第39回 安部公房が嫉妬した作家
(エリアス・カネッティ)
著書「安部公房とわたし」(2013年8月、講談社刊)で、作家・安部公房が死去するまでの20年以上にわたる恋愛関係を告白した女優・山口果林。本の売れ行きも好調な彼女が、このほど週刊文春の人気対談「阿川佐和子のこの人に会いたい」のゲストに登場した(第991回、10月24日号)。こんなことを語っている。
「阿川 安部さんは次期ノーベル文学賞に一番近いと噂されていましたけど。
山口 狙ってはいたでしょうね。(エリアス・)カネッティがもらったとき、彼の本を読んでものすごく刺激を受けたみたいでした。次の作品はあのレベルで書かなきゃいけないって葛藤して……。それで書けなくなって、寡作になっていったんだろうと思います」
エリアス・カネッティのノーベル文学賞受賞は1981年。受賞理由は「着想と芸術性に富み、幅広い視野によって書かれた著作に対して」というものだった。1981年といえば、安部公房は長編「密会」(1977年)を書き終えてすでに4年。次作「方舟さくら丸」の執筆を進めていた時期に当たる。途中、演劇集団「安部公房スタジオ」の活動に傾注する、ワードプロセッサーによる執筆に切り替える――などの曲折があったにせよ、それが書き下ろし長編となって結実するのはようやく1984年のこと。7年間という長い沈黙を考えると、山口果林のこの発言も信ぴょう性を帯びてくる。
カネッティとはどんな作家か。ウィキペディアなどによってまとめると、1905年にブルガリアのルスチュク(ルセ)に生まれる。トルコ国籍を持ち、イベリア半島系ユダヤ人共同体の言語(スパニオール語)を母語とし、のちに英語、フランス語、ドイツ語を学んだ。著述はドイツ語を用いている。1913年にウィーンに移住し、ウィーン大学で化学を学ぶ。1929年に学位を取得。このころ代表作の小説「眩暈」(1935年)を書き始める。
ナチス・ドイツによるオーストリア併合の際にもウィーンに留まり、ナチス党員や人々の様子を見守った。のちにこの時を回顧して「ナチズムとの具体的な体験を持ったこの半年間は、それ以前の何年にもまして、私の目を開いてくれた」と語っている。1939年にユダヤ人迫害を逃れてイギリスに亡命。自らの体験をもとに、1960年に「群衆と権力」を発表した。
晩年は独特の視点から書かれた自伝的3部作「救われた舌」(1977年)、「耳の中の炬火」(1980年)、「目の戯れ」(1985年)に取り組み、若い日々の時代と社会、そして自らの人生を書き記した。1981年のノーベル文学賞はイギリス人として受賞している。1994年にスイスのチューリヒで死去、その亡骸はジェイムズ・ジョイスの隣に葬られた。
以上がカネッティの略歴だが、では当の安部はこの作家のどこに着目していたか。かつてインタビュー「地球儀に住むガルシア・マルケス」(「すばる」1983年5月号)で、ノーベル文学賞をその2年前に受賞したカネッティについて聞かれ、こう答えている。
「スペイン系のユダヤ人だけど、長いあいだ認められなかった。世界で最初にカフカ論を書いているんです。見えすぎていたのかもしれない。芝居も書いていますが、上演途中でみんな帰ってしまうし、新聞にはたたかれるし。イギリスに行って、本当に貧乏な暮しをしていたらしい。偶然だけど荻原延寿君がオクスフォードに行っていたころ、これも金がなかったから学校が終ると安いパブに行って、ビール飲んでパンでも食べていた。いつも隣り合わせに爺さんが一人いた。自分も黄色いアジア人で、孤独で、金もない。すぐその爺さんと友達になった。
ずいぶん頭のいい乞食だなあと思って、試しにちょっと難しいこと言うと、向こうはそれ以上のこと知っている。名前を聞いたら、エリアス・カネッティ。さすがイギリスともなると立派な乞食がいるものだと名前は憶えていた(中略)というできすぎた話があるくらい、孤独に耐え抜いて来た作家です」
インタビューでは詳しく語っていないので、推測に過ぎないが、おそらく安部はカネッティの多国籍性と多言語性に強く引かれていたのではないか。晩年の安部はクレオール言語について並々ならぬ関心を寄せていた。クレオール言語とは、意思疎通ができない異なる言語の商人同士などの間で自然に作り上げられた言語(ピジン言語)が、その子供たちの世代で母語として話されるようになった言語を指す。公用語や共通語として使用されている地域・国もある。
カネッティはブルガリアに生まれ、幼少時はユダヤ人コミューンの共同体言語で育っている。これは生まれながらにしてクレオール言語的な環境下にあったということで、やがて英語、フランス語、ドイツ語を学び、長じては作品をドイツ語で書くようになる。まさに多言語作家の鑑のような存在である。またトルコ国籍に始まり、ドイツ、イギリスに活動の場を移していく。かつて安部が主張し続けてきた20世紀文学の大きなテーマ――「故郷喪失」や「内的亡命」につながる多国籍作家の先駆的存在であって、しかも内的どころではない、本物の亡命作家だった。
インタビュー集「都市への回路」(1980年6月、中央公論社刊)の中で安部公房は、ガブリエル・ガルシア・マルケスを始めとするラテンアメリカ文学やボリス・ヴィアン、フラン・オブライエンといった20世紀作家の名をいくつも挙げ、「内的亡命の文学」として高く評価している。しかし安部が本当に評価していたのは、実は「ノーベル文学賞受賞後に名前を知った」というエリアス・カネッティただ一人だったのではなかろうか。20世紀文学をまさに体現した現代作家として、あるいは嫉妬さえ覚えていたかもしれない。(こや)
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