第23回 「うしろを見るな」の迷宮世界
(フレドリック・ブラウン)
フレドリック・ブラウンの「まっ白な嘘」(原著は1953年刊、翻訳は1962年5月刊)については、かつて当コラムでも「創元推理文庫史上、最高の短編集」と持ち上げたことがある。
収められている短編は珠玉の名品ぞろい。出版元の東京創元社も自信満々のようで、こんな宣伝文を扉に載せている。
「短篇を書かせては当代随一の名手フレドリック・ブラウンの代表的短篇集。奇抜な着想、軽妙なプロット、ウィットとユーモアとスリリンなサスペンス、論より証拠、まず読んでいただきましょう。どこからでも結構。ただし最後の作品『うしろを見るな』だけは、最後にお読みください。というのは、あなたがお買いになったこの本は、あなたのために特別の製本がしてあるからです。その意味は? それがおわかりになったときは、すでにあなたの生命は……」
今回はその「うしろを見るな」(1947年作とされる)について書いてみたい。
引用は中村保男訳。以下、内容に触れているので未読の方はご注意を。
暗黒街の大物ハーリーと知り合った印刷工のジュスティン・ディーンは、ハーリーと2人で偽札作りに手を染めるようになる。
ある日、ハーリーは何者かによって殺される。死の直前、ハーリーはディーンに電話をかけて、「偽札の原版も紙も処分しろ」と指示する。ディーンはその指示に忠実に従い、偽札作りの証拠をすべて破棄する。警察に調べられたときも、ハーリーの仲間に拷問されたときも、彼は決して口を割らなかった。
拷問の後、瀕死の状態で沼地に打ち捨てられたディーンの元に、死んだはずのハーリー(つまり幽霊)がやってくる。そして2人は、ハーリーを殺してディーンを拷問したかつての仲間たちに対して復讐の旅に出る。
……と書けば分かるように、この物語は途中から非現実的なファンタジーと化す。やがてディーンはハーリーと賭けをする。「わたし(ディーン)はハーリーにこう言った――今すぐ誰かに『おまえを殺す』と予告し、そうする理由ばかりか大よその時刻まで知らせてやって、それでもちゃんと殺してみせる、と。すると彼は、そんなことはできないというほうに賭けた。この賭けは彼の負けにきまっている」
「わたし」の語りは続く。「なぜ負けるかといえば、こうして現に今わたしがあなたに予告しているのに、あなたはそれを信じようとしないからである。これは本の中にあるただのお話にすぎないと思いこむにきまっている。この話が入っているこの本はこれ一部しかなく、しかもこの話は真実なのだ、ということをあなたは信じっこないのだ」。
この「あなた」というのは、まさにこの小説を読んでいる読者の「あなた」であって、クライムノベルがメタフィクションに転化した瞬間である。
熟練の印刷工で偽札も作っていたディーンにとって、1冊の本の中に1編の物語を偽造することなど朝飯前なのだ。
物語はこうして幕を閉じる。「そのままでけっこう、あとはほんの数秒か数分間、こんなものは例によって例のごとき作り話じゃないかとお考えつづけていてください。うしろを見てはいけません。この話を本気にしないでいただきたい――背筋にナイフを感じるまでは」
いま読み返してみてもじわりと恐怖感の漂う傑作である。慧眼の士であった故・瀬戸川猛資も、某所で「ミミズ天使」「おしまい」とともに「うしろを見るな」をフレドリック・ブラウンの短編ベスト3に挙げていた。
「よくも、こんなバカな考えを小説にしようと思いたったものだ」という瀬戸川評は、これ以上ない褒め言葉だろう。かつて「世界ミステリ全集 第18巻 37の短篇」(1973年6月、早川書房刊)の巻末座談会「短篇の魅力について」でも、石川喬司、稲葉明雄、小鷹信光の3人が、同書に収録されたこの作品に触れていた。
「小鷹 『後ろを見るな』は原文が見つからなかったんだけれども、話法が変るところがあるでしょう。(中略)あそこはあれでいいんですか。
石川 三人称でいっていたのが、途中で変る……。
小鷹 原文通りなんだろうな。スタイルとしても新しかった。
稲葉 あれは雑誌に挿入してあるというふうに書いていましたね。あとで単行本になると、本のなかに挿入してあるというふうに変っていた。
小鷹 もう無理ですよ、こんな立派な短篇集に収録されてしまっては。(笑)」
小説を読んでいた読者が小説の登場人物に殺される、という三人称の短編はアルゼンチンの現代作家フリオ・コルタサルにもある(「続いている公園」)。
以前、筒井康隆がブラウンの「うしろを見るな」との類似性を指摘していたと記憶するが、読み手を物語に巻き込むメタフィクションの構造は確かに似ている(コルタサル作品の方が後)。しかし話法が途中で変わるのはブラウン作品だけに見られる特徴で、これは興味深い。
「うしろを見るな」の出だしは一人称の叙述で、「わたし」がこれから殺そうとする「あなた」に向けて書かれている。
ところがハーリーとディーンが知り合う回想シーンから三人称になり、それは拷問されたディーンが沼地で意識を取り戻すところまで続く。
そこからまた物語は一人称になるが、そのとたんに死んだはずのハーリーが「わたし」の前に現れる。
ということは、ハーリーだけでなく、ディーン(わたし)もそのときすでにこの世のものではなくなっているのではないか? 1編の作品を本にもぐりこませることは朝飯前だとしても、どこでその本を読んでいるか分からない「あなた」を殺すのはどう考えても簡単でない。別次元の問題である。
それを簡単にやってのけると豪語する「わたし」こそは、すでに生身のディーンではなく、神出鬼没の幽霊だと考えれば合点がいく。(こや)
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