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2024/04/16 20:15 |
第104回 「水中都市」に描かれた父親(安部公房) 文学に関するコラム・たまたま本の話
第104回 「水中都市」に描かれた父親(安部公房)

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山口果林の「安部公房とわたし」といえば、愛人の女優によるスキャンダラスな暴露本と思われがちだが、これまで年譜でも記述されていない安部公房の癌との闘病の記録なども詳述された貴重な文献である。単行本は2013年8月に講談社から刊行されているが、それが加筆・修正の上、2018年3月に講談社+α文庫に収録されたのを機に読み返してみた。
安部公房(1924‐1993年)の父に関してこんな記述がある。満州で安部公房一家が生活していたときの話である。あるとき、安部公房の父がまだ小学生だった安部公房を映画に連れて行ってくれた。どうやら父は無料入場パスを役人か警察官からもらっていたようで、後ろめたさを感じていたらしい。安部公房に小声で「お前はそっちから入りなさい」と言って、別のほうに行ってしまった。安部公房は叫んだ――「パパ、どこへ行くの?」。
山口果林は自分よりも23歳も上の安部公房が、父をかつてパパと呼んでいたことに衝撃を受けたという。1947年生まれの山口果林の世代であっても、父母をパパ、ママと呼ぶ家庭は珍しかっただろう。父親からギターをプレゼントされてもいたようだから、かなり裕福で恵まれた環境にあったと思われる。「どうも安部公房一家の満州での生活は、他の外国の植民地がそうであるように内地の庶民生活とは違って、私の想像を超えたものだったらしい」と、山口果林は書いている。
安部公房の父の浅吉は、満州医科大学 (現・中国医科大学) の医師であった。その後、奉天で開業医をしているときに終戦を迎えた。同年冬、発疹チフスが大流行して、診療に当たっていた父も感染して死亡している。
ここで思い出すのは、安部公房の小説の中に描かれた父のことである。「壁―S・カルマ氏の犯罪」に「パパ」が登場するのは有名だが、もう1編、父の出てくる著名な短編がある。「水中都市」(「文学界」1952年6月号掲載)である。この短編の父の存在は極めて異彩を放っている。以下、同作における父親像を見ていくので、未読の方はご注意を。引用は安部公房著「水中都市・デンドロカカリヤ」(新潮文庫、2011年9月刊改版)による。
主人公の「おれ」は、会社の同僚と酒を飲んだ帰り、共産党の新聞売りと「その男」がけんかしているのを目撃する。けんかに片がついて「その男」は歩き始めるが、なんと「おれ」の帰り道と同じ道を歩いていく。たどり着いたのは「おれ」の部屋。驚く「おれ」に向かって、「その男」は「ああ、おまえだったのか。……私だよ、タロー、分るかい、お父さんだよ」と告げる。
もちろん「おれ」は「その男」を父とは認めない。この父は「無理もない、おまえは幼いころから父親は亡いものと教えられて育ってきたのだし、また現在、私が父親であることを証拠だてる具体的なものは何一つないのだからな」と言いつつ、「しかし、そうかと言って、私が父親でないことを証明するものだってありはしないのだ」と「おれ」を翻弄する。そしてこう弁解する。「タローや、おまえは誤解してるんだ。私はただ哀しい旅路の果の幾時間かをお前のところですごそうとしたまでじゃないか。私は食べさしてもらおうとも、寝床を与えてもらおうとも思っていなかった」。
前述のように、安部公房一家は終戦までは恵まれた家庭で、父のことをパパと呼ぶくらい、安部公房と父との関係も良好だった。問題は父親が終戦直後、チフスに感染して亡くなってからである。敗戦のために家を追われた安部公房一家は、奉天市内を転々としながらサイダー製造などで生活費を得ていたという。同年暮れに引き揚げ船で帰国したが、生活が困窮した安部公房はその後も相当、食べるための苦労を強いられたはずである。一家を支えられずに早世してしまった父親に対して、複雑な思いを抱かなかったといえば嘘になるだろう。
「水中都市」の父は「お父さんは、もうすぐ死ぬんだよ」と「おれ」に伝える。全身のむくみがひどくなり、くびれのない腸詰、またはジュゴンさながらの体形になる。やがてゴム風船につめた羊羹に楊枝を刺したように古い皮が脱皮して、中から現れてきたのは魚だった。父は何と魚になってしまったのだ。ここから物語は水中に没した都市空間を「おれ」や同僚が泳いでいく展開になる。それを追う魚たち。魚たちの中にはもちろん、野良犬ならぬ「野良魚」と化した「おれ」の父もいて、人に追いついては頭から食べていく……。お父さんは死ぬ、どころの話ではない。逆に凶暴な魚になって人を殺していくのである。
水の中に没した都市を泳ぐことを、戦後社会におけるコミュニズム運動のメタファーとして描いた小説が「水中都市」であろう。共産党の新聞売りが登場するように、実際の安部公房もこの小説の執筆当時はコミュニストとして、工場再建などの実践活動に携わっていたという(やがて日本共産党を除名される)。
魚となった父は、刑事殺害、浮浪罪で逮捕される。父の運命は「あらたに訓練を受けて警察魚になるか、死刑になって調理されるか」のどちらか。つまり転向して国家体制に組み込まれるか、拒否して処刑されるかである。それについて「たいして同情もできない」と「おれ」は突き放す。ここに安部公房の実際の父への屈折した感情がにじみ出ていると見るのは、あながち間違いではないだろう。
そして「おれ」も指名手配を受けていることを同僚から聞かされる。「君は謀殺の嫌疑をかけられているんだ。父の野良魚を無登録で養い、訓練して刑事殺しに使った。検事は政治的な背景を強調している」と。これはコミュニストとしての安部公房が抱いていた実践活動への危機感であったかもしれない。しかしコミュニズムのイデオロギーを実験的な手法で創作に仕立て上げる点に安部公房という作家の独自性がある。「水中都市」は、前衛文学であると同時に、父親への愛憎半ばする感情も込められた究極の私小説であったかもしれない。(こや)



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2019/10/20 14:45 |
コラム「たまたま本の話」

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