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2024/05/04 15:31 |
第11回 池澤夏樹が読みほどく「白鯨」(ハーマン・メルヴィル)

第11回 池澤夏樹が読みほどく「白鯨」

(ハーマン・メルヴィル)

スタンダール「パルムの僧院」、トルストイ「アンナ・カレーニナ」、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」、メルヴィル「白鯨」、ジョイス「ユリシーズ」、マン「魔の山」、フォークナー「アブサロム、アブサロム!」、トウェイン「ハックルベリ・フィンの冒険」、ガルシア=マルケス「百年の孤独」、池澤夏樹「静かな大地」、ピンチョン「競売ナンバー49の叫び」。

どこかの世界文学全集のラインナップかと思えば、さにあらず。作家・池澤夏樹が京都大学文学部の夏期特殊講義で取り上げた作品である。講義は2003年9月15日から21日にかけて行われ、それらをまとめた講義録が2005年1月、新潮社から「世界文学を読みほどく―スタンダールからピンチョンまで」のタイトルで刊行された(現在でも売れていて、新潮選書の文学部門で年間売り上げベスト3位にランクされたとも聞く)。

その後2007年11月から2011年4月にかけて、池澤は河出書房新社から個人編集の「世界文学全集」全30巻を編んでいる。選んだのは20世紀文学ばかり、しかも近年の作品がほとんどだから、前述の11編とひとつも重複していないが、この京大連続講義の経験が「世界文学全集を一人で作る」という無謀な!試みへのスプリングボードとなったことは確かだろう。話を先の講義に戻せば、さすが希代の読み巧者・池澤夏樹らしく、古典文学に関しても斬新な「読みほどき」をしている。特にハーマン・メルヴィル「白鯨」についての解説には驚かされた。

「白鯨」といえば19世紀アメリカ文学の古典中の古典。ストーリーは単純明快で、ピークオッド号の船長エイハブが昔、大きな白い鯨のモービ・ディックに出会い、捕まえようとしたが失敗して、船を沈められ、片脚を食いちぎられてしまうという設定で話は始まる。したがってストーリーは必然的に、エイハブがもう一度モービ・ディックを見つけてこれを殺す、という形をとる。これ以上ないという予定調和的な、まさしく絵に描いたような復讐譚である。
それを池澤はどうとらえるか。「『モービ・ディック』という作品をひと言で言えば、百科事典的である」と断定する。
「この『モービ・ディック』という小説が描いてる世界は、構造的である以上に羅列的なのです。18章で書かれたことが、19章の前提として絶対そこになければならないということがない。A、B、CをB、C、Aにしたってかまわないかもしれない。言ってみれば、一つ一つのチャプターがストーリー全体の流れに対して直角に立っているのです」

「メルヴィルが書きたかったのは、世界の構造は、そもそも項目の羅列である、世界というのは、一人の神から派生したディレクトリ、樹木状の構成をしているものではない、頂点から細部に至るためのカラクリをとっているのでは決してない、ということだと思います。世界は個々の項目の羅列から成り立っていて、それらの間には関係性が深いものと深くないものがある。そして、全体を統一するディレクトリはない。あるいはその統率力は弱い」

そして池澤は、「モービ・ディック」は一個のデータベースである、と規定する。「データベースというのは読破するものではない、必要な部分を参照するものです。たぶんメルヴィルがこんなに長いものを書いて実証したかったのは、世界はデータベースであるということだろうと、2003年になれば言えます。けれど、データベースという言葉ができて世に普及するまでに、メルヴィルは150年待たなければいけなかった」

この池澤の指摘はまさしく目からウロコで、ここで私たちは子供のころに読んだ、復讐譚としての「白鯨」像を180度転換する必要に迫られるだろう。実は主人公のエイハブ船長は一人称の語り手ではなく、別にイシュメールという、現在でいえばニートのような存在の語り手が同じ船に乗っている。イシュメールは何しろ、しばらく休暇をとってタダで世界旅行をしたいから捕鯨船に乗り込んだという男である。船に乗ってからの彼は、自分を消して忠実な報告者に徹する。そして結末に至るまでの話の中身は、ひたすら捕鯨のデータベース、鯨の百科事典となる。つまりエイハブの鯨に対する復讐譚という構造は、すべてを覆い隠すためのカムフラージュ、迷彩服に過ぎなかったことになる。

まるで第二次世界大戦後に出て来た「世界のすべてを記述する」全体小説や前衛文学を思い出させる作品である。「時間割」「心変わり」「段階」などの諸作を書いたミシェル・ビュトールや、ヌーヴォーロマンのオピニオンリーダーであったアラン・ロブ=グリエの顔が思い浮かぶ。
メルヴィルが「白鯨」を書いたのは1851年だが、そのほかの作品も含めて生前は全く認められなかったという。19世紀文学としては新しすぎたのだ。再評価の機運が巻き起こったのは20世紀に入ってから。だから誰もが読んでおくべきアメリカ文学の古典となってから、まだそれほど時間は経っていない。池澤が講義で取り上げた11編の作品のうち、最も古典文学的と思われた作品が実は伝統的小説から最もかけ離れたデータベースであったという結論。こういう小説の読み方こそ、21世紀にふさわしいものかもしれない。(こや

ハーマン・メルヴィルをWIKI PEDEIAで調べる


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2011/07/15 16:48 |
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