第73回 カストリ酒と母の日と(上林暁)

1999年9月に刊行されて長らく品切れだった「禁酒宣言」が2015年9月、「ちくま文庫30周年記念 復刊フェア2015」で蘇った。私小説作家・上林暁の書いた、酒場が登場する短編小説13編を収めている(坪内祐三編)。戦後すぐの上林文学といえば、いわゆる病妻ものの作品で有名だが、文芸評論家の保昌正夫によると、1946年(昭和21年)に妻を亡くしてからはすっかり飲酒にふける生活に陥ったらしい。酒にまつわる小説がそのころから増えていく。坪内が引用している部分(講談社文芸文庫「白い屋形船/ブロンズの首」巻末の保昌正夫「作家案内」)の孫引きになって恐縮だが、こんな具合である。
「自筆年譜の昭和22年に『この年初頭より酒を過ごしはじむ』とあるのには、『嬬恋い』の情もからんでいるだろうか。『過ごしはじむ』は、ただ『やり始めた』にとどまらず、文字どおり『過ごす』ことになっていったようだ。作品にも『禁酒宣言』(昭24)、『酔態三昧』(昭和25)などがあらわれる。高血圧となり、節酒を心がけたが、昭和27年正月、軽い脳溢血となり、絶対安静4週間。以後3年、禁酒した」
まさに命がけの作家人生であろう。私小説といえば身辺雑記を綴るものという認識はここでは通用しない。この時期は、上林が私小説作家から無頼派作家へと変貌を遂げつつあった文学的な成熟期に当たるのではないか――そんな気もする。傑作ぞろいの「禁酒宣言」の中でも屈指の名作である表題作を、ここで見てみよう。作品の内容に触れるので未読の方はご注意を。
主人公の「武智」(つまり上林)は妻を亡くしてから酒に溺れ、翌日は必ず二日酔いに襲われる生活を送っている。1年にどのくらい飲むかと言えば、昨年(昭和23年)閏年366日のうち一滴も飲まなかった日は98日。あとの268日(上林は258日と書いているが、計算違いか)は多かれ少なかれ酒を飲んでいた。週に2日弱は休肝日を取っているわけだから、特に多いというほどではないかもしれない。上林の場合、問題は家の外で長時間にわたって大量に飲むことだ。しかも今年(昭和24年)になると酒を飲む回数も飛躍的に増えている。「5月が早や終ろうというのに、酒を飲まぬ日と言っては、たった4日しかないのです。(中略)この勢いで行ったなら、果てはどういうことになるのでしょう。恐しいほどです。それも、晩酌に1杯という程度なら、毎晩でもいいのでしょうが、深酒、梯子酒、酔いつぶれ、どうして家に帰ったかも覚えないのが、毎日のことなのです」。
今の上質な酒ではない。飲むのはいわゆるカストリ酒であろう。第2次世界大戦後の酒不足の世相の中で、昭和21年ごろから粗悪な密造焼酎が出回ったことがある。原料や出所が全く不明、極端な例では、人体に有害で失明や中毒死の危険もあるメチルアルコール(燃料、工業用の素材)を水で薄めたものまで売られる始末。これらの代物が俗に「カストリ」と総称されたため、一般にもカストリ=粗悪な蒸留酒というイメージが定着した。3号(合)でつぶれる「カストリ雑誌」の俗称はここから来ている。ちなみに本来の「粕取り焼酎」は決して粗悪な代物ではないという。
その直後の昭和22年、政府によって敷かれるのが「飲食営業緊急設置令」である。米や麦など主要食糧の配給および消費を規制する「主食配給制」は昭和15年に始まり、戦争中と敗戦後に強化された。主食の遅配が進んだために、政府はさらに「飲食営業緊急設置令」を発して、販売できる飲食店を外食券食堂だけに制限した。しかし裏では隠れてのヤミ酒やヤミ米の販売が横行していたことはご存じの通り。そのあたりの世相についても、「禁酒宣言」で次のように押さえられているのが注目される。
「料理飲食店禁止の政令が出て間もなくの頃でした。小生は仕事場通いの行きずりに、ふと或る喫茶店に寄ったのです。店の主は年配のマダムでした(中略)。その時、紅茶茶碗でウィスキイを飲んでるところへ、警官に踏み込まれ、小生もマダムも共々、交番へ引っ立てられて行ったのです」。結局、さんざん油を絞られた末、2人とも釈放になるのだが、外食券食堂でない喫茶店でヤミ酒を飲んでいたわけだから、これは事情聴取されても当然であろう。なお、この「飲食営業緊急措置令」は昭和24年には解かれ、料理飲食店の営業が再開された。喫茶店もバーも焼き鳥屋も営業規制がなくなって、自由販売できるようになったわけである。昭和24年ごろから上林の酒を飲む頻度が飛躍的に高まったのも、そのことが影響しているかもしれない。
上林自身は身辺雑記を書き綴っているつもりでも、この「禁酒宣言」という小説は実に奥が深い。主人公・武智の振る舞いや思いが、そのまま戦後文化史につながっているのだ。母の日に触れたこんな一節もある――「5月8日だったかに『母の日』なる催しがありました。外国から流行して来た催しだと聞きました。母ある者は赤い薔薇を胸につけて、母の愛を讃え、母なき者は、胸に白い薔薇をつけて、亡き母の慈しみを偲ぶ趣旨だったようにおぼえています」。
調べてみると、日本では大正2年に青山学院で女性宣教師たちによる母の日の礼拝が行われた。その後、昭和6年に結成された大日本連合婦人会が皇后(香淳皇后)の誕生日である3月6日(地久節)を「母の日」とし、昭和12年には森永が第1回「森永母の日大会」を豊島園で開催したが、なかなか普及しなかったという。アメリカの風習にならって、日本でも5月第2日曜日に母親にカーネーションを贈る習慣が始まったのが、まさしくこの年――昭和24年だったのである。(こや)



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