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2024/04/19 23:39 |
第66回 名作「雨」を斜めから読むと(ウィリアム・サマセット・モーム)

舞台は南洋のサモア群島。熱心な宣教師であるデイヴィッドソン牧師は妻と共に任地へ向かう途中、伝染病の検疫のために島に停留することになる。医師のマクフェイル夫妻、そして見るからに自堕落な娼婦のミス・トンプソンも一緒だった。島は折しも雨季にぶつかっていて、太鼓でも鳴らすように雨が激しく屋根をたたき、視界を奪う滝のようなスコールが連日続いていた。デイヴィッドソン夫妻はミス・トンプソンが我慢ならなかった。彼女は夜もお構いなく音楽をガンガン鳴らし、「商売」に精を出している様子。デイヴィッドソン夫妻に対しても敵意に満ちた眼差しを投げかける。デイヴィッドソン牧師は彼女を「教化」しようと熱意を燃やす――。
以上は言うまでもなく、世界短編小説史上の傑作とされるウィリアム・サマセット・モームの「雨」のストーリーである。物語はさらに続く。インターネット資料を基に以下にまとめるので、未読の方はご注意を。
結局、あの手この手も通じず、デイヴィッドソンはついに彼女をサンフランシスコに強制送還させる措置をとる。ふてぶてしいトンプソンもこれにはショックを受けた。送還されたら刑務所が待っているだろう。手のひらを返したようにデイヴィッドソンにすり寄ってくる。明日は強制送還されるという夜、デイヴィッドソンは彼女の部屋で遅くまで話し合う。翌朝、浜辺で喉を切り裂いて自殺しているデイヴィドソン牧師の遺体が発見された。衝撃を受けたマクフェイル医師がトンプソンの部屋に入ると、教化されたはずの彼女は元の木阿弥――娼婦に戻っていて、音楽を鳴らしていた。マクフェイルは激怒するが、嘲りと憎しみを込めた口調で彼女はこう言い放つ。あまりにも有名なラストシーンを、木村政則による新訳で振り返ってみよう(ウィリアム・サマセット・モーム著「マウントドレイゴ卿/パーティの前に」光文社古典新訳文庫、2011年4月刊所収「雨」より)。
「『男ってやつは! 汚らわしい豚! どいつもこいつも、みんな同じさ。豚! 豚!』
マクフェイル医師は息をのんだ。わかったのである」
ずいぶん昔に「雨」を読んだとき、牧師の信仰という「理性」が、娼婦への肉欲という「本能」にあっさりと負けてしまう姿に衝撃を受けた。今回、新訳版で再読してみてちょっと別の印象を持った。この短編は必ずしも牧師と娼婦の関係だけにスポットを当てたものではないのではないか。「わかったのである」で話は終わり、何が分かったのかははっきりと解明されない。訳者の木村も同書巻末の解説で「数あるモームの短編から、『ミステリ』をキーワードに6編を選び1冊にまとめたのが本書である」と書いている。ミステリ選集の中に名作中の名作をそっと潜り込ませているのである。とはいうものの、牧師が娼婦への肉欲に負けてしまい、悔恨のあまり自殺したことは明らかである。神に仕える牧師でさえも、本能の前には理性があえなく砕け散ってしまうという人間の弱さ、罪深さを描いた小説であることには疑いもなく、いかにも皮肉屋と呼ばれたモームらしい結末であろう。
問題は医師マクフェイルの存在である。新訳版で再読してみると、牧師デイヴィッドソンと娼婦トンプソンの関係よりも、デイヴィッドソンとマクフェイルの関係のほうが強く意識される。牧師が娼婦を教化する話というよりも、娼婦を媒介して、牧師と医師が意思の疎通に齟齬を来たしていく話のように読めるのだ。もっと言えば、牧師と医師という2人の男の愛憎関係こそが作品の真のテーマなのではないか。
トンプソンを強制送還させようとするデイヴィッドソンの措置をめぐって、2人の男はこんな会話を交わす――医師「やけに厳しく、横暴ですな」、牧師「まことに残念です。そんなふうにお思いになるとしたら。よろしいですか。あの不幸な女性を思い、私の心は血を流している。それでも、何とか無理して自分の義務を果たしているのです」。医師は答えず、ふてくされて窓の外を見る。牧師「ご期待に沿えないからといって、怨まないでいただきたい。先生のことはすごく尊敬しているのです。悪く思われるのは悲しい」、医師「ご自分を立派だとお思いなのだから、私が何を言おうと平気でしょう」。
最後の医師の言葉は、まるで自分の思いを受け入れない相手への捨てゼリフのように思える。ここにあるのは牧師に対して真意がついに伝わらない医師の嫉妬ではないだろうか。男に気持ちを伝えても伝えても愛を受け入れてもらえない女のように。
あるいはこんな場面がある。娼婦の教化にまい進している最中、牧師はネブラスカの山の夢を見る。医師もその山をかつて見た覚えがあり、「女性の乳房のようだと思ったものだ」。おそらくここは話の伏線になっていて、牧師が肉欲に負けることが暗示されている。同じ状況にある2人の男だが、見ているものはまさに同床異夢。男に対する男の愛情が女によって引き裂かれ、やがて嫉妬から憎悪へと変わっていく。牧師の気持ちが女に向かったこと、それが医師には「わかった」のではないか。
「サマセット・モームは3つの顔を持っていた」と、ブックレビューサイト「ブックジャパン」でレビュワーの朱雀正道は書いている。いわく人気作家、一流のスパイ、そしてゲイ。「イギリスでは、1885年の改正刑法によって、とりわけ男色が厳しく取り締まられることになった」と新訳版の解説で訳者の木村も書いていた(法の効力が失われるのはモーム死後の1967年)。同性愛者だったモームの抱える苦悩やジレンマが「雨」という傑作を生み出した――そう見るのはうがち過ぎだろうか。(こや)


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2016/02/10 13:49 |
コラム「たまたま本の話」

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