を持たない者は罰せられる」という教訓の部分が残った。これは子供にも大人にも分かりやすい。だからこそ、今も残る日本近代文学史上の傑作になったとは言えないだろうか。
この教訓が、説教臭くて気に入らない、と反論した作家がいる。「日本沈没」などで知られるSF作家の小松左京である。小松は「カンダタが下に続く者に、糸を放せと言ったのは当然」と言う。なぜなら、これは自分の前に垂れてきた糸なのだから。当然、カンダタだけに権利がある。よほど腹に据えかねたのだろう。小松は同じ「蜘蛛の糸」という題名のショートショートを書いてしまった。いわばパロディー版である。
そこでは、カンダタは蜘蛛の糸を下ろされ、それを伝って上がり、ふと下を見ると、他の者も上がってくるのを見る。そこまでは同じだ。しかし、カンダタは彼らを追い落とすより、急いで伝い上がることを優先するのである。これは当然だろう、と小松は書く。いつ切れるか分からない糸なのだから、立ち止まって下に向かってわめいていたら、それがきっかけでプツンと来るかもしれない。だから早く登っちゃおうと、急ぐほうが自然である。そしてカンダタはしっかり極楽に上がる。驚いたのはお釈迦様で、それに続く他の亡者たちを阻止しようとして失敗、代わりにお釈迦様のほうがバランスを崩して地獄に落ちてしまった。カンダタと亡者たちは全員、無事に極楽へ。
しばらくたった後、カンダタが地獄をのぞくと、お釈迦様が血の池で苦しんでいる。カンダタは性格もすっかり温和になり、以前のことを思い出して、蜘蛛の糸を垂らす。お釈迦様がそれに気がついて登り始めるが、ふと下を見ると、地獄の鬼や閻魔様まで登ってくる。「お前たち、それは駄目だ」というと、蜘蛛の糸はプツンと切れ、お釈迦様は地獄へ真っ逆さまに落ちてしまった……。
この小松の言い分にも一理あるのではないかと思う。カンダタと亡者たちが、糸が切れることなく皆で極楽に登るあたり、まるでポール・ケーラス「因果の小車」の本質を見抜いていたかのようではないか。芥川が子供向けの教訓話にしてしまったものを、小松はもう一度、皆で努力して極楽で幸せになろう、という説話の原典に立ち返らせているように思う。少なくとも物語の前半部分までは。
ここでつげ義春の「リアリズムの宿」に話を戻せば、「あちらの宿屋に泊まっていれば」という主人公の後悔は、結局、自分の身の内にきざしたエゴイズムだということになるのではないか。エゴイズムを通せば、やがて糸は切れる。糸が切れれば皆の幸福への道が閉ざされる。お前さんのなすべきことは、宿屋の家族とともに幸せに向けて蜘蛛の糸を伝い上がることだろう? 作者は主人公にそう戒めるために、あえて「蜘蛛の糸」の一節を持ってきているようにも読める。つげ漫画もなかなか深い。(こや)

2021/01/12 14:57 |
コラム「たまたま本の話」
第114回 ミリオンセラー雑誌の誕生(講談社「キング」) 文学に関するコラム・たまたま本の話
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日本に雑誌というメディアが生まれたのは、1867(慶応3)年10月のことである。洋学者の柳河春三が創刊した「西洋雑誌」がそれで、欧米諸国の学術記事を翻訳して掲載した。これが雑誌の嚆矢とされるのは、マガジンという言葉を「雑誌」と訳しているからである。「この雑誌出版の意は西洋諸国月々出版するマガセインのごとく……」と、創刊号の巻末に書かれている。
こうしてデビューした日本の雑誌は当初、機関誌型というべき発行形態を取った。思想や学術組織、文学集団、趣味の会など、いわゆる機関が主導して、会員の批評、主張、意見、さらに作品などを発表する場として刊行されていた。堕落した仏教界に禁酒、進徳をすすめる反省会の会員誌として生まれた「反省会雑誌」。古今東西の妖怪研究が目的で井上円了博士の下に集まった人たちの機関誌として創刊された「妖怪学雑誌」。不動貯金銀行創業者、牧野元次郎が提唱したニコニコ主義(ケンカや口論を排し、常に恩を忘れず、笑顔をたやさない)に賛同した人たちで作るニコニコ倶楽部の機関誌「ニコニコ」。これらはすべて機関誌型といえるだろう。
現在の雑誌は、言うなれば一般商業誌型である。つまり商売としての出版産業が生み出す雑誌。最初から基礎読者を得ている機関誌と違って、あくまで一般大衆という不特定多数の読者に向けて発行するだけに、広告と販売の2大戦略が何よりも必要となる。
明治の頃から一般商業誌型の雑誌は登場していたが、それを本格的に軌道に乗せた雑誌が「キング」であることに異論はないだろう。「キング」は、大日本雄弁会講談社(以下、講談社)が「面白くてためになる」をモットーに、「万人向きの百万部雑誌」を目標として掲げ、社運を賭けて創刊した大衆娯楽雑誌である。講談社の雑誌としては8番目になる。創刊号は1925(大正14)年1月号で、定価50銭だった。
当時、売れていた雑誌でも20数万部程度の時代に、「キング」創刊号は50万部を発行した。これを売るために、講談社はあらゆるメディアを使って大宣伝を展開した。地域の有力者に今でいうダイレクトメールを送付。書店の店頭には誌名が入ったのぼりを掲げてもらった。のぼりによる告知は「キング」が起源といわれている。新聞各紙への大々的な広告掲載はもちろん、チラシやポスターなど、新聞広告以外の宣伝文書も30種余りを作成、総計7000万部を全国へ配布した。さらにチンドン屋が街を練り歩き、コマーシャルソング(野口雨情作詞、水谷しきを作曲)も発売。歌も踊りも駆使しての一大PRとなった。
その結果、追加注文を含めて創刊号は62万部を突破し、驚異的なスタートを切った。以後も順調に発行部数を伸ばし、昭和に入った1927(昭和2)年新年号でついに100万部を突破した。これは日本初のミリオンセラー雑誌の誕生であり、出版史上の一大快挙であった。1927(昭和2)年11月号は何と140万部を数えている。特別付録に「明治大帝」という828ページに及ぶ上製本を付けた。140万という数字は、当時の日本の総人口の2%に当たる。つまり50人に1人が「キング」を読んでいたわけだ。
「キング」はなぜここまで大衆に広く受けたのだろうか。小説、講談、実用知識、説話、笑話など内容が多岐にわたり、安価でボリュームのあるページ数、豪華な付録、万人受けする娯楽的な編集方針などが、その成功の要因であったろう。大正から昭和にかけて、日本で大衆社会が形成されていったことが、大量宣伝、大量広告、大量出版を実現させた、初の事例としても特筆される。
勢いは止まらない。1928(昭和3)年11月増刊号で「キング」は150万部を記録。この頃がピークと言われている。1931(昭和6)年にスタートした講談社の音楽部門は、誌名にあやかって「キングレコード」と名付けられた。また「キング」の成功は、ライバル出版社を大いに刺激し、平凡社の「平凡」、博文館の「朝日」、新潮社の「日の出」など、大衆娯楽雑誌が次々に創刊された。
あまりに売れたたため、思わぬ横やりも入る。プロレタリア文学の徳永直は、1930年に書いた「『太陽のない街』は如何にして製作されたか」という文章の中で「三百万を超えるキング其他婦人雑誌を通じての敵陣に捕虜にされている労働者の読者大衆を闘いとれ」と主張した。「キング」が大衆文化の象徴としてとらえられていた証左であり、逆に言えば対極的立場をとるプロレタリア文学陣営からも注目されていたわけである。
しかし戦況が厳しくなった1943(昭和18)年、「キング」が敵性語であるという理由で「富士」に改題された(しばらくは「キング 改題 富士」と表記。キングレコードも同様に「富士音盤」と変更)。第二次世界大戦後は再び「キング」に戻すが、用紙統制の影響もあり、1952(昭和27)年、一時的に30万部まで持ち直した程度で、戦前のような売れ行きにはついに戻らなかった。
「キング」の終刊は1957(昭和32)年12月号。「キング」をリニューアルした新雑誌「日本」が同年に創刊されたが、1966(昭和41)年に月刊総合雑誌「現代」と入れ替わる形で廃刊となっている。
昭和30年代は価値観の多様化が顕著になり、雑誌の細分化や週刊誌の台頭があった時代だった。「一家に一冊」を目指した「キング」はその役割を終えた。しかし「キング」が日本の出版界と講談社に残した功績の大きさは忘れてはならない。なお、発行元の大日本雄弁会講談社は「キング」終刊の翌年、社名を講談社に変更している。*本稿は「雑誌100年の歩み」(塩澤実信著、1994年9月、グリーンアロー出版社刊)、インターネット資料などを参照した。
(こや)

2021/01/12 14:52 |
コラム「たまたま本の話」
第113回 「実業之日本」「婦人世界」を作った男(増田義一) 文学に関するコラム・たまたま本の話
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増田義一という名前をご存じの方は、出版界の歴史に相当、詳しい方だと思う。読売新聞の記者から実業之日本社の創業者となって、後に衆議院議員も歴任した。インターネット資料には、こんなプロフィールが記されている。
1869年、越後国(現・新潟県上越市板倉区)出身。東京専門学校(現・早稲田大学)卒。読売新聞社に入社。1895年、学友の光岡威一郎が創刊した「実業之日本」(大日本実業学会)の編集に参画するが、光岡が病気のため、編集、発行権を譲られる。1900年、読売を退社して実業之日本社を創立、社長となる。1906年、「婦人世界」、「日本少年」、1908年、「少女の友」を創刊、1937年にも「新女苑」を創刊するなど、多くの雑誌を刊行した。大日本印刷などの創立に参加、日本雑誌協会会長。1912年、衆議院議員となり、当選8回、1931年、衆議院副議長。1949年、享年79歳で死去。
新聞界、出版界、印刷界、政界でこれほどの業績をなし得た人物も稀だろうが、増田は経営者として雑誌作りの姿勢にも確固たる信念を打ち出した。かつて知人からアドバイスされた「雑誌を始めるなら、人を褒める雑誌を作れ」の教えを基に、雑誌を成功させる秘訣について、あるところでこんなことを語っている。「実業之日本」の部数が急成長していた明治期終盤の頃である。
「人が集まるとまず話すことは何かというと、景色のことなどはあまり話し合うものではない。必ず人間の噂をするものである。そこでこの心理によって、記事の中には必ず人間の名を織り込まなくてはいけない。人の名を誌上に出せば、君のことが『実業之日本』に出ていたよ、とか、彼のことを『実業之日本』で読んだぜとかいうことになる。新聞雑誌の読者拡張の秘訣はこれだよ」
いまの週刊誌のように、人を攻撃したり悪事を暴露したりするわけではない。人を取り上げても、弱点を隠して美点を挙げる。短所に触れず長所を目立たせる。「雑誌や図書は、どれだけ社会や世間の役に立つかが価値の尺度である」と、増田は考えていたようだ。
あるときは、自ら編集の極意も執筆者にアドバイスした。翻訳者が長い翻訳文をそのまま送ると、増田は丹念に小見出しをつけ、途中の大事な部分はゴチックにして目立たせた。
「ああ長いものをそのまま組んだ日には、読者はうんざりしてしまう。そこで意味が段落になろうとなるまいと、1ページに3つぐらいゴチの小見出しが出るようにすると、見た目にも感じが良いし、見出しの文句を上手につけると、いかにも中身が面白そうに見えて、つい読む気になる。だから小見出しを上手につけることが本文よりも大切なくらいだ」
新聞記者、雑誌編集者としての豊富な経験なくして、こうしたアドバイスはできない。いや、経験以上に天性のジャーナリスト的嗅覚が備わっていたというべきだろう。こんなエピソードもある。
ある執筆者が、有名人の伝記を担当した。「あんな有名な人にいまさら紹介記事を書くのは……」と、執筆者が冒頭に紹介記事をつけずにいきなり本文に入っていったので、増田は修正して冒頭に紹介文のリードをつけて掲載した。なぜか。
「書くこちらの方は自分で研究するから相手のことをよく知っている。自分が知っていると、誰もが知っているように思うものだ。ところが、読者というものは案外知らんものだ。特に数字などはまるで知らない。それに対して、はっきりした数字を挙げてかかると、こちらの言うことに権威がつき興味も起こって、人も読む気になる。だから、どんなによく知られた人でも油断せずに、必ずエッセンスを始めに出すことだ」
ソロバンを弾く経営者であるとともに、たぐいまれなセンスを持った編集者、増田義一。その真骨頂が発揮されたのが、1906年1月、雑誌「婦人世界」の創刊である。
高等女学校の増加による女子教育の普及、また農村から都会に移り住んで家庭を築く婦人層が多くなっていることに目をつけた増田は、彼女たちに必要な生活情報を伝える女性雑誌を作ろうとする。「食道楽」などのベストセラーで知られる作家、村井弦斎を編集顧問に迎え、「婦人世界」は斬新な企画を連発した。
が、何といっても「婦人世界」の部数増に貢献したのは本邦初の「委託返品制度」の導入であろう。小売店の買い切りが普通だった雑誌販売を、増田は1909年の「婦人世界」新年号から「オール委託、返品無制限自由制度」に変えた。今に至る出版業界の「委託販売制度」のルーツである(異説もある)。小売店は、自己負担の危惧なしで多く仕入れられる利点を活用して、実業之日本社の雑誌を売りまくった。
その結果、どうなったかと言えば、実業之日本社の雑誌の部数が急激に増えた一方で、買い切りにこだわり返品不可を取り引きの基本としていた明治期の出版界の雄、博文館の雑誌の退潮が顕著になった。増田の先見性とソロバンによって、実業之日本社は大正期に飛躍的発展を遂げる。雑誌「実業之日本」はその後、2000年の休刊まで100年以上、発行される長寿雑誌となった。
*本稿は「一代の出版人・増田義一伝」(藤井茂著、2019年10月、実業之日本社)を参照した。(こや)

2021/01/12 14:45 |
コラム「たまたま本の話」
第112回 加害者と被害者の問題(ヴィットリオ・デ・シーカと黒澤明) 文学に関するコラム・たまたま本の話
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新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、外出自粛の日々を送っている。時間が出来たので、かつて見たまま、その後40年も再見の機会がなかった映画を何本か見直していて、20歳のときには気づかなかったことに色々と気づいた。今回はそのことを書いてみたい。
「自転車泥棒」という映画がある。いわずと知れた戦後イタリアのネオレアリズモ映画の名作で、監督はヴィットリオ・デ・シーカ。1948年に制作された。2年間の失業状態から、ようやく役所のポスター貼りの仕事を得た労働者が、仕事を始めたとたん、必要な自転車を盗まれてしまい、息子とローマの街を歩き回って自転車を探す物語である。以下、作品の内容に触れるので、未見の方はご注意を。
結局、自転車は見つからず、最後、主人公は出来心から他人の自転車を盗んでしまう。群衆に取り押さえられ、「自分の息子が見ている前で、何て奴だ」と罵声を浴びながらも、自転車の持ち主の温情で解放される。ローマの街を歩いていく父子の後ろ姿が映し出されるラストシーンでは、涙が押さえきれなかったことを覚えている。自転車を盗まれた男が自転車を盗む側に回る。つまりは被害者が加害者に転じる物語。主人公の父をここまで追い込んだ自転車泥棒に対しては、怒りさえ覚えたものである。20歳当時は勧善懲悪の視点から、この映画を見ていたのだ。
しかし今回、映画を見直して、見方が変わった。主人公の自転車を盗んだ若い男について、その人物像が描かれていたことに気づいたからである。
この若い男は、決して裕福ではないアパートに家族と住んでいる。しかもどうやら病気持ちらしく、主人公に「俺の自転車を盗んだな」と、とっちめられると発作を起こし、泡を吹いて倒れてしまう。てんかんなのかもしれないが、あるいはついこの間までの戦争(「自転車泥棒」はイタリアの敗戦3年後に作られた映画だ)の従軍体験があって、それによってPTSD(心的外傷後ストレス障害)を患っているのかもしれない。つまりこの若い男も戦争の被害者なのである。だから近所の住人たちもハンデのある若い男の味方をする。そのことがしっかりと押さえられている。
あるいは、その若者とつながりのあるらしい老人の存在。主人公は老人も悪の一味としてつかまえようとするが、老人は貧しいものに施しを行う教会に入っていく。おそらくこの老人はホームレスで、その日暮らしで生きているのだろう。まぎれもなく、戦後イタリアが生んだ被害者なのである。
では、自転車の盗難を届け出たときに「こちらも探すが、自分で探せ」と突き放した警察は加害者なのか。警察は世情の混乱や頻発する事件に対処するために人手が足りず、自転車の盗難などにはかかずらってはいられない。これも被害者だ。占い師はどうか。「自転車はどこか」と尋ねると「すぐに見つかるか、永遠に出てこないかだ」という答えが返ってくる。あたかもイカサマ師の言葉のように思えるが、明日をも知れぬイタリアの運命を暗示しているのだと言えなくもない。
勧善懲悪どころではない。登場人物の誰もが加害者でなく、被害者ばかりの物語なのだ。あえて言えば、被害者がいつでも加害者になってしまうイタリア社会を生んだ戦争と国家、それこそが最大の加害者である。これが「自転車泥棒」という映画の本質なのだ。
ここで思い出したのは、日本の黒澤明監督の映画「静かなる決闘」である。1949年の作品だが、かつて見たときはこれも勧善懲悪の物語としてとらえていた。以下、未見の方はご注意を。
主人公の医師は戦時中、野戦病院で軍医として働いていた。そのとき緊急手術をした男が実は梅毒患者で、医師は誤って自らも梅毒に感染してしまう。復員後、父親の医院で働くが、梅毒の感染を隠したまま、婚約者とも距離を置いている。思えば医師はまぎれもなく被害者である。悪いのは梅毒を移した患者のほうだ。
ところがその梅毒患者が現れるのだ、主人公の医師の前に。何と彼は、復員後、梅毒を放置したまま結婚をし、近く子供が生まれるという。一見、この梅毒患者こそは加害者のように思える。しかし物語は悲劇的な結末を迎える。結局、梅毒患者の子供は重度の障害を負って生まれ、しかも死産であった。彼もまた、敗戦日本の戦後の混乱の中で、梅毒治療を満足に受けられなかった被害者なのだ。加害者は、そうした無数の犠牲者を生んだ戦争と日本社会ということになる。
伝えられるところによれば、当時、梅毒は簡単には治らない病気であって、その恐ろしさを前面に押し出したこの映画は、性病予防に力を入れていたGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)からは大いに歓迎されたという。
ヴィットリオ・デ・シーカと黒澤明が敗戦直後の映画で描いたことは、悪と善が単純に割り切れる世界などはあり得ない、という絶対的な事実である。物事には加害者と被害者がいて、と勧善懲悪で理解した方が、確かに物語は分かりやすい。しかし現実はそう簡単なものではない。目を転じて、コロナウイルス禍にある今の世界を見ると、いわれなき差別や非難が蔓延していることに気づく。コロナにかかった人が、そうでない人から「近づくな」と罵声を浴びせられている。加害者はコロナで、感染者も非感染者も共に被害者なのに。(こや)

2021/01/12 14:38 |
コラム「たまたま本の話」

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