第32回 ウイリアム・アイリッシュの魅力
(ウイリアム・アイリッシュ)
創元推理文庫は時折、復刊フェアを行ってくれる。それによって長らく品切れ状態だった作品が読めるようになる。今ぜひ復刊してほしいタイトルがある。「アイリッシュ短編集」1~6巻。ちょっと前にその中の1冊が復刊されたはずだが、またもや書店で見かけなくなってしまった。
作者のウイリアム・アイリッシュは言うまでもなくサスペンス小説の巨匠で、コーネル・ウールリッチ、あるいはジョージ・ハプリー名義でも多くの作品を残している。オールタイムベストの名作と定評のある「幻の女」はハヤカワ・ミステリ文庫で版を重ねているが、他の長編や短編集を探すとなるとちょっと難しい。幸いにして「アイリッシュ短編集2」(田中小実昌、宇野利泰訳、1972年4月刊)を古書店で手に入れた。読み返してみると、これがきわめて面白い。7編の中短編が収められていて、特に最初の「消えた花嫁」にはアイリッシュの魅力がすべて含まれているように思う。
こんな話だ(内容に触れるので未読の方はご注意を)。アリス・ブラウンという娘と結婚した主人公の「ぼく」は新婚旅行に出かける。ツインルームが満室のため、それぞれ別のホテルのシングルルームに一泊する。翌朝、アリスはホテルからこつ然と姿を消してしまう。ホテルの従業員に聞いても、誰もそんな女性は見たことがないと言う。やってきた警官もぼくの話を信じてくれない。前日、結婚に立ち会ってくれたはずの公証人も、警察からの問い合わせの電話にそんな新婚夫婦は知らないと答える。
アリスには身寄りがなく、結婚直前までベレスフォードという邸宅で住み込みの使用人をしていた。当の邸宅に問い合わせても、そんな使用人の名前は聞いたことがないという返事が返ってくる。花嫁はぼくの頭の中だけの幻で、本当は存在しなかったのか?
――と書けば、これときわめて類似する有名な映画が思い浮かぶだろう。ネタバレになるので名前は伏せるが、分かる人には分かる。サスペンス映画の巨匠と呼ばれる監督が戦前に撮った、長距離列車の中で老婦人が失踪する作品(原作小説がある)。あるいは最近ヒットしたアメリカ映画で、亡き夫の棺とともに乗り込んだ飛行機の機内で、妻が目を離した隙に娘が消えてしまう作品。両作とも老婦人や娘がいたことを周囲の乗客も乗務員も否定し、「最初からいなかった」と主張する。この2作だけでなく探せばまだまだあるだろう。
「消えた花嫁」では、ふとポケットから取り出したA・Bのイニシャル入りのハンカチが決め手となって、刑事とぼくがアリス失踪の謎を追いかけていく。彼女はアルマ・ベレスフォード(同じくA・B)という名で、使用人ではなくその邸宅の娘だった。
駆け落ち同然にぼくと結婚したので、このままでは彼女が相続した財産が自分のものにならないと知った後見人が追いかけてきて彼女を拉致した。後見人とその一味は彼女を麻酔薬で眠らせ、病死したと偽って葬式を出そうとする。アリスは生きたまま埋葬されてしまうのか。危機一髪のところでぼくと刑事は彼女を救い出す。
推理小説の完成度から見れば、きわめて穴が多い作品といえる。ホテルの従業員や公証人すべてを買収して「そんな人物はいない」と偽証させるなど、どう考えても無理がある。かかりつけの医者に替え玉の死体を診察させて彼女の死亡診断書を書かせるくだりを読んだときには、あまりのご都合主義に苦笑した。では馬鹿馬鹿しいと一笑に付すべき作品だろうか。
故・瀬戸川猛資は、ミステリ評論の名著「夜明けの睡魔 海外ミステリの新しい波」(1999年5月、創元ライブラリ刊)の中でアイリッシュについてこんな指摘をしている。「短篇にはいいものが多く、長篇よりも好きだが、ストーリイをよく覚えていない。そうした内容よりも、題名の印象のほうが遥かに強烈である」「短篇のタイトルがまた恰好いい」「題名そのものが文体を持ち、独特の節まわしを持っている感じを受ける。勝手な憶測だが、作者はこれらの作品の大半を、まず題名から先に思いつき、それに合わせてストーリイを書くという方法で完成させたのではないだろうか」
今回「消えた花嫁」(原題All At Once,No Alice=突然アリスがいなくなった)を読んで、瀬戸川の慧眼を改めて思った。「まず題名から先に思いつき、それに合わせてストーリイを書くという方法」をアイリッシュがとったとすれば、アリスという女性=花嫁が突然消えるという発想が最初に頭にあったはずだ。
次に彼女の存在を主人公以外の誰も知らなかったら……というシチュエーションを立てる。続いて、今度は周囲がすべて偽証しているといった骨組みと細部を作り上げねばならない。そして最後に真相は財産目当ての犯罪だったと結論づける。おそらくアイリッシュはそのように話を練っている。
これは通常の推理小説の作り方と順番が逆なのではないか。異論があるかもしれないが、まず事件の真相(この場合だったら財産目当ての犯罪)を練るところから始まるのが通常の本格物の作り方である。冒頭の事件(アリスの失踪)はその後で考えられる。だから本格派の作家は途中で細部に伏線を張りたがる。
ところがアイリッシュは良く言えば伏線に執着しない。悪く言えば思いつきで書き始め、行き当たりばったりで話を作り上げ、最後につじつま合わせをしているようにさえ思える。
これはけなしているのではなく、本格派とは対極にあるこの作家に最大級の賛辞を送っている。前出の映画の例を見ても「いかに無理が多いか」という話が強烈なサスペンスを生むケースが数多くある。アイリッシュほど、サスペンスがいかにして醸成されるかを熟知している作家はいない。(こや)
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