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2024/04/20 01:37 |
第101回 メタフィクション「小僧の神様」 文学に関するコラム・たまたま本の話
第101回 メタフィクション「小僧の神様」

PDF版はこちらから

若いころ読んで、こういう話だったという固定観念が出来ている文学について、長じてから「いや、実はあれはこういう話で……」 と改めて聞かされ、ハッと驚かされることがある。最近もそんな経験をした。作家の三田誠広が書いた読書エッセイ「小説を深く読む ぼくの読書遍歴」(2018年11月、海竜社刊)を読んでいて、こんな一節に出会ったのである。
作品は志賀直哉の「小僧の神様」。三田はこの小説を中学の国語の時間に教科書で習った。当時は「秤屋の小僧さんの物語だ」と思ったが、後になって思い直す。「いや、そんなふうに受け止めるのが間違いのもとなのだろう。あとで述べることになるが、この作品は、若い貴族院議員の知識人にありがちな傲慢な自意識がテーマになっている。だから作品の主人公は議員のほうで、小僧さんは脇役にすぎないのだ」
思わずアッと声が出た。こちらも子供のころからずっと、神様とも言うべき大人に出会った小僧が主人公の話だと思い込んでいたからである。だから三田が次のように続けているのを読んで、狐につままれたような気持ちになった。
「とはいえ、こちらは中学生だ。教科書に出ているくらいだから、中学生向けの作品だと思い込んでいる。当然、秤屋の小僧さんが出てくると、小僧さんのほうに向かって気持が傾いてしまう。わが身を小僧さんに置き換えて、小僧さんの不思議な体験をわがことのように体験してしまうのだ」
「体験してしまうのだ」――って、これはまさにその体験をさせるために書かれた小説なのではないか? 寿司は当時、高価な食べ物であって、住み込みで働く小僧にはとても食べられるものではなかった。実際、小僧の仙吉は恐る恐る屋台の寿司屋に入り、いったんつまんだ寿司の値段を聞いて、持ち合わせが足りずにそれを戻すという失態をやらかしている。その様子をたまたま居合わせて見ていて、そのとき小僧に寿司を食べさせてやれなかったことを悔やんでいたのが、Aという貴族院議員である。そのAが後日、秤屋で買い物をした折に、同じ小僧を偶然見かけた。今度こそ小僧に腹いっぱい寿司を食べさせてやりたいと思ったAは、まさしくそのようにした。
どこを取っても善行ではないか。仙人だかお稲荷様だか分からないけれども、小僧にとってAは自分の心の中を読んで寿司をたっぷりご馳走してくれた「神様」に他ならない。そしてこの小説を読んでいる、親から小遣いを満足にもらえないであろう中学生にとっても、Aの行いは神様の所業に映るに違いない。しかし三田はそこに作品の本当のテーマはない、という。
三田の言う「貴族院議員主人公説」の根拠は、次のようなところにあるのだと思う。確かに作者の志賀はこう書いている。小僧に寿司をご馳走した直後のくだりだ。
「Aは変に淋しい気がした。自分は先の日小僧の気の毒な様子を見て、心から同情した。そして、出来る事なら、こうもしてやりたいと考えていた事を今日は偶然の機会から遂行出来たのである。小僧も満足し、自分も満足していいはずだ」「ところが、どうだろう、この変に淋しい、いやな気持は。なぜだろう。何から来るのだろう。ちょうどそれは人知れず悪い事をした後の気持に似通っている」「もしかしたら、自分のした事が善事だと云う変な意識があって、それを本統の心から批判され、裏切られ、嘲られているのが、こうした淋しい感じで感ぜられるのかしら? もう少しした事を小さく、気楽に考えていれば何でもないのかもしれない。自分は知らず知らずこだわっているのだ」
このくだりを読むと、三田の主張ももっともであると感じられる。「貧しい小僧さんにご馳走してあげる。それは『偽善』ではないのか。たかが寿司をご馳走したくらいでいい気分になっている自分というものが許せない」と、三田は書いている。「貧しい小僧さんを喜ばせるという、いいことをしたはずなのに、何だかいやーな気分になってしまう。そういう『自意識』のいやらしさを描いているのだと、国会議員の側に立って読めばわかることで、これを中学生の教科書に載せたりするから、話がややこしくなってしまうのだ」と、なかなか手厳しい。
ここで引っかかるのは、主人公であるはずの貴族院議員Aに名前がなくて、脇役のはずの小僧に仙吉という立派な名前がつけられている点だ。1人の貴族院議員そのものではなく、一般的な知識人にありがちな傲慢な自意識がテーマだから、あえてアルファベットにしたのかもしれない。少年Aが未成年犯罪者一般を指すことにも通じようか。しかしそれでは脇役である仙吉に名前がつけられていることの説明にはならない。
もしかすると志賀はこの善行に対して、偽善ではないかという知識人の自意識と、それを神様の所業だと感謝する小僧の気持ちを、秤にかけて小説を書こうとしていたのではないか。仙吉が秤屋の小僧だからシャレで言うわけではないが、知識人の偽善の自意識が重いか小僧の感謝の気持ちが重いか、どちらに天秤の針が振れるが真のテーマなのではないか。
「小僧の神様」で注目すべきはラストである。作者の志賀は、Aがデタラメに書いた番地と名前を教えてもらって、小僧が訪ねていくくだりを書こうと思ったという。ところがそこには人の住まいがなく、小さい稲荷の祠だけがあって、小僧はびっくりした――と。「しかしそう書く事は小僧に対し少し残酷な気がして来た。それ故作者は前の所で擱筆する事にした」と物語を終えている。それを書く前に筆を置くと作者自身が書いているのだから、これはいわば最後にメタフィクションに転じる物語である。知識人の自意識が勝ったわけでもない。偽善を信じる小僧の感謝が勝ったわけでもない。その両者を秤にかけて小説を書いていた志賀にも、メタフィクションにしなければ決着のつかないテーマだったのだ。(こや)




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2019/05/06 13:29 |
コラム「たまたま本の話」

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