第19回 今に生きるシャーロック・ホームズ
(アーサー・コナン・ドイル)
ロンドンのベイカー・ストリート221番地B宛てに、業務依頼やファンレターなど、たくさんの手紙が届くようになったのは、19世紀末から20世紀初頭にかけてである。ところがその宛て先は実際に存在しないものだったため、ロンドン中央郵便局は専門の係を置いて膨大な数の手紙の処理に当たっていたという。医者で作家のコナン・ドイルが生み出した架空の名探偵シャーロック・ホームズが、実在の人物以上に人々に愛されたことを示すエピソードである。
そのホームズが、またもや映画化されたこともあって、ちょっとしたブームになっている。書店では新訳を含めた作品集が山積みにされている。ホームズものの短編の中で1、2を争う傑作とされる「ゆがんだ唇の男」が「シャーロック・ホームズ傑作選」(中田耕治訳、1992年11月、集英社文庫刊)に収められているので、久々に読み返してみた。内容に触れているので未読の方はご注意を。
セントクレア夫人がロンドンの町で自分の夫を偶然見かける。夫は目の前の建物の3階の窓から自分に向けて気が狂ったように手を振った後、部屋の奥に姿を消してしまった。夫人は近くにいた警官とともに建物に入っていく。1階のアヘン窟を通り抜けて3階に駆け上がり、部屋中を探し回るが、セントクレアの姿はどこにもない。そこを住処にしている気味の悪い乞食だけがいて、奥の部屋の窓敷居や床板の上には血痕があった。窓から見下ろされる川の底から、ポケットに銅貨を詰め込んだセントクレアの上着が発見される。すわ殺人事件か。乞食が容疑者として留置場に連行される。
捜査を依頼されたホームズが見破った事件の真相は、その拘留中の乞食こそまさしく変装したセントクレア本人であったというもの。良き夫であり理想の父親である紳士が、毎日仕事に出かけると言って家を出た後、実は乞食に変装してロンドンの街頭で通行人から施しを受けていたのである。かつて新聞記者だったセントクレアは、ロンドンの乞食を取材するために自ら乞食を演じてみたとき、一日中座って施しを受けて稼いだ金が、あくせく働いて手に入れる自分の給料と変わらないことを知って、誘惑から逃れられなくなった。彼は今に至るも乞食を続けていて、夫人に見つかったときも、とっさに施しの銅貨を上着のポケットに詰め込んで、自ら川に投げ込んだのだった。
殺人事件のはずが実は犯罪ですらなかった。そんな話だが、読み終わってハタと思ったのは、ここまでうまく人を欺ける変装が果たしてあり得るかどうかということ。若いころ舞台に立っていたからメーキャップはお手のもの、という説明が一応なされているが、拘留されている乞食はセントクレア失踪事件の重要参考人なわけだから、警察が素性を詳しく調べるのは当然だろうし、身体検査もしないということがあり得るだろうか。かつらや顔のドーランや皮膚の引きつれを模した絆創膏などは、警察や拘置人が間近で見ればすぐに底が割れるのではないか。
百歩譲って赤の他人だから見破れなかったとしても、セントクレア夫人は警官とともに現場に踏み込んで乞食(つまり夫)を見ている。自分の夫の変装に気づかないということはあまりにも不自然ではないか。他のホームズものの短編「花婿の正体」でも、妻の連れ子の娘を同年代の男と結婚させないために義父が自ら変装して誘惑者となるが、いくら義理の関係だと言っても、父を見破れない娘がいるだろうか。ところがこの話もホームズものの傑作のひとつとして、前出の短編集に収められているのである。
当時はDNA鑑定など科学的手段もないし、警察の操作法も実に未熟であった。“シャーロック・ホームズの同時代のライバルたち”として有名な「隅の老人」(バロネス・オルツィが創造した安楽椅子探偵の元祖)シリーズにしても、一人二役というか、変装した犯人による犯罪というケースがきわめて多い。現在なら簡単に見破られてしまうはずの、子供だましが言い過ぎだとしたら児戯に類するような単純至極な変装であっても、当時はそれが本格推理小説のトリックの王道だったのかもしれない。
しかし、英文学者の廣野由美子は「ミステリーの人間学―英国古典探偵小説を読む」(2009年5月、岩波新書刊)の中で、「ゆがんだ唇の男」についてこう指摘している。「興味深いのは、道を歩く妻と建物の中の夫の目が合った瞬間の描写である。(中略)お互いに、先に気づいたのは相手のほうだと思っていること、顔を隠す夫の動作が妻には助けを求める手招きに見えたこと、慌てて逃げ出した夫の動作が、妻には背後から無理やり引っ張られたような印象であったことなど、互いの認識には心理的なズレがある。だが、そのような刹那にも、妻は夫が出かけたときと同じ上着を着ているのにネクタイをしていなかったことに気づいている。ここには夫婦間の信頼が危機にさらされる一瞬が凝縮されている」
さすが女性ならではの鋭い視点、と言っては差別になろうか。廣野は続けて「人生の断片を切り取り、人間関係や、金と安楽の誘惑に負ける人間の弱点を描いたこの小さな事件の話は、『文学』へと転化しつつある兆しを見せる」と書く。筆者も以前から、シャーロック・ホームズものは果たして本格推理小説と言っていいのだろうか、とずっと思い続けてきた。これらの小説が、なぜ発表後100年以上経った今でも古典文学として読み継がれるのか。単なる謎解き小説と侮るなかれ、奥には深い文学の深淵が潜んでいる。(こや)
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ロンドンのベイカー・ストリート221番地B宛てに、業務依頼やファンレターなど、たくさんの手紙が届くようになったのは、19世紀末から20世紀初頭にかけてである。ところがその宛て先は実際に存在しないものだったため、ロンドン中央郵便局は専門の係を置いて膨大な数の手紙の処理に当たっていたという。医者で作家のコナン・ドイルが生み出した架空の名探偵シャーロック・ホームズが、実在の人物以上に人々に愛されたことを示すエピソードである。
そのホームズが、またもや映画化されたこともあって、ちょっとしたブームになっている。書店では新訳を含めた作品集が山積みにされている。ホームズものの短編の中で1、2を争う傑作とされる「ゆがんだ唇の男」が「シャーロック・ホームズ傑作選」(中田耕治訳、1992年11月、集英社文庫刊)に収められているので、久々に読み返してみた。内容に触れているので未読の方はご注意を。
セントクレア夫人がロンドンの町で自分の夫を偶然見かける。夫は目の前の建物の3階の窓から自分に向けて気が狂ったように手を振った後、部屋の奥に姿を消してしまった。夫人は近くにいた警官とともに建物に入っていく。1階のアヘン窟を通り抜けて3階に駆け上がり、部屋中を探し回るが、セントクレアの姿はどこにもない。そこを住処にしている気味の悪い乞食だけがいて、奥の部屋の窓敷居や床板の上には血痕があった。窓から見下ろされる川の底から、ポケットに銅貨を詰め込んだセントクレアの上着が発見される。すわ殺人事件か。乞食が容疑者として留置場に連行される。
捜査を依頼されたホームズが見破った事件の真相は、その拘留中の乞食こそまさしく変装したセントクレア本人であったというもの。良き夫であり理想の父親である紳士が、毎日仕事に出かけると言って家を出た後、実は乞食に変装してロンドンの街頭で通行人から施しを受けていたのである。かつて新聞記者だったセントクレアは、ロンドンの乞食を取材するために自ら乞食を演じてみたとき、一日中座って施しを受けて稼いだ金が、あくせく働いて手に入れる自分の給料と変わらないことを知って、誘惑から逃れられなくなった。彼は今に至るも乞食を続けていて、夫人に見つかったときも、とっさに施しの銅貨を上着のポケットに詰め込んで、自ら川に投げ込んだのだった。
殺人事件のはずが実は犯罪ですらなかった。そんな話だが、読み終わってハタと思ったのは、ここまでうまく人を欺ける変装が果たしてあり得るかどうかということ。若いころ舞台に立っていたからメーキャップはお手のもの、という説明が一応なされているが、拘留されている乞食はセントクレア失踪事件の重要参考人なわけだから、警察が素性を詳しく調べるのは当然だろうし、身体検査もしないということがあり得るだろうか。かつらや顔のドーランや皮膚の引きつれを模した絆創膏などは、警察や拘置人が間近で見ればすぐに底が割れるのではないか。
百歩譲って赤の他人だから見破れなかったとしても、セントクレア夫人は警官とともに現場に踏み込んで乞食(つまり夫)を見ている。自分の夫の変装に気づかないということはあまりにも不自然ではないか。他のホームズものの短編「花婿の正体」でも、妻の連れ子の娘を同年代の男と結婚させないために義父が自ら変装して誘惑者となるが、いくら義理の関係だと言っても、父を見破れない娘がいるだろうか。ところがこの話もホームズものの傑作のひとつとして、前出の短編集に収められているのである。
当時はDNA鑑定など科学的手段もないし、警察の操作法も実に未熟であった。“シャーロック・ホームズの同時代のライバルたち”として有名な「隅の老人」(バロネス・オルツィが創造した安楽椅子探偵の元祖)シリーズにしても、一人二役というか、変装した犯人による犯罪というケースがきわめて多い。現在なら簡単に見破られてしまうはずの、子供だましが言い過ぎだとしたら児戯に類するような単純至極な変装であっても、当時はそれが本格推理小説のトリックの王道だったのかもしれない。
しかし、英文学者の廣野由美子は「ミステリーの人間学―英国古典探偵小説を読む」(2009年5月、岩波新書刊)の中で、「ゆがんだ唇の男」についてこう指摘している。「興味深いのは、道を歩く妻と建物の中の夫の目が合った瞬間の描写である。(中略)お互いに、先に気づいたのは相手のほうだと思っていること、顔を隠す夫の動作が妻には助けを求める手招きに見えたこと、慌てて逃げ出した夫の動作が、妻には背後から無理やり引っ張られたような印象であったことなど、互いの認識には心理的なズレがある。だが、そのような刹那にも、妻は夫が出かけたときと同じ上着を着ているのにネクタイをしていなかったことに気づいている。ここには夫婦間の信頼が危機にさらされる一瞬が凝縮されている」
さすが女性ならではの鋭い視点、と言っては差別になろうか。廣野は続けて「人生の断片を切り取り、人間関係や、金と安楽の誘惑に負ける人間の弱点を描いたこの小さな事件の話は、『文学』へと転化しつつある兆しを見せる」と書く。筆者も以前から、シャーロック・ホームズものは果たして本格推理小説と言っていいのだろうか、とずっと思い続けてきた。これらの小説が、なぜ発表後100年以上経った今でも古典文学として読み継がれるのか。単なる謎解き小説と侮るなかれ、奥には深い文学の深淵が潜んでいる。(こや)
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