*** 自家目録を発行しました ***
第29回 ノーベル賞を拒否した作家
(ジャン=ポール・サルトル)
2012年のノーベル文学賞は中国の作家、莫言(モーイエン)に与えられた。「赤い高粱」「百檀の刑」などが代表作。中国籍作家で初との報道に、2000年に受賞した高行健(ガオ・シンヂエン)を思った。
高はフランスに亡命し、中国語とフランス語で作品を書いている。フランス国籍の作家で、つまり賞はフランスに与えられたことになる。共産党の一党独裁を批判する高の受賞に当時、中国政府は大いに反発した。そういえば2010年、平和活動家で詩人の劉暁波(リウ・シャオボー)の平和賞受賞に対して国を挙げて猛抗議したことも記憶に新しい。今回の莫言の受賞について、中国では歓迎の声が沸き上がっている。
ノーベル文学賞は第1回のフランスの詩人シュリ・プリュドム以来、現在まで109人に与えられている。その中で受賞を拒否した作家が2人いる。
1人は1958年のソ連のボリス・パステルナーク。正確にいえばこれは「国によって拒否させられた」に等しい。受賞拒否に至るまでの経緯を「ノーベル文学賞―『文芸共和国』をめざして」(柏倉康夫著、2012年10月、吉田書店刊)はこう書いている(以下、引用はすべて同書より)。
「ノーベル文学賞の授賞を知ったパステルナークは、スウェーデン・アカデミーに電報を打った。『非常に感謝している。感動、誇り、驚き、戸惑いを感じている』。だが、4日後には別の電報がアカデミーに届いた。『残念だが賞は辞退したい』」「いったいこの4日間になにがあったのか。
ソビエトのマスコミは、授賞の報を知ると、いっせいにパステルナーク批判を開始した。『裏切り者のユダ』、『社会主義にこびりついている汚れ』等々、ありとあらゆる悪意にみちたレッテルが、パステルナークに貼られたのである。その上彼はソビエト作家同盟からも除名された」「パステルナークはなによりも祖国ロシアを愛しており、自分が祖国なしに作品を創造できないことをよく知っていた。彼はフルシチョフ書記長にあてて書簡を送り、『祖国を離れることは、死ぬことと同じです』と、国外追放の措置を取らないように懇願した。ノーベル賞辞退はその代価であった」
20世紀半ばのソ連の話だから、これはリアリティーがある。実際、代表作「ドクトル・ジバゴ」は前年の1957年にソ連で出版禁止処分を受けている。イタリアに持ち出されてイタリア語で出版された同書は、すぐさま世界18か国語に翻訳され、大ベストセラーとなる。
映画化もされてヒットした。「パステルナークへの授賞には、こうしたソビエト当局の言論弾圧にたいする抗議、弾圧にあえぐパステルナーク支援の意味が多分に含まれていた。しかし、それが逆にパステルナークを窮地に追いこんでしまったのである」
感動的なのは、パステルナーク本人不在のまま、予定通り授賞式が行われたことだ。メダルはスウェーデン・アカデミーが預かった。パステルナークは1960年に亡くなった。「ロシア語の『ドクトル・ジバゴ』の完成版が祖国で出版されたのは1988年のことである。
そしてこの同じ年に彼の息子がストックホルムを訪れて、かつて父がもらうはずであったノーベル文学賞のメダルを手にしたのだった。授賞から30年がたっていた」
さてもう1人の受賞拒否者、フランスの哲学者で作家のジャン=ポール・サルトルの場合は、パステルナークと事情が異なる。1964年10月23日付のル・フィガロ紙はサルトルの公式声明を掲載したが、彼は受賞を辞退した「個人的な理由」として、こんなことを述べている。
作家がこうした栄誉を受諾するのは、授与する機関に公約を与えてしまう。だから作家は自ら甘んじて組織に成り果てるようなことがあってはならない――と。
サルトルははなはだ慎重に、辞退はスウェーデン・アカデミーともノーベル賞とも関係ないと書いているが、これは明らかなノーベル文学賞への批判であったという。
「サルトルは(中略)ソ連の作家としてはパステルナークにだけあたえられたことを取りあげて、ノーベル文学賞は『実質的には西側の作家にだけ』あたえられる賞であると批判した。
この頃サルトルはモスクワの平和大会に出席して、文化の面でも平和共存が実現されなければならないと主張していた。そうしたサルトルの目からすれば、ノーベル文学賞は東西の対立を解消するどころか、逆に西側の文化を意図的に擁護することによって、東西対立をおし進めるものと映ったのである」
いかにも東西冷戦の時代を感じさせる発言だが、サルトルのこの声明を受けて、さすがにスウェーデン・アカデミーのアンダーシュ・エステルリング理事長も1964年の授賞式で次のようにあいさつせざるを得なかった。
「受賞者がこの賞を受ける意志のないことを伝えてきたことは、ご記憶のことと思いますが、氏がこの栄誉を
辞退したからといって、この賞の有効性は少しも損なわれるものではありません。しかし、こういった事情ですので、アカデミーといたしましては、賞の授賞が行われないことをここにお伝えするだけにとどめておきたいと思います」
史上初めて、作家が自らの意志でノーベル文学賞の受賞を拒否し、それをスウェーデン・アカデミーが公式に認めた瞬間だった。これは同アカデミーにとっても深刻な事態となった。その後、ノーベル文学賞をフランスの作家が受賞するのは1985年のクロード・シモンまで待たねばならない。21年が経っていた。ヌーヴォー・ロマンの大家シモンの受賞を当時、フランスの新聞は「スウェーデン・アカデミーとフランス文学界の和解」と書き立てた。(こや)
ボリス・パステルナークをWIKI PEDEIAで調べる
にほんブログ村
ブログランキングに参加しています。
クリックしてご協力いただければ幸いです。
海外文学作品についてのコラム「たまたま本の話」を掲載しています。
「たまたま本の話」は「miniたま」に毎号掲載しているコラムです。
「miniたま」は、インターネット古書店「ほんのたまご」とお客様を結ぶ架け橋として、
ご注文書籍とともにお送りしているミニコミ紙です。
「miniたま」のバックナンバーPDF版はこちらからどうぞ
第29回 ノーベル賞を拒否した作家
(ジャン=ポール・サルトル)
2012年のノーベル文学賞は中国の作家、莫言(モーイエン)に与えられた。「赤い高粱」「百檀の刑」などが代表作。中国籍作家で初との報道に、2000年に受賞した高行健(ガオ・シンヂエン)を思った。
高はフランスに亡命し、中国語とフランス語で作品を書いている。フランス国籍の作家で、つまり賞はフランスに与えられたことになる。共産党の一党独裁を批判する高の受賞に当時、中国政府は大いに反発した。そういえば2010年、平和活動家で詩人の劉暁波(リウ・シャオボー)の平和賞受賞に対して国を挙げて猛抗議したことも記憶に新しい。今回の莫言の受賞について、中国では歓迎の声が沸き上がっている。
ノーベル文学賞は第1回のフランスの詩人シュリ・プリュドム以来、現在まで109人に与えられている。その中で受賞を拒否した作家が2人いる。
1人は1958年のソ連のボリス・パステルナーク。正確にいえばこれは「国によって拒否させられた」に等しい。受賞拒否に至るまでの経緯を「ノーベル文学賞―『文芸共和国』をめざして」(柏倉康夫著、2012年10月、吉田書店刊)はこう書いている(以下、引用はすべて同書より)。
「ノーベル文学賞の授賞を知ったパステルナークは、スウェーデン・アカデミーに電報を打った。『非常に感謝している。感動、誇り、驚き、戸惑いを感じている』。だが、4日後には別の電報がアカデミーに届いた。『残念だが賞は辞退したい』」「いったいこの4日間になにがあったのか。
ソビエトのマスコミは、授賞の報を知ると、いっせいにパステルナーク批判を開始した。『裏切り者のユダ』、『社会主義にこびりついている汚れ』等々、ありとあらゆる悪意にみちたレッテルが、パステルナークに貼られたのである。その上彼はソビエト作家同盟からも除名された」「パステルナークはなによりも祖国ロシアを愛しており、自分が祖国なしに作品を創造できないことをよく知っていた。彼はフルシチョフ書記長にあてて書簡を送り、『祖国を離れることは、死ぬことと同じです』と、国外追放の措置を取らないように懇願した。ノーベル賞辞退はその代価であった」
20世紀半ばのソ連の話だから、これはリアリティーがある。実際、代表作「ドクトル・ジバゴ」は前年の1957年にソ連で出版禁止処分を受けている。イタリアに持ち出されてイタリア語で出版された同書は、すぐさま世界18か国語に翻訳され、大ベストセラーとなる。
映画化もされてヒットした。「パステルナークへの授賞には、こうしたソビエト当局の言論弾圧にたいする抗議、弾圧にあえぐパステルナーク支援の意味が多分に含まれていた。しかし、それが逆にパステルナークを窮地に追いこんでしまったのである」
感動的なのは、パステルナーク本人不在のまま、予定通り授賞式が行われたことだ。メダルはスウェーデン・アカデミーが預かった。パステルナークは1960年に亡くなった。「ロシア語の『ドクトル・ジバゴ』の完成版が祖国で出版されたのは1988年のことである。
そしてこの同じ年に彼の息子がストックホルムを訪れて、かつて父がもらうはずであったノーベル文学賞のメダルを手にしたのだった。授賞から30年がたっていた」
さてもう1人の受賞拒否者、フランスの哲学者で作家のジャン=ポール・サルトルの場合は、パステルナークと事情が異なる。1964年10月23日付のル・フィガロ紙はサルトルの公式声明を掲載したが、彼は受賞を辞退した「個人的な理由」として、こんなことを述べている。
作家がこうした栄誉を受諾するのは、授与する機関に公約を与えてしまう。だから作家は自ら甘んじて組織に成り果てるようなことがあってはならない――と。
サルトルははなはだ慎重に、辞退はスウェーデン・アカデミーともノーベル賞とも関係ないと書いているが、これは明らかなノーベル文学賞への批判であったという。
「サルトルは(中略)ソ連の作家としてはパステルナークにだけあたえられたことを取りあげて、ノーベル文学賞は『実質的には西側の作家にだけ』あたえられる賞であると批判した。
この頃サルトルはモスクワの平和大会に出席して、文化の面でも平和共存が実現されなければならないと主張していた。そうしたサルトルの目からすれば、ノーベル文学賞は東西の対立を解消するどころか、逆に西側の文化を意図的に擁護することによって、東西対立をおし進めるものと映ったのである」
いかにも東西冷戦の時代を感じさせる発言だが、サルトルのこの声明を受けて、さすがにスウェーデン・アカデミーのアンダーシュ・エステルリング理事長も1964年の授賞式で次のようにあいさつせざるを得なかった。
「受賞者がこの賞を受ける意志のないことを伝えてきたことは、ご記憶のことと思いますが、氏がこの栄誉を
辞退したからといって、この賞の有効性は少しも損なわれるものではありません。しかし、こういった事情ですので、アカデミーといたしましては、賞の授賞が行われないことをここにお伝えするだけにとどめておきたいと思います」
史上初めて、作家が自らの意志でノーベル文学賞の受賞を拒否し、それをスウェーデン・アカデミーが公式に認めた瞬間だった。これは同アカデミーにとっても深刻な事態となった。その後、ノーベル文学賞をフランスの作家が受賞するのは1985年のクロード・シモンまで待たねばならない。21年が経っていた。ヌーヴォー・ロマンの大家シモンの受賞を当時、フランスの新聞は「スウェーデン・アカデミーとフランス文学界の和解」と書き立てた。(こや)
ボリス・パステルナークをWIKI PEDEIAで調べる
にほんブログ村
ブログランキングに参加しています。
クリックしてご協力いただければ幸いです。
海外文学作品についてのコラム「たまたま本の話」を掲載しています。
「たまたま本の話」は「miniたま」に毎号掲載しているコラムです。
「miniたま」は、インターネット古書店「ほんのたまご」とお客様を結ぶ架け橋として、
ご注文書籍とともにお送りしているミニコミ紙です。
「miniたま」のバックナンバーPDF版はこちらからどうぞ
PR