第94回 町山智浩が読む「セールスマン」(アスガー・ファルハディ)文学に関するコラム・たまたま本の話
PDF版はこちらから

かつて敏腕セールスマンとして鳴らしたウイリー・ローマンは、得意先が引退し、寄る年波にも勝てず、成績が上がらなくなっていた。仕事から帰宅して、妻リンダから聞かされるのは、家のローンに保険、車の修理費。前途洋々だったはずの息子たちも定職につかず、この先どうしたものか、と嘆くローマンは、やがて誇りを持っていたセールスの仕事まで失ってしまう。夢破れて、すべてに行き詰まった彼が選んだ道とは……。
言うまでもなくアーサー・ミラーの戯曲「セールスマンの死」の要約である。1949年2月10日、ニューヨークのモロスコ劇場で初演。演出はエリア・カザン。ウイリー役にリー・J・コップ、リンダ役にミルドレッド・ダンノックで、742回上演のロングランとなった。トニー賞、ニューヨーク劇評家賞、ピューリッツァー賞を受賞。当時33歳のミラーはすでに一部では評価を得ていたが、この作品で一躍、アメリカの新進劇作家として脚光を浴びることになった。
かつて模範とされていた、アメリカの男性優位主義の終焉を描いた物語である。ハードワーキングによってアメリカンドリームをつかむ男たちの姿は、アメリカでも見られなくなって久しいが、70年近い時を経た2016年、この物語がアメリカならぬイスラム圏で復活した。反米国として名高いイランでこの物語に新たな息吹を吹き込んだのは、映画監督のアスガー・ファルハディ。映画「セールスマン」で、2017年のアカデミー賞外国語映画賞を受賞したイラン映画界の名匠である。
この映画とミラーの「セールスマンの死」の関係については、映画評論家の町山智浩が、近著「『最前線の映画』を読む」(2018年2月、集英社インターナショナル新書刊)の中で詳しく解説している。町山によれば、主人公の高校教師エマドに注目すべきだという。エマドは高校教師の傍ら舞台俳優としての活動に明け暮れている。妻のラナも女優で、今度共演する芝居は「セールスマンの死」である。「エマドは旧時代のマチズモ(男性優位主義)を克服したリベラルなインテリである。いや、そうあろうとしていた」と、町山は指摘する。
ところが物語が進むうちに様子がおかしくなってくる。引っ越したばかりの部屋で、ラナが何者かに襲われたのだ。犯人は分からない。心労を抱えたエマドは教室で自分の居眠りをスマホに撮られて激怒し、「お前の父親を呼び出してやる」と、イランの父権主義そのものの叱責を生徒に投げつける。「セールスマンの死」の舞台ではウイリー・ローマンと一体化してしまい、共演者を罵倒する。妻を襲った犯人を捕まえられない自分に苛立ち、「男として情けない」と悩む。それらは、リベラルなインテリだったはずの自分の中に、伝統的な男性優位主義が根深く存在していたことを意味する。
そして犯人が判明する。それは自分の父親と同じくらいの年齢の衣服のセールスマンであった。彼は前の住人の(おそらく)売春婦に金を貢いでいた。愛人を囲う老セールスマンといえば、まさにウイリー・ローマンに他ならない。ラナを襲ったのは間違えたからで、レイプなどしていないと弁明するが、エマドは許さず、老人の家族を呼び出して、お前のやったことを暴露してやると脅す。老人はショックのあまり脳卒中で倒れてしまう。家族が呼び寄せられる。老人の妻は「この人は私の人生そのものです」と涙ながらに語る。「セールスマンの死」で、ローマンの妻リンダが語るセリフと瓜二つだ。「リンダはただ黙々と夫に尽くしてきた。彼女は40年代、50年代のアメリカの典型的な主婦の姿であると同時に、現代イランに暮らす、大多数の女性たちの考えでもあるのだろう」と町山は書く。
妻ラナにいさめられ、老人の罪を家族に暴露しなかったエマドは、脳卒中から目覚めた老人を別室に呼んで腹いせに殴る。老人は容体が悪化して救急車で運ばれる。「最もリベラルで、最もインテリで、イランの古い体質に反発していたはずの主人公エマドは、男らしさを守るために暴力で殺人を犯してしまった」。何のことはない、エマド自身がまさに男性優位主義の権化だったのだ。
おそらくこれは、日本で書かれた最高の「セールスマン」論である。付け加えることはほとんどないが、男性優位主義対リベラルの構図と見えたものが、実際は男性優位主義同士の新旧の争いであったということは指摘しておきたい。「旧世代のローマン」がハードワーキングで生きてきた老セールスマンであったとすれば、「新世代のローマン」はリベラルなインテリであるはずのエマドである。ということは、近代化された現在のイランにはハードワーキングマンやインテリが混在しているが、男性優位主義だけは脈々と受け継がれているということになる。これは痛烈なイランの体制批判となっている。
イラン映画が分かりづらいのは、「イランの映画人たちは、表向きの物語の下に、暗号のようにそっと本当のテーマを隠す」からだ、と町山は書いている。映画も演劇も検閲を受け、撮影現場にも役人が監視に来て、体制批判がないかどうかチェックする。そういった事情を十分に理解しているから、アスガー・ファルハディ監督は敢えて「セールスマンの死」を持ってきて、アメリカ批判の映画であるかのように巧みにオブラートした。
アカデミー賞の授賞式を主演女優ともども欠席したことは記憶に新しい。2017年1月に就任したドナルド・トランプが宣言した、イランを含むイスラム諸国からの入国禁止令に抗議するというのが表向きの理由だった。ファルハディの抗議の拳はアメリカに振り上げられているようで、実はイラン政府に向けられているのではないか。思えば「セールスマン」は、ファルハディにとって2012年の「別離」に続く2度目のアカデミー賞外国語映画賞受賞となった。アメリカに最も評価される監督なのだ。アメリカは「分かっている」と思う。(こや)

にほんブログ村 本ブログ 海外文学へにほんブログ村  人気ブログランキングへ
ブログランキングに参加しています。クリックしてご協力いただければ幸いです。

2018/09/11 12:51 | コラム「たまたま本の話」

| HOME | 第93回 続・独断と偏見で10本を選ぶ 日本映画オールタイムベストテン(山中貞雄他)文学に関するコラム・たまたま本の話>>