第16回 マリリン・モンローとベン・ヘクト
(ベン・ヘクト)
亀井俊介といえば、東京大学教授を務めたアメリカ文学の権威である。アメリカ大衆文化にも詳しく、1987年7月には著書「マリリン・モンロー」を岩波新書で刊行した。東大の先生が天下の岩波からモンローの本を、と当時、話題になったものである。その中にこんな一節がある。「マリリン・モンローの伝記類もおびただしく出ている。(中略)一つ不思議な本もある。マリリン・モンローが著者となり、『私の物語(マイ・ストーリー)』(1974年)と題している本だ。(中略)これはボヘミアン的な作家兼ジャーナリストとして知られるベン・ヘクトと、マリリンとの協力によって出来たものらしい。だがベン・ヘクトは1964年に死んでいる。同書のカバーには、マリリンが原稿を彼女のフォトグラファーとして有名なミルトン・グリーンに与えた、とのみ記されている」
ミルトン・グリーンは1955年、ニューヨークで一緒に「マリリン・モンロー・プロダクション」(通称MMP)を設立したほど、マリリンと親交の深かったカメラマンだ。膨大な量のマリリンの写真を撮っている。プロダクションの経営不振をめぐって2人の関係にはやがて亀裂が入る。前記の自伝は、マリリン本人から預かって温めていた原稿を1974年に初めて公開したものではないかと思われる。それでは自伝執筆の協力者ベン・ヘクトとはだれか。
ベン・ヘクト(1893~1964)は波乱万丈の生涯を送った作家である。アメリカの小説家、ジャーナリストだが、エラリー・クイーンによれば、子供のころは天才的なバイオリニストであり、サーカスのアクロバットや劇場主などの職業を転々としたという。日本では戦前(昭和6年)に「悪魔の殿堂」、戦後(昭和35年)に「情事の人びと」(光文社)などが訳されているが、いずれも絶版。今ではわずかに「情熱なき犯罪」(1934年)や「15人の殺人者たち」(1943年)などのミステリや、怪奇幻想小説の短編が読めるだけだ。
ところがその短編が面白い。以下、ストーリーの紹介をするので、未読の方はご注意を。「15人の殺人者たち」(橋本福夫訳、1961年5月、創元推理文庫刊「世界短編傑作集5」に所収)は、Xクラブと称する3か月ごとの会合に集まる15人の医師たちを描いた作品。「このXクラブの会員がこうして会合を持つのは、ひとつの、興味のある目的を持っているからなのだ。会員たちは、3か月ごとに、前の会合以後にだれかが殺人罪を犯した場合、それを告白するために、ここに集まることにしている」と医師の1人が言う。ショッキングな発言だが、殺人とはもちろん手術の失敗や診察ミスなど、あくまで医療上の死亡事故のこと。ここに新顔の医師が参加して自分の患者の死亡事故を告白するが、実は当の患者はまだ死んでおらず、周囲の医師たちの「こうすれば良かった」というアドバイスを聞いた足で病院に向かい、ただちに手術を施して患者を救うという話。実にさわやかな読後感の短編である。
「情熱なき犯罪」(新庄哲夫訳、1977年9月、光文社刊「世界傑作推理12選&ONE」に所収)は、別れ話のいさかいの末、愛人を過失で殺してしまった冷静沈着な弁護士が周到なアリバイ工作を図る話。工作が成功しそうになったとき、鉄壁なはずのアリバイを崩す目撃者の男が現れ、今度はその男を殺してしまう。しかし殺したと思った愛人は生きていた。弁護士は、過失による無罪判決が出たかもしれない愛人の殺人未遂ではなく、目撃者殺しの重罪(謀殺罪)で裁かれることになる。こちらは実に皮肉な因果応報を描いた短編である。
ベン・ヘクトはこうした上質かつ多彩な内容の短編をいくつも残したが、現在では映画人としての方が知られている。
彼が原作、脚本、監督、製作など何らかの形でかかわった映画を列記してみよう。1927年「暗黒街」、31年「犯罪都市」、32年「暗黒街の顔役」、35年「生きているモレア」、39年「嵐ヶ丘」、40年「ヒズ・ガール・フライデー」、40年「紐育(ニューヨーク)の天使」、42年「運命の饗宴」、45年「白い恐怖」、46年「汚名」、47年「死の接吻」、49年「ラヴ・ハッピー」、54年「ユリシーズ」、57年「武器よさらば」、64年「サーカスの世界」……。これはアメリカ映画史そのものではないか。「暗黒街」と「生きているモレア」(チャールズ・マッカーサーと共同)ではアカデミー賞の脚本賞(ともに原案部門)を受賞している。
話があちこちに飛んでどこに行くのかストーリーの読めない恋愛喜劇を、野球の変化球になぞらえて「スクリューボール・コメディ」と呼ぶが、ヘクトはまさにその分野の達人だった。没後も、かつて書いた原作(「犯罪都市」「ヒズ・ガール・フライデー」)がビリー・ワイルダー監督によってリメークされる(74年「フロント・ページ」)など、ハリウッドに与えた影響はきわめて大きかった。
そんなヘクトとマリリン・モンローの接点は? 1952年にヘクトら3人が脚本を書いた傑作喜劇映画「モンキー・ビジネス」(ハワード・ホークス監督)にマリリンは出演している。「ナイアガラ」でトップスターに躍り出る前の年で、彼女はまだ助演クラスだったが、後に自分を主役に抜擢してくれることになるホークスやワイルダーには全面的な信頼を寄せていた。ホークスやワイルダーには、ヘクトと組んだ仕事も多い。マリリンがヘクトに自伝執筆の協力を依頼したのは、けだし当然ではなかろうか。
今回のコラムは、亀井俊介から始まって、マリリン・モンロー、ミルトン・グリーン、ベン・ヘクト、アメリカ映画と話があちこちに飛んだ。このスクリューボールも、最後はキャッチャーミットに収まっただろうか?(こや)
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(ベン・ヘクト)
亀井俊介といえば、東京大学教授を務めたアメリカ文学の権威である。アメリカ大衆文化にも詳しく、1987年7月には著書「マリリン・モンロー」を岩波新書で刊行した。東大の先生が天下の岩波からモンローの本を、と当時、話題になったものである。その中にこんな一節がある。「マリリン・モンローの伝記類もおびただしく出ている。(中略)一つ不思議な本もある。マリリン・モンローが著者となり、『私の物語(マイ・ストーリー)』(1974年)と題している本だ。(中略)これはボヘミアン的な作家兼ジャーナリストとして知られるベン・ヘクトと、マリリンとの協力によって出来たものらしい。だがベン・ヘクトは1964年に死んでいる。同書のカバーには、マリリンが原稿を彼女のフォトグラファーとして有名なミルトン・グリーンに与えた、とのみ記されている」
ミルトン・グリーンは1955年、ニューヨークで一緒に「マリリン・モンロー・プロダクション」(通称MMP)を設立したほど、マリリンと親交の深かったカメラマンだ。膨大な量のマリリンの写真を撮っている。プロダクションの経営不振をめぐって2人の関係にはやがて亀裂が入る。前記の自伝は、マリリン本人から預かって温めていた原稿を1974年に初めて公開したものではないかと思われる。それでは自伝執筆の協力者ベン・ヘクトとはだれか。
ベン・ヘクト(1893~1964)は波乱万丈の生涯を送った作家である。アメリカの小説家、ジャーナリストだが、エラリー・クイーンによれば、子供のころは天才的なバイオリニストであり、サーカスのアクロバットや劇場主などの職業を転々としたという。日本では戦前(昭和6年)に「悪魔の殿堂」、戦後(昭和35年)に「情事の人びと」(光文社)などが訳されているが、いずれも絶版。今ではわずかに「情熱なき犯罪」(1934年)や「15人の殺人者たち」(1943年)などのミステリや、怪奇幻想小説の短編が読めるだけだ。
ところがその短編が面白い。以下、ストーリーの紹介をするので、未読の方はご注意を。「15人の殺人者たち」(橋本福夫訳、1961年5月、創元推理文庫刊「世界短編傑作集5」に所収)は、Xクラブと称する3か月ごとの会合に集まる15人の医師たちを描いた作品。「このXクラブの会員がこうして会合を持つのは、ひとつの、興味のある目的を持っているからなのだ。会員たちは、3か月ごとに、前の会合以後にだれかが殺人罪を犯した場合、それを告白するために、ここに集まることにしている」と医師の1人が言う。ショッキングな発言だが、殺人とはもちろん手術の失敗や診察ミスなど、あくまで医療上の死亡事故のこと。ここに新顔の医師が参加して自分の患者の死亡事故を告白するが、実は当の患者はまだ死んでおらず、周囲の医師たちの「こうすれば良かった」というアドバイスを聞いた足で病院に向かい、ただちに手術を施して患者を救うという話。実にさわやかな読後感の短編である。
「情熱なき犯罪」(新庄哲夫訳、1977年9月、光文社刊「世界傑作推理12選&ONE」に所収)は、別れ話のいさかいの末、愛人を過失で殺してしまった冷静沈着な弁護士が周到なアリバイ工作を図る話。工作が成功しそうになったとき、鉄壁なはずのアリバイを崩す目撃者の男が現れ、今度はその男を殺してしまう。しかし殺したと思った愛人は生きていた。弁護士は、過失による無罪判決が出たかもしれない愛人の殺人未遂ではなく、目撃者殺しの重罪(謀殺罪)で裁かれることになる。こちらは実に皮肉な因果応報を描いた短編である。
ベン・ヘクトはこうした上質かつ多彩な内容の短編をいくつも残したが、現在では映画人としての方が知られている。
彼が原作、脚本、監督、製作など何らかの形でかかわった映画を列記してみよう。1927年「暗黒街」、31年「犯罪都市」、32年「暗黒街の顔役」、35年「生きているモレア」、39年「嵐ヶ丘」、40年「ヒズ・ガール・フライデー」、40年「紐育(ニューヨーク)の天使」、42年「運命の饗宴」、45年「白い恐怖」、46年「汚名」、47年「死の接吻」、49年「ラヴ・ハッピー」、54年「ユリシーズ」、57年「武器よさらば」、64年「サーカスの世界」……。これはアメリカ映画史そのものではないか。「暗黒街」と「生きているモレア」(チャールズ・マッカーサーと共同)ではアカデミー賞の脚本賞(ともに原案部門)を受賞している。
話があちこちに飛んでどこに行くのかストーリーの読めない恋愛喜劇を、野球の変化球になぞらえて「スクリューボール・コメディ」と呼ぶが、ヘクトはまさにその分野の達人だった。没後も、かつて書いた原作(「犯罪都市」「ヒズ・ガール・フライデー」)がビリー・ワイルダー監督によってリメークされる(74年「フロント・ページ」)など、ハリウッドに与えた影響はきわめて大きかった。
そんなヘクトとマリリン・モンローの接点は? 1952年にヘクトら3人が脚本を書いた傑作喜劇映画「モンキー・ビジネス」(ハワード・ホークス監督)にマリリンは出演している。「ナイアガラ」でトップスターに躍り出る前の年で、彼女はまだ助演クラスだったが、後に自分を主役に抜擢してくれることになるホークスやワイルダーには全面的な信頼を寄せていた。ホークスやワイルダーには、ヘクトと組んだ仕事も多い。マリリンがヘクトに自伝執筆の協力を依頼したのは、けだし当然ではなかろうか。
今回のコラムは、亀井俊介から始まって、マリリン・モンロー、ミルトン・グリーン、ベン・ヘクト、アメリカ映画と話があちこちに飛んだ。このスクリューボールも、最後はキャッチャーミットに収まっただろうか?(こや)
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