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2024/04/20 16:05 |
第72回・通路は相手の方から掘る(安部公房・安部ねり)

長年、のどに刺さった小骨のように気にかかっていたエッセーがある。安部公房著「笑う月」(1975年11月、新潮社刊。その後1984年7月、新潮文庫)に収められた「藤野君のこと」である。「笑う月」は「夢のスナップショット」と称され、創作とエッセーの間を漂いながら書かれたような17編を集めた不思議な著作。「藤野君のこと」はその中でも白眉の1編とされている。安部公房が書いた戯曲「ウエー(新どれい狩り)」に出てくる、人間そっくりのどれい「ウエー」の飼育係・藤野君に実在のモデルがあったことをつづったエッセーで、こんな話である。未読の方はご注意を。
安部公房は終戦の翌年、満州からの最後の引揚船の中で藤野君という人物と知り合う。船は大きかったが、何しろ引揚者の人数が多いから、船内はすし詰めどころかイワシの缶詰なみの混雑ぶりを呈していた。居場所を確保するためには、常に体を横たえて突っ張らせていなければならない。そこで空間の争奪戦が起こるのだが、藤野君という人物だけは悠々と自分のスペースを確保している。昼はあぐらをかき、夜は大の字になって寝る。秘密は周囲の人間との取引にあった。藤野君はサッカリンと引き換えに、3人の人間から場所を買い取っていたのである。
物資のない時代、甘味料のサッカリンは貴重品どころか、最も確実で安定した通貨だった。目先のきく連中は財産をサッカリンに換えていたから、他にも当然、サッカリンを船内に持ち込んでいた人間はいた。領分をそれで売買しようとした者が藤野君以外にいなかったのである。双方の合意に基づく商行為であり、これだけでも藤野君の取引力は卓越していた。「事実、藤野君には、悪びれたところなど少しも見られなかった」と安部公房は書く――「中央付近、それも手摺際のいちばん見晴らしのきく位置に、広々と陣取って、悠然とあたりを見まわし、自由な姿勢を満喫していたものだ。見晴らしのきく場所は、同時に見られやすい場所でもある。見られやすい場所で、人目をひく行為をしているのだから、いやでも注目をあびざるを得ない」。
普通ならば嫉妬や敵意の対象となるはずだが、藤野君はそうではなかった。しかも粗末な食事の後で、何とチョコレートキャンディーを荷物から取り出してきてうまそうに舐め始めるのである。これは嫉妬や敵意をさらに強めさせる挑発的行為と取られかねないが、藤野君に対して暴行や略奪を試みたものはいなかった。安部公房はこう分析する。
「考えてみれば、塩水にちょっぴり海草を浮かせた汁いっぱいに、やせた繊維だらけの小指ほどの芋数本という、ぎりぎり限界線上の食事の後のことである。チョコレートキャンディーを妬むなど、思い上がりもいいとこだ。そんな大それた気持ちになんか、なれるわけがない。遠すぎる理想。目にしながらも信じられない、幻影のようなものだ」「彼はなかなかの戦術家でもあった。勝ち目がない、とあきらめたとたん、敵意があっさり羨望に変わってしまう、あの弱者の心理をよくつかんでいた」
本当にそんな心理になるものだろうか。大岡昇平や野間宏を持ち出すまでもなく、戦後派文学の主要テーマは「飢餓と犯罪」である。この状況下では当然「キャンデーを寄こせ」と暴動が起きて、藤野君は周囲の人間からリンチされてしまうはずではないのか。のどに刺さった小骨のように長年、気にかかっていたのはその点である。どうやら安部公房には、安部公房独自の論理があるようなのだ。
長年の疑問を解くヒントになったのは、他でもない。安部公房の一人娘にして医師の安部ねりが、2011年3月に父の思い出を「安部公房伝」に書いている(新潮社刊)。さすがに医師らしく、父親の文学について冷静に分析、記述している。その中にこんな一節があったのである。
「文学を他者との通路と考えていた公房はのちに、『通路の掘り進め方にはコツがある。自分の方から掘ってもだめなんだ。相手の方から掘り進めないと』と言っていたが、それは若い頃身につけた商売のコツでもあったろうし、思ったようには売れなかった『無名詩集』を売り歩きながら身にしみたことでもあったのだろう」。これは、安部公房の処女作とされる私家版の「無名詩集」が、親戚や知り合いを回ってもさっぱり売れなかったことを取り上げて語ったものだ。「『無名詩集』が売れなかったことは、自己の内心を吐露する詩という表現手段を選択したことに対する自己嫌悪のようなものをもたらしたのではないか」と、安部ねりは書く。
見事な指摘なので虚を突かれた。これを藤野君のケースに当てはめれば、その巧みな取引や弱者の心理のつかみ方は、要するに他者との通路を相手の方から掘り進める術に長けていたということになる。通路の手段はサッカリンやチョコレートキャンディーだが、それらを自分が所持しているという優越感によってこちらから掘り進むのではなく、それらを持っている自分を相手がどう見ているか、という劣等感を利用して向こうから掘り進んでいるのが、藤野君なのだ。だから暴動も起きない。
安部公房はこうまとめている――「そして、心ゆくまでチョコレートの香りを吸い込んだ一同は、しばしばぼくもその中の一人だったが、いま自分がこうして生きのびていられるのも、ひとえに藤野君のおかげだという満ち足りた気分にさせられて、それぞれ自分の輪郭よりも狭い領分へと、おのれを埋め込むために引き返して行ったものである」。藤野君は本当に実在の人物なのだろうか。通路を相手の方から掘り進めるという安部公房理論を証明するための創作なのではないか。そうも思えてくる。(こや)


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2016/08/10 12:46 |
コラム「たまたま本の話」

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