第43回 アダムとイブとテレビの話
(ジャージ・コジンスキー)
「BEING THERE」(1971年)というタイトルを聞いて、ピンと来る人は少ないかもしれない。2005年1月に「庭師 ただそこにいるだけの人」(高橋啓訳)という、あまりパッとしない邦題で飛鳥新社から翻訳が出た長編小説である。
作者はジャージ・コジンスキー(1933-1991年)。ユダヤ系ポーランド人で、ほぼ亡命に近い形でアメリカに移住し、作家活動を展開した。「BEING THERE」は、実は1970年代にすでに「預言者」というタイトルで日本でも翻訳が出ていたのだが、あまり知られていない。むしろピーター・セラーズの主演した映画「チャンス」(原題は「BEING THERE」、1979年)の原作として有名である。
古い屋敷の庭師として住み込む孤児のチャンス(チャンスというのも本名ではなく、偶然によって生まれ落ちたから命名された)は、屋敷から外に出たことがない。すでに初老にさしかかっているが、いまだに読み書きが出来ず、庭の手入れ以外は一日中テレビを見ているのみ。やがて主人が死んでしまい、雇用記録どころか自分の存在証明すらないチャンスはこの家を出て行くことになる。
チャンスは街に出るのが初めてで、道を歩いていると車にぶつかってしまう。この車に乗っていたのが、実は大統領とも親交の深い米金融界の重鎮ベンジャミン・ランドの若い妻、イブであった。それが縁でチャンスはランド邸に身を寄せることになる。「お名前は?」と聞かれたチャンスは、「チャンスです、庭師(ガーディナー)の」と答える。そのときから彼の名前は「チョンシー・ガードナー」となった。
物語はここから急展開していく。病床にあるランドとともに大統領と対面したチャンスは、「植物の衰退の時期の後には成長の時期が自然に訪れる」と庭の手入れの心得を語る。この話が大統領に深い感銘を与える。大統領は植物の話を世界経済や金融政策の比喩ととらえたのだ。テレビに呼ばれたチャンスは同じ話をして聴衆や視聴者から大喝采を浴びる。
その後、国連のレセプションに呼ばれ、ソ連大使など各国首脳とも交流を深めるが、何しろ戸籍も何もないから、この謎の人物が果たして何者なのか、米FBIはもとより、他国の諜報機関にもわからない。その空白の経歴によって、「過去の汚点に足をすくわれない人物」という理由から、チャンスは次期米大統領の最有力候補に挙げられるようになる――。
結末は未読の方のために伏せておくが、これはまさしく1960年代のアメリカ社会の寓話になっている。登場人物やシチュエーションには、すべて何らかのメッセージが込められているようだ。まず主人公チャンスの存在をどうとらえるか。
2002年2月、福岡女子大学文学部紀要「文藝と思想」第66号掲載の論文「ジャージ・コジンスキー『ビーイング・ゼア』(1971年)論――浮遊する『空白のページ』」の中で、筆者の馬塲弘利はこう書いている。
「チャンスの幽閉されたこの『庭』には、当然、聖書の<エデンの園>へのアナロジーがある。チャンスの物語が日曜日に始まっていることは神の天地創造と重ねられている。聖書のアダムのように、彼は『庭の中では心配はなく安全で』『高く赤いレンガの壁で』外界から守られている」。そしてそのエデンの園を出たチャンスは自動車事故に遭い、ランドの妻に助けられる。彼女は洗礼名エリザベス・イブ(EE)。「もちろん、この妻のEEはエデンの園の<無垢なるアダム>を誘惑する<イブ>と重ねられていて、知的に障害があるだけでなく性的にも不能のチャンスを性的に誘惑しようとする女性である」と馬塲は鋭く指摘する。
アダムとイブの寓話に、時代状況がさらに別の要素を加える。それはテレビの存在である。1960年代のアメリカはテレビというメディアが社会を支配した時代だった。ラジオデイズはとっくに終焉を迎え、新聞もナンバーワンメディアの座を降りていた。
何しろチャンスは新聞を読まず(読めず)、一日中テレビばかり見ている男だ。屋敷でもランド邸でもテレビを見るだけの立場だった彼が、逆にテレビに出ることになった場面では、作者コジンスキーによってこんな考察がなされているのが興味深い。
「チャンスは今、これまでの人生に出会った人々よりもはるかに多くの人々に見られていた。テレビ画面で彼の姿を見ている人は、自分と面と向かっている人物が誰なのか知らない。実際に会ったこともないのに、どうしてわかるだろう? テレビは人の表面しか映さない。と同時に、その肉体からイメージを剥ぎ取ってしまう」(高橋啓訳)
テレビというメディアの本質を的確にとらえている指摘だ。実像でなく、実体のない虚像が物事の本質になる社会。エデンの園の住人であったチャンスにとっても例外ではない。彼の話す言葉はテレビを見て学んだものだから、いわば実体のない「テレビ語」のようなものである。
つまり個性もなければ裏もない。彼が庭の手入れの話をありのままに語れば、裏がないぶん、聞く人々は経済動向の比喩と思い込んで疑いを持たない。そういえば映画「チャンス」のラストで、チャンス役のピーター・セラーズがセリフを言ったとたん、思わず吹き出してしまうNGシーンがあった。名優セラーズにしてからが、実体なきテレビ語をなぞろうとして笑いをこらえ切れなかったのだろうか。
「BEING THERE」は、小説も映画も素晴らしい作品であった。ただし、1960年代のアメリカ社会を描いたものとしては、という条件がつく。1991年に没したコジンスキーが生きていたら、インターネットの蔓延する現代社会をどう描いただろうか。(こや)
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