第25回 「ラヴデイ氏の短い休暇」が描くもの
(イーヴリン・ウォー)
ウィリアム・サマセット・モームやグレアム・グリーンと比べて日本での知名度は劣るが、カトリック作家イーヴリン・ウォー(1903~1966年)は20世紀イギリス文学を代表する巨匠の一人である。主な作品には「Decline and Fall」(1928年)や「Brideshead Revisited」(1945年)がある。
妙なことに、前者は「ポール・ペニフェザーの冒険」(福武文庫)と「大転落」(岩波文庫)という全く異なるタイトルの翻訳が出ている。後者の訳題も「ブライヅヘッドふたたび」(筑摩書房、ちくま文庫)、「青春のブライズヘッド」(講談社)、「回想のブライズヘッド」(岩波文庫)と微妙に異なっているから、あるいは正編と続編があるのかと思う読者がいるかもしれない。
全く同じ作品――しかも代表作とされる長編の翻訳でこれほどタイトルが異なるというのは、日本では受け入れられにくい作家であることの証明であろう。ドストエフスキーの「罪と罰」は明治以来このかた、誰が訳しても「罪と罰」で定着している。
そのウォーに「ラヴデイ氏の短い休暇」(1951年)という短編がある。早川書房編集部編のミステリ傑作アンソロジー「天外消失」(2008年12月、ハヤカワミステリ刊)に収められているほか、各種の翻訳があるから、ウォーの短編の代表作といっていいだろう。以下、「ラヴデイ氏の短い休暇」の内容に触れているので未読の方はご注意を。
自殺未遂で州立精神病院に運び込まれ、そこで私費患者として10年を過ごしているモーピング卿を、ある日、夫人と娘が見舞う。卿にはラヴデイという付き添いがいて、まさに秘書のような役目を担っている。病院が世話役として雇ってくれたのかと思いきや、なんとラヴデイはこの精神病院の入院患者だという。しかも卿のように裕福な私費患者ではなく、若いころ自転車に乗った女性を押し倒して絞め殺してしまい、強制入院させられたまま35年が経過した老人だった。
モーピング卿を始め、私費患者たちの誇大妄想的な望みをかなえる世話役としてこまめに働くラヴデイを不憫に思った娘は、つてを頼って彼の退院を画策する。ラヴデイも「外へ出たらぜひやってみたいことがある」という。娘の努力が実り、とうとう望みがかなう日がやってきた。ラヴデイは医師や患者に祝福されながら病院を出て行くが、2時間もしないうちに戻ってくる。
「望みがかなったので帰ってきた。これでもうここに身を落ち着けて、心置きなく気の毒な人たちのために奉仕できる」と彼はほほえむ。以下は、それに続くラストシーン(永井淳訳)。
「それからしばらく経って、病院の門から半マイルほど行ったところで、人々は乗り捨てられた1台の自転車を発見した。それはかなり古くなった婦人用の自転車だった。そして、近くの溝の中から、お茶の時間に間に合うように自転車で帰宅する途中で、獲物を探しながら歩いていたラヴデイ氏に遭遇したと思われる若い娘の絞殺死体が発見された」
なかなか引き締まった落ちであり、ウォーのストーリーテラーとしての才能には舌を巻く。同時に、イギリスの伝統や上流階級を風刺するのが身上の作家だけに、これは何かの寓意なのだろうと思う。ところが何の寓意になっているのかが、よく分からない。作品の構成にも疑問があって、本来は自殺未遂を起こして精神病院に入院させられたモーピング卿や上流階級の患者たちの奇矯な振る舞いに焦点を絞るべきところが、途中からラヴデイの方に話の中心が移ってしまう。
要するに「ラヴデイ氏の短い休暇」はイギリスのどうにも逃れようのない社会格差を描いた寓話なのではないか――そう思いついたのは、別の作家の別の作品を読んでいるときだった。ウォーよりはるか後輩に当たるイギリス作家、カズオ・イシグロの世界的ベストセラー長編「わたしを離さないで」(2005年発表。翻訳は2006年4月、早川書房刊)である。
「わたしを離さないで」は臓器提供、クローン人間などさまざまな現代的テーマが提起された問題作だが、それ以上に強く表れているのは臓器を提供する立場と提供される立場が生まれつき設定されてしまっているという絶望感であろう。
臓器を提供する方は、そのために作られたクローン人間なわけだから、どうあがいても運命からは逃れられない。時期が来れば彼らは他人に臓器を提供し、自分の生涯を終えねばならない。提供された方は彼らの臓器で生き延びる。
弱った臓器を次々と新品に換えていけば、むしろ寿命は延びていくだろう。これを寓話として読めば、言うまでもなく提供する方はどんなに頑張っても報いられない貧困層、提供される方は生まれついての富裕層である。イギリスを覆う社会格差の寓意がここに見られる。
「ラヴデイ氏の短い休暇」のラヴデイとモーピング卿たちの関係にも、社会格差の寓意が読み取れないだろうか。精神病院から外の世界(つまり殺伐とした貧困社会)に出て行ったラヴデイが、しかしすぐに35年前と同様の殺人を犯して戻ってきてしまう現実。
そして一方では外の世界(つまり何不自由ない富裕社会)から精神病院に入っても、私費患者として特権的な立場が与えられ続けるモーピング卿たちの現実。精神病院というステージにおいても、ラヴデイは付き添いという立場で自らの人生を提供し続け、モーピング卿たちは他人の人生を資源として提供され続ける。
ウォーの短編とイシグロの長編との間には、かれこれ半世紀以上の歳月が流れている。イギリスの社会格差は一向に縮まる気配がなく、むしろ大きくなっている。(こや)
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