第17回 ちょこっとドストエフスキー
(フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー)
このほど三笠書房の知的生きかた文庫で「90分で読む! 超訳『罪と罰』」が刊行された(2011年11月)。原作者はもちろんフョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー。19世紀ロシアを代表するこの文豪の代表作を、東京・西荻窪で古書店(古書比良木屋)を経営する日比野敦が訳し下ろした。
新潮文庫版で上下2巻、岩波文庫版では上中下3巻、近年話題になった亀山郁夫訳の光文社古典新訳文庫版でも1~3巻と、大部にわたる小説をわずか300ページの文庫本1冊に収めるというのは、無謀な試みである。しかしこれがなかなか面白い。ドストエフスキー文学特有の繰り返しや冗長さがきれいに削ぎ落とされて、引き締まった中編小説を読むような趣がある。超訳を認めることはドストエフスキー研究者や愛好家にとって沽券にかかわることかもしれないけれども、門外漢の私がここで評価しておきたい。
第3部で登場する予審判事ポルフィーリイが、主人公の青年ラスコーリニコフがかつて書いた論文の内容に関して、議論を吹きかける。ラスコーリニコフの主張は次の通り(以下、引用は日比野訳より)。「『ある種の人間』は『ある種の障害』を超えるとき、自らの良心から自身に犯罪を許す権利を持つ、と暗示しただけです」「つまり自分の思想―全人類のために救世的意義を有する思想ならば、それを実現するときにその権利が生じるのです」「ニュートンが自分の発見を世間に発表するとき、10人か100人かの邪魔する人間がいて、どうしても彼らを排除する必要があったとしたらどうでしょう。全人類の進歩のためには、その10人なり100人なりを抹殺する権利が生じてくるんじゃないでしょうか」
「罪と罰」全編を貫くテーマがここに集約されている。「すべての人間は『人間である人間』と『人間でない人間』に分かれるということです。人間は常に法律を守らなければならないが、『人間でない人間』はあらゆる犯罪を行なう権利、あらゆる法律を超越する権利を持つ、ということなのです。確か、そういったような内容でしたな?」と、ポルフィーリイもラスコーリニコフ理論を補足する。ラスコーリニコフの犯罪行為は、金貸しの老婆とその妹のリザヴェータ殺し、そして若干の金品類の窃盗である。特に2件の殺人をどうとらえればいいのか、ラスコーリニコフ理論に沿って見ていこう。
ラスコーリニコフが老婆を殺したのは、貧困が原因である。彼は家賃を滞納するほど生活に窮していた。高利貸しの老婆から何度か金も借りていた。老婆殺しを実行に移す前のある日、ラスコーリニコフはふと立ち寄ったレストランで、隣の席の大学生が仲間の若い将校にこんなことを語っているのを小耳に挟んでギョッとする―「いいか? ここに何の価値もなければむしろ有害なくらいの、自分でも何のために生きているのかわからないくらいの、明日にでも一人で死んでゆくかもしれない老婆がいるとする。ところがだ、一方には経済的な助けがないばかりに、その芽をつみとられる若い才能がある。(中略)その金があれば、そうした若い才能を伸ばしてやることもできるじゃないか。(中略)ここで重要な前提が立ち上がってくる。それは、その金をすべて全人類への奉仕のために使用するということだ。数千もの善いことをすれば、それはたった一つの犯罪をなかったことにするんじゃないか。たった一つの命を消すことで、数千もの有意義な命が救われるとしたら、どうだろう。つまり一つの死が百の生に変わるのさ」。
若い才能をニュートンに、老婆をニュートンの発見を邪魔する人間に置き換えれば、まさに先のラスコーリニコフ理論そのままである。あるいはこれは他人の会話ではなくラスコーリニコフ自身の内なる声なのかもしれない。かつて「分身」でドッペルゲンガーを登場させたドストエフスキーらしいといえる。しかしラスコーリニコフの老婆殺しには金を奪うというれっきとした動機があった。当然それは彼自身の貧困からの脱出という私事に過ぎず、全人類への奉仕にはなり得ないという矛盾をはらむ。
では老婆の妹のリザヴェータ殺しについては? ラスコーリニコフにはリザヴェータから金を奪う目的も怨恨もない。一見、いかにも動機なき殺人―先のポルフィーリイが指摘した「『人間でない人間』はあらゆる犯罪を行なう権利、あらゆる法律を超越する権利を持つ」というラスコーリニコフ理論にふさわしく思える。けれどもラスコーリニコフが老婆殺しの現場を目撃されなかったら果たして動機もなくリザヴェータを殺したかどうか。私欲で殺人を犯した者が罪の発覚を恐れて第二の殺人を犯したケースと何ら変わりはない。
ラスコーリニコフは犯行前、往来を歩きながら「これから“すごいこと”をやろうとしているこの俺が、この程度のことでびくびくするなんて、だらしない」「果たして俺にアレができるかどうか、まじめに検証してみようとしていたんだ」などとつぶやいていた。すごいことやアレが老婆殺しという確証はどこにもない。あるいはラスコーリニコフの目指していたことは、もっと全人類的な革命―たとえば救世のためのロシア皇帝殺しだったかもしれない。そう指摘する識者は何人もいるし、ドストエフスキー自身も若いころ政治事件に巻き込まれ、死刑判決を受けている(恩赦、減刑)。これなら一応はうなずける。
だとしても、である。全人類救世のはずの革命が私利私欲の犯罪にすり替わってしまうのは、多くの歴史が証明している。ラスコーリニコフ理論のはらむ矛盾を通じて、ドストエフスキーは何人にも罪を犯す権利はないことを逆説的に証明したかったのではないか。(こや)
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このほど三笠書房の知的生きかた文庫で「90分で読む! 超訳『罪と罰』」が刊行された(2011年11月)。原作者はもちろんフョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー。19世紀ロシアを代表するこの文豪の代表作を、東京・西荻窪で古書店(古書比良木屋)を経営する日比野敦が訳し下ろした。
新潮文庫版で上下2巻、岩波文庫版では上中下3巻、近年話題になった亀山郁夫訳の光文社古典新訳文庫版でも1~3巻と、大部にわたる小説をわずか300ページの文庫本1冊に収めるというのは、無謀な試みである。しかしこれがなかなか面白い。ドストエフスキー文学特有の繰り返しや冗長さがきれいに削ぎ落とされて、引き締まった中編小説を読むような趣がある。超訳を認めることはドストエフスキー研究者や愛好家にとって沽券にかかわることかもしれないけれども、門外漢の私がここで評価しておきたい。
第3部で登場する予審判事ポルフィーリイが、主人公の青年ラスコーリニコフがかつて書いた論文の内容に関して、議論を吹きかける。ラスコーリニコフの主張は次の通り(以下、引用は日比野訳より)。「『ある種の人間』は『ある種の障害』を超えるとき、自らの良心から自身に犯罪を許す権利を持つ、と暗示しただけです」「つまり自分の思想―全人類のために救世的意義を有する思想ならば、それを実現するときにその権利が生じるのです」「ニュートンが自分の発見を世間に発表するとき、10人か100人かの邪魔する人間がいて、どうしても彼らを排除する必要があったとしたらどうでしょう。全人類の進歩のためには、その10人なり100人なりを抹殺する権利が生じてくるんじゃないでしょうか」
「罪と罰」全編を貫くテーマがここに集約されている。「すべての人間は『人間である人間』と『人間でない人間』に分かれるということです。人間は常に法律を守らなければならないが、『人間でない人間』はあらゆる犯罪を行なう権利、あらゆる法律を超越する権利を持つ、ということなのです。確か、そういったような内容でしたな?」と、ポルフィーリイもラスコーリニコフ理論を補足する。ラスコーリニコフの犯罪行為は、金貸しの老婆とその妹のリザヴェータ殺し、そして若干の金品類の窃盗である。特に2件の殺人をどうとらえればいいのか、ラスコーリニコフ理論に沿って見ていこう。
ラスコーリニコフが老婆を殺したのは、貧困が原因である。彼は家賃を滞納するほど生活に窮していた。高利貸しの老婆から何度か金も借りていた。老婆殺しを実行に移す前のある日、ラスコーリニコフはふと立ち寄ったレストランで、隣の席の大学生が仲間の若い将校にこんなことを語っているのを小耳に挟んでギョッとする―「いいか? ここに何の価値もなければむしろ有害なくらいの、自分でも何のために生きているのかわからないくらいの、明日にでも一人で死んでゆくかもしれない老婆がいるとする。ところがだ、一方には経済的な助けがないばかりに、その芽をつみとられる若い才能がある。(中略)その金があれば、そうした若い才能を伸ばしてやることもできるじゃないか。(中略)ここで重要な前提が立ち上がってくる。それは、その金をすべて全人類への奉仕のために使用するということだ。数千もの善いことをすれば、それはたった一つの犯罪をなかったことにするんじゃないか。たった一つの命を消すことで、数千もの有意義な命が救われるとしたら、どうだろう。つまり一つの死が百の生に変わるのさ」。
若い才能をニュートンに、老婆をニュートンの発見を邪魔する人間に置き換えれば、まさに先のラスコーリニコフ理論そのままである。あるいはこれは他人の会話ではなくラスコーリニコフ自身の内なる声なのかもしれない。かつて「分身」でドッペルゲンガーを登場させたドストエフスキーらしいといえる。しかしラスコーリニコフの老婆殺しには金を奪うというれっきとした動機があった。当然それは彼自身の貧困からの脱出という私事に過ぎず、全人類への奉仕にはなり得ないという矛盾をはらむ。
では老婆の妹のリザヴェータ殺しについては? ラスコーリニコフにはリザヴェータから金を奪う目的も怨恨もない。一見、いかにも動機なき殺人―先のポルフィーリイが指摘した「『人間でない人間』はあらゆる犯罪を行なう権利、あらゆる法律を超越する権利を持つ」というラスコーリニコフ理論にふさわしく思える。けれどもラスコーリニコフが老婆殺しの現場を目撃されなかったら果たして動機もなくリザヴェータを殺したかどうか。私欲で殺人を犯した者が罪の発覚を恐れて第二の殺人を犯したケースと何ら変わりはない。
ラスコーリニコフは犯行前、往来を歩きながら「これから“すごいこと”をやろうとしているこの俺が、この程度のことでびくびくするなんて、だらしない」「果たして俺にアレができるかどうか、まじめに検証してみようとしていたんだ」などとつぶやいていた。すごいことやアレが老婆殺しという確証はどこにもない。あるいはラスコーリニコフの目指していたことは、もっと全人類的な革命―たとえば救世のためのロシア皇帝殺しだったかもしれない。そう指摘する識者は何人もいるし、ドストエフスキー自身も若いころ政治事件に巻き込まれ、死刑判決を受けている(恩赦、減刑)。これなら一応はうなずける。
だとしても、である。全人類救世のはずの革命が私利私欲の犯罪にすり替わってしまうのは、多くの歴史が証明している。ラスコーリニコフ理論のはらむ矛盾を通じて、ドストエフスキーは何人にも罪を犯す権利はないことを逆説的に証明したかったのではないか。(こや)
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