第21回 忘れられた「エイルウィン物語」
(ウォッツ・ダントン)
「世界文学全集」を入手して、ここ最近、楽しく読んでいる。といってもドストエフスキーやトルストイが収められた全集そのものではなく、たった1冊の単行本。実はこれは元「図書新聞」副編集長で文芸評論家の矢口進也が1997年10月、トパーズプレスから刊行した世界文学全集に関する評論集である。帯には「日本初の研究ガイド」とある。日本における世界文学全集の出版は、昭和初期に新潮社が出した「世界文学全集」第1期38巻、第2期19巻が嚆矢とされている。しかしその前の大正14(1925)年、国民文庫刊行会が「世界名作大観」という全集に近い形の叢書を出していた。こちらは全50巻だから、当時としては質量ともに空前の大企画だっただろう。
全50巻の中に異色の2編があると矢口は書く(「明治・大正期の遺産」)。「大正期のいくつかの集成を見ると、英米文学作品が多いことはともかくとして、大体の作品はその後も文学全集的なものにくりいれられて読まれているが、珍しく、この時の紹介のみで終わった作品がある」。それが「エイルヰン物語」(ヲッツ・ダントン、戸川秋骨訳)と「マリ・バシュキルツェフの日記』(野上豊一郎訳)である。「この時の紹介のみで終わった」ということは、以降70年以上、日本では再刊されていないことになる。その一つ「エイルヰン物語」(今の表記なら「エイルウィン物語」)について調べてみて驚いた。
あの夏目漱石が、すでに明治32(1899)年8月10日の「ホトトギス」に、この作品の批評を寄せている。引用は「漱石全集第13巻」(1995年2月、岩波書店刊)より。新字、新かなづかいに直した。
「目下英国でやかましく評判の高い、『エイルウィン』という小説がある。これは出版になってから、まだ1年たたないように記憶しているが、非常な速力で流行の度を進めつつある。漱石の注文したのは、つい2、3版のころであったに、日本へ到着したのは、13版のものである。(中略)今ではもう20版を越しているだろう。(中略)西洋の小説は、たいてい1版に千部ずつ刷るのだから、仮に20版と見れば、この7、8か月間に、2万部売れたわけである。これに米国(版権所有者が違う)で今まで売った1万3千部を加えると、ずいぶんな高になる」
当時の2、3万部といえば、今なら世界的なベストセラー小説であろうか。明治32年の漱石はまだ小説家になる前で、一介の英文学者であった。処女作「吾輩は猫である」を書いたのは明治38(1905)年のこと。したがって漱石はここで英文学者としての目から「エイルウィン物語」を紹介しているわけだが、以下の文章からも、当時この小説のイギリスでの評判が大変なものだったことが分かる。
「著者はウォッツ・ダントンという男だ。別段有名な人でもない。一昨年出版になった『ファーカーソン・シャープ』の文学者字彙には、1832年生とあるから、もういい年齢である。今までは雑誌記者をしたり、批評家になったり、またあるときは『アセニーアム』へ詩稿を寄送したりなどしておったようにみえる。かつて『ロゼッチ』が、この人の詩を賞讃したという話もあるが、とにかく『エイルウィン』を出すまでは、さのみ有名ではなかった。(中略)ある雑誌では、沙翁の『オフェリヤ』以後、『ウィニー』(巻中の少女)のごとき凄絶なるものなし、というておる。また他の雑誌には、『エイルウィン』は散文にして詩なるものなり。単に小説中の白眉なるのみならず、また文章として上乗なるものなりとある。あるいは詩人にあらずんばこの結構なしといい、あるいはこの書をひもとけば、現時における驚くべき天才と席を同じゅうするに異ならずなどとまで賞している」
いやはや大変な絶賛ぶりである。「エイルウィン物語」はこんな話だ。先に引いた矢口進也の要約を参考に記してみる。北ウェールズの名家エイルウィン家の少年ヘンリーが主人公で、彼の家系にはジプシーの血が流れている。彼は海岸で美しい少女と出会うが、少女はエイルウィン家の使用人トム・ウィンの娘ウィニフレッドだった。ヘンリーは幼なじみのウィニフレッドを愛していたが、エイルウィン家の世継ぎとなった今は身分違いの交際は許されず、彼女は北ウェールズへ行ってしまう。ヘンリーは彼女を探し当てようとするが、なかなかかなわない。
「この物語を読んでいて、ウィニフレッドが何度も気が狂ったように前後を失う場面が出てきたり、ヘンリーも一時忘我状態になったりするのだが、これがヒステリーその他の症状でしかも神秘的なものとして考えられていたように読める」と矢口は指摘している。「それは、一種の解決編のように、ヘンリーにあてた友人の手紙が明らかにするのだが、ウィニフレッドの症状を強力な磁力を用いて友人のシンフィに移すという治療を行ない、常人にもどったウィニフレッドとヘンリーを再会させるというものである。このあたりは少々荒唐無稽に見えるが、記憶を失ったり、またそれを取りもどしたりということも一種の神秘思想の表現なのであろう」と。
しかし結果的にこの小説の評価は一時的なものに終わってしまった。矢口はその理由を「ジプシー民族のヨーロッパでの位置、あるいはこの物語の背景となっているウェールズ地方の風土や言語も、私たちには知識が乏しい」。だから親しみが持てず、その後の世界文学全集にも再録されなかったのではないか、と推測している。
明治32年の漱石はもっと鋭い。「エイルウィン物語」を原書で読んで評価しつつも、「世間はもとより気の変わりやすきものだ。新奇を好むものだ。かつ具眼者のすくないものだ」と、絶賛はいつまでも続かないものと予言していた。戸川秋骨訳の出る四半世紀も前の話である。(こや)
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(ウォッツ・ダントン)
「世界文学全集」を入手して、ここ最近、楽しく読んでいる。といってもドストエフスキーやトルストイが収められた全集そのものではなく、たった1冊の単行本。実はこれは元「図書新聞」副編集長で文芸評論家の矢口進也が1997年10月、トパーズプレスから刊行した世界文学全集に関する評論集である。帯には「日本初の研究ガイド」とある。日本における世界文学全集の出版は、昭和初期に新潮社が出した「世界文学全集」第1期38巻、第2期19巻が嚆矢とされている。しかしその前の大正14(1925)年、国民文庫刊行会が「世界名作大観」という全集に近い形の叢書を出していた。こちらは全50巻だから、当時としては質量ともに空前の大企画だっただろう。
全50巻の中に異色の2編があると矢口は書く(「明治・大正期の遺産」)。「大正期のいくつかの集成を見ると、英米文学作品が多いことはともかくとして、大体の作品はその後も文学全集的なものにくりいれられて読まれているが、珍しく、この時の紹介のみで終わった作品がある」。それが「エイルヰン物語」(ヲッツ・ダントン、戸川秋骨訳)と「マリ・バシュキルツェフの日記』(野上豊一郎訳)である。「この時の紹介のみで終わった」ということは、以降70年以上、日本では再刊されていないことになる。その一つ「エイルヰン物語」(今の表記なら「エイルウィン物語」)について調べてみて驚いた。
あの夏目漱石が、すでに明治32(1899)年8月10日の「ホトトギス」に、この作品の批評を寄せている。引用は「漱石全集第13巻」(1995年2月、岩波書店刊)より。新字、新かなづかいに直した。
「目下英国でやかましく評判の高い、『エイルウィン』という小説がある。これは出版になってから、まだ1年たたないように記憶しているが、非常な速力で流行の度を進めつつある。漱石の注文したのは、つい2、3版のころであったに、日本へ到着したのは、13版のものである。(中略)今ではもう20版を越しているだろう。(中略)西洋の小説は、たいてい1版に千部ずつ刷るのだから、仮に20版と見れば、この7、8か月間に、2万部売れたわけである。これに米国(版権所有者が違う)で今まで売った1万3千部を加えると、ずいぶんな高になる」
当時の2、3万部といえば、今なら世界的なベストセラー小説であろうか。明治32年の漱石はまだ小説家になる前で、一介の英文学者であった。処女作「吾輩は猫である」を書いたのは明治38(1905)年のこと。したがって漱石はここで英文学者としての目から「エイルウィン物語」を紹介しているわけだが、以下の文章からも、当時この小説のイギリスでの評判が大変なものだったことが分かる。
「著者はウォッツ・ダントンという男だ。別段有名な人でもない。一昨年出版になった『ファーカーソン・シャープ』の文学者字彙には、1832年生とあるから、もういい年齢である。今までは雑誌記者をしたり、批評家になったり、またあるときは『アセニーアム』へ詩稿を寄送したりなどしておったようにみえる。かつて『ロゼッチ』が、この人の詩を賞讃したという話もあるが、とにかく『エイルウィン』を出すまでは、さのみ有名ではなかった。(中略)ある雑誌では、沙翁の『オフェリヤ』以後、『ウィニー』(巻中の少女)のごとき凄絶なるものなし、というておる。また他の雑誌には、『エイルウィン』は散文にして詩なるものなり。単に小説中の白眉なるのみならず、また文章として上乗なるものなりとある。あるいは詩人にあらずんばこの結構なしといい、あるいはこの書をひもとけば、現時における驚くべき天才と席を同じゅうするに異ならずなどとまで賞している」
いやはや大変な絶賛ぶりである。「エイルウィン物語」はこんな話だ。先に引いた矢口進也の要約を参考に記してみる。北ウェールズの名家エイルウィン家の少年ヘンリーが主人公で、彼の家系にはジプシーの血が流れている。彼は海岸で美しい少女と出会うが、少女はエイルウィン家の使用人トム・ウィンの娘ウィニフレッドだった。ヘンリーは幼なじみのウィニフレッドを愛していたが、エイルウィン家の世継ぎとなった今は身分違いの交際は許されず、彼女は北ウェールズへ行ってしまう。ヘンリーは彼女を探し当てようとするが、なかなかかなわない。
「この物語を読んでいて、ウィニフレッドが何度も気が狂ったように前後を失う場面が出てきたり、ヘンリーも一時忘我状態になったりするのだが、これがヒステリーその他の症状でしかも神秘的なものとして考えられていたように読める」と矢口は指摘している。「それは、一種の解決編のように、ヘンリーにあてた友人の手紙が明らかにするのだが、ウィニフレッドの症状を強力な磁力を用いて友人のシンフィに移すという治療を行ない、常人にもどったウィニフレッドとヘンリーを再会させるというものである。このあたりは少々荒唐無稽に見えるが、記憶を失ったり、またそれを取りもどしたりということも一種の神秘思想の表現なのであろう」と。
しかし結果的にこの小説の評価は一時的なものに終わってしまった。矢口はその理由を「ジプシー民族のヨーロッパでの位置、あるいはこの物語の背景となっているウェールズ地方の風土や言語も、私たちには知識が乏しい」。だから親しみが持てず、その後の世界文学全集にも再録されなかったのではないか、と推測している。
明治32年の漱石はもっと鋭い。「エイルウィン物語」を原書で読んで評価しつつも、「世間はもとより気の変わりやすきものだ。新奇を好むものだ。かつ具眼者のすくないものだ」と、絶賛はいつまでも続かないものと予言していた。戸川秋骨訳の出る四半世紀も前の話である。(こや)
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