第22回 「タイムマシン」を再読すれば
(ハーバート・ジョージ・ウェルズ)
ハーバート・ジョージ・ウェルズといえば、SFの父の異名がある。「透明人間」「モロー博士の島」「宇宙戦争」などを次々と物し、人体改造や異星人来襲といったSF的シチュエーションの多くを考案した先駆者であった。その彼の代表作の一つ「タイムマシン」(1895年作)がこのたび光文社の古典新訳文庫で出た(池央耿訳、2012年4月刊)。「時空を超える<タイムマシン>を発明したタイム・トラヴェラーは、80万年後の世界へ飛ぶ。そこで見た人類の未来とは? 世紀の転換期にウェルズの爆発的な想像力が生んだ未来社会のリアルがここにある! 科学の発展と人類の進歩をテーマに、SF(サイエンス・フィクション)というジャンルを切り開いた不朽の名作」という同書宣伝文に引かれて久々に読み返してみた。
一読、意外だったのは、時間旅行をめぐる議論がほぼ序盤にのみ集中していたことである。中盤以降はずっと、未来に行った主人公と2極化した未来人とのかかわり――地上種族イーロイ人と心を通わせたり、地下種族モーロック人と戦ったりといった活劇調の物語が展開される。以前(おそらく小学生時代)読んだときには気づかなかったが、時間旅行テーマの中編小説としてはいささかバランスを欠く構成になっている。そう考えていたら、何とウェルズ自身が「1931年版序」(今回の新訳版に収録)でこんなことを書いていた。
「当時はこの題材を筆者の独創と思いこんでいた。いつか『タイムマシン』より長い作品に仕上げるつもりで、前々から構想を温めていたのである。それが、何であれすぐ売れるものを書く必要に迫られて、駆け足で急場を凌ぐ破目になった。慧眼(けいがん)の読者はたちどころに見抜くはずだが、この作品は構成にむらがある。冒頭の議論は後の章にくらべてはるかに用意周到で、計算が行き届いている。片々たる物語が根底の深みから湧いて出る展開である。発想の原点を説明する前半は、つとに1893年、ウィリアム・E・ヘンリー主宰の『ナショナル・オブザーバー』に紹介されている。1894年にセヴンオークスで、短時日で書き下ろしたのは後半である」
「タイムマシン」を書いた1895年当時のウェルズは、健康上の理由で生物学の講師の職を辞し、筆一本で食べていかねばならない局面を迎えていた。すでに科学ジャーナリストとして引く手あまたとなっていたが、次々と創刊される新聞雑誌の要請に応じて小説や評論にも手を染めていたから、温めていた構想をじっくりと作品に練り上げる時間的余裕もなかっただろう。
序盤で展開されるウェルズの時間旅行理論は、21世紀のわれわれが読んでも面白い。主人公のタイム・トラヴェラー氏は時間旅行の可能性を信じない論客たちに主張する。
「形あるものはすべて4つの方向に広がりを持っているはずだ。縦、横、高さ……、それに持続だよ。(中略)次元は確固として4つある。われわれのいる空間は、上下、左右、前後と、3つの方向に広がっている。これがつまり、空間は3次元であるということの意味だ。加えてここに、第4の次元、時間がある。然るに、人はややともすると、先の3つの次元と第4の次元を無理にも区別しようとする。なぜかといえば、われわれの意識は生涯のはじめから終わりまで、第4の次元である時間の軸に沿って一方向に、断続的に移動するからだ。(中略)要は時間を別の角度から見るだけのことなんだ。人間の意識が時間に沿って移動するということを除いては、時間と空間の3次元を隔てるものは何もない」
そしてこう結論する。「時間の中は動けないというのは違う。例えば、以前のことがありありと記憶によみがえった場合、意識はそのことが起きた時点に立ち返っているのだね。放心状態というやつで、一瞬、意識は時間を遡(さかのぼ)る。もちろん、仮にも過去に留(とど)まる術(すべ)はない。未開人や四つ足の生き物が地上6フィートのところに静止していられないのと変わりないけれども、その点、文明人はいくらかましで、気球に乗れば重力に抗して上昇できる。ならば、その考えを推し進めて、ゆくゆくは時間的次元に沿って浮遊しながら、停止したり、加速したり、いっそのこと反転して過去に向かうことさえも可能ではなかろうか?」
このウェルズの時間旅行可能理論は、ギリシャのエレア学派の哲学者ゼノンの有名な逆説「アキレスは亀に追いつけない」「飛んでいる矢は静止している」のような妙味に満ちている。
最後までこのペースで話が進んでいったら、ジークムント・フロイトやアルバート・アインシュタイン理論に先行する画期的な物語になったはずだが、結局タイムマシンは遠い未来にしか行かない。過去に一切、向かわないのは、歴史を改変したらどうなるかというその後の時間旅行SFの中心となるテーマに対して、当時のウェルズには確固たる理論武装ができていなかったからではなかろうか。
別の見方もできる。ウェルズは時間旅行以上に19世紀末社会を席巻した悲観的未来像の方に興味があった。ウェルズ自身、1931年版の序でこう書いている。
「人類が2つの種族、イーロイ人とモーロック人に分かれる想定はいささか唐突の感を免れないが、筆者(ウェルズ)は若年の折、ジョナサン・スウィフトに心酔してその風に染まり、ここに描いたたわいなく悲観的な人類の未来像は拙著『モロー博士の島』と同じ」と。
なるほど、「タイムマシン」はさながらスウィフト流の風刺小説だったのだ。とはいっても、この小説が時間旅行テーマSFの嚆矢であることの意義は何ら変わらない。(こや)
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(ハーバート・ジョージ・ウェルズ)
ハーバート・ジョージ・ウェルズといえば、SFの父の異名がある。「透明人間」「モロー博士の島」「宇宙戦争」などを次々と物し、人体改造や異星人来襲といったSF的シチュエーションの多くを考案した先駆者であった。その彼の代表作の一つ「タイムマシン」(1895年作)がこのたび光文社の古典新訳文庫で出た(池央耿訳、2012年4月刊)。「時空を超える<タイムマシン>を発明したタイム・トラヴェラーは、80万年後の世界へ飛ぶ。そこで見た人類の未来とは? 世紀の転換期にウェルズの爆発的な想像力が生んだ未来社会のリアルがここにある! 科学の発展と人類の進歩をテーマに、SF(サイエンス・フィクション)というジャンルを切り開いた不朽の名作」という同書宣伝文に引かれて久々に読み返してみた。
一読、意外だったのは、時間旅行をめぐる議論がほぼ序盤にのみ集中していたことである。中盤以降はずっと、未来に行った主人公と2極化した未来人とのかかわり――地上種族イーロイ人と心を通わせたり、地下種族モーロック人と戦ったりといった活劇調の物語が展開される。以前(おそらく小学生時代)読んだときには気づかなかったが、時間旅行テーマの中編小説としてはいささかバランスを欠く構成になっている。そう考えていたら、何とウェルズ自身が「1931年版序」(今回の新訳版に収録)でこんなことを書いていた。
「当時はこの題材を筆者の独創と思いこんでいた。いつか『タイムマシン』より長い作品に仕上げるつもりで、前々から構想を温めていたのである。それが、何であれすぐ売れるものを書く必要に迫られて、駆け足で急場を凌ぐ破目になった。慧眼(けいがん)の読者はたちどころに見抜くはずだが、この作品は構成にむらがある。冒頭の議論は後の章にくらべてはるかに用意周到で、計算が行き届いている。片々たる物語が根底の深みから湧いて出る展開である。発想の原点を説明する前半は、つとに1893年、ウィリアム・E・ヘンリー主宰の『ナショナル・オブザーバー』に紹介されている。1894年にセヴンオークスで、短時日で書き下ろしたのは後半である」
「タイムマシン」を書いた1895年当時のウェルズは、健康上の理由で生物学の講師の職を辞し、筆一本で食べていかねばならない局面を迎えていた。すでに科学ジャーナリストとして引く手あまたとなっていたが、次々と創刊される新聞雑誌の要請に応じて小説や評論にも手を染めていたから、温めていた構想をじっくりと作品に練り上げる時間的余裕もなかっただろう。
序盤で展開されるウェルズの時間旅行理論は、21世紀のわれわれが読んでも面白い。主人公のタイム・トラヴェラー氏は時間旅行の可能性を信じない論客たちに主張する。
「形あるものはすべて4つの方向に広がりを持っているはずだ。縦、横、高さ……、それに持続だよ。(中略)次元は確固として4つある。われわれのいる空間は、上下、左右、前後と、3つの方向に広がっている。これがつまり、空間は3次元であるということの意味だ。加えてここに、第4の次元、時間がある。然るに、人はややともすると、先の3つの次元と第4の次元を無理にも区別しようとする。なぜかといえば、われわれの意識は生涯のはじめから終わりまで、第4の次元である時間の軸に沿って一方向に、断続的に移動するからだ。(中略)要は時間を別の角度から見るだけのことなんだ。人間の意識が時間に沿って移動するということを除いては、時間と空間の3次元を隔てるものは何もない」
そしてこう結論する。「時間の中は動けないというのは違う。例えば、以前のことがありありと記憶によみがえった場合、意識はそのことが起きた時点に立ち返っているのだね。放心状態というやつで、一瞬、意識は時間を遡(さかのぼ)る。もちろん、仮にも過去に留(とど)まる術(すべ)はない。未開人や四つ足の生き物が地上6フィートのところに静止していられないのと変わりないけれども、その点、文明人はいくらかましで、気球に乗れば重力に抗して上昇できる。ならば、その考えを推し進めて、ゆくゆくは時間的次元に沿って浮遊しながら、停止したり、加速したり、いっそのこと反転して過去に向かうことさえも可能ではなかろうか?」
このウェルズの時間旅行可能理論は、ギリシャのエレア学派の哲学者ゼノンの有名な逆説「アキレスは亀に追いつけない」「飛んでいる矢は静止している」のような妙味に満ちている。
最後までこのペースで話が進んでいったら、ジークムント・フロイトやアルバート・アインシュタイン理論に先行する画期的な物語になったはずだが、結局タイムマシンは遠い未来にしか行かない。過去に一切、向かわないのは、歴史を改変したらどうなるかというその後の時間旅行SFの中心となるテーマに対して、当時のウェルズには確固たる理論武装ができていなかったからではなかろうか。
別の見方もできる。ウェルズは時間旅行以上に19世紀末社会を席巻した悲観的未来像の方に興味があった。ウェルズ自身、1931年版の序でこう書いている。
「人類が2つの種族、イーロイ人とモーロック人に分かれる想定はいささか唐突の感を免れないが、筆者(ウェルズ)は若年の折、ジョナサン・スウィフトに心酔してその風に染まり、ここに描いたたわいなく悲観的な人類の未来像は拙著『モロー博士の島』と同じ」と。
なるほど、「タイムマシン」はさながらスウィフト流の風刺小説だったのだ。とはいっても、この小説が時間旅行テーマSFの嚆矢であることの意義は何ら変わらない。(こや)
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