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2024/04/19 11:38 |
第70回 わが文学はチョウチンアンコウ(梅崎春生)

梅崎春生(1915~1965)といえば、「桜島」「日の果て」「幻化」などを書いた、第一次戦後派を代表する小説家だが、同時に随筆の名手でもあった。昨年刊行された「悪酒の時代/猫のことなど」(2015年11月、講談社文芸文庫)は、梅崎が戦後に書いた随筆を集めた傑作集。その中に「チョウチンアンコウについて」という1編がある。執筆は昭和24年10月。文庫本にしてわずか3ページに満たない小品である。
梅崎は、チョウチンアンコウという深海魚の「雄と雌との関係について、寺尾新博士が書いた文章をよみ、私は大層面白かった」という。要旨は次の通り。頭の先から長い鞭のようなものが生えていて、光を放つのは、チョウチンアンコウの雌のほうである。雄はどうかというと、チョウチンを持たず、大きさも雌の10分の1に過ぎない。ではこの平凡な雄がどうやって立派な雌の亭主となるか。梅崎はこう書いている――「彼はただじっとその機会を待っているだけなのである。そして偶然に雌が自分に近づいてくると、彼は雌の背中であろうが、頭であろうが、ところかまわずにいきなり唇で吸いつくのである。吸い着いたら、それきりである。どんなことがあっても離れない。雌が泳ぐままに、ぶら下って動く。そしてここに変ったことがおこる」
変わったこととは、雌の体の皮が延びて、彼の唇とつながってしまう。つまり雄は独立した魚ではなくなって、雌の体の一部になってしまうのである。唇をふさがれて食物をとるすべを失い、役に立たなくなった消化器官がまず消える。続いて諸器官が、眼が、脳が姿を消していく。すっかり雌の体の一部と化した雄は、血管も雌とつながり、それを通じて全部を雌から養われるようになる。やがて彼は、雌の体に不規則に突起したイボのような形にまで成り果てる。しかし――と梅崎は続けるのである。
「イボにまで成り下っては、彼は自身の存在の意義を失ったようにも見えるが、ただひとつだけ器官を体の中に残しているのである。それは精巣である。精子をつくるために残留しているのだ。雌がその卵を海中に産み放すとき、ほとんど精巣だけとなった彼は、全機能を発揮して、二階から目薬をさすように、その精子を海中に放出する。深海であるから、流れの動きがほとんどないので、その精子は洗い流されることもなく、雌の卵にうまくくっつくのである」
梅崎は「この瞬間のことを考えると、私はなにか感動を禁じ得ない。どういう感動かということは、うまく言えないけれども」と締めているが、感動を禁じ得ないのはこの随筆を読む者も同じだろう。寺尾新(てらお・あらた)は大正、昭和期の高名な動物学者で、水産動物の増殖と加工などの研究で知られる。「優生学と生物測定学」「動物はささやく」など動物学を分かりやすく説いた多くの著作があり、「東京物語」などで知られる女優の東山千栄子とは縁戚関係にある。その寺尾博士の研究を梅崎はなぞっているのだが、なぜそれが「大層面白かった」のだろう。つまりチョウチンアンコウのエピソードは、取りも直さず梅崎文学の本質にかかわるテーマなのではないか。
梅崎春生の小説にはよく「分身的存在」が登場する。それは多くの評者が指摘するところで、「悪酒の時代/猫のことなど」でも解説の外岡秀俊がこう書いている。「彼の作品に共通しているのは、主人公や『私』が、第三者に対して不意に嫌悪感や忌まわしさを覚え、怒りや憎しみに駆り立てられるという構図だ。そして、そうした獰猛な感情に囚われるのは決まって、主人公がその第三者に、自らの『分身』を見出したときなのである」。「桜島」の暴力を振るう吉良兵曹長と私の関係しかり、「日の果て」の逃亡する花田中尉と追う宇治中尉の関係しかり。ユーモア小説の系列にもその傾向は見られ、直木賞受賞作「ボロ家の春秋」の性格から境遇まですべて正反対の同居人・野呂旅人も、僕と合わせ鏡のような分身関係にある――と外岡は指摘する。
しかしいちばん忘れてはならない分身関係は、遺作「幻化」の五郎と丹尾であろう。東京の精神病院から抜け出し、鹿児島、枕崎を経て自分の生まれ故郷・坊津に向かうのが五郎。その過去への旅の途中で出会うのが映画のセールスマン・丹尾。2人はその後、別行動を取るが、やがて阿蘇山の麓で再会する。丹尾は妙なことを言い出す。自分はこれから火口を一周するが、その途中で火口に飛びこむかどうかを2人で賭けようというのである。丹尾は火口に向かって歩き出す。望遠鏡をのぞく五郎。丹尾は火口の淵で止まる。それを見ているうちに、五郎は丹尾を見ているのか、自分を見ているのか分からなくなってくる――。
梅崎が「幻化」を書いたのは戦後20年目に当たる昭和40年。戦争の記憶も風化してきた時代であった。五郎は精神病院から脱走して自分の過去をたどる旅に出るが、戦時の記憶は故郷からもすっかり消え失せている。ということは「桜島」「日の果て」で描かれたような、軍隊における暴力的な分身関係もようやく払拭できたはずではないか。そんな小説にも、なぜか丹尾という分身が登場する。
つまりはチョウチンアンコウなのではないか。戦争が終わり、時代が変貌していく中で、自分を殺してひっそりと身を潜めていたはずの雄は決して死んでいない。生殖というただ1つの役割を果たすことによって存在意義を持つ。そこにおいて雌と雄はもはや本体と付属物ではなく、それぞれが有機的にかかわり合う分身関係となる。戦後という時代をしっかりと生き始めた梅崎は、自分の文学の本質をチョウチンアンコウに見たのだと思う。(こや)


チョウチンアンコウをWIKI PEDEIAで調べる

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2016/06/02 13:15 |
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