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2024/04/25 15:49 |
第71回 「お守り」はダイナマイト(山川方夫)

山川方夫と書いて「やまかわ・まさお」と読む。周知の事実であろうが、実はこの作家の本名は山川嘉巳という。20歳のとき、方夫のペンネームを初めて使った。その由来は、鏑木清方の「方」と梅田晴夫の「夫」から来ている。なぜかといえば、方夫の父は山川秀峰(本名・嘉雄)といって、鏑木清方や池上秀畝を師とする日本画家だった。また梅田晴夫は、方夫自身が慶應義塾予科英文科1年のときの担任で、その後も薫陶を受けた恩師だった。
芥川賞候補に4回、直木賞候補に1回上がったが、受賞はかなわず、将来を嘱望されたまま、わずか34歳で事故死してしまった山川には、純文学作家以外にも様々な顔があった。三田文学の編集者としての顔、放送台本作家としての顔、映画評論家としての顔。中でもショートショート作家としては、むしろこちらが本職ではないかと思うほどの傑作を残している。
今回はショートショートの代表作「お守り」を取り上げる。以下、作品の内容に触れるので未読の方はご注意を。なお、引用は「親しい友人たち 山川方夫ミステリ傑作選」(高崎俊夫編、2015年9月、創元推理文庫)によった。語り手の「僕」は、友人の関口二郎から「君、ダイナマイトは要らないかね」と持ちかけられる。なぜそんな物騒なものを関口が持っているかといえば、こんな事情による――ある日関口は、宴席の帰りに自分とそっくりな男を見かける。その男は、団地の階段を上ってE-305号室に帰っていく。そのE-305号室はまぎれもなく関口の部屋なのだが、入っていった別の男を、妻は全く不審に思わない様子だ。
黒瀬次郎という、関口とそっくりなその男は、同じ団地のD-305号室に住んでいた。今晩、棟を1つ間違えて、関口の部屋に帰宅してしまったのだ。なぜ関口の妻が気づかなかったかといえば、帰宅するやいなや黒瀬は、いつも関口がやっているように自分の部屋に引っ込んでしまったからである。関口と黒瀬が同じ「ジロウ」という名前であったことや、団地の部屋の作りが各室とも全く同じことも、疑念を抱かせなかった理由である。
ここから関口は考える――「黒瀬という男は、つまりぼくにとって、団地の無数の夫たち、玩具の兵隊たち、ぼくに似た同じようなサラリーマンの代表者みたいなものだったんだな。無数のもう一人の『ぼく』、その代表のようなものだった」と。団地の規格だけではない。「結局、ぼくらはそれが自分だけのものと信じながら、じつは一人一人、規格品の人間として、規格品の日常に、規格品の反応を示しているだけのことではないのか?」。そう考えた関口は、自分と他者を区別する「お守り」を手に入れる。それが鞄の中に忍ばせたダイナマイトだったのである。
しかし関口は、そのダイナマイトがもはや不要になったから譲ろうか、と語る。なぜなら「ぼくの独自性とは言えなくなってしまった」のだと。つい先ほど、バスの中でダイナマイトが爆発して乗客3人が即死したニュースが伝えられた。そのダイナマイトは死んだ乗客の1人――黒瀬次郎という男の鞄に入れられていたものだった。
以上が「お守り」のストーリーである。書かれたのは1960年4月で、三社連合という北海道新聞日曜版に掲載された。やがてこの作品は海外でも高く評価されるようになり、アメリカの国民雑誌「ライフ」1964年9月11日号の日本特集ほか、イタリアやソ連でも翻訳掲載されるようになる。
重要な点は、関口も黒瀬も決してエキセントリックな人間ではなく、どちらもお互いの存在を意識する前は常人であったことである。ともに規格品の1人に過ぎない。その規格品から抜け出ようとして関口はダイナマイトを心の拠りどころにする。それが自分の独自性だと思っていたら、何のことはない、黒瀬もダイナマイトを自分の独自性として鞄に忍ばせていた。つまり団地の全住人どころか、日本中、世界中のすべての人間が、規格品からの脱却のためにダイナマイトを身に着けているのだと言っているわけで、それはゾッとするほど不気味なシチュエーションである。
さらに不気味なのは、それがもはや独自性にならないことに関口が気づいてしまった点であろう。関口が気づいたことだから、世界中のすべての人間もやがて気づくだろう。ダイナマイトが原爆に変わっても、水爆に変わっても、それらはすぐに独自性を失ってありきたりの規格品と化すに違いない。「お守り」が書かれたのは、米ソによる東西冷戦の真っただ中という時代だから、山川にそうした政治的寓意の意識が全くなかったとはいえない。しかし、根底には20世紀のある偉大な哲学者の提唱する思想が流れているようにも思うのだ。いうまでもなく当時、世界中を席巻していたジャン=ポール・サルトルの実存主義である。
実存主義――存在は本質に先行するという思想はたいへん難しい。食べ物をすくうためのものという目的(本質)のあるスプーンのような存在を「即自存在」と呼び、それに対して人間は実存が先にあり、本質は自ら選び取っていかねばならない「対自存在」である、と実存主義は主張する。そのスプーンを山川はここでダイナマイトに置き換えたのではないか。爆発するという目的のある即自存在=ダイナマイトと、規格品としての実存から脱却して本質に迫ろうとする対自存在=人間との関係に思い至ったとき、「お守り」という作品の成功は約束されたも同然ではなかったか。そういえば、山川方夫の慶應義塾大学仏文科の卒業論文は「ジャン・ポオル・サルトルの演劇について」であった。そんなことも、いま思い出した。(こや)



山川方夫をWIKI PEDEIAで調べる

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2016/07/08 14:10 |
コラム「たまたま本の話」

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